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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第19回 かとう作「二月の桜(5)」

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※連作作品です

 改札を抜けて駅を出ると、夜に溶け出そうとしている夕闇の街を、小雨が濡らしていた。僕は傘を持っていない。しかし、急いで帰る気にもなれなかった。家では妻と息子が待っている。 
 日曜の夜、傘の波と濡れながら足早に急ぐ人々の中を、僕は時たま誰かと肩をぶつけながら、ぼんやりと歩いた。まるで要塞のようにニョキニョキとタワーマンションが生えた谷間を十五分ほどすぎたところに、僕の住処がある。小さな、隣家とこすれるように立つ建売の、きっと何もなければここで死ぬまで過ごそうと考えていた、滑稽な。のろのろと歩きながら、僕はこれから通ろうとする家路を想像した。なるべく他のことを考えたくなかったからだ。だけど、想像の中の家路は歪んで、うまく僕の家まで繋がっていかない。 

「疑ってるの?」 
 夫だけ先に帰して、梢は僕の目をまっすぐ見ながらそう言った。そして少し笑ってカップに目を落とし、「そうよね」と独り言のようにつぶやいた。まるで自分を笑っているかのような含みのある言い方だった。そんな梢の顔を、僕は初めて見たかもしれない。いつでも自由だった梢。 
 梢はあまり多くのことを語らなかった。それでも、 
「あの子は紛れもなくりっちゃんと私の子供なんだから」 
 とだけ、言った。意志を感じる唇だった。 
 僕は辛うじて、言葉を繋いだ。 
「どうすればいいんだ」 
 ただ呻いたと言った方が正しい。「どうすればいい?」「なぜ?」それだけが僕の頭の中を駆け巡っていた。梢が短く息を吐いて、紅茶を一口含む。厚くも薄くもない、どう形容しようとも、梢のものとしか言いようがない唇。この赤く蠱惑的な物体が、遠い日に僕の全身を這っていたかと思うと、そして耳元でたくさんの言葉を囁いたかと思うと、僕は十年前のあの出来事が、まるで夢のように思えてくる。今の僕からは、途方もなく遠い場所。 
「好きにしていいのよ。責任はあなたにはないんだから」 
 梢は責任という言葉を強調した。 
「私が勝手に産んだのだし。だけど、息子があなたに会いたいと望んだら、それを叶えてあげるしかできない」 
 僕は梢の考えていることをいまいち掴めない。それで、最大の「なぜ?」を発した。 
「なぜ産んだの?」 
 梢は長い睫毛を伏せて、しばらく考え込んだ。そして言った。 
「あなたと私の子供だからよ」 

