ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

半蔵門かきもの倶楽部コミュの第24回 おたけさん作『愛する人々のために』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
「俺は、自由意思というものの存在に疑問を抱いている」
 それが、飲んだくれの親父が言っていた言葉の中で唯一覚えているものであることを、精神科医であるジョゼル・ミルテラは、ふと思い出した。しかも、診察中に。
 結局、親父は正しかった。ジョゼルは、自分の目の前で、愚にもつかないことをペラペラと喋っている、痩せた女の患者そっちのけで、そのような考え事をした。ジョゼルは、あの忌まわしい裁判を終えてから、喉の奥に、魚の小骨か、もしくは、海老の尻尾の破片のようなものが突き刺さったみたいに、何かが引っかかる思いがして、もどかしく感じていたのだが、その“小骨”とは、この言葉であったのだ。
 ジョゼルは、安堵した。今日は、眠薬を飲まなくても、ぐっすりと、少なくとも3、4時間程度は眠れるかもしれない。それは、妻であるジョセフィーヌが殺されてから、初めての自然な眠りになるかもしれなかった。そうして、彼は願った。願わくは、その自然な眠りが、自然な永遠の眠りにならんことを、と。
 もし、そうならないなら。ジョゼルは思った。もし、そうならないなら、今度こそ行くしか無い。彼は、決心し、深く息を吸い込んだ。そして、その息を吐いたとき、患者も同じ動作をしているのに気付き、笑いそうになってしまった。そう、自分の真似事をしてくれればいい。ジョゼルは、自分の精神が病みきっているのを知っていたので、患者も同じことをすれば気分が落ち着くだろうことは分かっていた。
 だが、そんなことは患者には言えなかった。第一、“私もあなたと同じく心の風邪をひいています。なので、一緒に治療していきましょう”と医者が言った場合に、誰がその医者を信用するというのだろう? 一緒に取り組むべきことと、そうでないことが、この世の中には存在する。今日、家に帰って独りぼっちで眠りに就いたジョゼルが、翌朝、すなわち、このクリニックの休診日にすべきことは後者に属した。その行為の名は、“復讐”であり、古今東西、独りで秘密裏に計画、実行し、失敗しても、いや、失敗することが美しいとされている逸脱の行為であり、それは21世紀末である今現在まで変わっていなかった。
 彼のすべきこととは、そのような逸脱行為であったのであり、それは精神疾患診断マニュアル下巻87ページによると、治療が必要な状態である。しかし、治療をしないことが人間として正しいことは、精神科医の医師免許を取得してしまっている彼であっても分かることだったし、何より、精神科での”治療”とは、あくまで社会のために個を殺すことであることは、ジョゼルが一番理解しているのであり、自然な死を願っても、不自然な“個の死”は願わないジョゼルは、たとえ身柄を拘束されようとも、治療を受ける気は無いのであった。

***

「もしもし、ジョゼル・ミルテラさんですか?」
 くぐもった声が、自宅の受話器の向こう側から聞こえてきた。ジョゼルは、今日は自宅のベッドで自然な眠りに就けたものの、この電話のせいで2時間しか眠ることが出来なかった。午前0時。こんな時間に電話して来る人間の頭を勝ち割ってやりたいとジョゼルは思ったが、その内容は意外なものであった。
「私は、このニュー・ベルリンの片隅に事務所を構えているフォイエルバッハという名の探偵でして。以前、先生のお世話になっていたサーシャ・ペトロフスカという女性の患者がいたと思うのですが」
 ジョゼルは、靄(もや)が立ちこめたようになってしまっている自身の記憶を辿っていった。その結果、サーシャ・ペトロフスカとは、20歳過ぎの大学生であり、病的な美しさを湛えてはいたが、強度の精神疾患を抱えていた為に自殺してしまった女性であるという情報が発掘された。彼女が自殺したのは、もう3年前になるだろうか? ジョゼルは、具体的なことを思い出せないのは、彼女の死が、全く関係の無い妻の死の入り口になってしまったのではないかと強迫観念的に考えてしまい、その一連の記憶を封じ込めているせいだと直感した。
「サーシャ、知っているさ。それが?」
 目には目を、歯には歯を、失礼には失礼を。ジョゼルが、可能な限りぶっきらぼうに答えると、探偵はそのような対応には慣れっこなのか応えていないような反応を示すと、淡々と、「ああ、覚えてらっしゃいましたか」と述べてから、矢継ぎ早に、「彼女、発見されたんです」とハッキリとした口調で言った。
 ジョゼルは、最初、何のことか分からなかったが、もしかするとサーシャは自殺だったものの、遺書だけで死体は発見されていなかったのかもしれないと考え、彼は探偵に「ご家族も、やっと次に進めますね」と他愛の無い言葉を返した。すると、探偵は「ええ、彼女は多少の記憶は無くしていますが、発見されたときと同じく、現在もウェイターの仕事に勤しんでいまして。彼女は、そのうち教員として働きたいと言っているようで、ご両親も全力で支援すると大変喜ばれています」と、妙な事を言い始めたので、ジョゼルが問いただすと、探偵は事も無げに、サーシャは実は生きていたのだと言うのだった。
「奇跡ですよ。本当に、奇跡です」
 神様や十字架などを全く信じなさそうな探偵という職業の人間がそんなことを言うのを聞いて、ジョゼルは馬鹿馬鹿しいと思ったが、一方では、この状況は客観的にみても、探偵が主張する通り、奇跡だと言って構わないものだと思われた。
「ご心配をおかけしていると思いまして、感情が昂っておられるご両親の代わりに、私から連絡させて頂いた次第です」
 最後に探偵が見せた気遣いで、ジョゼルは、もう少しこの探偵と話しても良いかなと思ったが、探偵側は職業人らしく、何かあった場合の連絡先だけよこして、さっさと電話を切ってしまった。
 ジョゼルは、この妙な連絡が自分の人生を好転させてくれるかもしれないと期待して、再びベッドに入った。だが、死体が発見されていなかったサーシャとは違い、ジョセフィーヌは殺されたのだし、その死体をジョゼルはその目で見て、葬儀を執行しているのだ。しかも、事件についての公判に参加し、民事訴訟まで行っているのである。その事実は紛れも無く、ジョゼフィーヌが既にこの世にはいないことを証明しているのだ。
 しかし、サーシャの両親に与えられた幸運の少しでも分け前が欲しい。ジョゼルは、サーシャを懸命に治療したと思っていたので、その分け前を得る権利が自分にはあるのだと確信していた。そして、その分け前とは具体的に何になるのだろうと想像しつつ、彼はいつの間にか眠りの世界に誘われていたのだった。

