半蔵門かきもの倶楽部コミュの第五十九回　アスカ作　『楊貴妃のインナー』

　教室の中は重苦しい緊張感につつまれていた。
　中国社会科学院歴史研究所の雷電（らいでん）主任が、東京までわざわざ足を運んできたのだ。
　日中共同で行われている楊貴妃（ようきひ）研究会は毎年五月に開催される。今回で三十六回を数える歴史ある研究会だ。
　今年は新たに発見された石板の話が伝わってきていた。どのような内容が記載されているのか想像するだけで、研究者はみな心が躍った。
　雷電主任は珍しい出で立ちをしていた。映画『霊幻道士』に出てくるキョンシーのようだと私は思った。
　短いあいさつの後、雷電主任が話しはじめた。
「このたび、最古級の石版が中国で発見されました」
　流麗な雷電主任の日本語のあと、場内にどよめきがおきた。事前情報はあったものの、最古級の石板とまでは誰も考えていなかったようだ。
「その石版は故人の業績を記して埋葬するいわゆる墓誌ですが、これまで楊貴妃の名前が記された最古の歴史書と考えられている『旧唐書』よりも古いものでした」
　どよめきがさらに大きくなる。楊貴妃の真の姿に迫る、最古の資料を雷電主任は持参してきたというのか。
「私が着ている衣服は、道士が着用する道服というものです。どうしてこのような格好をしているかというと、サプライズのためです」
　サプライズの意味が理解できず、私は呆然と雷電主任を見つめた。
「玄宗（げんそう）皇帝が楊貴妃を妃に迎える際、世評を気にして道教の道士の服装をさせたのはご存じの通りです」雷電主任が大きく息を吸い、続けた。「楊貴妃は扮装だけではなく、実際に道教の師から経典を授けられたことがその石板に記されておりました。つまり、楊貴妃が道教の本格的な道士だったと裏付けられたのです」
「なんだって」
「楊貴妃が道士？」
「本当か」
　あちらこちらから声が上がった。
「ご静粛に」静止するように両腕を伸ばしてから、雷電主任が言った。「石板は、楊貴妃に道教を教えた田瑛（でんえい）の生涯を記した墓誌です。田瑛は楊貴妃に三皇宝録を授けたと書かれていますが、三皇宝録は道教でも中級程度の修行を積まないともらえない経典です。石板は約一千字。楊貴妃はまことに修行に励んだという一文も見られます」
　熱のこもった雷電主任の説明のあとで、今度は沈黙が訪れた。楊貴妃が道士であったということがはっきりしたと、誰もが理解したからだろう。
「今日はその石板の拓本をお持ちしています。石版の所有者から私が譲られたものです。楊貴妃に深い関心を持ってきた日本との学術交流の証しになればと考え、この拓本は寄贈させていただきます」
　感嘆の声とともに、大きな拍手が鳴り響いた。
　絶世の美女とうたわれた楊貴妃が道士の修行に励み、中級クラスの資格を得ていたという事実と、雷電主任の心遣いに、誰もが感動を覚えているようだった。

　昼食休憩のあと、飛燕（ひえん）主任の説明となった。
　しかし、雷電主任の話のあとだけに、それ以上に衝撃的な内容があるはずはないと誰もが思っているようだ。
　その状況を察していないような涼しい顔で、飛燕主任が話しはじめた。
「私の報告は、楊貴妃に道教を教えた田瑛の老師についてです」
　まるで自分が主役だと言わんばかりの意気込みで、飛燕主任が続けた。
「田瑛の老師は、粉窯炎（ふんりゅうえん）道士といいます。粉道士は、日本にもなじみがありますので、みなさんご存じでしょう。粉道士が発明したため、ふんどしという名称で日本へ伝わり広まった下着があるからです」
　しばらくの沈黙のあと、瞬く間にざわめきが広がっていった。飛燕主任が何を言いたいのか理解した人がほとんどだったからだろう。
「粉道士が修行中の男性器を保護する目的で発明したと言われているふんどしですが、田瑛も着用していたことが石板に記されておりました。ということは」飛燕主任が室内を見渡してから、力強く言った。「田瑛の弟子であった楊貴妃が、ふんどしを着用していた可能性があるのです」
　楊貴妃の下着がふんどしだったという、とんでもない説が披露された。
　飛燕主任は真剣そのものだが、その話を聞いていた研究者は、どう判断すべきか戸惑っているようだった。楊貴妃が着ていたインナーが何であったか現状で知る由はなかったが、ふんどしだったかもしれないというのだ。
　中には思わず吹き出してしまう人もいた。しかし私は、楊貴妃がふんどしをしていたならば、身近に感じられていいのではないかと考えていた。
「詳しくは拓本を確認していただくとして、私もみなさまにサプライズをご用意しております」
　飛燕主任がボードを取り出し、頭の上にかかげた。
「学説は人々に訴えるものがあってこそ広がるものであると認識しております。そのため、このようなボードを作りました。みなさまよくご覧ください」
　勢いよく裏返されたボードには、ふんどしを羽織った楊貴妃の想像図が美麗に描かれていた。