半蔵門かきもの倶楽部コミュの第五十回　作品　匿名F　『ガラスの人形』

　夕方の山手線品川駅のホームは、人であふれかえっていた。
　ぼくは、慣れないスーツ姿でホームのベンチに座り込み、ハンカチで汗を拭いた。大学三年生の二月から始まった就職活動からもう半年が過ぎようとしていた。友人たちは、早くも決まっているというのに、ぼくは、八月になっても、まだどこからも内定をもらっていなかった。
　焦りと不安をかき消すように、冷えた清涼飲料水を飲み干すと、ポケットからスマホを出し、メールの確認をする。先週、面接を受けたT社から連絡が来ていないか期待をしたが、メールは一通も来ていなかった。ため息をつき、品川駅のホームを歩くサラリーマンの姿をぼんやり眺めた。ぼくだって、こいつらと遜色ないはずだ。それなりに有名大学に通っている。どうして、内定が取れないのだろう。
　ライン画面を出すと、広瀬麻美（ひろせ　あさみ）からメッセージが届いていた。
『昨日はありがとう。もう落ち着いたよ。今日は、面接だよね。祐司（ゆうじ）くんがうまくいくように祈ってる』
　そのあとに添えられた「がんばって」というセリフ付きのうさぎのスタンプを見ると、憂鬱だった気持ちがほぐれた。
　ぼくは、麻美に返信した。
『昨日は心配したけど、落ち着いてよかった。困ったときは、いつでもぼくがついているから』
　麻美とは、付き合って半年になる。彼女とは、A女子大学の学園祭で知り合った。イベントに、ぼくの好きなアイドル歌手が来ていたので、一人で観に行き、たまたま隣にいた麻美と意気投合したことがきっかけだった。
　彼女は、文学部英米文学科三年生で、ミスキャンパスにスカウトされたこともあったらしい。将来は、アナウンサーになりたいと、アナウンスの専門学校に通っていた。
　彼女は、とても繊細で、精神状態が乱れると、パニックになってぼくに助けを求めてくることがある。幼い頃に母親を亡くし、厳格な父親と二人暮らしという彼女は、親子喧嘩をすることが多かった。昨夜も家を飛び出したのか、泣きながら電話がかかってきた。ぼくは一時間ほど話を聞いてあげたのだった。
　早く社会人になって、麻美が困ったときに守ってあげることができる場所を作りたい。ある程度お金が貯まったら、家を借りて彼女と二人で暮らしたいと考えていた。
　ラインの着信音が鳴った。麻美からの返信かと画面を見ると、大学の友人の山下崇（やました　たかし）からだった。
『今日、飲まない？』
『了解。今、面接が終わったところ』
　ぼくは、崇に返信した。地方から上京した彼は、大学に入学したときからの友人で、学部もサークルも同じだった。一時は、彼の部屋に入り浸っていた時期があったほどだ。
　崇は、早々に故郷の銀行の内定をもらっていた。いつまでも就職先が決まらないぼくのことを心配していて、時々、息抜きに飲みに誘ってくれる。ありがたい気持ちと、不甲斐ない自分を情けなく思う気持ちとが交差した。
『とりあえず、俺んち来いよ』
『了解。スーツだけど』
　ライン画面を閉じると、ぼくはゆっくりと立ち上がり、ホームに入ってきた山手線に乗った。

　崇の部屋に着くと、ぼくは、上着とカバンを投げ出し、ソファに深く座った。
「もう、疲れた」
「大丈夫だよ。俺は地元で就活したから、楽だったけど、今になって田舎に帰ることを後悔してんだ」
　ぼくは、驚いた。崇は、てっきり東京が嫌になって、地元に帰りたいのだと思っていたのだ。
「でも、うらやましいよ。俺も早くほっとしたい」
　ふたりで缶ビールを開け、乾杯したとき、ぼくのスマホが鳴った。麻美からのライン通知だった。ぼくの表情を見て、崇が言った。
「彼女？」
「うん」
「また、呼び出し？」
「あ、もう少ししたら、行かなきゃ」
　崇は、呆れた顔でぼくをみた。
「おまえ、いい加減に目を覚ませよ」
「目を覚ませって、なんなんだよ」
　崇には、麻美を紹介していた。付き合って間もない頃、一度だけ、三人で飲みに行ったことがある。そのときは、おまえに似合わない綺麗な女の子と付き合えてうらやましいと言っていたはずだ。
「あのさ、おまえ、いっつも彼女から呼び出されるばかりで、ちゃんとデートの約束とかしたことあんの？」
　痛いところをつかれたぼくは、崇の顔を見ずに言った。
「いや、ない。でも、あいつはお嬢様育ちだけど、家庭の中が色々たいへんなんだ」
「何がたいへんなんだよ」