***

 翌朝、ジョゼルは始業時間を迎えたばかりの弁護士事務所の前で、呆然と立ち尽くしていた。彼は、あの殺人鬼の弁護を務めた、憎き老弁護士の事務所に来たのは良いものの、次に何をすべきなのか迷った。このまま窓口に行ったところで、アンドロイドの事務員から、「ご予約の方ですか」と、最高に美しい女性の姿と微笑みと声で尋ねられ、予約が無いことを伝えると、それこそ“機械的”に出直すように言われるのがオチなのだ。
 そんなことを考えながら、ジョゼルは、事務所の外から中を覗きつつ、事務所の前を行ったり来たりしていると、事務室とエレベーターホールを隔てるガラスに自分の姿が写っているのに気付いた。顎くらいまで伸びた白灰色の髪に、白い無精髭、やつれた色黒の顔の上には、黒縁の眼鏡が乗っかっていた。これが自分なのだ。ジョゼルは、自宅の洗面台に放置している割れた鏡を思い出した。それは皮肉なイメージであったが、今の自分には相応しい比喩のように思えた。
 その時、ジョゼルのもとに、白と紺色を基調としたピカピカの警備ロボットが近づいてきた。それは、キャタピラの足を懸命に動かして、一生懸命な様子で近寄って来てくれ、それが一生懸命に生きているのだということを教えてくれた。そして、ジョゼルから1メートルくらいの距離で静止すると、《何かお困りですか》と、秀逸な電子音で優しさを差し出してくれた。
 だが、見知らぬ他人が提供してくれる場合には希有といえるこの優しさも、警備ロボットにとっては特段珍しいものではなく、21世紀も後半に差し掛かった今では、たとえばスーパーマーケットに行っても体験できる、不審者向けの“サービス”であった。
 これはジョゼルの想定通りではあったので、彼は狼狽(うろた)えること無く、穏やかな口調で、「非常に困っているので、シャルエル・フォン・シュトラウス先生を御呼びください」と伝え、相手に聞かれる前に、「ジョゼル・ミルテラです」と付け加えると、既に、何かのリスト入りをしているのか、彼はそのまま〈予約者用〉と書かれた待合室まで案内されてしまったのであった。

