半蔵門かきもの倶楽部コミュの第36回作品匿名E 『あおいのやよい』

　お腹の真ん中が膨んでいる。ふつふつとしている。
　葵の今の気持ち。葵の生きてきた五年間できっと初めての気持ちで、だから葵はこの気持ちの名前がわからない。
　くさまやよい。
　黄色いてんとう虫みたいな模様のハンカチは、トーコ先生のものだ。
　お外で遊んだ後、トイレに行った後、いただきますの前には、水道で石鹸をつけて手を洗う。それから、お家から持ってきた自分のハンカチで手を拭く。洋服に手をごしごしして拭くと、もう一度お水で洗う。石鹸もつける。
　葵のポケットに、ハンカチがなかった。いちばん好きなパンダのハンカチ。神社でやる夏祭りで、ママに買ってもらった。お家の布団の中で見ていて、それで忘れた。
　やさしくない子だから、忘れた。
　やさいくない子というのは、悪いことをする子のことで、ママを悲しませる子のことだ。
　葵はやさしくない子だから、もっと、ちゃんと、やさしい子にならないといけない。
　お水で濡れた手にお口でフーフーしてるところで、トーコ先生がハンカチで葵の手を拭いてくれた。
「あっ」と思った。
ハンカチがないことをママに言われたら、ママは悲しむ。
「葵は、やさしい子には、なれないんだよね。わからないよね。ママの子は、もっとやさしい子だと思ってた。人の気持ちがわかる、困ったことをしないやさしい子。葵には、わからないよね。わからないもんね」
頭の中で、ママの声がする。どうしようと葵は泣きそうになって、お腹に力を入れる。
「そうやって泣くのは、困ったことなんだよ。でも、わからないんだよね。葵は、やさしくない子だもんね」
葵は、泣かない。やさしい子は、泣いたりしない。泣くことは、良くないことだ。
　奥歯に、力を入れる。きれいになった手からトーコ先生が、ハンカチを取った。四角く畳まれるのをみて、また「あっ」と思った。今度は、小さな声が出た。トーコ先生が、不思議そうな顔をする。
「みずたま」葵は言った。
「これ？」
「うん」
トーコ先生が、葵にハンカチを渡す。両手を伸ばして広げる。真っ黄色に黒いまるが並んでいる。水玉だ。葵のお腹の水玉とおそろいだ。
「みずたま」
「好き？」トーコ先生が言う。
トーコ先生は、いつもいい匂いがする。甘いグミの匂い。
「うん」
「これはね、草間彌生っていう人が描いたんだよ。水玉をね、たくさん描くの。すごい人なの」
「うん」
トーコ先生がりんごのアップリケのついたエプロンのポケットに右手を入れる。葵は、りんご組だ。ポケットから出てきたのは、小さなメモ帳だった。赤色の表紙には、たくさんの水色のまるが描かれている。じっと見ていると、水玉の縁がちかちかしてくる。
「くさ？」
水玉の人の名前、難しい名前だった。
「く、さ、ま、や、よ、い」
「くさ、ま、やよい」
トーコ先生の真似をして、葵もゆっくり言う。くさまやよい。
「そう。草間彌生。すごいよね。天才。こういうね、可愛いものをたくさん作っていて、すごいの。とうこ先生はね、草間彌生が大好きなの」
トーコ先生が、笑う。
「くさまやよいは、やさしくないの？」
葵は右手で、そっとお腹を触る。
　水玉は、やさしくない子のしるしだ。
　ママとパパはリコンをした。リコンというのは、大人がすることだ。ママはパパのことが嫌いになって、パパはママのことが嫌いになって、大人の世界ではすごく好きでも嫌いになることがある。リコンはとても大変で難しいことで、シツレンの百倍つらくて唐辛子の百倍辛いことだ。全部、琴音ちゃんが言っていた。琴音ちゃんというのはママの妹で、遠くに住んでいるけれど、リコンが終わった後は葵のお家に何日か泊まりに来た。その時に、ないしょにする約束で教えてくれた。
　葵は子供だからシツレンも唐辛子もわからない。
　好きが嫌いになることも、わからない。
　葵は、ママが好きだ。嫌いになったりしない。絶対に。でも、ママは大人だから、葵のことを嫌いになるかもしれない。やさしくない子は、ママに嫌われる。やさしい子にならないといけない。
