半蔵門かきもの倶楽部コミュの第四十回　みけねこ作『海の音が聴こえる』

海の音が聴きたくなったとき、いつもこの貝殻を耳にあてていた。
ざわざわざわと波の音がする。大人の手のひらにすっぽりとおさまる大きさの巻貝は、淡いベージュ色をしていた。

美紗子（みさこ）は、二歳になる息子の舟（しゅう）が寝息をたてたのを確かめ、リビングのソファに体を沈めた。今夜も夫の帰りは遅くなるだろう。夕食のシチューの入った鍋のふたを閉じて冷蔵庫にしまう。時計の針の音が、夜の空気を鋭く刻んでいる。
周りに気を使いながらそっと玄関の鍵を開ける音がした。夫の隆之（たかゆき）がこうやって鍵を開けるときは残業ではないことのほうが多いことを美紗子は知っている。
「ごめんね。今、正念場でさ、残業が続いて舟となかなか遊べなくてすまない」
隆之は玄関を開けると小声で申し訳なさそうに謝ってきた。
「仕方ないよ。仕事だもの。それより疲れたでしょう、早く休んだほうがいいよ。週末にまた舟と遊んであげてね」
「ほんと、今の部署になってから、めちゃくちゃ忙しいよ。ずっと家でご飯も食べてなくてごめん」
隆之はネクタイを緩めて外し、靴下を脱いだ。美紗子は、脱ぎ捨てられた衣類を拾い、洗濯機に持っていく。ハンカチの間から一枚のパンフレットがはらりと床に落ちた。
隆之を見ると、下着姿のままソファに倒れ込み、軽い寝息を立てている。

「高尾洋平」

パンフレットには、見おぼえのある名前と写真があり、右横には、ジャズピアニストの肩書があった。都心でも有名なライブハウスで演奏をしているようだ。
美紗子の指が震え、心臓の音が高まった。

「風邪を引くから、早くパジャマに着替えて休んで」
美紗子は、母親のように声をかけると、隆之の体に毛布をかけ、パンフレットを持ってリビングから移動した。
「タカオサン、ジャズピアニストになっていたんだ……」
隆之が残業ではなく、実は誰かとライブハウスに行っていたのではないかという疑惑もあったが、今の美紗子にとってはどうでも良かった。

頭の中を美紗子の知っている「高尾洋平」の情報が駆け巡った。

中学二年生の春のことだった。美紗子のクラスには、転校生が来るという噂が流れ、朝から教室はざわついていた。
転校生は、高尾洋平（たかおようへい）という名の男子だった。彼が黒板の前に立つと、教室は水を打ったようになった。それもそのはずで、洋平はすらりとした体型に端正な顔立ちで、幅の広い二重瞼が少し哀しげだった。イケメンの転校生がいるという情報はあっという間に広がり、休み時間に洋平を見に来る女子が絶えなかった。
洋平は、名字から「高尾山」というあだ名で呼ばれていた。
彼は、友達も作らず、一人でいることが多かった。いつも窓の外を見て寂しそうにしている。美紗子は、洋平と隣の席だったため、わりとよくしゃべったほうだった。教科書を忘れたときに、ひとつの教科書を真ん中に置き、少し近づくことできるのが美紗子の楽しみだった。

お盆が過ぎ、夏休みもそろそろ終盤にさしかかった頃、美紗子と洋平は、町の小さな商店街でばったり出会った。町の名前に銀座の名前がついている、よくある商店街である。
「あ、高尾山、アイスでも買ってたべようよ」
「うん。おごるよ。そうそう、おれ、八月中に引っ越すんだ」洋平は唐突に言った。
「え？　そんな。四月に転校してきたばかりなのに……」美紗子の顔が驚きで歪んでいた。
「実は、おやじが行方不明になってから、母親と二人で色んな町を探しているんだ」
洋平が目を伏せた。彫刻のような美しい横顔だった。
「あ、これ、良かったらあげる」彼は、リュックの中から巻貝を取りだし、美紗子の目の前に差し出した。
「小さいときに、おやじが海外出張のお土産で買ってきてくれたんだ。耳に当てると波の音がするよ」
「そんな……。お父さんからもらった大切なものなのに、いいの？」
「いいよ。おやじは、海に行くって言ってそのままいなくなってしまったんだ。なんだか持っていると辛くて」
美紗子は、両手で巻貝を大事そうに受け取り、耳に当ててみた。

ざわざわざわ……。

波の音がする。
「住所がわかったら、手紙だすよ」
「うん、高尾山のお父さん、また元気で会えたらいいね」
美紗子は明るく装い、うわずった声で洋平に話しかけた。
彼は、その言葉には答えず、焦点の合わない視線で遠くを見つめた。
二人の目の前の小さな理髪店の、青と赤の線がくるくると回り続けていた。