***

「ご予約なさっていないことなど気になさらないでください。こちらまでご足労頂いただけでも、私は感謝すべきです。本来は、私が直接、お伺いしようと思っていたところでしたから」
 本当か嘘か分からないことを言いながら、ネクタイからスーツまでを白で統一したシュトラウス老弁護士は、ジョゼルにソファーに座るように勧めた。
 ジョゼルは腰掛ける前に、差し出されたソファーを眺めると、それは、スタンリー・キューブリックが監督した『時計仕掛けのオレンジ』の老小説家の自宅に配置されていた様な〈近未来派〉デザインの真っ赤なソファーであり、その含意に若干の悪意を読み取ったが、シュトラウス氏にはそのような比喩的な機智は働かないだろうと思い直し、ジョゼルは大人しく座ることにした。
「話すべきことは分かっております」
 シュトラウス氏は、ジョゼルの目の前に置かれた、黄や青、緑、白に輝く、ステンドグラスに見立てたテーブルの上に、琥珀色の液体が入ったグラスを置いた。ジョゼルは、これが真っ赤な葡萄酒なら、奴の顔面にめがけて投げつけるのも愉しかっただろうに、と妄想しつつ、少しでも饒舌に喋りたくて、一口だけスコッチを口に含むと、後は相手の出方を見て、黙っておいた。
 すると、シュトラウス氏は、向かいの真っ青なソファーに腰掛け、「お悔やみ申し上げます。私も悔しく、悲しいのです」と、本当に悲しそうな表情をして喋り始めた。
 悲しいだって! ジョゼルは、いっそスコッチでも構わないから、相手の顔面に浴びせてしまおうかと思ったが、この部屋の中には、少なくとも5機は、透明浮遊球〈スケルトン・サムシング〉が配置されていて、録音、録画、さらには、感情の昂りを測定するために、サーモグラフィーや発汗度数、フェロモン濃度まで測定している可能性もあることを思い出し、そのまま感情を昂らせず、黙って話を聞くことにした。
「今日は、前々からお話ししたいと思っていた法律の考え方について、恐縮ですが、ご説明させて頂ければと思っております」
 ジョゼルは、笑ってしまった。そんなことは、こちらは調べて、調べて、裁判を担当してくれた、元患者の弟である熱血弁護士ジョー・アフレックに何度も補足説明を求めた事柄なのである。そんなことも知らないと思っているなんて、バカにするのも程がある。堪え兼ねて、ジョゼルは遂に、「そんなものは聞きたくない」と言ってしまった。
 だが、これは間違いなく相手のペースであり、シュトラウス氏の口元には明らかに(それは一瞬だったのだが)、勝利を確信した笑みがこぼれていた。
「いえ、説明を聞かれた方がよろしいかと。あの若者は説明しなかったであろう、法律の条文以外の、科学的な部分での法律の考え方ですから」
 ジョゼルは、シュトラウス氏の肩書きである“人権派”とは、“偽善者”と読むのだと確信した。そうでないと、こんなニュー・ベルリンの一等地に事務所など構えられるはずが無いのだ。それに、シュトラウス氏の体型は、控えめに言っても、メタボリックシンドロームであり、直接的に表現すれば肥満体といえる身体である。顔など、どの方向からの光に対してもテカテカと光っていて、その光加減は金塊を思い出させた。
 一体、あの妻を殺した傲慢な科学者から、いくら金を積まれたのだろう? ジョゼルは、裁判中も思っていたことを再び気にしたのだが、それはどう考えても、今は関係の無い話であった。
「法律外の話であるなら、尚更、聞く必要は無いでしょう」
 ジョゼルは、想定問答に書かれていそうな答えを喋っている自分を恥じたが、今はとりあえず会話を進めるべきだと思った。シュトラウス氏は、今のところ、予定が入っているとか、何分までしか時間は取れないとは言っていない。そう考えると、あと5分で打ち切りということも無いだろうし、もし、そうなったら、この部屋から出ないだけだと、ジョゼルは徹底抗戦し、粘り勝ちするという戦闘方針を、今更決めたのだった。
「そうではないのです。もう、裁判というのは法律には収まらない分野なのであり、どちらかというと科学に属するものなのです」
 ジョゼルは、ジョーはそんなことは言っていないと主張しようとしたが、その前に、シュトラウス氏から、「アフレック先生は、古い考えの学閥に属していますから、裁判向きではないのです。そう、彼らは、法律史学の研究者向きなのですよ」と笑いながら言われてしまい、出鼻を挫かれる形となってしまった。
「なので、説明させて頂くと」
 ジョゼルは、とりあえず聞いてやることにした。“聞いてやる”のだから、主導権はこちらにあるのだと自分に言い聞かせ、そのままじっとしていた。どうせ、シュトラウス氏は、裁判のときのように、自分が暴言を連発するのを期待しているのだ。ジョゼルは、そう思いつつ、シュトラウス氏の囁きに耳を傾けてしまった。
「偉大な認知神経科学者であるガザニガ博士は、今から90年近く前の21世紀初頭に、スコットランド、今の言葉で言えば、オールド・スコットランドで行われた伝統的なギフォード講義の中で、このような説明をされました。“脳は、経路に沿って自動的に意思決定を行う装置である”とか、“行動の道筋を定める作業は、自動的かつ決定論的だ。…実行された一連の行動は意思的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神の状態なのだ”なとという説明です。これは、今や常識であり、そのことはコンデンサーやトランジスターなどの素子を組合せて構成される電子頭脳で動くアンドロイドが人格を獲得することからも自明のことです」
 シュトラウス氏は、ジョゼルの目を見て微笑んだ。それは、スコッチを一口飲んでしまったジョゼルにとっては難しすぎる説明であったが、要は、“脳は、決められたようにしか機能しない”ということであるとジョゼルは解釈することにした。
 そして、シュトラウス氏もスコッチを啜ると、話は続いた。
「また、ガザニガ博士は、ある実験を紹介しました。それは、脳梁離断術という脳外科処置を受けた難治性てんかん患者に対するもので、彼らは右脳と左脳との間で情報のやり取りを行う脳梁と呼ばれる部分が切断された状態にあることで、特殊な反応を示し始めるというものです。たとえば、この患者たちの左視野だけ、つまり、右脳だけに『鐘』という単語を、右視野だけ、つまり、左脳だけに『音楽』という単語を瞬間的に見せると、患者は『音楽』という単語が見えたと話す。しかし、今見たものを表す絵を選ぶ際には、音楽に関係が深い絵が他にあっても、患者は、鐘の絵を指差す。なぜ、鐘の絵を指差したのか、その理由を問われると、患者は不思議なことに、『私が最後に聞いた音楽は、すぐ外で鳴っていた鐘だったんです』と説明し始め、『鐘』という単語を見せられたことは覚えていないと言う。このことから、ガザニガ博士たちは、左脳で行われるこのプロセスを『解釈装置《インタープリター》』と呼ぶことにしました。このような一連の研究から判明したのは、脳の処理とそのアウトプットである行動が、無意識かつ自動的に行われていることだけでなく、ある行動をした理由についての説明は後付けであるということです。それは、行動だけでなく、情動の反応や変化にも言えることで、つまり、いかなる行動も、脳の構造や経験、環境からの抑制を総合した結果で出力されたものであって、それについての説明というのは後付けのものだということなのです」