　もう一緒のお家にはいないけれど、葵はパパも好きだ。パパは、普通の人より頭がいい。だから、普通のお仕事じゃなくて、もっと偉くて難しい仕事をしないといけない。偉い仕事はなかなかないから、賢いパパはお家にいる。パパが言っていた。
　パパは、本を読んでくれたり、お話をしてくれたりする。わからないことがあるのは、葵の頭が悪いからだ。パパは、すごい。
　賢いパパは、よく考え事をする。目をつぶって、難しいことを考える。邪魔をしちゃいけない。わかっているのに、葵は時々邪魔をしてしまう。
　塗り絵を乱暴にめくったり、牛乳の入ったコップを倒したり、くしゃみをしたり、してしまう。悪いことだ。
　賢いパパが怒るのは、葵が悪いことをするからだ。
「ごめんなさい」葵は言う。
ごめんなさいが足りないのは、葵がやさしくない子だからだ。ママが言っていた。葵がやさしい子なら、パパの邪魔をしたりしない。
　パパの大事なタバコで、葵のお腹にまるをつける。
　おへそを真ん中にして、まるがいっぱい。
　葵のお腹は、水玉。
　葵はお腹に力を入れる。声を出したり、泣いたりしたらいけない。まるをつけるパパの邪魔をしたら、いけない。
　けれど、本当は、泣いたことがある。
　まるをつけてもらっている時に、ママと目が合って、そしたら涙が出た。葵が泣くと、ママが悲しむ。泣かない。泣かない。目をつぶる。目をつぶれば、涙は出てこない。
　パパがいなくなったから、葵のお腹の水玉は、ずっと同じ水玉。ママは、まるをつけない。タバコはパパの大事なものだから、ママは触らない。
「草間彌生が？　優しい？」
トーコ先生が、葵の顔を覗き込む。
「なんでもない」葵は首を振る。
水玉は、やさしくない子のしるしだ。葵のお腹にあることは、ママとパパと葵だけのひみつだ。やさしくない子のしるしを誰かに見せたりしない。
　くさまやよいも、葵と同じ、やさしくない子だった。
　お腹の真ん中が膨らんいる。ふつふつとしている。葵の今の気持ち。やさしくない子でも、すごい人になれる。天才になれる。

　夜ごはんは、ハンバーグだった。ママのケチャップは、ハートの形だ。両手をそろえて、いただきますをする。手は、ちゃんと石鹸で洗った。
　葵は、ズボンのポケットに左手を入れる。小さな紙を一枚、取り出す。赤に水色の水玉模様。トーコ先生のメモ帳の表紙の部分。大事にしてね。そう言って、葵にくれた。
　やさしくない子でも、すごい人になれる。葵は、やさしい子になる。やさしい子になったら、もっとすごい人になれる。
「ママ」
くさまやよいの話をママにする。葵は、左手をテーブルの上に出す。ひじが、牛乳の入ったコップに当たった。コッ。小さな音が響く。テーブルの上と床に、真っ白な牛乳が広がっていく。
「ごめんなさい」
ママにくさまやよいを見せたかった。
「ごめんなさい」
やさしい子になるって言いたかった。
　ママが、葵をみる。ママの息を吐く音がする。
「ごめんなさい」
「葵は、やさしくない子だもんね。わからないよね」ママが言う。
ママが立ち上がる。台所から布巾を持ってくる。白い牛乳の広がるテーブルと床を拭く。葵は椅子から、立ち上がる。
「ごめんなさい」
ママは、何も言わない。背中を向ける。スリッパが床を鳴らす。水道の水が流れる音がする。ママが戻って来る。ママの手に、小さな箱が握られている。
「あっ」と思った。
二回、思った。葵は、葵の立っている足元を見る。水たまり。泣きそうになる。お腹に力を入れる。歯を食いしばる。一回目の「あっ」で、葵はおしっこをした。
　ごめんなさい。口の中で歯が震える。声が出ない。歯が、ぶつかる。ごめんなさい。ごめんなさい。やさしくない子で、ごめんなさい。
「葵」ママが言う。
葵には、わからないよね。ママを悲しませるんだよね。やさしくない子だもんね。わからないよね。
　ごめんなさい。
　葵の左手から、くさまやよいが落ちる。おしっこのなかに、水玉が浮いている。
　ママの手が、動いている。
　やさしくない子のしるし。
　新しい葵の水玉が、いま、生まれている。