半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六十七回　ナギ作「最後の海」（テーマ「海」）

鈴香は本当に来るのだろうか。
　僕はドキドキしながら海岸沿いの道を歩く。もうすぐ日が暮れようとしているのに、家族連れやカップルが砂浜で遊んでいる。太陽の力は弱まっているというのに、少し歩いただけで汗だくになった。

　海を見ながら一年前の事に思いを馳せる。
　鈴香とはファーストフード店のアルバイトで知り合った。童顔で守ってあげたくなるようなかわいいタイプだけど、仕事はキビキビと動き、皆がやりたがらない事も率先してやる。
家が近い事もあって、一緒に帰る事も多く、自然に距離が縮まっていた。
　彼女が好きだ。
　自分の気持ちをはっきりと自覚しながらも、なかなかその思いを伝える事が出来ずにいた。二十歳になるまで彼女ができた事がなく、もし断られて気まずくなったら嫌だから。今のまま当たり障りなく仲良くしていたいという気持ちと、もっと親密になって体の触れ合いも求めたいという思いが交錯していた。
　「海に行きたいな」
　バイト帰りの電車の中で鈴香がつぶやいた。
　「じゃあ今度の休み、行こうか」
　僕が誘ったら、鈴香はものすごく嬉しそうな表情をした。
　猛暑日で海岸を少し歩いただけでも暑い。それでも、太陽よりも眩しかったのは鈴香の水着姿だ。水色のビキニは彼女によく似合っていたし、しっかりとくびれた腰、小さく膨らんだ胸は興奮を隠すのに必死にならなければいけないくらいたまらないものだった。
　海で泳ぎ、海岸に戻る時に鈴香の手を握ってみた。
　鈴香が驚いたように僕を見るので慌てて手を離そうとしたら、彼女の方から腕を組んできた。
　「好きです」
　たまらず口に出していた。しばらく沈黙が流れたけど、言ってしまったものは取り消せない。でも、鈴香の腕の力が強くなった。
　「ありがとう。私も矢野くんの事が好きだった」
　天にも昇る気持ちだった。この時の事は一生忘れないと思った。
　着替えが終わり、海沿いのカフェでしばらく話をして、駅に向かって歩いている時だった。
　前から車が猛スピードで向かってくるのが見えた。でも、鈴香と手を繋ぎ、喋っているのに夢中で気にも留めなかった。
　曲がり角に差し掛かったところで、車が僕達の方に突っ込んできたのだ。

　その後の事が思い出せない。
　覚えているのは、病院で顔に布を掛けられた遺体を見た事だけ。
　気がつくと、僕は自分の部屋のベッドに横たわり、ボーッと天井を見上げていた。自分の体がフワフワと浮いているような感覚はあったけど、気にならないくらい何の気力も沸かない。
　鈴香が死んだ……
　その事実を受け入れたくなくて、テレビをつけて気を紛らわそうとしたけど、内容が全く頭に入ってこない。何も食べたくないし、眠れそうもない。一体どうしたらいいのだろう。
　僕はその調子でずっと無気力に過ごした。
　バイトも大学も行かず、部屋でボーッとしていたら一日が終わってしまう感じだ。
　そんな僕を見ても、父と母は何も言わなかった。高校の頃までは、勉強しろだのもっと活動的になれだのやたらとうるさかったのに。初めての彼女を事故で亡くしたから同情してくれてるのだろうか。
　
　無気力な生活が一年続こうとした頃、LＩＮEが届いた。
　それが鈴香からのものだったので、僕は驚いた。それでも、きっと彼女の身内かもしれないと思い直した。そういえば、墓参りにも行っていない。自分の不義理を責められると覚悟してLINEを開くと、さらに驚く事が書いてあった。
　『矢野くん、元気ですか？　今度の日曜の夕方、前一緒に行った海に来てほしいです。18時に海の家の横にある大きな岩の前で待っています』
　何度も見返した。鈴香は生きていた？　それとも誰かのいたずらだろうか。
　でも、彼女に会いたい。見ると癒される笑顔、暖かい腕の感触、聞くと元気になる声、どれもが愛おしい。僕は涙を流しながら返事をすると、彼女からスヌーピーが手を振っているスタンプが返ってきた。

