半蔵門かきもの倶楽部コミュの第四十一回　みけねこ作『初夏の欲望』

梅雨入り間近の蒸し暑い午後だった。
私は表参道駅を降り、人の波に流されながら歩いていた。黒いワンピースが、太陽の光を吸収して熱を帯びる。
大通りを抜け、静かな住宅街に入ってすぐ、目的のマンションはあった。エントランス前に、黒いスーツを着た若い女性が立っている。ショートカットで華奢な体型をしていた。
「小野寺柚葉　(おのでらゆずは)さんですね？」
彼女は、履歴書のような書類を見ながら確認した。
「岸谷　透　（きしたに　とおる）さんのご紹介ということでお聞きしています。私は『リーナ』といいます」
　岸谷は、私の大学の先輩である。この施設を体験するために資料を提出してくれていたのだ。リーナは、微笑みを浮かべながら
「ここでは、ニックネームで呼び合うことになっていて、あなたのことは『シーフ』という名前で呼びますね。では、ついてきてください」
そう言うとパンプスの音をコツコツと鳴らしながらマンションの中に入っていった。

玄関ホールはかなり広く、十足以上の靴が並んでいる。甘いアロマの香りが広がっていた。リーナは、私にマントと仮面のセットを渡しながら言った。
「それから、顔を隠したほうがより効果がありますので、この仮面とマントを着用してください。今日は、体験なので料金は無料です」
　それらを着用することには抵抗があった。しかし、着替えてみると緊張感が薄れ、気持ちが楽になった。リラクゼーションの効果なのだろうか。

リラクゼーションサロンとして使われているこの部屋は、かなり広く、大きめのダイニングテーブルと二台のソファが置いてあった。バルコニーからは日が射し、明るく心地よかった。テーブルには、クラッカー、チーズなどの簡単なおつまみとワインが置いてあり、十数名の男女が談笑している。
年齢は様々で、若い人もいれば、年配の人もいた。全員が黒いマントを羽織り、仮面をつけている。

リーナがワイングラスを持って来てくれた。
私はグラスを受け取った。お酒が弱いのでためらいながらも少しだけ飲むと、案の定、酔いが回って気分が悪くなってきたので、洗面所の場所を教えてもらい、少し休むことにした。

　洗面所は、広く清潔だった。誰も人がいないのでほっと一息つくことができる。このサロンの体験は、探偵事務所に勤務している岸谷から頼まれた。
私は、普段から頭痛に悩まされていて、リラクゼーションで頭痛も和らげば一石二鳥かもと言われて軽い気持ちで引き受けたのだった。そういうわけで、頭痛止めの薬はいつも身に付けている。
ふいに、天井の一隅が光ったように思われた。カメラには見えないが、レンズかもしれない。見張られていると仮定すると、これからどのようなことが起こるのか想像もできない。
携帯電話はリビングのロッカーにある。着信音で施術を妨げないためという理由で電源を切って袋に入れてから割り当てられた場所に保管されているのだ。あるいはそれは、外部との連絡を絶つための手段なのかもしれない。
（怪しまれてはいけない）
　私は、自然な振る舞いを心がけながら部屋に戻った。

　アロマの香りは次第に強くなってきた。心地よいボリュームで音楽が流れていてリラックスできる。
　しばらくすると、部屋にリーナがやってきて、全員に聞こえるように言った。
「皆さま、お静かに。これからお名前を呼びますので、呼ばれた方はこちらに来てください」
　四名の名前が読み上げられ、その中に私の名前も入っていた。全員がニックネームで呼ばれているので性別は分からなかったが、集まってみると男性、女性二名ずつだった。四人は、リーナの案内で、廊下を挟んだ部屋に案内された。
　真っ白なシーツを敷きつめた部屋に、壁を背にして座っている男がいた。彼がリラクゼーションサロンの主催者である七条　誠（しちじょう　まこと）　だった。
私たちがシーツの上に座ると、リーナが飲み物と薬を運んできて言った。
「サロンでは、リラックスの効果をより感じていただくために、サプリメントをお薦めしています」
　そして、一錠ずつ私たちに配った。
七条は、サプリメントを受けとるとあっという間に口にした。
　隣の三人も、飲み物と一緒にサプリメントを口にしていた。私は、普段から頭痛止めの薬を飲んでいるので、知らない薬を飲むことには抵抗がある。そのとき、ポケットに頭痛止めの薬を入れていたことを思い出した私は、七条がリーナにグラスを返して横を向いている隙に薬をすり替え、頭痛止めの薬を飲み込んだ。
　ふと、横を見ると、私と一緒に入った三人の男女がマントを脱ぎ捨て一糸まとわぬ姿で絡み合い、仮面をつけたまま嬌声をあげていた。グロテスクな生き物がうごめいているとしか思えなかった。私は、そのおぞましい姿から顔をそむけた。

