半蔵門かきもの倶楽部コミュの第五十六回作品　JONY作「深夜の　CafeBar　K」（三題噺『観覧車』『かぜ(風、風邪)』『ケーキ』）

ただでさえいつも客が少ない『CafeBar　K』なのに、今夜は、雨。店内にはカウンターの中の店主K以外には、誰もいなかった。時刻は23時になろうとしていた。Kがそろそろ店を閉めようとしたときに、ガラスの扉が開き、一陣の『風』と共に若い綺麗な女が息せき切って飛び込んできた。A子（仮名）だ。
「もう、閉店だよ」
というKの言葉が聞こえないふりをして、彼女は、カウンターの真ん中の椅子に座り込むとひとこと言い放った。
「ウォッカ」
Kは、店の奥の壁にかかっている時計を見ながら言った。
「もう、終電的にヤバいだろ？」
「いいよ。タクシーで帰るから。Kも何か飲んでよ。奢るから」
Kは、苦笑した。つい先日『じゃがいも』という鉄板焼き屋で二人で２万を超す会計を当然のようにKに支払ってもらったのに、Kの店にやってきて「奢るから」と言えてしまうA子の生意気さがむしろ可愛かった。これが若さの特権というものなのだろう。
Kは、店内に流れていたクラシックのCDをコルトレーンの「ブルー・トレイン」に変えて、照明を絞り、酒瓶の並んでいる棚から５０度のロシアン・スタンダードに手を伸ばした。ウォッカの飲み方は、人によって全然違う。色も、純粋透明のストレートから、橙色のスクリュードライバーまで様々だ、A子は、若いが甘ったるいモスコミュールやバラライカといったタイプじゃない。
トールグラスに、氷を入れ、ライムを数滴絞り皮ごとグラスの中に落としてジガー・カップでロシアン・スタンダードを注ぎ、ソーダ水で満たした。ウォッカ・リッキー。甘さは全く無い。
グラスをA子に手渡すと、今度は、自分用に、シングルモルトを大きな氷と共にロックグラスに入れて、カウンターの向こうのグラスに軽く当てた。
「K。何やっていたの？」
A子は、カウンターの中に伏せられた本を指さして訊いた。
「これか。これは、『観覧車とケーキ』という日本でまだ翻訳がでてないアメリカの有名作家の新作だよ。これを盗作して、来月の、地方文学賞に出そうと思ってさ」
「ええっ？それって、いいの？」
「良い訳ないだろ。でも賞金100万円だぜ。もらっちまえばこっちのもんだよ」
A子はそれを聞くと憤慨して声を荒げた。
「Kってさ、前の奥さんと別れる時も、奥さんの署名を自分で書いちゃったんでしょう？それを役所に出して戸籍を抜いたんでしょ？それって偽造じゃん。前の奥さんから裁判起こされたら負けちゃうんじゃないの？」
A子は、怒ったような、軽蔑するような、それでいて、親が子を心配するような目でKを見つめる。その目を笑って見返しながら、Kは、A子は良い子だとつくづく感じた。この子のイノセントぶりは親からの遺伝なのだろうか。たぶん俺とDNAが一番離れた存在だからこそ、俺はこの子に惹かれるんだなと、Kはひとり納得していた。
「ねえ、ちゃんと答えてよ」
とA子は口を尖らせた。
「ちゃんと、答えるさ。いいか。およそ決まりってのはな、強制するシステムを発動しない限り、絵にかいた餅なんだよ。例えば、９時出社という社内規則に違反すればクビになる。それが怖いので社内規則を守る。つまり、間接的に強制する力が働いて、規則が機能するわけだ。しかし、例えば婚姻制度を定めた民法を強制するシステムは国の司法制度つまり裁判しかないんだ。裁判ってのは、ある意思を強制する手段でしかないだろ。手段っていうのは、それを使う能力のある者が、わざわざ行動を起こさなければ機能しないってことなんだ。しかも、裁判って、おまえが思っているほど万能じゃない。例えば、金の支払いを命じた判決は、差し押さえる財産を探しだせなければ何の意味もない」
時計の針はいつの間にか１２時を回っていた。もう終電には間に合わない。
目元を赤く染めたA子が挑むように聞いてきた。ウォッカ・リッキーのグラスは空になっていた。
