窓枠に雪が積もり始めると、細かい粉雪から綿を千切った様な雪に変わっているのに気が付いた。 昨日の朝から降り積もった上にこの牡丹雪では、これから先かなり積もるだろう。 買い出しの時、沢山食料を仕入れてきて良かった。 また数日間は雪に閉じ込められる事になりそうだ。
そろそろストーブに薪を追加しよう。 空はそれ程暗くはないけれど、気温が上がる気配はない。
外の雪を眺めながら、あまり積もらないうちに外へ薪を取りに行こうかと考えていた時、二重扉の外側の方が開いた。 小さい影が入ってきて、そこで肩に乗った雪を払い落している。
ストーブの近くに置いた籠の中で眠っていた老犬が、来客に気付いて目を覚まし、鼻をひくひくと動かした。
私は内側の扉を開けて、その小さな影を迎え入れた。
「いらっしゃい。 今日は来ないかと思っていましたよ」
「でも、家にいても詰まらないから」
「そう。 お弁当持ってきました？」
「はい」
黒いダッフルコートを脱ぐと、出入り口のすぐ側にあるコート掛けに背伸びして掛けた。 足元はやはり黒い長靴。 それも脱いで、冬休みが始まった数日前から置いてある、専用のボア付きスリッパに履き替えた。 彼の姿をみてはしゃぐ老犬の元へ行き、少しだけ撫でたり、遊んだりするのが日課になっている。
「宿題は、あとどれくらい残っていますか」
「算数と、漢字の書き取りが少し。 あと書初め」
「書初めは、年が明けたらお家でね。 ここでは駄目ですよ。 墨で汚れてしまうから」
「一年生の書初めは鉛筆書きです、先生」
小学校一年生のわりに小柄だけれど、他の子供より大人びた口調の彼は、いつもの席に着いた。 窓に近い、六人掛けのテーブルを陣取って教科書を広げ始める。 「寒くないですか」と聞くと、リュックサックを隣の席に置きながら「はい」と答えた。 私はストーブに新しい薪をくべて、空気を送る栓を少し開いた。
祖父の故郷である谷間の小さな町には図書館がなかった。
夏休みの宿題を持って、両親のいる東京からこの町に帰ってきた時、その事実を知ってがっかりした事をよく覚えている。 本が好きだったし、涼しくて静かな図書館は、何処よりも勉強と自分の世界に没頭出来る場所だった。
短大在学中に司書の資格を取り、どこかの図書館に勤めるつもりだったが、空きは思ったよりも少なく、空いていても正社員の席を貰える事はなかった。
別の仕事と掛け持ちしながら、ある図書館に非常勤で勤めていたが、両親が亡くなり、たった一人の身内であった祖父も亡くなり、遺品の整理をしている時にふと、この町に図書館を作ろうと思い立った。
それは祖父が残してくれた土地と、大きな蔵と、その中に残っていた沢山の本を見たからだった。
「咲人君、分からない所はないですか」
算数の問題集に噛り付いている彼は顔も上げずに「大丈夫です」と答えた。 正直算数は子供の頃から苦手で、一年生の問題ですら怪しかったので、そう言われてほっとした。
新山咲人は今年の春にふらりとやって来た。 見掛けない子供だったので尋ねてみると、東京から転校してきたという。 それから毎日彼は学校帰りに、私の図書館へやって来て宿題や予習をしたり、本を読んだりして過ごしていた。
珍しく物静かで本ばかり読んでいる子供だと思っていたが、やむを得ない事情があるのだと知ったのは夏休みが始まる頃だった。
彼の家には今母親がいない。 父親が一人で彼を育てている。
「先生、ストーブの上のお水がなくなりそうです」
「あら、本当」
ストーブの上には蓋が割れてしまった大きな土鍋を置いてある。 加湿器代わりに水を入れて、気が向いたらアロマオイルなども垂らしてみる。 彼に喘息の気があると聞いてからはユーカリのオイルを用意するようになった。
「先生、オイルを入れるの、僕にやらせてください」
咲人は勉強の手を止めてストーブに近付いてきた。 学校の様に鉄の囲いは置いていないので、子供でも近寄る事が出来る。
「はい、どうぞ。 １０滴くらい入れてくださいね」
「わかりました」
慣れた手付きでオイルの瓶を振る。 土鍋の中の水に、薄いグリーンの水玉模様が出来た。
「すーっとして良い香り」
彼はオイルの香りが漂ってくるのを確認すると、テーブルへ戻っていった。 勉強に集中しているはずなのに、彼はよく土鍋の水が少なくなっている事に気付く。 そしてアロマオイルを入れる時は、必ずそれをやりたがった。
私は彼が鉛筆を持って、再び計算に没頭しているのを確認してから、自分の席に戻った。 昨日届いた新しい本に番号を振って、貸出カードを付ける作業の途中だった事を思い出した。
祖父の本は全部で五千冊ほどあった。 そこに自分で持っていた二千冊と、寄付や古本などを加えて一万冊に少し満たないまで集めた。 それを五年かけて徐々に増やし、今では五万冊に届きそうだ。
同じ本は二冊ない。 なので、子供達が学校の読書感想文を書くために本を選ぶ時、重ならない様に上手くアドバイスするのも私の仕事だ。
子供の数は少ないとは言え、月日が流れてもある一定数は存在する。 町を出て高校へ進学するまでは、この図書館で彼らに読書の機会を持って欲しいと思っていた。
だが、咲人の様に毎日ここへ通ってくる子供はほとんどいない。
何故なら彼らの親達が、私の存在を良く思っていないからだ。
ストーブの中で薪がパチンと音を立てる。 その音が咲人の勉強の邪魔をしていないか、私は気を付けて見ていた。 彼が集中力を欠くことは少なかったが、今は勉強の手を止めて、ぼんやりと本棚の上の小さなクリスマスツリーを眺めていた。
時折、こんなことがある。 感情の起伏が少ない様に見えても、彼はまだ七歳だ。 母親が恋しいのは当たり前だと思う。
家事をどうしているのか、とか、母親とは今でも会っているのか、気になっている事は私の中に少なからずあった。 咲人に聞けば、多分答えてくれるだろう。 そうだとしても、年端も行かない彼に家庭内の事情を言わせるのは、何となく気が引けた。
現に私はただの図書館司書で、彼の担任でも、スクールカウンセラーでもないのだ。
咲人がぼんやりしているのを、同じ様に私もぼんやりと眺めていると、出入り口の扉が勢いよく開いた。 不意打ちに飛び込んできたのは、咲人のクラスメイトで、この町で育った夏川志麻という女の子だった。
「志麻ちゃん、いらっしゃい。 よく来たね」
「宿題が終わったら、暇になっちゃったから」
志麻は元気に答えると、迷いもなく咲人の向かいの席に座り、すぐに弁当を開き始めた。
「早く食べようよ。 もう十二時になるよ」
そう言って呆気に取られている咲人と私を尻目に、大きなお結びに齧り付いた。
志麻は比較的よく図書館にやってくる。 目当ては本ではなく咲人の様だが、やはり親に止められていて毎日は来られないらしい。 だが、小さな温泉旅館を営んでいる彼女の両親は常に忙しく、兄弟もいないので彼女の面倒を見る人がいない。 口では「行くな」と言われている様だが、曲がりなりにも大人のいる所で遊んでいるという事に、彼らは少なからず安心しているらしく、その証拠に、こっそりと娘に手土産を持たせる事があった。
私はその無言の好意と、限りなく薄い信頼を、ありがたく受け取りつつも、どこかで信用しきれずにいた。
「志麻ちゃんは、もう宿題は終わった？」
二人にお茶を煎れてやり、自分も母屋から持ってきた簡単な弁当を開いた。 志麻はそれを、図書館ピクニックと呼んで面白がっていた。
「あと少し残っているけど… お母さんがお正月までの終わらせなさいって」
「そう、偉いね」
彼女が両親の言い付けを守るのは、この図書館に来るためだった。 言い付けを守れば、親の態度が軟化するのを良く知っていた。