七条の声は、とても甘く優しかった。
「シーフ、こちらへおいで」
彼は、私の肩を抱いて、奥の部屋に誘い横たわらせた。
　彼は、仮面を取った。想像していたよりはるかに端正な顔が現れた。眼差しは優しく、上品だった。私の仮面も外され、彼の顔が近づき、体の上に重さを感じた。
彼は、アロマオイルを手にして、私の腕をマッサージし始めた。部屋中に香りが漂い、うっとりとした気分になった。どこかで逃げないといけないという気持ちはあるが、体が思うように動かない。アロママッサージの範囲はどんどん広がっていく。
そして、急に強く抱きしめられた。私は抵抗するのをあきらめ、彼のなすがまま身を任せた。

　どれだけの時間がたったのだろう。マンションから出たときには、ぐったりと疲れていた。リラクゼーションサロンと銘打ってはいるが、この施設の目的は違うところにありそうだ。自分に起きてしまった出来事を整理する時間も必要である。
　マンションを出るとき、リーナをはじめ、会員たちはとても親切だった。また七条の優しさは格別だった。ただ、雰囲気にのまれてしまった自分の行動が悔やまれる。
　何よりショックだったのは、私と一緒に部屋に入った三人の行動である。おぞましい姿が目に焼き付いて離れない。彼らは、サプリメントを飲んでからすぐにおかしくなっていた。いったいなんだったんだろう。

私は、岸谷に電話をした。
サロンでは、仮面とマントを着用しなければいけないこと、リラクゼーション効果のためにアロマがたくさん使われていること、会員は、配られたサプリメントを飲んでいたこと、そして、私は飲まなかったということなどを手短に連絡した。けれども、サロンで起こっていたおぞましい出来事を伝えることはできなかった。自分と七条のことも。
その足で岸谷の事務所に行き、報告書と薬を渡した。

その後、七条　誠は麻薬取締法違反の疑いで逮捕された。逮捕のきっかけは、岸谷に渡した一錠のサプリメントである。彼は、職業柄、警察の知り合いが多く、薬を検査するルートを知っていた。そこで麻薬だと判断されたらしい。
私が体験に行ったサロンは家宅捜索され、連日ニュースやワイドショーで報道された。七条は、四十七歳の元俳優で、映画やテレビで売れることはなかったようだ。それが、今回の報道によって急に名が知れたのだから、皮肉なものだ。
それにしても、あの場にいた優しい会員たちは、サプリメントが麻薬だということをしっていたのだろうか。自分も危うく麻薬を飲まされるところだったと思うと恐ろしくなった。

事件から一月の時が過ぎ、私の心も落ち着いてきた。季節は初夏へと移っていた。デパートに立ち寄った私は、入り口の特設会場の香りに引き寄せられた。
「アロマオイル、色んな香りが楽しめます」
販売員の女性が優しい声で呼びかけている。
私は、ふと忘れていたアロマの香りを思い出した。体が覚えていたのだ。
彼女は細長い紙にアロマオイルを一滴落とした。
「お試しになりますか？ラベンダーの香りです」
「ぐっすり眠れそうな香りですね」
「お客さま、そうなんです。これは、寝るときに焚くとリラックスできます」
　私は『イランイラン』と書かれてある瓶を取った。
「このオイルは、どんな香りですか？」
「これは媚薬とも言われている香りで、シャネルの5番にも使われているんですよ」
彼女はそのオイルをテスター用の細長い紙に落とした。

この香り……あの日、リラクゼーションサロンで焚かれていた香りだ。間違いない。
私は『イランイラン』のアロマオイルを購入した。

家に帰るとアロマを焚き、ソファに横になった。香りに身を任せ、恐怖の中に残る甘い記憶をたぐりよせるために目を閉じた。
香りとともに甦ったのは七条から体に刻み込まれた感触だった。恐怖と甘美な感情は、複雑に絡み合い、私に刻印を残していた。

私は、まとわりつくような初夏の欲望の正体を知ると同時に、その欲望が満たされることは二度とないということも知ったのだった。

コメント(2)

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[1] mixiユーザー 06月12日 14:29

みけねこさんの新境地だと感じ、読んでいてドキドキしました。
うまく言えないのですが、ふわふわした感じがいいです。
白昼夢のような感じというか、「あれは果たして夢だったのかしら、そうに違いない」と思いたくなるような、初夏の体験ですね。七条も、「私は浮遊できるのです」とか言い出しそうだし笑。表参道という場所も、個人的にふわふわした場所に思えます。
みけねこさんの小説らしい端正なところは、香りをこの小説に取り入れたところだと思います。
香りとともに記憶が蘇ってくる感覚、イランイランとともに思い出される恐怖と甘美……「良い！」と思いました。

ただ一点、ふわふわした状況、登場人物の中で、柚葉だけはもう少し地に足がついた人でもよかったのかな、と思いました。
岸谷から依頼された潜入捜査？に動じず踏み込んだり、さっと薬をすり替えるような機転が利いたり、初夏の体験をちょっと甘い記憶として胸にしまってみたり……
こうして書いてみると、柚葉って結構ハードボイルドな登場人物ですね笑
黒いワンピースに身をまとった柚葉というのは、一体どんな人物なのだろう？と気になりました。もし柚葉が「家庭を持った主婦」とかなら、きっともっと動揺していただろうし……やはり、柚葉から何だか玄人臭がします。（探偵の岸谷と付き合いがあるくらいですしね）
それはそれでありだと思うんですが、なんとなく柚葉の背景が気になりました。

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