 ここまで説明されて、ジョゼルは首を振った。
「それが何だと? 裁判と、どう関係がある?」
「大いに関係あります。これらの実験結果から、自由意思の存在というのは大きく揺らいだのです。つまり、現在、自由意思は存在しないという考えが法律論上も広まっており、それは、責任という概念に大きな衝撃を与えたのです」
「だが、社会的な相互作用の中では、責任や自由意思は存在する」
 ジョゼルは、持っている断片的な知識をぶつけてみたが、シュトラウス氏は、さすがに余裕がある様子で、ゆったりと咳払いしてから、
「それは仰る通り。〈社会脳《ソーシャル・ブレインズ》〉の議論ですね。とはいえ、他人との相互作用というのは考慮する必要性のある重要な因子ですが、個人の脳が行動を決定する為の一要素にしか過ぎないのも事実です。結局は、ある人が、ある一連の行動を行ってしまうのは、その人が置かれた環境や経験、脳の構造など種々の条件が為せる技です。その決定は、時に何億もの要素が絡み合った結果として出力されることでしょう。しかし、何億もの要素が絡み合っているからと言って、数学的に考えれば原因が解けないという結論には陥らないのです。それは、計算技術的に答えが出せなかったというだけであり、理論的に原因を突き止めることが出来ないというモノではないのです」
 そうして、シュトラウス氏は、再びスコッチを一口、その口に含んでから、
「しかし、そういうことを言い始めると、きりが無い。計算の問題は、再現性の話にも入ります。つまり、人間が、ある条件に於いて必ず同じ行動をするかどうかという問題でして、それは、行動の予測可能性の問題ともいえます。しかし、それは複雑系の非線形数学という厄介な議論へと入り込んでいくのです…。それを責任の議論に持ち込めば、答えが出ない。それでは、白黒はっきり付けないといけない裁判ではお話にならない」
 やや興奮してきたシュトラウス氏は、一呼吸おき、
「それだけじゃありません。脳の構造は遺伝子が主な素因であり、また、経験による脳の可塑的変化は、それに大きな影響を与える幼少期では、家庭環境や学校生活が主要因となると考えられます。ですが、その話を突き詰めると、今の自分の脳の構造は、自分を産み落とした親の責任だ、などという話になり、それも元を辿っていけば、祖父母、曾祖父母、そのまた先祖…などと延々と責任転嫁を繰り返す様な議論になりかねない。それは、最終的には、アダムとイヴが悪いのだという議論となり、2人をお創りになった神が悪いのだというブラックジョークと化します。そんなことを言っても仕方が無いのです」
 そこで、シュトラウス氏は、息継ぎのためか言葉を区切ると、また果敢にも喋り始めた。
「だから、聡明な〈科学技術系法律家《テクノジュリスト》〉たちは、自由意思という曖昧かつ面倒な概念を、刑法議論の俎上から外して物事を考えることにしたのです。しかし、それは責任という概念を無くすことを意味はせず、自由意思から来る責任の代わりに、社会的な責任を見積もることにした訳でして。そうして生まれたのが、新しい法体系なのです。つまり、当事者の社会的価値によって量刑を確定するのです。それは、恩賞等を考慮して多少の調整を加えた従来の法体系ではなく、当事者の社会的価値を天秤にかけることにより無罪を含めた結論を出せる新しい法体系になります。そして、この新法体系への移行は、何らかの秘密裏の形で量刑や裁判結果に手が加えられてきた昔からの状況を鑑みると、妥当な変更だったと、私は確信しております」
 ジョゼルは、黙ったままであった。自分が医者であるからには、神経科学上の議論で、自由意思のことが問題になっていたのは学生時代にも既に学んでいた。しかし、それが法律の議論にまで波及し、既に法体系を大きく変えているとは…。
 その沈黙を破ったのは、またしてもシュトラウス氏であった。
「あなたの奥さんを殺したクローヴィス・フォン・ビスマルク博士は、既に何十万もの命を救っておられます。彼は、その若さにも関わらず、植民惑星で猛威を振るっていた新型ウィルスのワクチンを、幾つも開発した優秀な科学者であり、現在も、5つの惑星で猛威を振るっている、それぞれ違う種類のウィルスのワクチンを開発するために、日夜、アンドロイドや人工知能が詰まった巨大な自動実験機器たちを指揮して、研究開発を進めているのです。そんな男に惹かれたあなたの妻は、彼の愛人と化し、そのうちに婚姻を迫ったものの、自分が務める製薬会社の一族の娘と結婚していたビスマルク博士は、地位を追われるのを恐れ、迷った挙げ句、あなたの妻を殺したのです。しかも、その犯行は、植民惑星の一角で、あなたの妻を観光客の見ている中で転落死させるという、極めて場当たり的、かつ、衝動的なものでして。それを考慮した上で、社会的価値の天秤にかければ、どちらが重くなるかは必然となります」
「しかし、それは故意に衝動的なものと見せかけるということもできるのでは?」
 ジョゼルの質問に、シュトラウス氏は首を横に振り、
「いいえ。私の説明の仕方が悪かったですね。仮にそうだとしても、それは何ら影響を与えません。それは、自由意思の議論の範疇にある話ですから、全く考慮されないのです」
 ジョゼルは、顔をしかめた。
「では、ビスマルク博士は、裁判の場で、自分より価値の無いと判断されうる人間を、殺したい放題ということ?」
 シュトラウス氏の表情は、何とも読み取れない、曖昧模糊としたものになった。それは吹き出しそうな表情でもあれば、悲しみに暮れた表情にも見えた。
「いえ、大量殺人鬼は、社会から排除されます。被害者の価値というのは、加算的なものでして」
 ジョゼルは、卒倒しそうであった。いつの間に、世界はこうなってしまったのか? 彼は、自分が立体テレビでニュースを見ていたはずであることを思い出したが、それは本当にニュースだったのだろうかと思った。何か、具体的な意味の無い商品を紹介し、誰が何人死んだという統計だけを申し立てるニュース。それは、この社会の変化について、全く無力な情報であった。
 そして、シュトラウス氏の無慈悲な声が響いた。
「もはや、刑罰とは個人に対するペナルティではありません。そうではなく、社会的な便益の為に、不利益を齎す部品は外してしまおうという発想なのです。ビスマルク博士は、不利益も有りますが、それを遥かに凌駕する利益が有る為に、歯車の一つとして保存されます。逆に、浮浪者は、何の利益も齎さない為、1つのパンを盗むことで死刑が成立するのです」
「なぜ、死刑なんだ。終身刑で良いだろう」
 ジョゼルは、堪り兼ねて、吐き捨ているように言った。
「いいえ、終身刑とは発想としては、“使える部品を道具箱にしまっておく”というものです。来るべき日が来たら、使えなくなった部品の代わりに、その部品を取り出して使うのです。ですから、何にも使えない部品は片付ける必要すら無い。まあ、受刑者の中には、治験の被験体も必要なので、そこに空きがある場合には、優先的に死刑から格下げされて、終身刑にされます」
 シュトラウス氏は、ジョゼルの顔を覗き込み、ニッコリすると、