「先生、書初めに書く課題を一緒に探して」
「どんなのが良いの？」
志麻は少し考えてから「きれいな言葉」とだけ答えた。
この土地の言葉は訛りがあって少し乱暴だ。 彼女は咲人が話す訛りのない標準語に憧れているのか、私と彼の会話に聞き入っている事がよくあった。 最初は知らない言葉に初めて触れた時の様に、澄んだ目を丸くして唇の形を追い、それから徐々に、音楽を聴く様に目を閉じて自分の中に取り込もうとしていた。
自然と彼女の訛りは抜けて来ている。
「この詩集はどうかしら」
私は最近蔵書に加えた、八木重吉の詩集を手渡した。 彼女はそれをぱらぱらと捲り、一つの詩を選び出した。
「これが良いけど、ちょっと長いかも。 途中まででも良いかな」
「そうね、良いと思う。 じゃあ、咲人君がこの続きの詩を書いたらどう？」
私が提案すると、彼は眉を顰めて首を横に振った。 それを見た志麻が悲しそうな顔をする。
「女の子と一緒にやると、からかわれるから」
そう言われて私は軽い気持ちで言ってしまった事を悔いた。 この位の年の子供達は、そういう話に敏感だ。 女の子の事でからかわれる恥ずかしさは、苦痛でしかないのだろう。
「言わなければ分からないよ」
「もう書くのは決めているから」
志麻は食い下がったが、咲人は頷かなかった。 私はしょんぼりする志麻の隣に座って詩集を広げ、彼女が持ってきたノートに、平仮名で詩を写そうとした。
「やっぱりこっちにする」
志麻は少し長い詩の代わりに、二行だけの短い詩を指差した。
私は彼女にも悪い事をしたと反省した。
暗くなる前に二人を帰すと、図書館の中はがらんとする。 遅い時間にやって来る大人もいるにはいるが、いつも同じ顔ぶれだ。
目を覚まして伸びをしている老犬を抱いて、私は少しだけ図書館の外へ出る事にした。 肩に掛けた厚手のストールで自分と犬を包む。 老犬は大人しく私に抱かれたまま、ぺろりと自分の鼻を舐めた。
扉を開けると冷たい空気が顔に当たる。 薄暗くなってきた空からは絶え間なく雪が降り続いていた。
図書館の周りを一周する。 老犬が途中、もぞもぞと落ち着かない素振りを見せたので足元に下ろしたが、数メートル歩いただけですぐに戻ってきた。
この老犬は名前を小鈴と言って、敷地や建物と一緒に祖父から譲り受けた。 小型でポメラニアンに似ているが雑種だという。 もとから大人しい性格の様で子供にも悪さをしないので、安心して図書館に置いておけるが、最近は年のせいか寝てばかりいる。 そろそろお迎えが近いのかも知れない。
小鈴がいなくなったら、私は本当の涯孤独になる。 人や仕事の関わりから逃れて、図書館の番をしているだけの今は、彼女の存在だけが、私と現実を繋ぎ止めている気がしていた。
次の日、咲人は図書館へやってくるなり、ストーブの前に立って、鼻をすん、と鳴らした。 私はその様子を見て「良い匂いでしょう」と言った。
「甘い匂いがします」
「今日の薪は、葡萄の木なのよ」
秋の終わり、葡萄の収穫が終わる頃、隣町の葡萄畑で間引いた枝を分けて貰ったのだ。 乾燥させた薪をストーブに入れると、その果実を思わせる甘い香りが図書館に漂った。
咲人は満足そうに頷き、横で眠っている小鈴の頭を一撫ですると、またいつもの席へと歩いて行った。 そして「先生、葡萄の木の事が載っている本はありますか」と聞いた。
私が紹介した葡萄の本を夢中になって読んでいると、いつの間にか時間が過ぎていた。 この時期は日が傾き始めたと思ったらすぐに暗くなってしまう。 本から顔を上げて時計を見ると、いつもの帰宅時間を大幅に過ぎているのに気が付いた。
「咲人君、もう五時過ぎましたよ。 そろそろ帰らないと」
そう言うと、珍しく彼は目を泳がせて戸惑う仕草をした。 いつもならはっきりと言いたい事を言うのだが、そのもじもじした様子が彼を年相応の男の子に見せた。
「今日は寿子さんがお休みで、代わりに大叔母さんが来ていて…」
寿子さんというのは、彼の家に通ってくる家政婦の名前だ。 掃除や洗濯を任せ、咲人の弁当を作っているのも彼女だという事は、咲人から聞いていた。
「そうなの。 じゃあ尚更早く帰らないと」
「はい、でも僕、大叔母さんがあんまり好きじゃなくて」
咲人はその先を歯切れ悪く言い淀む。 つまり、それが帰りたくない理由の様だった。
家政婦の寿子さんにはよく懐いているらしい彼は、特に年配の女性が苦手という訳ではないと思う。 その「大叔母さん」だけが、彼に敬遠される特別な理由を持っているのだろうか。
「大叔母さんはいつまでいらっしゃるの」
「明日までです。 お父さんが出張から帰ってくるまで」
「そう」
出来れば父親が帰ってくるまで、ここで待たせてやりたいが、身内がいるのにも関わらず、あまり評判の良くない私の所に一晩泊めるのは良くない気がした。
少しでも彼の気が紛れる様に、私は一つ提案をしてみた。
「咲人君、もう暗いから先生が小鈴と一緒に、お家まで送って行こうか」
それを聞くと咲人の顔が幾分明るくなった。
だが彼が頷こうとした時、出入り口の扉が開き、着膨れた年配の女性が入ってきた。
「大叔母さん」
咲人が呟いて気まずそうに私を見た。 私は彼がそう呟く前に、彼女が誰だか分かっていた。 地元の人達とは違う、スカートにショートブーツという、雪とは縁遠い人の格好だった。
「咲人さん、なかなか帰って来ないから、迎えに来ましたよ」
彼女はコートに着いた雪を払い落しながら言った。 そこで雪を落とされると、足元に水が溜まってしまうのに、と思いながらも、何も言わない訳には行かず、こちらから名乗って挨拶をした。
「図書館司書の沢谷と申します。 初めまして」
丁寧にお辞儀をしたつもりだったが、彼女からの挨拶はなかった。 その代わりに私の頭から足の先までをしげしげと見まわした。
「あら、こんな寂れた町の図書館にいるなんて、もっと年の行った人かと思ったのに」
そう言いながら靴も脱がずに、ずかずかと上がってきた。
「これは良くないわ」
独り言の様に呟くと、咲人の手を引っ張り「もうここへ来ては駄目よ。 勉強するならお家でしなさい」と言った。
「大叔母さん、ここは土足で上がっちゃ駄目だよ」
咲人は控えめに彼女の手を振り払うと、眉を顰めて言った。 何となく、彼が何故この大叔母を「好きじゃない」と行ったのか、分かった様な気がした。
「良いのよ、すぐ帰るから。 それにね」
「大叔母さん」は私を横目で見ながら「あなたのお父さんには、もっと若くて、良い家柄のお嬢さんを紹介しようと思っているのよ」と、付け加えた。
何故私を見ながらそんな話をするのだろうと不思議に思ったが、どうやら彼女は私の事を誤解している様だった。 咲人を手懐けて、彼の父親の後妻にでも納まろうとしている女だと思われたのだろう。
その誤解を解くべきか迷ったが、一目見ただけで、初対面の人間を勝手に値踏みして勘違いする人に、どう説明しても分かってもらえる自信はなかった。
「さ、帰りましょう」
咲人は急かされて仕方なく身支度を整え、出入り口で靴を履き替えた。 スリッパは鞄に入れず、いつもの様に下駄箱へ戻した。 私はそれを見て、咲人を呼び止め目線が合う位置まで屈んで言った。
「咲人君、あなたがまた来たいと思ったら、また来て良いからね」
咲人は何も言わなかったが、私の目を見て、一回深く頷いた。 彼の後ろでそれを見ていた「大叔母さん」は、ふんと鼻を鳴らし、咲人を引き摺るようにして出て行った。
彼らが見えなくなってから、私は一つため息を吐いた。 足元を見ると、点々と泥混じりの水がカーペットに沁みこんでいる。
