半蔵門かきもの倶楽部コミュの第２４回　ハルト作　『小麦粉の密度』

　玄関で靴を脱ごうとして下を向いたら、ぐらりと視界が揺れた。　思わず下駄箱に手をついて体を支える。　そんなに窮屈な靴でもないのに、上手く脱げない。　足をばたばた動かしているうちに、ヒールを傷つけてしまいそうだったので、仕方なく玄関に腰を下ろした。　手を使って足からハイヒールを引っこ抜くと、適当にその辺に放った。
　朝からおかしいと思っていた。　食べるものが美味しく感じられないし、好きな珈琲や甘いものも受け付けない。　午後になると寒気がして、同僚からひざ掛けを借り、白湯ばかりを飲んでいた。
　最近仕事が上手く行かず、気晴らしに飲みに行くことが多かった。　深酒しては気絶するように眠り、朝起きて後悔するという事の繰り返しだった。　昨日もどうやって帰ってきたか記憶がなく、キッチンの床で眠ってしまい、寒さで目を覚ました。　それがいけなかったのだろう。
　立ち上がる気力もなく、四つん這いのまま散らかった部屋に上がり、どうにか熱を測ると３８度を越えていた。　熱があるのが分かると、一気に悪化したような気がした。
（風邪薬、飲まなきゃ）
　私は食事も取らずに風邪薬を水で流し込んだ。
　

　気が付くと私はどこかのキッチンにいた。　白で統一されたシステムキッチンで、ぽつんと置いてある薬缶だけが血を塗ったように赤かった。
　食卓の前に座ってぼんやりしていると、いつの間にか目の前にドーナツが乗った赤い皿が置いてあった。　油で揚げて、べったり砂糖がまぶしてあるドーナツ。　皿の色とも相まって、とても食べる気にはなれない。
　私はのどが渇いていたので、誰もいない宙に向かって「お茶をくださいませんか」と言ってみた。　だが、答えてくれる人はおらず、もちろんお茶も出て来ない。　私は不安で泣きそうになり「メタボが怖いから、甘いものは食べたくないんです」と言った。
　赤い薬缶が不自然にカタンと鳴った。
　ドーナツを見詰めていたら、穴の中で何かがきらりと光る。　私はそれが何かを確かめようとして覗き込もうとした。　
　その瞬間、私の意識は薄れ、倒れこむように穴の中へ吸い込まれていった。

　目を開けると、私はどこかの神社にいた。　辺りは薄暗く、日が沈んだばかりの西の空だけがオレンジ色に染まっていた。　お囃子が風に乗って耳に届き、参道の両脇には沢山の屋台が出ていた。　
　縁日だろうか。　それにしても人がいない。　
　私はふらふらと参道を歩いた。　屋台の看板は見知らぬ文字で書かれていて、一体何が売っているのか分からない。　焼きそばやお好み焼きのソースの匂いも漂ってこない。
　一つだけ、油が跳ねる音をさせている屋台があった。　そこまで歩いて行くと、誰もいないのに、ドーナツが油の中を泳いでいた。
　私が近付くと、ドーナツは騒ぎだし一斉に砂糖の中へ逃げ込んだ。　砂糖が入った缶の中が奇妙にうねる。
　私は意地悪く（そんな事したって見つかっちゃうよ。　全部食べられちゃうんだから）と思いながら、砂糖の中へ手を伸ばした。　
　すると砂糖の中から太い腕が出てきて、逆に私の手を引っ張った。　私はそのまま砂糖の中へ落ちて行った。

　下を向いて砂糖塗れの服を払っていると、今度はどこかの店のカウンターに座っていた。　古い映画で見るような、寂れた居酒屋だった。　店の入り口はとても狭く、カウンターに人が座ると、後ろを通るのに難儀するほどだ。　隣では太った女性が、むしゃむしゃと手掴みで毒々しい色のドーナツを食べている。　何故かぴちぴちの着物を着ているのに、顔は洋風だ。　
彼女の前にはドーナツが、うず高く積み上げられていた。　彼女と、背中側の壁とはほとんど隙間がなく、（こりゃ完全にメタボだな）と思いながらその様子を眺めていると、急に女性がこちらを向いて喋った。
「あんた、私の居場所を盗んだだろ」
　何のことか分からずに黙っていると、女性は続けて言った。
「誤魔化したって駄目。　でもね、みんな私が大好きだから、もとに戻せと言っている。残念だったね」
　女性は笑い転げた。　のけ反るように体を揺すると、座っているスツールがミシミシ音を立てた。　私はスツールを支えている鉄の棒が折れてしまうのではないかと冷や冷やした。　
油と砂糖塗れの手をお腹で拭きながら、女性はなおも笑い続ける。　私は何も言えずにその様子を見ていると、急に彼女はポケットから取り出したドーナツ型の鈴を鳴らした。
　それは酷くざらついた不快な音で、私は耳を押えずには居られなかった。　音に音が共鳴して次第に大きくなり、我慢出来ず私は蹲って頭を隠した。