新学期になった。美紗子は九月になっても洋平は学校に来てくれるのではないかと思っていた。引っ越すなんて嘘であって欲しい。けれどもその期待は裏切られ、洋平はそれきり学校に来なかった。
住所がわかったら手紙をくれるということだったが連絡が来ることはなく、中学の同級生の中で、高尾洋平の消息を知る者は誰もいなかった。
それからというもの、美紗子はよく巻貝を耳に当てた。寂しい気持ちのときも、切ない気持ちのときも。

ざわざわざわ……。

洋平はどうしているのだろう。海の音を聴くたびに美紗子は思っていた。
しかし、あれから十数年の時がたち、洋平は東京で音を奏でる仕事をしていたのだ。胸が熱くなった。

翌朝、ソファで目覚めた隆之に美紗子は言った。
「ライブハウスでの残業、お疲れ様でした」
「え？　いや、上司がジャズ好きでね……。本当に男同士で行ったんだ」隆之は、目を泳がせながら言った。
「誰と行ったかなんて、聞いてないし、今はどうでもいい。私をこのライブに連れて行ってくれれば何も聞かないから」美紗子は、パンフレットの高尾洋平の出演する日程を指さした。
「わ、その日は値段が高いな……。美紗子、ジャズ好きだっけ？」
「高尾洋平、高尾山は、私の中学の同級生なの。たった四ヶ月だったけどね。昨夜のことは、何も聞かないから、連れてって」
「い、いいよ。わかった。予約しておくよ。舟はおまえのお母さんに預かってもらおう」
「舟は、海が好きなの。いつも、この貝の音を聴いて海に行きたがっていたから、舟には海に連れて行ってあげて」美紗子は落ち着いた声で言った。
「わかった。う、海も行くよ。ほ、ほんと、男同士だからね」
相変わらず、隆之の目は左右に泳いでいた。
美紗子は、それには答えず、
「初めて好きになった人」とリビングの窓を開けながら言った。

レースのカーテンが揺れ、爽やかな初夏の風が部屋に舞い込んできた。

コメント(7)

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[1] mixiユーザー 05月14日 12:02

中年期の男女の憂鬱が、みけねこさんらしく、繊細に表現されていると感じました。個人的に胸に響きます笑
「家庭があって、夫婦仲も悪いわけじゃなくて、可愛い子供にも恵まれて、幸せなはずなんだけど、……ね」
みたいな、そういう心の隙間があるから、不倫をしてみたり……。
このお話の場合は、美紗子のそんな心の隙間に入り込んだのは、高尾くんなのかな、と思いました。でも高尾くんはもっと大きな存在でもあるのかな。

今回のキーワード、高尾山が難しかったと思うのです。でもそれを高尾くんという人物に置き換えたのが、物語にオリジナリティと味わいをもたらしていると思います。
高尾山は人気の高い観光地で気持ちがいいけど、霊験あらたかな？パワースポットでもありますよね。
そんなイメージが、高尾くんの爽やかでかっこよくて品が良くて、なおかつミステリアスで近寄りがたい雰囲気にマッチしてますね。ジャズピアニストになったというのも、キャラにばっちり合ってます。

この高尾山と高尾くんのマッチングが秀逸だからこそ、あだ名がついたくだりが、もう少し丁寧に描かれていてもよかったのかな、と思いました。高尾山と高尾さんだと発音が結構違うので、そこがくすっと笑える温かいユーモアにも繋がる気がするのです。
生意気にすみません！

それにしても、ラストの美紗子はなんだか迫力を感じます。穏やかだから余計に怖いんでしょうね。この腹の据わり具合、素敵だな～と思います笑

[4] mixiユーザー 05月14日 15:22

本日活動に参加させていただきます、よろしくお願いします。
かとうさんの感想も踏まえてですが、最後のやりとり、
モミーさんのボケを、愛を持ってスルーししているみけねこさんと重なりました(笑)

巻貝を大事に持っている理由、旦那さんは知らないんだろうな。
個人的には元のパターンを膨らませる方に修正したほうが好きかもしれません。

[5] mixiユーザー 05月14日 21:33

やぐうさんの感想や、別パターンのラストなど、読んでいると、「創作って奥深いな」と感じました。私も、すみません、好き勝手言ってなんなんですが、元パターンが好きです。
展開的には別バージョンのほうが怖いはずだけど、なぜか元の展開のほうが凄みを感じます。
最後の方の美紗子の、「ライブに私を連れてって」「舟を海に連れてって」という旨の台詞に、ものすごい感情のエネルギーを感じます。本当は納得してないのに、許せてないのに、自分も自分で高尾くんに惹かれれるのに、無理矢理？円満に持ってこう、みたいな。
このラストがベストなのかはわかりませんが、美紗子のものすごい我慢や葛藤を裏に感じさせるんですよね。

一方で、別バージョンは美紗子の対応があっさり、からっとしていて、「夫が浮気してるし、私も高尾山に会いに行くわ！嘘つくことにも抵抗はないわ！」という感じがします。そこにあまり葛藤はないのですよね。

どちらがいいという話ではないのですが、２つ読んで、そのように感じました。なんというか、もっと心が揺れる美紗子が見たかったのかもしれません。

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