半蔵門かきもの倶楽部コミュの第65回　肉作『次世煮郎記』

　千代田城の南西に位置し、藩邸が建ち並ぶ地域に清野次世煮郎の住処はあった。周囲は旗本の屋敷が多かったが、町民や職人が暮らす家屋も何軒かあり、町家を構成していた。そんな中で次世煮郎は生業である洗濯小屋を営んでいた。当時の洗濯と言えば、無患子と呼ばれる木の実を用いたり、灰汁や米の研ぎ汁を使って、桶で揉んだり、踏んだりするのが主流だった。（無患子はむくろじと読む。天然の界面活性剤サポニンが多く含まれ、水の中に入れて擦ると泡が発生する）
　ところが、次世煮郎はいち早く石鹸に目をつけ、それを稼業に応用した。（通説では石鹸の洗濯における利用が行われたのは明治期に入ってからだが、清野次世煮郎が江戸中期頃より活用していたとする説も根強い）
　かくして、次世煮郎の洗濯小屋は江戸で評判になった。公衆衛生の意識が発達していない時代、衣服の洗濯なぞは二の次、三の次であったにも関わらず、上流・下流の武士をはじめ、市井のあらゆる人に至るまでが、その意識を変えていく端緒になった。
　当然、公儀の目にも止まった。清野次世煮郎は宝暦十年に登城を果たしている。時の将軍は徳川家治であり、「余に仕えよ」と次世煮郎に対して言ったとも伝えられる。また、側用人の田沼意次からの覚えもめでたく、武士と同等の扱いを受けたという。その田沼の紹介で次世煮郎は平賀源内という男に出会う。平賀は次世煮郎の江戸城下での噂を聞いていたらしく、彼が平賀の家を訪う前に、洗濯用の自動機械を製作していた。実物を目の当たりにした次世煮郎はその場でそれを買いたいと申し入れた。即断即決が次世煮郎の美点だった。それほどによくできた機械だったのだろう。次世煮郎はそれを使って、すぐにでも洗濯に取り掛かりたい一心だった。平賀は次世煮郎の気風の良さを即座に感じ取り、「銭はいらねえ。持ってきな」と挨拶もそこそこに、次世煮郎を帰した。その後も二人の交友は続き、平賀は機械の改良に手を貸し続けた。（公式には安永八年に平賀は獄死したとされているが、その墓碑や遺体については謎が多く、生き残ったのではと考える者も少なくない。その獄舎の隣には次世煮郎の洗濯店が平賀投獄直後に開店している）

　本来家々でまかなえる洗濯という仕事を商いとして瞬く間に広めた行為は商人（現代の言葉で言い換えるならビジネスパーソン）としても一流であった証左であろう。安い手間賃ながらも組織化、機械化を取り入れた経営の手腕は古今東西の歴史家の度肝を抜いている。コインランドリーの起源には諸説あるが、多くの歴史家が江戸にその嚆矢を認める動きが近年あるのは言うまでもない。