　しばらくして音が止み、顔を上げると、今度は畑の中にいた。　
　遠くの方には大輪の花が咲いていて、よく見ると蕎麦の花だった。　蕎麦の花はそんなに大きくないし、flowerとflourは違うんだけどな、と思いながら足元を見ると、大きく実った何かが、土の中から少しだけ顔を覗かせていた。
私はしゃがみ込んでそれを引き抜こうとしたら、どこからか案山子がやってきて「それは饂飩だから駄目。　ドーナツはあっち」と言われた。
強制的に移動させられ、案山子が差す物を引っこ抜く。
　土の中から出てきたのは、紙の箱に入ったドーナツの材料だった。　外国の派手なパッケージの様に「ドーナツミックス」と書いてある。　裏側には丁寧にレシピが載っていた。　それを見ながら（ドーナツじゃなくて、ベニエが良かったのにな）と考えていた。
　レシピの最初には

　まず、メイソンキャッシュのボウルを用意してください。　
　
　と、書いてあった。
　辺りを見回しても畑が広がるばかりで、ボウルは無い。　しかもボウルのメーカーまで指定されていた。　案山子は一本足で上手に踊りながら遠くへ行ってしまい、私の声は届きそうになかった。　仕方なく注意書きを読むと、奇妙な事が書いてあった。
　
　この商品はホットケーキミックスと同じ成分で出来ていますが、くれぐれもホットケーキを作らないでください。

こんな事、言わなきゃ分からないのにな、と思っていると、むずがる赤ん坊の様に箱が暴れだし、無理に抑えようとすると蓋が開いて大量の小麦粉が宙に舞った。

　目を開けていられない程の小麦粉を振り払うと、いつの間にかコンビニに来ていた。
　夜中なのか、コンビニの外は真っ暗だが、店内は病院の様に異常に明るかった。　商品の陳列棚にはびっしりと食パンが並び、いつもはドリンクが冷やされている冷蔵庫にも、やはり食パンが並んでいた。
　さっき宙を舞った小麦粉を掻き集めて誰かがパンを焼いたのだろう、ドーナツ以外は作っちゃいけなかったのになと、ぼんやり考えていると、レジの方で音がした。
　行ってみると、レジ横のガラスケースの中で、いくつものドーナツが犇めき合っていた。　ドーナツは私を見るとあちこちに跳ねて暴れ出し、何度もガラスにぶつかった。
「暴れないの。　チョコレートが剥げちゃうわよ」
　ドーナツを宥めようとしたが、一向に収まる様子がなく、私は思わず店員を呼んだ。
「あのー、すみません」
　店の奥から出てきたのは、コンビニの制服を着た紙袋だった。　私はそれを見て、何故かとても懐かしい気持ちになった。
　紙袋には男の子の顔が書いてあり、その顔の口が動いて声を発した。
「はい、いらっしゃいませ。　どうされましたか」
　私は紙袋の男の子の顔に向かって言った。
「このドーナツ、窮屈そうだから外に出してあげてください」
　紙袋はガラスケースの中を確認するように見ると、どこからともなくトングを取り出した。　ドーナツを傷つけない、白いシリコンのトングだった。
「じゃあ、僕が食べちゃいますね」
　紙袋はそう言うと、トングでドーナツを掴み出し自分の頭を開いてその中に入れ始めた。　店内にはオールディーズが流れ、紙袋はそれに乗ってトングを動かしながら、ドーナツを詰め込む。
「このカード、銀色の部分を削ると数字が書いてあります。　点数を集めるとグッズを差し上げますよ」
　今度は女の子の声が聞こえてきたので、音楽に乗って踊っている紙袋を見ると、男の子の顔の裏には、女の子の顔が書いてあった。　　女の子はポニーテールを揺らしながら、グッズの説明をした。
　オールディーズの音が大きくなると、天井からカードが降ってきた。　最初はぱらりと数枚だけで、どれも銀色の部分は削られていない。　拾おうとして屈むと、カードは土砂降りの雨の様に降ってきた。　たちまち体がカードに埋まっていく。
　カードに溺れ死んでしまう、と必死に手を伸ばすと、その手を誰かが掴んだ。

　カードの中から引っ張り出され、気が付くと私は喫茶店のテーブルに座っていた。　向かい合った席にいる男性が、私の右手を掴んでいる。　どこかで見たことのある顔なのだが、名前が思い出せない。　　
　男性はボンベイサファイアの瓶の様に澄んだ目で私を見て言った。
「いつか君の為に、新しいドーナツを作るからね」
　私はまだのどが渇いていたので「ドーナツよりも、何か飲み物をちょうだい」と言うと、男性の目は急に曇り出した。　それは水の中に墨を一滴落としたように広がっていく。
　次第に色が濃くなり、真っ黒な目をした男性は、私の手を突き放しながら毒づいた。
「君って、穴のないドーナツみたいだよね」
　意味は測りかねたが、何となく貶されている事は分かったので、私は声に出さずに（あなただって、見たことある顔なのに、名前がないじゃない）と罵った。
　だがよく見ると、その男性は先ほどの紙袋の男の子と同じ顔をしていた。　
　そしてふと見た喫茶店の窓に映る私はポニーテール。
「あっ」
　それが誰なのか気付いた時には遅かった。　
　黒い墨の様な涙が男性の目から溢れ、私の手に落ちた。　そこから闇の様に広がっていき、すべてを覆い尽くす。
「待って」
　私は男性に向かって言ったが、視界は黒くなり何も見えなくなった。　何度も手を伸ばして探ったが、空を掴むだけだった。
　体がふわりと浮いたと思ったら、強い力で押し出されるようにどこかへ落ちていく。
「ねぇ待って。　思い出したの」

