半蔵門かきもの倶楽部コミュの第六十回　みけねこ作『雪のあとに』

　分岐点は、いつも突然やってくる。

　一時間前までは、彼と一緒にスポーツクラブのサウナで汗を流し、ラウンジでドリンクを飲んでいた。しかし、優雅な時間は、一瞬にして叩き壊されたのだ。私たちの前に突然、細身の女性がつかつかと歩いてきたかと思うと、彼に向かって言った。
「ねえ、あなた、今日は出張じゃなかったの？」
「え、いや、急になくなったんだ。これから連絡しようと思って」
　彼は情けないほど、うろたえていた。それと同時に、こっそりと左手で私の背中をはらうような仕草をした。きっと、この場を立ち去れという合図なのだ。私は、さりげなく立ち上がった。ラウンジから立ち去ろうとする私の背中に向けて彼女は低い声で言った。
「モヨ子さん、何もかも知ってますから」
　私は、びくっとした。モヨ子というのは、私の偽名だ。彼とラインで連絡を取るときにだけ使っている。ということは、私たちのラインのやりとりが、彼の妻の目に触れているということだ。彼は、少し薄くなった髪をタオルで拭きながら、すまない、という目つきで私を見た。とりあえず、ここは静かに帰ってくれと懇願しているようでもあった。

　都内で小さな製薬会社を経営している彼は二十歳年上で、一年前に知り合った。この会員制スポーツクラブで汗を流し、食事をしてからシティホテルに泊まるというデートが多かった。街中を歩いていると、彼の知り合いに見つかる危険があるという理由からだった。けれども、このスポーツクラブが、彼の家族も会員だったとは。用心深いようで、脇が甘いところに呆れてしまう。包容力があって、優しくて、私を大切に扱ってくれた彼の姿が、ろうそくが溶けるようにどろどろと小さくなっていく。
　彼女は、私と彼を交互に見ながら薄笑いを浮かべて言った。
「夢野久作を読もうって何？　今朝、私のラインに来たわよ」
　彼は、顔を真っ赤にしてタオルで額をぬぐった。
「あ、そ、それは、小説だよ。今日読もうと思ってたんだ」
　どうやら彼は、私に送るラインを間違えて妻に送ってしまったようだ。「夢野久作を読もう」は、私たちのデートの約束、このスポーツクラブで会おうという合図だったのだ。
　どうして、夢野久作なんて作家にしたんだろう。もっとありふれた作家の名前にすれば良かったのに。私は、もともとあまり本が好きではない。夢野久作がどんな作家なのか知らないし、読もうと思ったこともない。彼の作品の『ドグラ・マグラ』にモヨ子という女性が出てくるということは、ネットで知った。
　彼女も、夢野久作についてはあまり詳しくないようだ。
「夢野久作って漫画家かなんだか知らないけど、来月から麻祐子の入試が始まるのよ。こんなときに、若い女と会ってるなんてあの子が知ったら……」
　彼女は、声を詰まらせた。
─そうなんだ。お子さん、小学生だと言ってたから、中学入試なんだ─
　私の知らないところで父親らしいことをしていたのが意外だった。彼は、妻に頭があがらないようで、彼女のほうばかり見て、どうやって怒りを鎮めようか考えているようだった。彼の姿が、また小さくなった。
　一礼すると、彼の姿も見ずに、私は更衣室に向かった。

　着替えを済ませて外に出ると、墨で塗られたような真っ黒な空から、ちらちらと雪が舞っていた。半乾きの髪が頭を締め付けるように冷えてきた。街灯が優しく私を照らしてくれる。ポケットからスマホを取り出し、彼との対話をブロックし、削除した。付き合いはじめたときから、彼の妻にばれたら、終わりにしようと心に決めていたのだ。
「さようなら」
　つぶやいて、空を見ると、きらきらと煌めきながら、雪が舞い落ちてきた。まるでくす玉が割れたようだった。そう思うと余計に悲しくなって、熱い涙が次から次へと流れてきた。
　
　さて、これからどうしよう。ふと、ひと月前にスポーツクラブのプールサイドで会った男性のことを思い出した。
初対面で何を話していいのか分からず、夢野久作を話題にしたら、彼は読書が好きで詳しく話してくれたのだった。
「『ドグラ・マグラ』を読んだら精神異常になるらしいよ」
　彼は、スポーツクラブの近くでバーを経営していると言っていた。検索するとすぐにわかったので行ってみることにした。
　
　今日は、頭がおかしくなってもいいような気がする。
　私は、空を見上げながら、ふわふわと降り続くぼたん雪の中を歩いていた。
　