　清野次世煮郎に関しては未だわかっていないことも多い。まずその出生地である。江戸周辺部と考えるのが自然ではあるが、身の丈は六尺五寸を越えるほどの巨体を持っており、目の色や髪の色も日本人とは異なっていたことが文献には残されている。また、長崎への周遊では蘭語を流暢に話す姿が目撃されるなど日本人離れしたエピソードには事欠かない。（実際のところ、目や髪の色に関して言えば長年の洗濯の実験過程でそうなったとする説もあり、蘭語に関しては平賀源内の手ほどきを受けていたというのが濃厚であろう）
　その奇妙な名前から異人の血を引いている、そもそも外国人であると主張する研究者もいる。次世煮郎というのはカタカナにするとジヨニロウとなるが、ヨーロッパで一七五〇年台に勃発した七年戦争に端を発する、英仏間の植民地戦争・プラッシーの戦い（場所はベンガル）において、ジョニー・ロゥなるイギリス人傭兵がいたことが判明している。（大英博物館所蔵『西ベンガル地方における従軍日誌』）
　この人物がベンガルから日本に渡ってきたという説だ。次世煮郎とジョニー・ロゥが同一人物であるかどうかは判別不能ではあるが、裏付けるかのような事実はいくつもある。公式に残された二人の背丈や人相、性格が一致することや二人が格闘術や武道に優れていたこと等が挙げられる。ジョニー・ロゥがアジア地域に出征したのは彼がアジア風の風貌を持っていたことが理由だ。そんな人物ならば日本にも溶け込めるかもしれない。そして、当時の日本人の名前としてはやや不自然な次世煮郎も本名をそのまま日本語に直したのなら説明がつく。ここで謎なのは彼が本当に日本に渡ったとして、その手引きをした者や江戸に潜伏できた理由である。江戸時代には人別帳というものがあり、特に江戸という街では幕府の膝下という理由から厳しく人の出入りが管理されていた。そこに溶け込むというの至難の技である。以上から、彼が日本生まれなのか、そうではないかは推測の域を出ない。だが、決定打に欠くことこそが、彼のミステリアスな存在の理由付けにもなっている。
　二人が武に優れていたことも興味深い。ジョニー・ロゥは戦場においてまさに鬼神のような戦いぶりだったとの言い伝えがある。常勝軍という言葉があるが、彼のためにあるような言葉であり、彼の所属した部隊は連戦に次ぐ連戦で、全て勝利を飾ったという。それも彼の働きによるところが大きかったようだ。大きな体を持ちながら、戦場を疾駆する姿は野生の熊を思わせた。こんなエピソードが残っている。ベンガルにはトラが多く生息していた。英軍の駐屯地に突如、夜襲の警笛が鳴り響いた。それは敵軍ではなかった。襲来したのはトラの集団だった。現地人も恐れる人食いトラだ。指揮命令系統が機能しないなか、事態を収めたのはジョニー・ロゥだった。彼は手刀でもって、次々とトラを倒していった。夜明け前には黄色の死骸が山積みになっていた。トラの検死を行った兵士が日記にこう記している。
「首が、トラの首がどれもこれもへし曲がっている。いや、へし折れている。恐ろしい所業だ。彼に命を救われたには違いないが、私はこの地に住まう神や自然界の神に祟られるのではないかと心配している。早く本国に帰りたい」
　この騒動の後から、彼は立場を悪くしていった。圧倒的な強さへの妬みや嫉みものあったのだろう。東洋めいた出で立ちも差別を助長していた。トラから皆を守った英雄は恐怖されていた。彼の居場所は最前線から、いつの間にか補給部隊に回されていた。そして、ある日の夕方、部隊から脱走した。英軍の公式記録にはそこまでしか記載がない。彼はそこから、東を目指したのだろうか。失意に暮れる中、たった一人で。しかし、その消息を知るものは誰もいない。
　次世煮郎にも武勇譚がある。彼の洗濯屋の贔屓筋に久留米藩お抱えの小野川部屋という相撲部屋があった。谷風梶之助に並ぶ江戸の花形相撲取りである小野川喜三郎も若かりし頃、部屋中の洗い物を次世煮郎に任せていたという。廻しの洗濯は通常だとなかなか力仕事だったが、次世煮郎のところに任せれば簡単に仕上げてくれる上に、長持ちもした。
　洗濯物を納品しに行った次世煮郎は部屋先の土俵を見学していた時のことだ。そこへ七尺はあるだろう大男がやってきた。まだ無名の雷電爲右エ門である。次世煮郎も大きな背丈だったため、親方が面白がって言った。
「洗濯屋の旦那、ちとその若えのに胸貸してやってくんねえかい」
「いいでしょう」
　次世煮郎は着物を脱いで、褌姿になる。いきなり雷電と取り組むことになった。ちなみにだが、雷電爲右エ門は江戸時代から令和に至るまで最強と謳われることになる力士である。
　その時、土俵を見ていた全員が思ったことがある。次世煮郎は人間ではない。野生の熊か何かであり、獰猛な本性を持っていると。鍛え上げられた次世煮郎の肉体からは、とても一介の洗濯屋には見えない趣があった。筋骨隆々であり、無数の傷がつわ者であることを物語っている。
　背丈に余裕のある雷電は自分が負けるわけがないと思っていた。ところがである。はっけよいの合図の刹那、雷電の巨躯が宙を待った。そんな事態は彼の相撲人生でもこの時だけだ。
　雷電の体が地面に落ちると大きな音が鳴った。この時の様子は当時の瓦版でも話題になっている。雷電は呆気にとられ、親方もまたバツの悪そうな表情をしていたそうだ。もし、本気で次世煮郎が相撲部屋に入門していれば、古今十傑に数えられていたことだろう。そのくらい次世煮郎は腕っぷしが強かったのだ。