　泣きながら目が覚めた。　見慣れた部屋の天井に向かって、何かに追いすがるように手を伸ばしていた。　
　風邪薬を飲んですぐ、眠り込んでしまったらしい。　カーテンの向こうはすでに明るくなっていた。　
　起き上がると体の怠さは抜けていた。　大量に汗をかいたせいだろうか。　ただ頭の芯が痺れた様に痛む。
　テーブルの上には昨日飲んだ薬の箱と、錠剤が抜けたパッケージが置いてあった。　風邪薬は新品だったはずなのに、錠剤は４つも無くなっている。　説明書きをよく見なかった私は、既定の倍の量を飲んでしまったらしい。
　どおりで。　おかしな夢を見たのはそのせいか。
　口の中が乾いて舌がうまく動かない。　私は立ち上がって冷蔵庫から水のペットボトルを取り出そうとした。　
その時、奇妙なものを見付けた。
　皿に乗せ、ラップを掛けられたドーナツが、冷蔵庫の中に入っていた。
　昨日の朝は無かったはずだ。　そもそも買ってきた記憶もないが、皿は普段私が使っているものに間違いない。
　皿を取り出してドーナツを見た。　油が浮いて砂糖が溶けたドーナツ。　素人が作った様な、歪なそのドーナツを眺めていると、何故か呼ばれるように、キッチンのシンクに目が行った。
　シンクに一つ、空の皿が置いてある。
　白くて飾りのないその皿には、まぁるく油の跡だけが残っていた。

コメント(17)

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[1] mixiユーザー 01月09日 20:39

またもや締切ギリギリとなってしまいました。　すみません。

実はまったく違う作品を書いていたのですが、どうも「面白くねぇ」と思い
書き直しました。　なので短いです。

明日は仕事の出来次第で、参加出来ればしたいです。

[2] mixiユーザー 01月09日 22:57

三つの課題がうまく溶け込んでいますね
タイトルを『風邪とメタボとドーナツと』にしても違和感ないくらい

[3] mixiユーザー 01月10日 00:29

不思議な感覚を抱きながら読ませていただきました。
症状が重い風邪やインフルエンザの重症な方だと、そのような夢を見ることもありますよね。
熱にうなされるというか、頭痛がするというか。
あくまでもそういった類の話なのか、それとも何か隠された意味なとがあるのか、とても気になります。

[5] mixiユーザー 01月10日 13:38

規則的で読みやすいですね。が、途中少し飽きてしまいました。

[6] mixiユーザー 01月10日 17:56

>>[2]

感想ありがとうございます。
今回は良いタイトルが思い付かず
適当に付けちゃいました。
後付けで理由を考えます(笑)

[7] mixiユーザー 01月10日 18:01

>>[3]

感想ありがとうございます。
夢の中の出来事として書きました。
私にとって、不安感や焦燥感を煽るような
シーンを想像したのですが。
隠された意味…お好きに深読みして下さい！(笑)

[8] mixiユーザー 01月10日 18:04

>>[4]

感想ありがとうございます。
不思議さ、不気味さが伝わると良いな、と思います。
あり得ない世界を書くのは意外と
楽しかったです。

※残念ながら、本日は不参加。
またお会い出来る日を楽しみにしています。

[9] mixiユーザー 01月10日 18:07

>>[5]

感想ありがとうございます。
エピソードが多すぎましたかね。

[10] mixiユーザー 01月10日 18:13

ひとつひとつの段落は突然始まるのに、話がばらばらにならず、最後まとまっていてびっくりしました。

気味の悪い世界感が具体的でした！大好きなドーナツが暫く食べられないかも(笑)

[11] mixiユーザー 01月10日 19:38

悪夢のような世界観、好きです(^^)
カタカナが印象的で、効果的だと思いました。
世界観が移り変わっても、文章が引き締まって見えるというか。
不思議な世界観であることの説明にもなってるようにも思いました。

案山子が喋ったり、「穴のないドーナツみたい」という具体的な意味は分からないけれども悪口だとは分かる言葉だったり。
面白かったです！

[12] mixiユーザー 01月11日 00:17

>>[10]

感想ありがとうございます。
不気味さが伝わった様で嬉しいです。
私が一番不気味なのは、人のいない縁日でしょうか。
ドーナツがお好きなんですね。
私も好きです。特にパン屋さんで売っている様な
シナモンのドーナツ。
どうかこの作品がトラウマになりません様に！

[13] mixiユーザー 01月11日 00:23