「前も言ったけど、元々茶道の家元で、許嫁もいたんだけど、断ってから父親と冷戦状態らしい。それもぜんぶ俺のせいだし」
　崇は、ぼくの言葉にいらいらしてきたようで、語気を荒げた。
「あのさ、おまえのせいって、ほんとにおまえと結婚するつもりだと思ってるの？」
「父親と揉めて、もう限界みたいで。助けてあげられるのは、俺だけなんだ」
　崇との会話が噛み合わない。最近は、彼女の話になると、いつも対立してしまう。でも、付き合っているのはぼくだ。他の人にとやかく言われる筋合いはない。
　しかし、今夜の崇は執拗だった。
「なあ、おまえ、彼女と手くらいは繋いだの？」
「そりゃ、手は繋いだけど」
「それから？」
　崇は、ぼくが一番気にしていることを聞いてくる。ぼくは、彼女と手は繋ぐが、それ以上触れ合うことはなかった。繊細でガラス細工のような心を持った彼女は、気持ちが不安定で、何をしでかすか分からないところがあった。麻美は、男性と体の関係を持つのは怖くてできないと言った。ぼくは、気持ちを尊重して、彼女がいいというまで待っているつもりだ。
「いいじゃん。ゆっくり育んでいくんだ。彼女は、親が厳しくて、門限も六時なんだ」
「そのわりに、よく夜中に呼び出されてない？　今だって八時じゃん」
　ぼくは黙った。確かに、最近、呼び出されるときは、夜遅い時間が多かった。
「でも、それは、お父さんと揉めて家を飛び出したから……」
　崇の声が大きくなった。
「でさ、彼女、どこに住んでるの？」
　どうして、彼にそんなことまで説明しなきゃならないのか。ぼくは、缶ビールの底を、コツコツとテーブルに当てながら言った。
「お父さんは、大物政治家とも付き合いがあるような人なんだ。彼女の家の周りにSPもいるし、簡単に自宅は明かせないみたい」
　崇は、ため息をつき、首を振ると、ビールを一口飲んだ。
「自宅も教えないっておかしくないか？　本当に、おまえのことを思って言ってるから、聞いて。おまえがこんなに就活で苦戦してるときに、振り回す彼女はおかしいよ」彼は、真剣な眼差しで言った。「ほんとは言いたくないけど、就活中は、彼女と連絡取らないほうがいいよ。こんなことをしていたら、内定取れないぞ」
　ぼくは、飲み終わった缶を握りしめた。
「あいつが、死んでしまってもか」
「死ぬ？　大丈夫。彼女は死なないよ」
「おまえに何がわかるんだよ」
　崇は、少し沈黙して、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに入れると、ぼくの目の前に置いた。
「俺、友達にA女子大学の子がいるんだ。悪いと思ったけど、最近、おまえの様子がおかしいから、広瀬麻美のことを聞いてみたんだ。そしたら、そんな名前聞いたことがないって」
「学部が違うかも知れないじゃん」
「いや、学部も学年も同じ。A女子大は小さいから、分かるでしょ、普通」
　ぼくの頭はぐらぐらし、心臓の鼓動が耳に響いた。彼女に対して少しだけ不安に思っていたことを拡大して目の前に差し出されたような気持ちだった。ぼくは、すぐにその不安を打ち消しにかかった。
「嘘だろ。その子が知らないだけなんじゃ？」
　崇は、そのことには答えず、ぼくの目をまっすぐに見て言った。
「で、今日、彼女に会いに行くの？」
「うん。九時に王子駅に来てってさっきラインが来た」
「は？　なんで王子なんだ。こないだは、飯田橋だっただろ？　どんだけ振り回すんだ。今日は、俺もついていく」
　ぼくは、両手で崇の腕をつかんだ。
「いや、ほんと、やめて。そういうこと」
　崇は、ぼくをなだめるように言った。
「絶対に迷惑をかけることはしないから。彼女が一体何者か知りたくない？　このままじゃおまえがつぶれてしまうよ」
　彼の口調は本気だった。たしかにぼくは最近の彼女からの呼び出しに疲れていた。就活に身が入らないのも本当だった。説明会の途中に居眠りをしてしまうこともある。
　どうしてもついてくるという崇を止めることはできず、僕たちは、京浜東北線に乗った。心が乱れているぼくに崇は言った。
「なあ、彼女が色んな駅を指定してい来るのはどういう理由があるのかな？」
「自分のことを話せない事情があるみたい」
　崇は、大きな声で笑った。
「は？　家柄がすごいからってか。そうじゃなくて、自分の正体を知られたくないだけじゃないかな」
　ぼくは、崇の態度に腹が立った。