奥にある物入れからバケツとブラシを出し「大叔母さん」が残していった足跡を擦り落とした。
想像力が豊かなのは大いに結構だが、事実と証明されていない事は、自分の胸の中に仕舞っておいて欲しい。 噂話もそうだ。
これで咲人が来なくなれば、図書館は淋しくなるだろう。 「また来て良い」とは言ったものの、彼の身内に「逆らえ」とは言えない。
明日は日曜日で、図書館も休みとなる。
私は自分の気持ちが沈みきってしまうのを避けるために、明日も図書館で仕事をしようと決めた。
月曜日は天候が回復し、久々の晴れ間が覗いた。
屋根の雪が解けて、滴が水溜りに落ちる音を聞きながら図書館を開けると、間もなく咲人が背の高い男性と連れ立ってやって来た。
「おはようございます」
いつもの様に内側の扉を開けて待っていると、まず咲人が入ってきて「おはようございます」と元気に挨拶をした。
私は咲人が来たことに、少なからずほっとしていた。
そして男性の方が恐る恐る入ってくる。
「お父さん、早く」
それを聞いて、私は「ああ、この人が」と思った。
物珍しそうに図書館の入り口を見回している父親を、咲人がコートの袖を引っ張って促す。 私は咲人が何故か父親を連れて来た事に、緊張し始めていた。
「おはようございます。 新山と申します。 息子がいつもお世話になっています」
「いえ、とんでもありません。 司書の沢谷と申します」
新山は深く頭を下げた。 そしてジャケットの内側から取り出した名刺までを差し出した。 肩書は、有名出版社の校正担当と書いてあった。
「あの、先日私の叔母が先生に失礼な事を申し上げたと、息子から聞きまして」
私はそれを聞いて、ああ、あの事かと思った。
「申し訳ない事をしました。 何かとんでもない勘違いをしていた様で」
「いいえ。 大丈夫ですよ。 そうじゃないかと思っていたので」
私が答えると、新山は恐縮して益々深く頭を下げた。 それを見て私の緊張は徐々に緩んでいった。
改めて新山を良く見ると、咲人の父親にしては、少し年を取っている様な気がした。 この辺りは早婚が多く、これでは参観日に他の父親と並んだら目立つだろう。
「新山さんのご出身はこの辺りなんですか」
「両親の郷里がこの町で、私自身は東京で育ちました」
「そうでしたか。 こちらから出版社にご通勤ですか」
「今は無理を言って、ほとんど自宅で仕事をしています。 でも、月に何度かは社に出向かないとなりませんで、家政婦さんが来られない時は叔母に来てもらっているのですが」
「大変ですね」
咲人は大人の話には入って来ず、いつもの様に長靴をスリッパに履き替えると定位置の席に着いた。 今日は鞄からノートを取り出すとすぐに立ち上がり、本棚の奥の方へ何かを探しに行った。
「咲人君、とてもいい子にしていますよ」
「父親としては助かっていますが、聞き分けが良過ぎるのも少し心配でして」
新山は咲人が入って行った奥の本棚の方を見詰めながら、彼の様子を話した。
「ご存じとは思いますが、妻とは去年離婚しまして。 それから暫くしたら、咲人の喘息がすごく悪化してしまったんです。 夜中に発作を起こす様になってしまって、何回か救急病院に駆け込みました」
咲人がここに来てから、大きな発作を起こした事はなかった。 ただ、この図書課に来るまでの道程は上り坂で、少し急いで歩いてきた日は、呼吸に雑音が入る事があった。
喘息の原因は、心因性のものもあると聞く。
「それで転地療養として、こちらに引っ越してきたんです」
「今は元気そうに見えますね」
「はい。 母親がいないことも大きなストレスになっている様ですから、まだ何とも言えないのですが」
新山は精一杯息子と向き合っている様だが、どこか自信なさげに言った。
「でも、こんな良い図書館があって、良かったです。 倅は本が好きなので、とても有り難い」
「ええ、どうぞ沢山利用してください」
「ここに引っ越してくる前から、実はこの図書館の事を存じていました」
その事には、私は然程驚かなかった。 図書館を始めた当初は、何度か取材を受けて雑誌にも載った事があったからだ。 出版社に勤めていれば、それを目にする機会もあったのだろう。
「そうでしたか。 何分小さい図書館なので、お好みの本があると良いのですが」
「そうですね。 ただ本だけは経費で落とせますので、買ってしまう事が多いんです。 それで家中、本だらけです」
新山は下を向いて少し笑った。
「羨ましい限りです」
「あの、もしご迷惑でなければ、読み終わった本をこちらに寄付させて頂きたいのですが」
「それはとても有り難い事です」
「では、時間がある時に、運んできます」
私は即答してしまってから、本のジャンルを聞かなかった事に少し後悔した。 もしビジネス関連や自己啓発の本であったら、ここではあまり需要がなさそうだ。
「それで、もし宜しければ、私が以前編集していた雑誌に、この図書館の事を書きたいのですが」
新山は遠慮がちに申し出た。 彼の本題は、叔母の事でも本の寄付の事でもなく、この事だったのかも知れない。
「それは、構いませんが」
ごく僅かだが、以前も雑誌を見てこの図書館を見学に来た人がいた。 首都圏からやってくる人が殆どだったので、彼らは必ず町の宿に一泊する。 温泉が少し出るというだけで、他に観光産業もない町が少しでも潤うなら、という気持ちだった。
「実は、私の同僚がこの図書館を取材すると言っていたのですが、その直後に亡くなってしまって。 ずっと気になっていたのです」
「同僚の、方ですか」
心臓が跳ねる。 期待なのか、恐れなのか、何か複雑な予感が走った。
「はい、もしかしたらご連絡くらいは差し上げていたかも知れませんので、ご存じかと。 片桐という編集者です」
私はそれを聞いて、遠い記憶の中に引き込まれていく様な感覚に陥った。
図書館を開いてから暫く経った頃、東京から訪ねてくる人があった。 三十歳前後の女性で、子供を一人連れて来ていた。
彼女は、ある人を探していると言った。 その探し人は、私がこの町に越してくるまで、付き合っていた男性だった。
詳しい話を聞いてみると、その男性は私と別れた後にその女性と結婚し、子供を授かったが、一か月程前から突然行方不明になっているという。 最後の足取りが確認できたのがこの町の最寄駅だった。 そこで彼女は、いつか男性が話していた故郷に図書館を建てたという女を思い出したのだと打ち明けた。
その男性には、東京で別れて以来一度も会ってはいない。 手紙やメールのやり取りもなく、お互いの消息を確認する事はなかった。
ただ、その「図書館を建てた女」というのは、多分私の事を言っていたのだろうと思い、知らない振りも出来ず、彼女に協力することにした。
自宅の一室を提供して彼女たちを泊め、地元の警察にも届け出たし、町の人にも聞いて回ったが、待っていたのは悲しい最後だった。
彼は町の西側にある山の中腹で、遺体となって発見された。
遺体の足元にあった荷物の中から、彼の免許証と遺書めいたものが見付かり、揃えられた革靴からは、彼の意志が読み取れた。
警察では私も色々と事情を聞かれた。 早々に解放されはしたが、妻であった女性は私に何も言わず、逃げるように帰って行った。 私が警察署にいる間に、出て行ってしまったらしい。
そして、彼女は大きな置き土産を残していった。
男性の死に、私が関与していると、町の人に話していたのだった。
彼の死に私が関わっていないのは、警察の捜査で証明されていたはずだったが、捜査が終わるまでの短い間に、町の人達との間に大きな溝が出来ていた。