コメント(16)

「いや、これは今年120歳を迎える、20世紀を生きたことのある私の勝手な主張なのですがね。最早、社会というのは、あなたが今抱えている様な個人の感情の問題には取り合わないことで成立しているのです。あなたが賛成であろうと、反対であろうと意味は無い。社会として機能していれば問題ないのですよ」
 そうして、シュトラウス氏は、嬉しそうであり、疲れきってもいる表情で、
「しかも、この社会を生み出したのは、このニュー・ベルリンを生み出したのと同じ、我々の一票なのです。一人一人が同じ責任を持っているのです。つまり、あなたと、あなたに憎まれている私も、等しい責任を持っているのですね。有罪にならないビスマルク博士も、羽虫のように簡単に死刑になる無価値な人々も」
 ジョゼルは、その言葉に打ちのめされた。まるで自分の妻の死について、相手の責任を問えないのは、自分のせいであるかのように思えた。“この様な事態を見据えて、行動せよ”。老人は、そう語りかけてきているのである。
「僕は、悲しみに打ち拉がれる権利や復讐を行う権利も、人間には認められていると思うがね」
 ジョゼルの苦し紛れの言葉に、シュトラウス氏は、
「ですが、他人に悲しみを与えたり、復讐する動機を与える権利は認められていないのでは? だいたい、自然権というのは非常に古臭く、また、非常に人工的な考え方で、極めて不自然です。その自然権という名前とは裏腹にね」
 シュトラウス氏は微笑し、
「そもそも、自然状態に於いて、全ての個体に平等に認められているものなどあるでしょうか? 自然とは、サバンナに生きる動物たちのように、過酷な競争を強いるものです。その代わり、人間は知性がありますから、全体としてうまくいくやり方を考える必要もあります。そうして生まれたのが、保険であり、社会保障なのです。それは、相互扶助であり、最も人間らしい対応ですよ」
 保険。このとき、ふと、以前渡されていたシュトラウス老弁護士の名刺の裏に書かれていた肩書きを思い出し、彼はカードケースから名刺を取り出して、再びそれを見た。その裏側には、肩書きがつらつらと羅列してあり、一番下に、〈リボルト・エンパイア総合損害保険株式会社 常任顧問〉という文字を見つけ、ジョゼルは、やっとその意味を理解した。
 リボルト・エンパイア総合損害保険株式会社。それは、リボルト・エンパイア・エレクトロニクスのグループ会社であり、本体は、世界最大のアンドロイドメーカーであり、ニュー・ベルリンが誇る大企業であった。
 ジョゼルが考えていることに気付いたのか、シュトラウス氏は、またもや先手を打って話し始めた。
「昔からそうなのですが、ニュー・トキオでは、自動車保険に、自賠責保険という制度があります。これは原則強制加入の保険でして、交通事故での基本的な補償は、そちらからなされるのです」
 シュトラウス氏は、にっこりし、
「ここ、ニュー・ベルリンでは、アンドロイドの先進都市として、そして、全ての国民の幸福を願う都市として、自賠責保険に近い形での、悲しみに対する補償を始めているのです。それは、完全強制加入の保険でして、ここに生きる人々には無償で提供される−−まあ、無償とは言っても、税金から捻出されているのですが−−社会保障プログラムとなっております。もしかすると、ニュース嫌いの、あなたはご存じないのかも知れませんが」
 シュトラウス氏は、独特な「クッ、クッ」という笑い方をした。それは、まるで悪魔のようであり、ニュー・ベルリンの昔話となっている、ファウストを破滅に誘うメフィストフェーレスのように思えた。
「その制度は何年前から行っているんだ?」
「つい最近ですよ。もっとも、遡及して施行できる事案については順次、対応させて頂いておりますがね」
 ジョゼルは、「ああ」と、力なく声を漏らした。そう、死んだはずのサーシャが見つかったのも、彼女の代わりに、精巧なアンドロイドが用意されたからなのだ。
 ここで、ジョゼルは1つの可能性を思いついた。それは、相手の急所を狙っていると確信した。
「法体系が、社会的価値を天秤に載せるやり方に変わったのも、リボルト・エンパイア・エレクトロニクスが関わっているのかね。もしかして、アンドロイド法曹が増えたことに関係している?」
 シュトラウス氏は、鼻で笑うと、「どうでしょうね」と言うだけであった。だが、その不自然な反応は、ジョゼルを勇気づけた。そう、アンドロイドたちは、曖昧さを嫌う。ゆえに、自由意思という、人間が自分たちに備わっていると信じてやまないが、科学的な考えを突き詰めていくと、その存在が疑わしくなっていくものは、アンドロイドたちの合理的な思考から排除してあげる必要があるのだ。
 ジョゼルは思った。アンドロイドを人間の法律の考え方に適合させるのではなく、法律がアンドロイドの思考方法に歩み寄っており、それは歪んだ圧力の下、進められているのだ、と。
 シュトラウス氏は、膝を押さえつつ、ゆったりと立ち上がりながら、
「今は亡き、自由の国の冒険者についての昔話があります。『チャールズ・リンドバーグが大西洋を単独横断したそうですよ』と言われたヘンリー・フォンダは、『そんなの大したことじゃない。委員会を結成して横断に成功したというのなら驚きだが』と答えたといいます。集団は困難です。ですが、集団は尊いのです。個が集団のように振る舞う時代は終わったのです」
 ジョゼルは、首を傾げた。シュトラウス氏の言葉は、彼が組織に属して苦労した経験を持つが故に、彼の左脳にある〈解釈装置《インタープリター》〉が、そう言わせているようにしか思えなかった。シュトラウス氏は、ずっと大きな弁護士事務所や大企業の契約弁護士だった。しかし、彼は、自分の決定で苦労したのだ。それは彼以外に、どこに帰属させれば良い責任だろうか? ジョゼルは、そんなに組織で苦労するのが嫌なら、自分のように、もっと人生の早い段階で開業すればいいのだと思った。
 孤独なカウボーイ的な価値観で人生を送るか、それとも偉大な組織人として人生を送るかは、それこそ個人の決定でしかないだろう。ジョゼルは、組織に属するなんてのは常に、ある程度、産み出した価値を取り上げられることだというのを知っていた。つまり、損なのだ。あとは、それを了承して、安定を取るかどうかの問題であって、受けた損を取り戻す為に世の中の価値観を変えてしまう、つまり、市民全員を社会という巨大な組織の中に完全に取り込んでしまうというのは、愚かなことのように思われた。
「シュトラウス先生。今のお言葉は、個人主義の否定ですか? それなら、あなたも、個自身が単なる一個人であることを忘れない方が良いでしょうね。全体の便益というのは、暴力を容易く正当化しますから、自分の権利を守れなくなりますよ」
「大丈夫」
 シュトラウス氏は、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「私は、たかが個人では無いんでね」
 百年以上前、ニュー・ベルリンの基礎を築いた国家で、同じ様な現象が起きていたことをジョゼルは知っていた。
 人間性というのが、社会性だとされ、それが生物学的な議論、そう、優生学が猛威を振るった。
 そして、もし、神経科学やソーシャルブレインズの研究成果が、社会性いうものの科学的根拠を次々と解明し、“有るべき人間の姿”というものを定義し始めるなら、ジョゼルのクリニックに来る精神病患者や、知的障害者などは、社会性が欠けるが故に、人間性が低い、もしくは人間では無いとされるのだろうか?
 ジョゼルは、寒気を感じた。それは、彼が個を保っているから感じる寒気かもしれなかった。おそらく、この寒気は、シュトラウス氏のような思考法を身につけると収まるだろう。だが、それが何を意味するのかもジョゼルは分かっていた。
 彼は果敢にも、シュトラウス氏に、先程の社会性と人間性についての疑問をぶつけたが、氏は、「私の専門外ですので」と薄ら笑いを浮かべ、それ以上は何も言わなかった。そうして、シュトラウス氏は、ジョゼルに背を向け、部屋から出る扉のところまで歩き、その扉を開けると、身長2メートルくらいの2体の屈強そうな人型の警備ロボットたちが部屋に入り込んできて、ジョゼルのところに向かって来るシュトラウス氏の後に続いていた。
「私は、この行為も正しいと確信しております」
 力なくソファーに腰掛けているジョゼルの目の前に不敵な笑みを浮かべて、聳え立つようにシュトラウス氏は立っていた。そのとき、ジョゼルは、この光景は、仮にシュトラウス氏の手によって録画されていても公開できないだろうと確信し、スコッチのグラスを手にして立ち上がると、最後の一口を飲むフリをして、シュトラウス氏の顔面に中身をぶちまけた。そう、自分の人生と引き換えにして。
 シュトラウス氏は、それでも動じずに立ち尽くしており、冷ややかな声でロボットたちに何かを命じると、ジョゼルは即座に捕縛された。ジョゼルが抵抗することを諦めてうなだれていたところ、一体のロボットが、ジョゼルの腕を捲り上げ、静脈を探し当てると、注射器を取り出し、針先まで液を充填させる為に、針先から液が出ているかを確認し始めた。
 ナルソニンだ。ジョゼルは、注射器の針先から漏れた液体から漂う、独特な甘い香りが漂う死体の様な匂いから察知した。ナルソニンは、脂溶性の何とかという薬品と調合して注射されることで、脳血液関門を通り抜け、海馬などの記憶に関係する部位に選択的に働きかけ、ニューロンのシナプス結合を無効化するなどして、主に最近の記憶を曖昧にする作用を持っている。これは、PTSD患者に対して、精神科でも行われる治療法であり、従来の薬剤による対症療法ではなく、“精神科の外科的手術”として十年ほど前から注目され、今では卑近になってしまっている。
 しかし、ジョゼルは知り合いの研究者から、ナルソニンの亜型では、調整可能な時間単位で記憶を曖昧にすることができるという話をオフレコということで教えてもらったことがあった。その単位とは、ジョゼルは数ヶ月レベルだと聞いていたが、もしかすると秘密にされているだけで数年単位の作用も可能なのかもしれなかった。
 ジョゼルは、今後の自分の運命を直感した。自分は、家に送り返されるだろう。その上で、裁判の記録や家にある関係書類やデータは消去され、妻の死は無かったかのように調整されるのだ。
 きっと、気付いた頃には、自分は再び妻と一緒に生活ができている。しかも、何の疑いも無く。ジョゼルは、サーシャの両親のことを考えた。探偵の説明によると、両親たちは限りなく幸せな状態にあるのだ。それを疑ってはならない。
 ジョゼルの腕に、針が差し込まれた。冷たい感覚と、独特な匂いが押し寄せてくる。そうして、徐々に曖昧になってきたジョゼルの意識に、最後に浮かんだのは、警備ロボットの腕に書かれた〈調整機構《アジャストメント・システム》〉という文字であった。