「じゃ、世の中のことは何で決まるの？」
A子は、純粋に判らないから教えてという態度で訊いてきた。
「力関係だよ。別の言葉で言えば経済力だ。俺の最初の女房は、俺に勝手に籍を抜かれたと、半年後に気づいたとき、たぶん、弁護士に相談しただろう。そして、相談した結果、裁判で、俺を負かせては、い・け・な・い！と理解した。どうせ、家を出ていった俺を引き戻す強制手段はない。裁判で莫大な慰謝料を俺に払わせることを確定させても、財産を法人名義で分散している俺からどうやって取る？それより、俺を怒らせないようにして、今まで通り俺の会社から、節税対策としての形だけの取締役の報酬を毎月きちんと受け取っていたほうが、利口だと理解したのさ」
A子は、
「ひどーい。それ、人間として、どうなの」
と、結構、真剣な口調でKを詰った。
Kは、A子が非難すればするほど、ますますA子に惹かれていく自分の気持ちが、なぜか、心地よかった。
「人間としてダメだろうな。でも、最初の女房は、英文科卒のくせに、それから大原簿記学校に通って、税理士になって、結構大きな事務所経営するようになったからな、結果オーライなんじゃないかな」
「バカ」
A子は黙って、そっぽを向いた。
Kは、アイスペールの中から、トングで角の張った大きな氷を出すと、自分のロックグラスに入れて、ボウモアを注いだ。そして、酒が並んでいる棚に手を伸ばして、ホワイトラムの瓶を取ると、ホワイトキュラソー、レモンジュースをシェイクしてエックス・ワイ・ズィーをショートグラスに注ぎ、A子の前に置いた。
A子はふて腐ったように、しぶしぶグラスを手にして、意外なことを言い出した。
「じゃあさ、もし、私が結婚してって言ったらしてくれるの」
Kはびっくりして、A子を見つめた。そして、
「いいよ」
とためらいもなく言った。
言ったあとで、気がついて付け加えた。
「俺は良いけど、おまえ、結婚したんじゃなかったっけ？」
KはA子が結婚したという事後報告をつい先日デート中に聞いたばかりだった。
A子は周りに細かい水滴の付き始めたエックス・ワイ・ズィーのグラスを舐めながら答えた。
「したけど、後悔している。うるさくて」
「夜遊びを控えればいいじゃないか。旦那よりも早く帰れよ」
「無理よ。彼の帰宅時間、早すぎるもの」
「早すぎるって何時に帰ってくるの？」
「だいたい、１０時か１１時かな」
Kは、A子の旦那に同情しながら、黙って、ピスタチオの殻を割って、口に放り込んだ。
A子が畳みかけるように、
「ね。だから、Kみたいな男と一緒に暮らすの、私良いと思うんだよね。絶対に何にも文句言わなさそうじゃん」
と言いながら、ふと重大なことに気づいたように訊いてきた。
「あ、でも、B子さんはどうするの」
B子（仮名）というのは、Kが時々食事や映画やホテルに一緒に行く関係の女だった。
つい先日、自殺未遂騒ぎを起こして、そこにKの名前も出てきて騒ぎになったりして、今のKにとっては一番触れてもらいたくない名前だった。
しかし、Kは笑って答える。
「B子は、結婚してくれなんて、言ってこないよ。それに彼女は人妻じゃないか」
A子は苦笑しながら言い返した。
「てか、Kだって、そもそも、今の奥さんいるじゃない」
「あそうか。忘れていた」
Kは、A子と声を併せて笑った。
「は、は、は」
KはA子と一緒にいると、ただそれだけで気分が良くなるのを感じた。やはり、俺には、A子と過ごす時間は、至福のひとときだ。
「乾杯しようか」
とKは、ロックグラスを掲げた。
「何に？」
と、A子も三角のショートカクテルグラスを掲げて聞く。
「おまえの旦那に」
「あなたの奥さんに」
「乾杯」
「乾杯」
ジョン・コルトレーンのテナーサックスの重低音が深夜の酒に染みていく。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（終わり）