尾ひれを付けた噂は、たちまち町中に広まり、彼を探していたのが小さい子供を連れた妻であったという事実が町の人の同情を誘い、そして想像力を駆り立て、私を悪女に仕立て上げた様だった。
彼らは今でも私を真綿で締め付けるように監視し、また何か起こさないかと期待しているのだ。
そろそろストーブに薪を追加しよう。 空はそれ程暗くはないけれど、気温が上がる気配はない。
外の雪を眺めながら、あまり積もらないうちに外へ薪を取りに行こうかと考えていた時、二重扉の外側の方が開いた。 小さい影が入ってきて、そこで肩に乗った雪を払い落している。
ストーブの近くに置いた籠の中で眠っていた老犬が、来客に気付いて目を覚まし、鼻をひくひくと動かした。
私は内側の扉を開けて、その小さな影を迎え入れた。
「いらっしゃい。 今日は来ないかと思っていましたよ」
「でも、家にいても詰まらないから」
「そう。 お弁当持ってきました？」
「はい」
黒いダッフルコートを脱ぐと、出入り口のすぐ側にあるコート掛けに背伸びして掛けた。 足元はやはり黒い長靴。 それも脱いで、冬休みが始まった数日前から置いてある、専用のボア付きスリッパに履き替えた。 彼の姿をみてはしゃぐ老犬の元へ行き、少しだけ撫でたり、遊んだりするのが日課になっている。
「宿題は、あとどれくらい残っていますか」
「算数と、漢字の書き取りが少し。 あと書初め」
「書初めは、年が明けたらお家でね。 ここでは駄目ですよ。 墨で汚れてしまうから」
「一年生の書初めは鉛筆書きです、先生」
小学校一年生のわりに小柄だけれど、他の子供より大人びた口調の彼は、いつもの席に着いた。 窓に近い、六人掛けのテーブルを陣取って教科書を広げ始める。 「寒くないですか」と聞くと、リュックサックを隣の席に置きながら「はい」と答えた。 私はストーブに新しい薪をくべて、空気を送る栓を少し開いた。
祖父の故郷である谷間の小さな町には図書館がなかった。
夏休みの宿題を持って、両親のいる東京からこの町に帰ってきた時、その事実を知ってがっかりした事をよく覚えている。 本が好きだったし、涼しくて静かな図書館は、何処よりも勉強と自分の世界に没頭出来る場所だった。
短大在学中に司書の資格を取り、どこかの図書館に勤めるつもりだったが、空きは思ったよりも少なく、空いていても正社員の席を貰える事はなかった。
別の仕事と掛け持ちしながら、ある図書館に非常勤で勤めていたが、両親が亡くなり、たった一人の身内であった祖父も亡くなり、遺品の整理をしている時にふと、この町に図書館を作ろうと思い立った。
それは祖父が残してくれた土地と、大きな蔵と、その中に残っていた沢山の本を見たからだった。
「咲人君、分からない所はないですか」
算数の問題集に噛り付いている彼は顔も上げずに「大丈夫です」と答えた。 正直算数は子供の頃から苦手で、一年生の問題ですら怪しかったので、そう言われてほっとした。
新山咲人は今年の春にふらりとやって来た。 見掛けない子供だったので尋ねてみると、東京から転校してきたという。 それから毎日彼は学校帰りに、私の図書館へやって来て宿題や予習をしたり、本を読んだりして過ごしていた。
珍しく物静かで本ばかり読んでいる子供だと思っていたが、やむを得ない事情があるのだと知ったのは夏休みが始まる頃だった。
彼の家には今母親がいない。 父親が一人で彼を育てている。
「先生、ストーブの上のお水がなくなりそうです」
「あら、本当」
ストーブの上には蓋が割れてしまった大きな土鍋を置いてある。 加湿器代わりに水を入れて、気が向いたらアロマオイルなども垂らしてみる。 彼に喘息の気があると聞いてからはユーカリのオイルを用意するようになった。
「先生、オイルを入れるの、僕にやらせてください」
咲人は勉強の手を止めてストーブに近付いてきた。 学校の様に鉄の囲いは置いていないので、子供でも近寄る事が出来る。
「はい、どうぞ。 １０滴くらい入れてくださいね」
「わかりました」
慣れた手付きでオイルの瓶を振る。 土鍋の中の水に、薄いグリーンの水玉模様が出来た。
「すーっとして良い香り」
彼はオイルの香りが漂ってくるのを確認すると、テーブルへ戻っていった。 勉強に集中しているはずなのに、彼はよく土鍋の水が少なくなっている事に気付く。 そしてアロマオイルを入れる時は、必ずそれをやりたがった。
私は彼が鉛筆を持って、再び計算に没頭しているのを確認してから、自分の席に戻った。 昨日届いた新しい本に番号を振って、貸出カードを付ける作業の途中だった事を思い出した。
祖父の本は全部で五千冊ほどあった。 そこに自分で持っていた二千冊と、寄付や古本などを加えて一万冊に少し満たないまで集めた。 それを五年かけて徐々に増やし、今では五万冊に届きそうだ。
同じ本は二冊ない。 なので、子供達が学校の読書感想文を書くために本を選ぶ時、重ならない様に上手くアドバイスするのも私の仕事だ。
子供の数は少ないとは言え、月日が流れてもある一定数は存在する。 町を出て高校へ進学するまでは、この図書館で彼らに読書の機会を持って欲しいと思っていた。
だが、咲人の様に毎日ここへ通ってくる子供はほとんどいない。
何故なら彼らの親達が、私の存在を良く思っていないからだ。
ストーブの中で薪がパチンと音を立てる。 その音が咲人の勉強の邪魔をしていないか、私は気を付けて見ていた。 彼が集中力を欠くことは少なかったが、今は勉強の手を止めて、ぼんやりと本棚の上の小さなクリスマスツリーを眺めていた。
時折、こんなことがある。 感情の起伏が少ない様に見えても、彼はまだ七歳だ。 母親が恋しいのは当たり前だと思う。
家事をどうしているのか、とか、母親とは今でも会っているのか、気になっている事は私の中に少なからずあった。 咲人に聞けば、多分答えてくれるだろう。 そうだとしても、年端も行かない彼に家庭内の事情を言わせるのは、何となく気が引けた。
現に私はただの図書館司書で、彼の担任でも、スクールカウンセラーでもないのだ。
咲人がぼんやりしているのを、同じ様に私もぼんやりと眺めていると、出入り口の扉が勢いよく開いた。 不意打ちに飛び込んできたのは、咲人のクラスメイトで、この町で育った夏川志麻という女の子だった。
「志麻ちゃん、いらっしゃい。 よく来たね」
「宿題が終わったら、暇になっちゃったから」
志麻は元気に答えると、迷いもなく咲人の向かいの席に座り、すぐに弁当を開き始めた。
「早く食べようよ。 もう十二時になるよ」
そう言って呆気に取られている咲人と私を尻目に、大きなお結びに齧り付いた。
志麻は比較的よく図書館にやってくる。 目当ては本ではなく咲人の様だが、やはり親に止められていて毎日は来られないらしい。 だが、小さな温泉旅館を営んでいる彼女の両親は常に忙しく、兄弟もいないので彼女の面倒を見る人がいない。 口では「行くな」と言われている様だが、曲がりなりにも大人のいる所で遊んでいるという事に、彼らは少なからず安心しているらしく、その証拠に、こっそりと娘に手土産を持たせる事があった。
私はその無言の好意と、限りなく薄い信頼を、ありがたく受け取りつつも、どこかで信用しきれずにいた。
「志麻ちゃんは、もう宿題は終わった？」
二人にお茶を煎れてやり、自分も母屋から持ってきた簡単な弁当を開いた。 志麻はそれを、図書館ピクニックと呼んで面白がっていた。
「あと少し残っているけど… お母さんがお正月までの終わらせなさいって」
「そう、偉いね」
彼女が両親の言い付けを守るのは、この図書館に来るためだった。 言い付けを守れば、親の態度が軟化するのを良く知っていた。