「そういう子じゃない」
　崇は、ぼくの肩をぽんとたたいて言った。
「まあまあ。いつも、駅のカフェで話をするんだろ？　ぼくは、カフェが見える場所で待ってるから」
「絶対に店に入ってくんなよ」
「もちろん。問題はそのあと。彼女がどこに帰るか一緒につけていくんだ」
　彼女のことを信用したかったが、心の隅に漂う不安を払いのけるためには、崇の言う通りにするのもひとつの方法だと考えた。

　ぼくは、王子駅前にある小さなカフェに入った。麻美は、窓辺の二人掛けの席で紅茶を飲んで待っていた。
「ごめん。遅くなって。待った？」
　麻美は、満面に笑みを浮かべて頭を振った。
「ううん。私もさっき来たばかり」
「昨日は、あれから大丈夫だった？」
　彼女は、恥ずかしそうに下を向いた。
「昨日は、ごめんね。祐司くんに迷惑かけて。どうしても、辛くなると声を聞きたくなるの」
　昨夜、泣きながら電話をかけてきたときとは別人のように甘い声だった。
「元気になってよかった。今は、お父さんとなるべくうまくやっていくしかないよ。社会人になったら出て行けばいいじゃん」
　麻美は、肩までかかる髪を指でくるくる回しながら言った。
「祐司くんみたいに、両親が揃っている人にはわからないと思うけど、そんな父親とも別れたら独りぼっちになるでしょ。それも怖いの」
　ぼくは、焦った。彼女を傷つけるつもりはなかった。
「ごめん。そういうつもりじゃないんだ。ぼくが一人前になったら、麻美に寂しい思いをさせないようにするから」
「ありがとう」
　麻美は、うっすらと涙をため、ぼくを見た。透明感のある瞳に吸い込まれそうになる。頼んだアイスコーヒーが運ばれてきた。ぼくは、ミルクを入れ、ストローでかき混ぜながら麻美を見た。
「それで、今日はどうしたの？」
「ちょっと、言いにくいんだけど、昨日、お父さんに家を閉め出されて、ビジネスホテルに泊まったの」
　ぼくは、驚いた。
「え？　電話切ってから家に帰ったんじゃなかったの？」
「帰ったのは、今朝」
「ちゃんと言ってくれればいいのに」
「ごめん。それでね、ホテル代払ったら、お財布にお金がなくなっちゃって」
　ぼくは黙った。前にも一度、呼び出されてお金を貸したことがあったからだ。前から言おうとして言えなかったことを思い切って口にした。
「お父さんには言えないの？」
　麻美の顔がぐにゃっとゆがんだ。
「こんな、こんな状態で、言えるわけないでしょ。バイトのお金は明後日入るの」
　A女子大に彼女はいないんじゃないかという崇の言葉が頭をよぎった。
「どれくらい要るの？」
　麻美は、うつむいて小さな声で言った。
「いちまんえん」
　ぼくは、今朝、定期券を買うからと母親からもらっていたお金を麻美に渡した。
「バイト代が入ったら返してくれる？」
「もちろん。ありがとう。本当にごめんね」
　ぼくは、コーヒーを飲む気力もなく、麻美がテーブルの上で重ねた指を見ていた。いつもだったら、ぼくはここで、彼女を慰める言葉を発していただろう。けれども、一度不信感をもってしまうと、オセロの石が反転するように、彼女の言動が黒く変わっていく。
　麻美も、ぼくの様子がいつもと違うということを察したようだ。姿勢を正して笑顔を作った。
「祐司くん、明日も就活だよね。頑張って」
「ありがとう。頑張るよ」
　ぼくは席を立ち、二人分の精算を済ませると、店を出た。
「送っていこうか？」
「ううん。大丈夫。今日はありがとう。祐司くんは、JRだよね。私は南北線で帰るから」
　そう言って手を振った。ぼくは、その場に立ち尽くしていた。彼女はいったい何者なのだろう。今まで見えていなかったものが一気に見え始めてきたようだ。気づくと横に崇がいた。
「早かったね。いつもこんな感じ？」
「いや、いつもは、もっと話すんだけど、今日は、お金を貸してほしいと言われて……」
「やっぱり。おかしいよ。彼女は、南北線のほうに行ったね。すぐに行こう」
　ぼくはうなずいて何気なく、駅のロータリーを見た。交差点の向こうを麻美が歩いているのが見えた。
「あれ？　地下鉄の階段と反対側にいる」
「行ってみよう」
　ぼくたちは、走って交差点に向かった。適度な距離を保ちながら麻美の後をつけていく。ついさっきまで信じていた彼女のことを疑う行為は辛かった。けれども、どこかで決着をつけたい気持ちも現れていた。
　崇がぼくの耳元でささやいた。
「なあ、これって、飛鳥山公園に向かってない？」