***

「ルイス・キャロルって、精神異常者だったのね。たった一人の女の子のために、『不思議の国のアリス』を書いただなんて、酷く恥ずべき行為だわ」
 22世紀になってから、2年ほど経ったある日、ジョゼル・ミルテラの妻ジョゼフィーヌは、タブレット端末で、芸術雑誌を読みながら、夫に同意を求めた。
「そうだね。でも、今では、みんなのものになっているんだから、そのことについては感謝すべきなのかもしれない」
「そう言って、あなたは、いつでも精神異常者に優しいのね」
 その皮肉な口調から、ジョセフィーヌは、冗談の中に多少の軽蔑を込めて言ったようにジョゼルには思われたが、彼は別に怒る訳でもなく、
「職業柄、そうであるべきだからね。これも、みんなのためさ」
 それを聞いて、妻は満足そうであった。“みんなのため”。それは、妻のお気に入りの言葉であり、もちろん、全ての人々が好きな言葉であった。ただ、ジョゼルのクリニックに来る様な人々を除いては。
 その時、妻が“みんなのため”に、部屋中に聞こえるように流しているクラシック音楽が、次の曲に差し掛かった。それは、ピアノ曲であり、妻が気に入って、何度も弾いている曲でもあった。曲名は、『愛する人々のために』。
 だが、ジョゼルは、原曲名を知っていた。時代に適合した、適切なタイトルにする為に、曲名は捻じ曲げられたのであり、本来は、『エリーゼのために』という曲名だった。
 そこまで考えて、ジョゼルは自分の頭を左右に振った。そんなことは考えるべきではないのである。どうも、自分は精神疾患を負った人々と接することが多いせいか、そのようなことを考えてしまう。彼らの多くは、特定の人間に執着していた。大学のとき、サークルで一緒だった女性とか、会社の後輩の男性とか、酷い人になると、一度、電車の中ですれ違った女性にどうしても遭いたいと願っている人もいた。それは、明らかに精神疾患であり、治療を必要とした。特定の人に執着するというのは、原始的な反射の賜物でしかなく、それは遺伝子という生物的な仕組みに支えられた構造上の結果でしかない。つまり、それが行動にまで影響してしまうというのは、優れた文明人にとっては、欠陥でしか無いのであった。
 そう、パートナーというのは、人工知能が妥当な結論を導いてくれた結果、決まるものであり、それは子どもの優秀さや離婚率などの総合評価で決まるものなのだ。それ以外の価値は存在せず、当然ながら、唯一無二の答えなのである。
 とはいえ、ある人について、その人と結びつくべき人が複数出てしまう可能性はある。だが、もし、そうなったとしても、それは、フリードリヒ・リスト派の比較優位の原則とベンサム的思考法に従い、全体が得られる価値もしくは効用が最大限になるような決定がなされるのである。
 全ては、最善である。ジョゼルは、妻が居間に飾っているポスターを眺めた。そこには、このニュー・ベルリンと、その社会が達成した偉業が描かれ、その中心には、リボルト・エンパイア・エレクトロニクスの元会長であり、現ニュー・ベルリン市長の男が、まるで神様のように描かれているのであった。