「先生、書初めに書く課題を一緒に探して」
「どんなのが良いの？」
志麻は少し考えてから「きれいな言葉」とだけ答えた。
この土地の言葉は訛りがあって少し乱暴だ。 彼女は咲人が話す訛りのない標準語に憧れているのか、私と彼の会話に聞き入っている事がよくあった。 最初は知らない言葉に初めて触れた時の様に、澄んだ目を丸くして唇の形を追い、それから徐々に、音楽を聴く様に目を閉じて自分の中に取り込もうとしていた。
自然と彼女の訛りは抜けて来ている。
「この詩集はどうかしら」
私は最近蔵書に加えた、八木重吉の詩集を手渡した。 彼女はそれをぱらぱらと捲り、一つの詩を選び出した。
「これが良いけど、ちょっと長いかも。 途中まででも良いかな」
「そうね、良いと思う。 じゃあ、咲人君がこの続きの詩を書いたらどう？」
私が提案すると、彼は眉を顰めて首を横に振った。 それを見た志麻が悲しそうな顔をする。
「女の子と一緒にやると、からかわれるから」
そう言われて私は軽い気持ちで言ってしまった事を悔いた。 この位の年の子供達は、そういう話に敏感だ。 女の子の事でからかわれる恥ずかしさは、苦痛でしかないのだろう。
「言わなければ分からないよ」
「もう書くのは決めているから」
志麻は食い下がったが、咲人は頷かなかった。 私はしょんぼりする志麻の隣に座って詩集を広げ、彼女が持ってきたノートに、平仮名で詩を写そうとした。
「やっぱりこっちにする」
志麻は少し長い詩の代わりに、二行だけの短い詩を指差した。
私は彼女にも悪い事をしたと反省した。
暗くなる前に二人を帰すと、図書館の中はがらんとする。 遅い時間にやって来る大人もいるにはいるが、いつも同じ顔ぶれだ。
目を覚まして伸びをしている老犬を抱いて、私は少しだけ図書館の外へ出る事にした。 肩に掛けた厚手のストールで自分と犬を包む。 老犬は大人しく私に抱かれたまま、ぺろりと自分の鼻を舐めた。
扉を開けると冷たい空気が顔に当たる。 薄暗くなってきた空からは絶え間なく雪が降り続いていた。
図書館の周りを一周する。 老犬が途中、もぞもぞと落ち着かない素振りを見せたので足元に下ろしたが、数メートル歩いただけですぐに戻ってきた。
この老犬は名前を小鈴と言って、敷地や建物と一緒に祖父から譲り受けた。 小型でポメラニアンに似ているが雑種だという。 もとから大人しい性格の様で子供にも悪さをしないので、安心して図書館に置いておけるが、最近は年のせいか寝てばかりいる。 そろそろお迎えが近いのかも知れない。
小鈴がいなくなったら、私は本当の涯孤独になる。 人や仕事の関わりから逃れて、図書館の番をしているだけの今は、彼女の存在だけが、私と現実を繋ぎ止めている気がしていた。
次の日、咲人は図書館へやってくるなり、ストーブの前に立って、鼻をすん、と鳴らした。 私はその様子を見て「良い匂いでしょう」と言った。
「甘い匂いがします」
「今日の薪は、葡萄の木なのよ」
秋の終わり、葡萄の収穫が終わる頃、隣町の葡萄畑で間引いた枝を分けて貰ったのだ。 乾燥させた薪をストーブに入れると、その果実を思わせる甘い香りが図書館に漂った。
咲人は満足そうに頷き、横で眠っている小鈴の頭を一撫ですると、またいつもの席へと歩いて行った。 そして「先生、葡萄の木の事が載っている本はありますか」と聞いた。
私が紹介した葡萄の本を夢中になって読んでいると、いつの間にか時間が過ぎていた。 この時期は日が傾き始めたと思ったらすぐに暗くなってしまう。 本から顔を上げて時計を見ると、いつもの帰宅時間を大幅に過ぎているのに気が付いた。
「咲人君、もう五時過ぎましたよ。 そろそろ帰らないと」
そう言うと、珍しく彼は目を泳がせて戸惑う仕草をした。 いつもならはっきりと言いたい事を言うのだが、そのもじもじした様子が彼を年相応の男の子に見せた。
「今日は寿子さんがお休みで、代わりに大叔母さんが来ていて…」
寿子さんというのは、彼の家に通ってくる家政婦の名前だ。 掃除や洗濯を任せ、咲人の弁当を作っているのも彼女だという事は、咲人から聞いていた。
「そうなの。 じゃあ尚更早く帰らないと」
「はい、でも僕、大叔母さんがあんまり好きじゃなくて」
咲人はその先を歯切れ悪く言い淀む。 つまり、それが帰りたくない理由の様だった。
家政婦の寿子さんにはよく懐いているらしい彼は、特に年配の女性が苦手という訳ではないと思う。 その「大叔母さん」だけが、彼に敬遠される特別な理由を持っているのだろうか。
「大叔母さんはいつまでいらっしゃるの」
「明日までです。 お父さんが出張から帰ってくるまで」
「そう」
出来れば父親が帰ってくるまで、ここで待たせてやりたいが、身内がいるのにも関わらず、あまり評判の良くない私の所に一晩泊めるのは良くない気がした。
少しでも彼の気が紛れる様に、私は一つ提案をしてみた。
「咲人君、もう暗いから先生が小鈴と一緒に、お家まで送って行こうか」
それを聞くと咲人の顔が幾分明るくなった。
だが彼が頷こうとした時、出入り口の扉が開き、着膨れた年配の女性が入ってきた。
「大叔母さん」
咲人が呟いて気まずそうに私を見た。 私は彼がそう呟く前に、彼女が誰だか分かっていた。 地元の人達とは違う、スカートにショートブーツという、雪とは縁遠い人の格好だった。
「咲人さん、なかなか帰って来ないから、迎えに来ましたよ」
彼女はコートに着いた雪を払い落しながら言った。 そこで雪を落とされると、足元に水が溜まってしまうのに、と思いながらも、何も言わない訳には行かず、こちらから名乗って挨拶をした。
「図書館司書の沢谷と申します。 初めまして」
丁寧にお辞儀をしたつもりだったが、彼女からの挨拶はなかった。 その代わりに私の頭から足の先までをしげしげと見まわした。
「あら、こんな寂れた町の図書館にいるなんて、もっと年の行った人かと思ったのに」
そう言いながら靴も脱がずに、ずかずかと上がってきた。
「これは良くないわ」
独り言の様に呟くと、咲人の手を引っ張り「もうここへ来ては駄目よ。 勉強するならお家でしなさい」と言った。
「大叔母さん、ここは土足で上がっちゃ駄目だよ」
咲人は控えめに彼女の手を振り払うと、眉を顰めて言った。 何となく、彼が何故この大叔母を「好きじゃない」と行ったのか、分かった様な気がした。
「良いのよ、すぐ帰るから。 それにね」
「大叔母さん」は私を横目で見ながら「あなたのお父さんには、もっと若くて、良い家柄のお嬢さんを紹介しようと思っているのよ」と、付け加えた。
何故私を見ながらそんな話をするのだろうと不思議に思ったが、どうやら彼女は私の事を誤解している様だった。 咲人を手懐けて、彼の父親の後妻にでも納まろうとしている女だと思われたのだろう。
その誤解を解くべきか迷ったが、一目見ただけで、初対面の人間を勝手に値踏みして勘違いする人に、どう説明しても分かってもらえる自信はなかった。
「さ、帰りましょう」
咲人は急かされて仕方なく身支度を整え、出入り口で靴を履き替えた。 スリッパは鞄に入れず、いつもの様に下駄箱へ戻した。 私はそれを見て、咲人を呼び止め目線が合う位置まで屈んで言った。
「咲人君、あなたがまた来たいと思ったら、また来て良いからね」
咲人は何も言わなかったが、私の目を見て、一回深く頷いた。 彼の後ろでそれを見ていた「大叔母さん」は、ふんと鼻を鳴らし、咲人を引き摺るようにして出て行った。
彼らが見えなくなってから、私は一つため息を吐いた。 足元を見ると、点々と泥混じりの水がカーペットに沁みこんでいる。