　ぼくは、麻美の行動が理解できなかった。公園は、交差点を渡り切ったところにある。昼間は、多くの人で賑わっているのだろうが、夜は人通りもなさそうだ。
　麻美は、スマホを耳に当て、誰かと話しながら歩いている。男の足でも見失いそうになるほど早足だった。そのまま公園の階段を登り始めた。ぼくは、麻美に対する気持ちが揺れて崩壊しそうなのを、崇のおかげでなんとか保っていた。彼がいなかったら、麻美のところに走り、どういうことだと、なじっただろう。そんなみっともない真似はしたくなかった。
　公園の照明が彼女を照らしている。ぼくたちは、かなり距離を置いて麻美を見張っていた。じーんと虫の鳴く声だけが聞こえる。小さい頃にミミズが鳴いていると教えられたことがあったが、本当は何の鳴き声なんだろうか。母がミシンでぼくの給食のランチマットを縫いながら、そんな話をしてくれた状況が頭に浮かんだ。
　麻美は、ベンチに座ってスマホを触っているようだ。五分もたっただろうか。彼女が立ち上がったのが見えた。四十代くらいの男性が彼女に近づいていた。
　崇がつぶやいた。
「あれは、お父さん？」
「仲直りしたのかな」
　ぼくもそう思い、頷いた瞬間、彼女は、男性に抱きつき、まるで映画のワンシーンのようにキスをした。ぼくは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、それ以上見ることができなかった。
「あ、二人が歩いていくぞ。祐司、一緒に行っても大丈夫？　なんなら俺一人で行くけど」
　ぼくは、もう決意していた。ここまで来たら、麻美の本当の姿を見てやろうと。
「一緒に行く」

　男性と麻美は、恋人同士のように腕を組んで歩いていた。ときどき、麻美が体をよじって笑っているようだ。誰もいない公園を慣れた足取りで進んでいく。ときおり風がふいて、ざわざわと葉の揺れる音がする。男性は、麻美の腰に手をまわし、いやらしい手つきで撫でている。ぼくは、また頭に血が上った。けれども、それを喜んでいる麻美の姿を見ると、心がどんどん冷めていくのが分かった。
　十分ほど歩き、二人は駐車場に着いた。迷わず品川ナンバーの白いセダンに乗り込むのを見て、ぼくは二人が付き合っているのだと確信した。車は、なかなか発車しない。エンジンをかけたまま話し込んでいるようだ。車の窓の中の影を見ていると、うつむく彼女に男は顔を近づけ、抱きしめたようだった。そのまま二人のシルエットは倒れ、窓から見えなくなった。ぼくは、もうこれ以上ここにいるのは耐えられなかった。
　「帰ろう」
　崇も同じ気持ちだったようだ。ぼくたちは駅に向かって並んで歩いた。
「嫌なもの見ちゃったね」
「でも、もう、これですっきりした」
　ぼくの気持ちは、混乱していたが、もう麻美から離れる覚悟はできていた。
「おまえ、スーツがたいへんなことになってるぞ」
　スーツは、汗でどろどろになっていた。ぼくは、頬を掻いた。
「顔も、蚊に刺されてるし。明日の説明会、行くのやめようかな」
「何言ってるんだ。早く内定取れよ。サークルのみんなで待ってるんだぞ」
　ぼくは、目頭に熱いものがこみ上げてきた。
「ありがとう。早く決まるように頑張るわ。明日のことは明日考えるから、ちょっと飲んでいかない？」
　ぼくは、崇の目の前で、麻美のラインをブロックした。今日、貸した一万円が帰って来なくなるのは痛かったが、もう二度と彼女と会わないと決めた。ポケットにスマホをしまおうとしたとき、一通のメールが届いた。T社からだった。ぼくは、思わず飛び上がった。
「やった、次の面接に来てくださいって、今来たぞ」
「やったね、次は最終？」
「いや、グループ面談」
「なんだ、おまえが一番苦手なやつじゃん、練習しよう。自信持ってやればできるって」
「頼むわ」

　ぼくは、麻美に振り回され、大切なことを忘れていた。崇には頭が上がらないだろう。彼女をすぐに忘れることができないのは分かっている。けれども、今、ぼくは、とにかく、目の前の就活をクリアにしなければならないのだ。彼女が嘘だらけの人間だと知ってしまった以上、もう、二度と関わり合いたくない。本当に大学生だったのかどうか分からないが、このまま知らなくても良いと思った。

　空を見ると、くっきりと半円の月が浮かんでいた。小学校のときに使っていた分度器みたいな形だとぼくはぼんやりとした頭で思った。