　清野次世煮郎は晩年、茶屋を開いた。そこは西洋のサロンさながらに市井の人が集まり、活発な議論の場になっていた。様々な階層の者が訪れ、話に花を咲かせた。そして皆忘れずに次世煮郎に挨拶をした。誰もが彼を慕っていた。彼の人柄が人を呼び込むのだ。だがそれだけでなく、この茶屋に人が集う理由がもう一つあった。それは加玲伊と呼ばれる名物料理だ。彼の作り出すその魅惑の味は江戸の人々を魅了した。真似しようにも誰にも真似できない味だった。それもそのはずである。彼が使っていたのはベンガルで採取された香辛料だった。どうして彼がそんなものを持っていたのかは誰にもわからない。ただ、もしあるとすれば彼が江戸で洗濯屋を始める少し前に、ベンガルにいたことがあってそこで手に入れたということは十分に考えられる。そうなってくると俄然、次世煮郎とジョニー・ロゥは同一人物のように思えてならない。
　二百余年がたった今も次世煮郎の残した店は創業の地に存在している。町並みが変わっても、その人気は衰えることはない。噂によれば次世煮郎の子孫筋に当たる人物が経営しているという。だが本当に”子孫”なのだろうか。ひょっとしたらその人物は次世煮郎本人かもしれない。気になる人は行って聞いてみたらいい。

（おしまい）

コメント(7)

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[1] mixiユーザー 06月13日 00:29

史実です。

参考文献：
渡部建『江戸時代の洗濯と洗剤』平河書房, 二〇〇六
阿倍野益生『清野次世煮郎の生涯』臨終社，一九八六.
右馬意津『コインランドリーとIT』芋煮堂出版，二〇一二.
二返舎十九『一般傭兵学』日本ミリタリー研究会，一九八六.
三密酒洋『ジョニー中尉とプラッシーの戦い』ユニクロ, 二〇一一.
古炉奈頃麻呂『月刊ベンガル』二月号, 胡椒舎, 二〇〇〇.
Momy San (1996). The man of killing the tiger，Chicago University Press, USA.

[3] mixiユーザー 06月13日 10:46

>>[2]
コメントありがとうございます。参考文献何冊か持っていきます。

[4] mixiユーザー 06月13日 21:42

子供のころ、屋根裏に、鍵の掛かった木箱があり、親にその木箱の中身のことを訊くと「二度と屋根裏に上ってはいけません」と真剣な顔で叱られた。そのことを忘れていたが、後年、大人になり屋根裏を整理したときに、木箱の鍵を開けると、なぜか英語で書かれた「武芸家伝書」と和紙にくるまれた墨の大きな手形の色紙があり、その色紙には雷電と墨書されていたのを記憶している。また、清野家の墓の裏の文字に半分朽ちかけた次世煮郎という名前がの記載があったような記憶があるが、まさか、こんな事実があったとは。肉さん、古い史実をご調査いただきありがとうございました。

[5] mixiユーザー 06月14日 11:18

>>[4]
ありがとうございます。古文書として考古学的な価値がありますね。
再来年の大河ドラマは次世煮郎で決定とNHKの担当者が漏らしておりました。

[6] mixiユーザー 06月15日 20:17

はじめまして。チャーリーと申します。
文芸部でお目にかかれず、残念です。また次の機会にお会いできたらと思います。

冒頭からトリビアの連続で、最初から最後まで一気に拝読しました。
主人公の次世煮郎さん、洗濯屋として一目置かれて、商才もあって、コネもあって、高身長で相撲取りも倒すほど筋骨隆々で人望も厚くて……。
どれか一つでいいので分けてもらえないでしょうか(笑)
歴史の教科書に載っていなくても、こんな興味深い人がいたんですね。
しかし、トラの集団を手刀で倒したというのは……本当なんでしょうか(笑)

[7] mixiユーザー 06月16日 12:00

>>[6]
ありがとうございます。ジョニーさんのご先祖さまですから完全無欠で全知全能な可能性は十分に考えられます。
こういうジョーク系の話は書いていて大変面白かったです。

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