奥にある物入れからバケツとブラシを出し「大叔母さん」が残していった足跡を擦り落とした。
想像力が豊かなのは大いに結構だが、事実と証明されていない事は、自分の胸の中に仕舞っておいて欲しい。 噂話もそうだ。
これで咲人が来なくなれば、図書館は淋しくなるだろう。 「また来て良い」とは言ったものの、彼の身内に「逆らえ」とは言えない。
明日は日曜日で、図書館も休みとなる。
私は自分の気持ちが沈みきってしまうのを避けるために、明日も図書館で仕事をしようと決めた。
月曜日は天候が回復し、久々の晴れ間が覗いた。
屋根の雪が解けて、滴が水溜りに落ちる音を聞きながら図書館を開けると、間もなく咲人が背の高い男性と連れ立ってやって来た。
「おはようございます」
いつもの様に内側の扉を開けて待っていると、まず咲人が入ってきて「おはようございます」と元気に挨拶をした。
私は咲人が来たことに、少なからずほっとしていた。
そして男性の方が恐る恐る入ってくる。
「お父さん、早く」
それを聞いて、私は「ああ、この人が」と思った。
物珍しそうに図書館の入り口を見回している父親を、咲人がコートの袖を引っ張って促す。 私は咲人が何故か父親を連れて来た事に、緊張し始めていた。
「おはようございます。 新山と申します。 息子がいつもお世話になっています」
「いえ、とんでもありません。 司書の沢谷と申します」
新山は深く頭を下げた。 そしてジャケットの内側から取り出した名刺までを差し出した。 肩書は、有名出版社の校正担当と書いてあった。
「あの、先日私の叔母が先生に失礼な事を申し上げたと、息子から聞きまして」
私はそれを聞いて、ああ、あの事かと思った。
「申し訳ない事をしました。 何かとんでもない勘違いをしていた様で」
「いいえ。 大丈夫ですよ。 そうじゃないかと思っていたので」
私が答えると、新山は恐縮して益々深く頭を下げた。 それを見て私の緊張は徐々に緩んでいった。
改めて新山を良く見ると、咲人の父親にしては、少し年を取っている様な気がした。 この辺りは早婚が多く、これでは参観日に他の父親と並んだら目立つだろう。
「新山さんのご出身はこの辺りなんですか」
「両親の郷里がこの町で、私自身は東京で育ちました」
「そうでしたか。 こちらから出版社にご通勤ですか」
「今は無理を言って、ほとんど自宅で仕事をしています。 でも、月に何度かは社に出向かないとなりませんで、家政婦さんが来られない時は叔母に来てもらっているのですが」
「大変ですね」
咲人は大人の話には入って来ず、いつもの様に長靴をスリッパに履き替えると定位置の席に着いた。 今日は鞄からノートを取り出すとすぐに立ち上がり、本棚の奥の方へ何かを探しに行った。
「咲人君、とてもいい子にしていますよ」
「父親としては助かっていますが、聞き分けが良過ぎるのも少し心配でして」
新山は咲人が入って行った奥の本棚の方を見詰めながら、彼の様子を話した。
「ご存じとは思いますが、妻とは去年離婚しまして。 それから暫くしたら、咲人の喘息がすごく悪化してしまったんです。 夜中に発作を起こす様になってしまって、何回か救急病院に駆け込みました」
咲人がここに来てから、大きな発作を起こした事はなかった。 ただ、この図書課に来るまでの道程は上り坂で、少し急いで歩いてきた日は、呼吸に雑音が入る事があった。
喘息の原因は、心因性のものもあると聞く。
「それで転地療養として、こちらに引っ越してきたんです」
「今は元気そうに見えますね」
「はい。 母親がいないことも大きなストレスになっている様ですから、まだ何とも言えないのですが」
新山は精一杯息子と向き合っている様だが、どこか自信なさげに言った。
「でも、こんな良い図書館があって、良かったです。 倅は本が好きなので、とても有り難い」
「ええ、どうぞ沢山利用してください」
「ここに引っ越してくる前から、実はこの図書館の事を存じていました」
その事には、私は然程驚かなかった。 図書館を始めた当初は、何度か取材を受けて雑誌にも載った事があったからだ。 出版社に勤めていれば、それを目にする機会もあったのだろう。
「そうでしたか。 何分小さい図書館なので、お好みの本があると良いのですが」
「そうですね。 ただ本だけは経費で落とせますので、買ってしまう事が多いんです。 それで家中、本だらけです」
新山は下を向いて少し笑った。
「羨ましい限りです」
「あの、もしご迷惑でなければ、読み終わった本をこちらに寄付させて頂きたいのですが」
「それはとても有り難い事です」
「では、時間がある時に、運んできます」
私は即答してしまってから、本のジャンルを聞かなかった事に少し後悔した。 もしビジネス関連や自己啓発の本であったら、ここではあまり需要がなさそうだ。
「それで、もし宜しければ、私が以前編集していた雑誌に、この図書館の事を書きたいのですが」
新山は遠慮がちに申し出た。 彼の本題は、叔母の事でも本の寄付の事でもなく、この事だったのかも知れない。
「それは、構いませんが」
ごく僅かだが、以前も雑誌を見てこの図書館を見学に来た人がいた。 首都圏からやってくる人が殆どだったので、彼らは必ず町の宿に一泊する。 温泉が少し出るというだけで、他に観光産業もない町が少しでも潤うなら、という気持ちだった。
「実は、私の同僚がこの図書館を取材すると言っていたのですが、その直後に亡くなってしまって。 ずっと気になっていたのです」
「同僚の、方ですか」
心臓が跳ねる。 期待なのか、恐れなのか、何か複雑な予感が走った。
「はい、もしかしたらご連絡くらいは差し上げていたかも知れませんので、ご存じかと。 片桐という編集者です」
私はそれを聞いて、遠い記憶の中に引き込まれていく様な感覚に陥った。
図書館を開いてから暫く経った頃、東京から訪ねてくる人があった。 三十歳前後の女性で、子供を一人連れて来ていた。
彼女は、ある人を探していると言った。 その探し人は、私がこの町に越してくるまで、付き合っていた男性だった。
詳しい話を聞いてみると、その男性は私と別れた後にその女性と結婚し、子供を授かったが、一か月程前から突然行方不明になっているという。 最後の足取りが確認できたのがこの町の最寄駅だった。 そこで彼女は、いつか男性が話していた故郷に図書館を建てたという女を思い出したのだと打ち明けた。
その男性には、東京で別れて以来一度も会ってはいない。 手紙やメールのやり取りもなく、お互いの消息を確認する事はなかった。
ただ、その「図書館を建てた女」というのは、多分私の事を言っていたのだろうと思い、知らない振りも出来ず、彼女に協力することにした。
自宅の一室を提供して彼女たちを泊め、地元の警察にも届け出たし、町の人にも聞いて回ったが、待っていたのは悲しい最後だった。
彼は町の西側にある山の中腹で、遺体となって発見された。
遺体の足元にあった荷物の中から、彼の免許証と遺書めいたものが見付かり、揃えられた革靴からは、彼の意志が読み取れた。
警察では私も色々と事情を聞かれた。 早々に解放されはしたが、妻であった女性は私に何も言わず、逃げるように帰って行った。 私が警察署にいる間に、出て行ってしまったらしい。
そして、彼女は大きな置き土産を残していった。
男性の死に、私が関与していると、町の人に話していたのだった。
彼の死に私が関わっていないのは、警察の捜査で証明されていたはずだったが、捜査が終わるまでの短い間に、町の人達との間に大きな溝が出来ていた。