　待ち合わせ場所には約束の十分前に着いた。
　本当に彼女は来るのだろうか。ドキドキしながら待っていると、背後から声をかけられた。
　「矢野くん」
　振り返ると、鈴香が立っていた。髪が伸びた以外は、以前と全く変わらない。僕が呆然としていると、彼女は笑顔を見せてきた。
　「どうしたの？　幽霊でも見るような顔をして」
　「だって……、　鈴香さん、あの時の事故で……」
　「私は生きてるから大丈夫。それより、ちょっと歩こうよ」
　鈴香はそう言うと、海岸を歩き始めた。僕は鈴香が生きていると何度も心の中で繰り返しながらついていく。
　「矢野くんが告白してくれてから１年たったんだね」
　そうだ。１年もたったんだ。僕は後悔した。鈴香が生きていると知ってたら、こんな無気力な生活なんて送っていなかった。この間に2人で楽しい事がいくらでも出来た。僕は一体何をやっていたんだろう。
　「ごめん」
　「どうして謝るの？　私は矢野くんに告白されてすごく嬉しかったんだよ」
　「でも、鈴香さんが生きてると知らなくて……、　僕はこの1年何もしてなかったから」
　鈴香が黙り込んだ。顔を覗くと、どこか悲しそうな表情をしている。
　「私の方こそごめんなさい。もっと早く連絡したかったんだけど、霊に詳しい人に1年たたないと会うのは難しいと言われてたから……」
　「霊に詳しい人？」
　鈴香の言っている意味がさっぱりわからない。やはり鈴香は死んでいて、1年たって生き返ったという事だろうか。
　「まあ、とりあえずもう一度海岸を歩いてみない？　少し海を楽しもうよ」
　鈴香はそう言って再び歩き始め、バイト先や大学やライブに行った話などを始めた。彼女との話が楽しかったから、わだかまりが解けたと思い込んでいた。
　僕は彼女と手を繋ごうとしたら、するりと彼女の体が通り抜けていった。
　「え？」
　もう一度彼女の手を握ろうとしたけど、やはり僕の手はすり抜けてしまう。
　「どういう事？」
　呆然としていると、鈴香が泣きそうな顔になった。
　「やっぱり矢野くんはわかってないんだね」
　「どういう事？」
　彼女の目から涙が流れ出てきた。僕はそれを眺める事しか出来ない。
　「あの時の事故で死んだのは矢野くんなの」
　鈴香はとうとう声を上げて泣き始めた。僕が死んでいる？　全く実感がない。けれど、この1年フワフワとした感覚、痛みや寒さなどを感じなかった事、ほとんど食べなくても平気だった事を思い返すと納得がいく。
　「お葬式が終わってしばらくして、矢野くんの大学やこの海岸に幽霊が出るという噂がたったの。一度ここに来たら、矢野くんの姿がうっすらと見えて、霊媒師に相談したら、ちゃんと成仏させてやれって言われたから」
　そうか。僕は幽霊になってたのか。
　「わかった。怖がらせてたならごめん。もう僕はいなくなるよ」
　「ごめんなさい。もっとあなたと一緒にいたかった」
　泣きじゃくる彼女を抱きしめたいけど、今の僕には出来ない。
　軽くジャンプすると簡単に体が浮いた。これなら消える事も出来るだろう。でも、僕ももっと鈴香と一緒にいたい。食事をしたり映画を見に行ったり、一緒に近所を散歩するだけでも楽しいだろう。そう思うと、この世に未練は多い。
　それでも左手から少しずつ消えていく。もう僕は存在してはいけないのだ。
　「鈴香さん、君と出会えてよかった」
　最後に言うのが精一杯だった。
　鈴香が僕を見つめてきたが、その瞬間に記憶が途絶えた。
　
（終）