***

「食欲が無いの」
 久々の夫婦での宇宙旅行。ミルテラ夫妻は、ニュー・ベルリン記念宇宙港のカフェで軽食をとることにしたが、ジョセフィーヌはそう言って、珈琲しか注文しなかった。
 ジョゼルは、心配した。最近の妻は、本当に必要最小限しか食べておらず、この前など、ジョゼルが輪になっているドーナツを食べる前に、「このドーナツ、とても美味しいから分けてあげよう」と申し出ると、彼女は「じゃあ、真ん中だけ頂くわ」と言って、穴の空いたところをちぎる動作をして、それを美味しそうに食べている始末であった。
 とはいえ、そんな妻であったが、体調が悪いどころか、すこぶる元気であったのだ。ジョゼルは、その事実について最初は納得がいかなかったが、偉大な人物の中には食事を殆ど採らなかった人間もいるという逸話を思い出し、妻もその一人なのだと、その音楽的な才能を思い出しつつ、自分を納得させた。一方、ジョゼル自身は、毎日、チーズがたっぷりかかったパスタや脂ぎったソーセージを食べてすくすく成長しており、食生活を改めるつもりは全く無かった。
 軽食を済ませた夫妻は、カフェを出て、搭乗準備に取りかかった。
 新婚以来の宇宙旅行であったが、透明なエレベーターの中から眺める宇宙港の光景は昔と特に変わらず、特に荷物検査を行う流れは、仮想現実作品の中で体験したことがある21世紀初頭の空港のものと変わらないものがあり、四角いゲートをくぐらされたり、荷物にX線が照射されたりする場所なのであった。
「今見ると、君のパスポートだけ新品だね」
 夫妻は検査場の列に並び、待っている間、ジョゼルが、妻が手にもって準備していたパスポートを借りて、ぱらぱらとめくっていたのだが、ふと、そのことに気付いたのだった。しかし、その夫の疑問に対し、ジョセフィーヌが、
「5年くらい前に失くしたじゃない。覚えて無いの?」
と、キッパリ言うので、ジョゼルは、そのようなこともあったな、と、さっきまで記憶の片隅にも無かったことを、すっかり思い出し、それ以上は何も尋ねなかった。
 検査の番が来て、ジョゼルは、金属探知器に引っかかり、ベルトを外すと、難なくゲートをくぐり抜けた。
 次は、ジョセフィーヌの番であった。
 ピーッ、ピーッ。
 再び金属探知器が間の抜けた音を出し、危険を報せると、係員はベルトを外し、貴重品を取り出すように伝えた。
「ベルトはしていないし、何もポケットなんかには入れてないわ」
 係員は明らかに慌て始めた。そして、X線照射をしてカバンの中身を観察していた、もう少し年長の係員のところに飛んでいき、何かを話すと、即座に戻ってきて、ジョセフィーヌに再度、ゲートを通るように指示を出すと、今度は鳴らなかった。
「こちら側の手違いのようでして」
 何度も謝る係員に、ジョゼルは、社会の先輩として、「誰だって、生きていれば過ちは犯すものだよ」と許すと、ジョゼルは妻に微笑みかけ、妻も愛情のある微笑みを返してくれた。
 ジョゼルは思った。起きてしまったものは仕方が無い。そんなものは責めても、時間は戻らないし、元通りにはならないのだ。そんな無意味なことをしても、意味は無いのである。
 彼は、通路の向こう側を見た。そこには、警備ロボットと揉めている若い男がいた。バカらしい。ジョゼルは思った。感情に左右されて生きるなんて愚かしいことである。そんなことをしても、何も戻らず、全体としてはマイナスなのだから。
「ジョゼルさん! 奥さんは、アンドロイドなんですよ! あなたは騙されているんです!」
 揉めている男が、ジョゼルの方を見て、そう叫んだ。
 ジョゼルは、戦慄した。彼は、その男のことを知らなかったし、何よりも、妻への暴言が気になった。
 だが、男の顔を見ると、何か、昔会ったことがあるという懐かしい気持ちが微かにだが、沸き起こってくるのだった。しかし、それはすぐに、この男に対する憐れみに取って代わった。
 ジョゼルは、この男が可哀想だと思った。身なりからすると、浮浪者の類いではなく、むしろ、収入の良い仕事に就いていて、社会的地位も高そうだ。それなのに、このような陰謀論的な思考に陥っているのは、神経が参っているせいだろう。過重労働か、さもなくば、家庭的な問題か。
「落ち着いてください。妻は、私が出逢ったときの妻と何ら変わらない、美しく、陽気な妻ですよ」
 ジョゼルは、警備ロボットを押しのけて、男に近づくと、そう言って、男に微笑みかけた。そして、ジョゼルは、自分のクリニックの名刺を男に渡し、
「あなたは、きっと疲れているんです。私で良ければ、お話を聞きますから」
 男は、それを受け取り、しげしげと眺めた。そうして、男は唇を噛み、ジョゼルの顔をしっかりと見つめて、妙な笑みを浮かべると、「僕に出来ることは、ここまでです。ありがとう」と言い残して立ち去った。
 何が、“ありがとう”なのだろう?
 ジョゼルは意味が分からなかったが、立ち去る男の背中に向かって、ぼそりと「どういたしまして」とだけ言って、妻の下へと戻った。
 「大丈夫?」
 妻の心配そうな顔に、ジョゼルは、自分がしっかりとしなければならないと思いつつ、妻の肩を抱いて、「何でも無いよ」と言うと、2人を待つ、星間連絡便へと急いだのだった。