尾ひれを付けた噂は、たちまち町中に広まり、彼を探していたのが小さい子供を連れた妻であったという事実が町の人の同情を誘い、そして想像力を駆り立て、私を悪女に仕立て上げた様だった。
彼らは今でも私を真綿で締め付けるように監視し、また何か起こさないかと期待しているのだ。
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コメント(11)
「はい、存じています。 片桐さんとはどういう…」
「片桐は私の同僚でした。 一緒に雑誌を作っていたんです」
新山の目に、私の表情を伺う様子はなかった。 私も彼がどこまで知っているのかは分からない。
「そうでしたか。 あの、良かったらお入りになりませんか。 お時間があれば」
「ええ、今日は特に予定がありませんので」
長い話になりそうだった。 私はいつまでも出入り口で立ち話をしていた事に気付き、彼を図書館の中へ招き入れた。 足元にスリッパを置き、自分がいつも作業をしているカウンターに椅子を用意して彼に勧めた。
ストーブで沸かしたお湯で、珈琲を淹れる。 奥に行ったままの咲人を思い出し、彼にも牛乳を多めに入れた甘い珈琲を作った。
マグカップに入れた珈琲を持って奥に入っていくと、咲人はカーペットに座って本を広げていた。 傍らには小鈴がいて、彼の読んでいる本を一緒に眺めている。 その微笑ましい光景は私の緊張を少しだけ解放してくれた。
「咲人君、今日は特別ね。 お父様がいらしているから」
そう言って咲人にマグカップを手渡した。 彼は両手でそれを受け取り「ここで飲んでも良いですか」と尋ねた。
「零さないようにね」とだけ言い置いて、私はカウンターに戻った。 新山に来客用のカップで珈琲を出してから自分も椅子に座り、どう話を切り出して良いものかと迷った。 珈琲にミルクを入れ、一口飲むまでお互い無言だった。
話の続きをし始めたのは新山だった。 ミルクが珈琲に溶けていく様を見詰めながら、昔の記憶を辿っている様子だった。
「片桐とは同期入社で、何となく気が合ったのでずっと友達付き合いをしていました。 最初は配属が違ったので、仕事の話はあまりしませんでしたが、十五年目にやっと同じ部署に配属されました」
片桐と私が出会ったのも、多分それくらいの時期だったと思う。 彼は自分の事はほとんど話さなかったし、私も聞かなかった。 それは、最初から別れが決まっていたからだ。
「編集者としてのキャリアもそこそこ積んで来たので、そろそろ自分たちで何か雑誌を作りたいと思っていた所だったのですが」
そこまで言うと、新山は少し自嘲気味に笑った。
「私も片桐もどちらかというと飽き性で、同じ題材で雑誌を作り続ける自信がなかった。 それなら毎月違う何かに特化した雑誌を作ろうという事になりました」
彼が本当に飽き性だったのか、私には分からない。 ただ、彼が編集の仕事を続けていたのは、特別な理由があったと思う。
「アイデアは沢山ありました。 何しろ私たちは広く浅くの人間でしたから。 最初は無難に喫茶店やカフェ、その次に旅館。 病院やクリーニング店という題材もありました」
出来上がった雑誌だけは、私も貰って読んでいた。 創刊からずっと大事に保管しておいたのだが、東京を出る時にはすべて処分してしまった。 それからは、たまに立ち寄る本屋で見掛けても、未練を引き摺りそうで手に取る事は出来なかった。
「片桐が出した案の中に、図書館というのがありまして、私もそれに乗りました。 色々調べているうちに、この図書館に行き当たったのです。 私の両親の故郷に、知らない間に図書館が出来ていた事にびっくりしました」
「そうでしたか」
「ただ、取材の依頼をしようとしていた時に、片桐は突然仕事を辞めて、失踪してしまったんです」
新山は一旦言葉を置き、私の目を見ながら尋ねた。
「その先の事は、ご存じですか」
私は否定も肯定もしないまま、彼の視線から逃れる様に下を向いて、珈琲のカップを眺めていた。 彼がどこまで知っているのか、それが分かってから答えても遅くはないだろう。
「私も周りの人間も、何も知らされていなかった。 ある日突然、煙の様にいなくなってしまったんです。 奥さんも子供さんもいたというのに。 奥さんが必死に探して、一か月後に見つかった時には既に遅かった。 私は彼女に掛ける言葉が見つかりませんでした」
「片桐さんが失踪された時、新山さんもこちらに？」
「いえ、私も丁度その頃、妻の実家で揉め事がありまして」
新山は遠くを見つめる様に、顎を上げて話した。
「よくある借金の事で、私まで巻き込まれましてね。 余裕がなかった私は、片桐からの重要なサインを見落としていたのかも知れません」
後悔を目尻に滲ませ、新山はカップを持ったまま独り言の様に言った。
「彼がこの土地を選んだ意味も、私には分かりません」
そして何か思い出したように、新山は私に視線を戻した。
「何か、ご存じではないですか」
私はそれまでの彼の様子を見て、片桐からは何も知らされていないのだと感じていた。 きっと「図書館を建てた女」の話も、聞かされてはいないのだろう。
「片桐は私の同僚でした。 一緒に雑誌を作っていたんです」
新山の目に、私の表情を伺う様子はなかった。 私も彼がどこまで知っているのかは分からない。
「そうでしたか。 あの、良かったらお入りになりませんか。 お時間があれば」
「ええ、今日は特に予定がありませんので」
長い話になりそうだった。 私はいつまでも出入り口で立ち話をしていた事に気付き、彼を図書館の中へ招き入れた。 足元にスリッパを置き、自分がいつも作業をしているカウンターに椅子を用意して彼に勧めた。
ストーブで沸かしたお湯で、珈琲を淹れる。 奥に行ったままの咲人を思い出し、彼にも牛乳を多めに入れた甘い珈琲を作った。
マグカップに入れた珈琲を持って奥に入っていくと、咲人はカーペットに座って本を広げていた。 傍らには小鈴がいて、彼の読んでいる本を一緒に眺めている。 その微笑ましい光景は私の緊張を少しだけ解放してくれた。
「咲人君、今日は特別ね。 お父様がいらしているから」
そう言って咲人にマグカップを手渡した。 彼は両手でそれを受け取り「ここで飲んでも良いですか」と尋ねた。
「零さないようにね」とだけ言い置いて、私はカウンターに戻った。 新山に来客用のカップで珈琲を出してから自分も椅子に座り、どう話を切り出して良いものかと迷った。 珈琲にミルクを入れ、一口飲むまでお互い無言だった。
話の続きをし始めたのは新山だった。 ミルクが珈琲に溶けていく様を見詰めながら、昔の記憶を辿っている様子だった。
「片桐とは同期入社で、何となく気が合ったのでずっと友達付き合いをしていました。 最初は配属が違ったので、仕事の話はあまりしませんでしたが、十五年目にやっと同じ部署に配属されました」
片桐と私が出会ったのも、多分それくらいの時期だったと思う。 彼は自分の事はほとんど話さなかったし、私も聞かなかった。 それは、最初から別れが決まっていたからだ。
「編集者としてのキャリアもそこそこ積んで来たので、そろそろ自分たちで何か雑誌を作りたいと思っていた所だったのですが」
そこまで言うと、新山は少し自嘲気味に笑った。
「私も片桐もどちらかというと飽き性で、同じ題材で雑誌を作り続ける自信がなかった。 それなら毎月違う何かに特化した雑誌を作ろうという事になりました」
彼が本当に飽き性だったのか、私には分からない。 ただ、彼が編集の仕事を続けていたのは、特別な理由があったと思う。
「アイデアは沢山ありました。 何しろ私たちは広く浅くの人間でしたから。 最初は無難に喫茶店やカフェ、その次に旅館。 病院やクリーニング店という題材もありました」
出来上がった雑誌だけは、私も貰って読んでいた。 創刊からずっと大事に保管しておいたのだが、東京を出る時にはすべて処分してしまった。 それからは、たまに立ち寄る本屋で見掛けても、未練を引き摺りそうで手に取る事は出来なかった。
「片桐が出した案の中に、図書館というのがありまして、私もそれに乗りました。 色々調べているうちに、この図書館に行き当たったのです。 私の両親の故郷に、知らない間に図書館が出来ていた事にびっくりしました」
「そうでしたか」
「ただ、取材の依頼をしようとしていた時に、片桐は突然仕事を辞めて、失踪してしまったんです」
新山は一旦言葉を置き、私の目を見ながら尋ねた。
「その先の事は、ご存じですか」
私は否定も肯定もしないまま、彼の視線から逃れる様に下を向いて、珈琲のカップを眺めていた。 彼がどこまで知っているのか、それが分かってから答えても遅くはないだろう。
「私も周りの人間も、何も知らされていなかった。 ある日突然、煙の様にいなくなってしまったんです。 奥さんも子供さんもいたというのに。 奥さんが必死に探して、一か月後に見つかった時には既に遅かった。 私は彼女に掛ける言葉が見つかりませんでした」
「片桐さんが失踪された時、新山さんもこちらに？」
「いえ、私も丁度その頃、妻の実家で揉め事がありまして」
新山は遠くを見つめる様に、顎を上げて話した。
「よくある借金の事で、私まで巻き込まれましてね。 余裕がなかった私は、片桐からの重要なサインを見落としていたのかも知れません」
後悔を目尻に滲ませ、新山はカップを持ったまま独り言の様に言った。
「彼がこの土地を選んだ意味も、私には分かりません」
そして何か思い出したように、新山は私に視線を戻した。
「何か、ご存じではないですか」
私はそれまでの彼の様子を見て、片桐からは何も知らされていないのだと感じていた。 きっと「図書館を建てた女」の話も、聞かされてはいないのだろう。
どのように新山に伝えれば良いか迷っている時、入り口の扉が勢いよく開いて志麻が飛び込んできた。
「先生、咲人君来てる？」
志麻は挨拶もせず、忙しなく靴を履き替えると辺りを見回した。 そしてカウンターに新山がいるのを見付けると、少し表情を強張らせた。
もしかしたら志麻も、新山に会うのは初めてなのかも知れない。
「志麻ちゃん、咲人君のお父さんよ」
私がそう紹介すると、志麻は短く「知ってる」とだけ答えた。 こちらを見る事もせず、背中のリュックを下ろそうとしている。 いつもは人見知りなどしないのに、自棄に余所余所しい態度だった。
志麻の様子を伺っていると、奥から小鈴がやって来て、彼女の足元に座った。
「咲人君は奥にいるわよ」
私が言い終わる前に、志麻はリュックとコートを近くの机に投げ出し、小鈴の後について奥へ入って行った。
志麻の来訪で、新山との話は途切れた。 彼は珈琲を飲み干し「すみません、長居してしまった様で」と言って立ち上がった。
「今日はこれで失礼します」
「そうですか、何もお力になれずに…」
片桐の話はせずに済んだ。 私はその事に、少しほっとしていた。
「いえ、良いんです。 咲人はもうしばらく、こちらにいても構いませんか」
「ええ、もちろんです」
「では、宜しくお願いします」
新山は靴を履き替え、「珈琲ご馳走様でした」と丁寧にお辞儀をすると足早に図書館を去って行った。
その夜、次に仕入れる本を探そうとしていた所に、珍しく図書館の電話が鳴った。
出てみると、電話の向こうの相手は暗い声で焦った様に話し始めた。
「先生、今日うちの志麻がそちらにお邪魔しませんでしたか」
志麻の父親だった。 息が荒く、緊迫した空気が伝わってくる。
「ええ、昼間来ていましたけれど」
「何時頃帰りましたか」
私は慎重に答えようとしたが、咄嗟に時間が思い出せなかった。 と言うより、今日志麻はいつの間にか帰ってしまったので、正確な時間は分からなかったのだ。
「お昼を食べた後だったと思いますが」
「そんなに早い時間でしたか」
「ええ、確か」
「志麻が、まだ家に戻らないんです」
「えっ」
時刻はもう九時を過ぎている。 この辺りは遅くまで開いてる店もなく、街灯も少ないので陽が落ちれば真っ暗に近くなる。 こんな時間まで小学一年生の女の子が歩き回るはずはないのだが。
「先生、何かご存じじゃありませんか。 志麻が何か言っていませんでしたか」
言い募る父親の声は早口で、少し震えていた。 外はまた雪が降り始めている。
私は少し考えて、咲人の事を思い出した。 彼が何か聞いているかも知れない。
「同級生の新山君には、聞いてみましたか」
「新山？ いえ、まだです」
「じゃあ、私がそちらへ向かいますので」
私は自分の携帯電話の番号を伝えてから、コートと懐中電灯を持って、図書館を飛び出した。
「先生、咲人君来てる？」
志麻は挨拶もせず、忙しなく靴を履き替えると辺りを見回した。 そしてカウンターに新山がいるのを見付けると、少し表情を強張らせた。
もしかしたら志麻も、新山に会うのは初めてなのかも知れない。
「志麻ちゃん、咲人君のお父さんよ」
私がそう紹介すると、志麻は短く「知ってる」とだけ答えた。 こちらを見る事もせず、背中のリュックを下ろそうとしている。 いつもは人見知りなどしないのに、自棄に余所余所しい態度だった。
志麻の様子を伺っていると、奥から小鈴がやって来て、彼女の足元に座った。
「咲人君は奥にいるわよ」
私が言い終わる前に、志麻はリュックとコートを近くの机に投げ出し、小鈴の後について奥へ入って行った。
志麻の来訪で、新山との話は途切れた。 彼は珈琲を飲み干し「すみません、長居してしまった様で」と言って立ち上がった。
「今日はこれで失礼します」
「そうですか、何もお力になれずに…」
片桐の話はせずに済んだ。 私はその事に、少しほっとしていた。
「いえ、良いんです。 咲人はもうしばらく、こちらにいても構いませんか」
「ええ、もちろんです」
「では、宜しくお願いします」
新山は靴を履き替え、「珈琲ご馳走様でした」と丁寧にお辞儀をすると足早に図書館を去って行った。
その夜、次に仕入れる本を探そうとしていた所に、珍しく図書館の電話が鳴った。
出てみると、電話の向こうの相手は暗い声で焦った様に話し始めた。
「先生、今日うちの志麻がそちらにお邪魔しませんでしたか」
志麻の父親だった。 息が荒く、緊迫した空気が伝わってくる。
「ええ、昼間来ていましたけれど」
「何時頃帰りましたか」
私は慎重に答えようとしたが、咄嗟に時間が思い出せなかった。 と言うより、今日志麻はいつの間にか帰ってしまったので、正確な時間は分からなかったのだ。
「お昼を食べた後だったと思いますが」
「そんなに早い時間でしたか」
「ええ、確か」
「志麻が、まだ家に戻らないんです」
「えっ」
時刻はもう九時を過ぎている。 この辺りは遅くまで開いてる店もなく、街灯も少ないので陽が落ちれば真っ暗に近くなる。 こんな時間まで小学一年生の女の子が歩き回るはずはないのだが。
「先生、何かご存じじゃありませんか。 志麻が何か言っていませんでしたか」
言い募る父親の声は早口で、少し震えていた。 外はまた雪が降り始めている。
私は少し考えて、咲人の事を思い出した。 彼が何か聞いているかも知れない。
「同級生の新山君には、聞いてみましたか」
「新山？ いえ、まだです」
「じゃあ、私がそちらへ向かいますので」
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