***

 真っ暗な宇宙空間。既に、フライト開始から14時間が経過し、妻は疲れた為か、既に寝静まっていた。
 それを見計らい、ジョゼルは、カバンからA4の紙の束を取り出し、隠れて読み始めた。ここは、プライベートルームであり、監視装置は皆無だとされている。なので、気付かれる心配は無いだろうと思い、ジョゼルは寛ぎながら、その文章に目を遣った。
 それは、診察をしている患者が、自殺する直前の診察の際に渡してくれた自作の論文であり、タイトルは、『もし、エリーゼが2人いたならば』というものであった。
 ジョゼルは、その論文の続きを読み終えると、結論に満足した。それは、「テレーザ・マルファッティが2人いても、ベートーベンは幸せにはならない」というものであり、唯一無二だからこそ必要以上に愛し、振り向かせようとするのだと書かれていた。
 ジョゼルは、妻を撫でた。彼女が無事で側にいてくれることこそ、唯一の願いであり、他の人なんてどうでも良いのだと思うのだった。そして、この社会に於いては、その願いは病んだものであり、ゆえに自分は精神異常者なのだと思うと、それはそれで良いのだと思った。
 ジョゼルは、部屋が少し寒い気がしたので、自分の上着を取って、妻に掛けてあげた。すると、ひらひらと紙が舞い、自分の足下に落ちた。
 何だろう? ジョゼルは、自分の上着から落ちてきた、その紙を拾い上げた。それは、見たことも無い名刺であり、そこには、弁護士という肩書きに添えて、“ジョー・アフレック”という名前が書かれていた。
 ジョー・アフレック? ジョゼルは、そのファミリーネームと職業を見て、サラ・アフレックを思い出した。
 ああ、あのやせ細った女性患者は、自分の弟が優秀な弁護士と言っていたっけ。ジョゼルは、それを思い出すと、その名刺を丁寧にカードケースにしまった。
 そうか、空港で騒いでいた、あの男は弁護士だったのか。ジョゼルは納得すると、座席に深く腰掛けた。
 旅行から帰ったら、自分は、あの若い弁護士を救ってあげなければならない。彼にはカウンセリングが必要である。そのつらさを取り除いてあげるための、優しいカウンセリングが。ジョゼルの心の中には、既に、そのような職業的意識が込み上げていた。
 そして、彼は、隣ですやすやと眠る妻を見て、「みんなのために、だね」と囁くと、自分も目を瞑り、限りない夢の世界へと出かけていったのだった。きっと、夢の世界でも妻と会えると信じて。
すみません、長くなりました。。
法律的なSFというのも面白いなと思い、自分の興味のある分野でまとめました。
『ソーシャルブレインズ入門』という新書や、『〈わたし〉は、どこにあるのか』というガザニガ博士の本を参考にしています。
いつも思うのだけど、おたけさんの作品を読むと士郎正宗を思い出します
かれのは漫画だけど、小説で士郎正宗やられてる気がします。
まるでミスター都市伝説・関暁夫が予言する未来を見ているかのような感覚になりました。
人工知能を搭載したアンドロイド、仕事もアンドロイドに奪われ、選別される人間たち、全てが予言書のようです。

法律に関するところは、学生のときに学んだ法哲学など基礎の講義を思い出しました(笑)。
別れた恋人を忘れる為に、自らの意思で
記憶を操作する、という映画があったような…
ジョセフィーヌを取り戻したジョゼルは
とても幸せそうで、彼に今の奥方がアンドロイドだと
気付かせないネットワークも整っている様ですが
記憶を操作される前のジョゼルは、こんな未来を
望んでいたのだろうか…?と考えると
複雑な気持ちになりますね。
どんな人生でも、人に操られるのは嫌だなと
思いました。
>>[7]
感想ありがとうございました!
法律について考えて欲しかったので良かったです。
たとえば、ドイツでは、外国政府の機関や元首などを侮辱した場合に最高5年の禁錮刑を科すドイツ刑法第103条というのがあるそうで。
こんな形で、国によって法律は全然違うでしょうし、条文だけでなく、何を重視するかで大枠も異なると思うんですよね。それって何だかスゴいことだなと思い、このようなものを書きまして。

103条は、これまでに適用された例はほとんどないらしいですが。
>>[8]
功殻機動隊大好きなので、嬉しいです!
社会派SFって感じですかねー
もっと、キャラクターを功殻みたいに魅力的に描きたいものです。
>>[9]
毎度感想ありがとうございます!
法哲学良いっすね(笑) そういう本を読めば、もう少し法律の議論が深まるような予感がするので、長編にするときは何か読んでみますー

アンドロイドのところについては、アニメ映画の『イヴの時間』やSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』も参考にしております。
今後、こういう議論は増えるでしょうねー 日本は、大御所の先生もいらっしゃいますし、これからの目玉産業でしょうから。
>>[10]
忘れたり、知らない方が幸せということはあると思うんですよね。でも、それで良いのかという疑問もあります。当人同士で黙っておくのは優しさかもしれないけれど、そこに行政(制度)や企業が関わってくると、それってどうなの?と思います。

代用は、端から見てると特に怖いです。故人を人工知能として蘇らせて話しかけてるのをテレビで見て不気味でした。

そうですよね! どうにもならないというか、手に入らないというか、そういう時に生まれるものもあると僕も思います。タイムマシンの発想も、そうだと思いますし。みんな後悔していることがあるからこそ、タイムマシンを良いな、と思うし、登場人物に共感するんでしょうから。
>>[11]
その映画は、『エターナル・サンシャイン』ですね! けっこう好きな映画です。

そうですよね、記憶を曖昧にされる前のジョゼルなら、妻が死んでいて、蘇らないことは分かっているので、アンドロイドだと、すぐに看破するでしょうから、望まないと思います。

他人に操られるのは嫌ですね! それがいくら、こちらの為になるとしても、相手は相手の利益(自己満足を含む)の為に行うんでしょうから、何だかな、と思ってしまいます。

ログインすると、残り2件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

半蔵門かきもの倶楽部 更新情報

半蔵門かきもの倶楽部のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。