 もし十年前のあの日、僕が逃げなかったならどうなっただろう?と考える。僕は梢を愛していたんだろうか。また、梢は僕を愛していたんだろうか。
 家へと続く、陰鬱な蛍光灯に照らされた廊下を歩くたびに、まるで泥沼に足を踏み入れるかのような心持ちになる。以前にも似たようなことがあった。疲労した目を、青白く点滅する光が不快に刺激する。その度に足はぬかるみにはまったかのように、どんどん重たくなる。そして僕はその度に考える。 
 本当に、これでよかったのか? 
 疑問を断ち切るかのようにしてドアを開ければ、妻はいつもそこに立っている。まるで僕の泥にまみれた足音を聞きつけて、今すぐに足を拭いてやろうとそこで待っていたかのように。 
「お帰りなさい」 
 耳に染み付くように馴染んだその声に、沼地の堂々巡りの思考はそこで停止し、またいつもの日常に埋没するはずだった。しかし今日は違った。 
「梢さんの子供には会えたの?」 
 その時僕の時間が止まった。本当に一瞬止まったのだと思う。 
 梢に会うことで十年前に無理矢理引き戻されて、僕は所在を失った。そして泥まみれの帰宅とともに無理矢理「現在」に埋没しようかと思えば、妻の一言によってその全てが逆回転し始めるような感覚に陥る。 
 つまり僕は激しく動揺し、動揺しすぎて一瞬のうちに全てをやめた。「ただいま」を言うことも、考えることも、弁解することも、問うことも、呼吸をすることも。 
 しかし、妻はまるで何も起きなかったかのように、続ける。 
「ご飯まだ食べてないよね?」 
 そのせいで、さっきの一言がまるで、「雨降ってなかった?」というような、今まで何回も繰り返されたなんでもない質問のように思えてきた。しかし、決してそのようなことはない。僕の妻は尋ねた。「梢の子供には会えたのか?」と。 
 その答えがNOであることは、もちろん僕は知っている。 しかし口を開くのには、非常な力が必要に思えた。
 妻が質問だけ投げかけて、僕の答えを待たずに台所へ消える。いつものように。そのおかげで僕は解放される。時間と思考と行為の、全ての停止から。そして考え始める。妻が今言ったことは? 彼女は全て知っていた? 梢と妻との間で、どのようなやり取りがなされたのか? 
 疑問が泡のように浮かんで思考が濁っていくだけで、何一つ建設的な結論を結ぶことはなかった。僕はどうすればいいのかわからなかった。ただ、何もかもが終わるのではないだろうか、という淡い予感がして、それに対して特に何も思っていない自分に気がつくだけだ。妻を失い息子を失うとしても? 結局梢がここにいないという事実に変わりがないからだ。だけど何も感じないように思えたのは、きっと僕の意識が現実から乖離し始めたに過ぎない。そんな危機感さえも、愚鈍なまでにぼやけていた。 
 そうして僕はまるで馬鹿のように、ただ妻を追って食卓に着いた。間髪入れず、妻が食事を僕の前に置いた。そこで僕は目を疑う。それは皿にすら盛っていない、惣菜パックに入ったままのお好み焼きだった。冗談のように大きな。レンジで加熱してからしばらく放置したようで、店名が表示されているシールが黒く変色し中に冷えた水滴が滴っているのが見えた。
 僕が知る限り、食事は全て出汁から手作りして、外食や市販の惣菜を嫌う妻としては、これは異常事態だった。どうしても出来合いのものに頼るときでも、非常に申し訳なさそうな顔をしながら、せめて皿に盛り付けてくれるのが常だった。
「ごめんね、今日はそれでいいですか?」
 妻はいつもの微笑を崩さない。僕は何も言わずに頷く。しかし、どうしてもそのお好み焼きを食べ始める気にはなれなかった。ビニールを剥がし、プラスチックの蓋を開け、場合によってはもう一度加熱し、「おい、もっとマシなものはないのか」などと小言でも言う。そういう、当たり前の行為にさえ、僕は意識を合わせることができなかった。
 どうしようもなく、どうしたらいいのかわからなかったのだ。そうか、僕はただの馬鹿だったのだ、生まれてから今までも。ぐんにゃりと湿ったお好み焼きを眺めて、そのことに気づいただけだった。
 それを見て妻がため息をついた。妻のため息? 僕は彼女がため息をつくのを初めて見たのじゃないだろうか。だって、いつも大抵彼女は微笑していたから。それに気がついて僕は急に怖くなった。妻が何も気がついていないと、だから笑っていられるのだと、僕は今まで考えていたのだった。
 そして沈黙を破ったのは妻だった。
「梢さんに聞いたの、何もかも」
 まだ妻は笑っている。
「彼女、感じのいい人ね」
 その笑顔の意味が僕にはわからない。女はよくわからない時に、よくわからない笑みを見せる。妻も、梢も。しかし、その妻の笑みがひゅうっと溶けて消えた。そしてテーブルの上のお好み焼きに視線を落として、目を伏せる。なぜだか昼間の梢の長い睫毛を思い出した。
「お子さんの名前、律っていうそうよ」
 その一言で十分だった。僕が今の今まで知らなかった、何もかもを知るためには。
 僕の見えないところできっと繰り広げてられていた女たちの戦いも、梢の本当の気持ちも。そうか、梢は子供に僕の名前をつけたのか。あんなにもはっきりと、「あなたの子供だ」と告げことの証明は、こんなところにあったのだ。僕はそれをどう捉えたらいいのかわからない。
 「また逃げるのか?」昼間の梢の夫の言葉を、僕はぼんやりと思い出していた。これから僕にきっと襲いかかるであろう出来事について思いを巡らしてみる。出口のない悪夢のように、やはりそれは思考の中でまともな像を結ばなかった。そして現実に起こりうることは、その頼りない想像以上に質の悪いものだった。それでもその晩の僕は、馬鹿のように押し黙っていることしかできなかったのだ。

コメント(10)

このシリーズは、私は目を半分開けながらおそるおそる読む感じで読んでます(笑)
このような状況になると何を思うのかがわからないので、主人公自身はまさに混乱しているのかなあ、的なかんじはとても良く伝わってきました。

小説の感想とはズレるかもしれませんが、かとうさん自身が女性なのに、男性を主人公にした挙げ句、その男性に「女というものはよくわからない」的な口きかせることが、かとうさん自身が何もかも見透かしていらっしゃるような気がしてすごいと思います。

私は人生経験的にも、梢のようなキャラは200%書けないので、この小説を読むことで何か勉強になる気がして読ませていただいています。
>>[1] おそるおそる読んでいただきありがとうございます(^ω^)まさしく、混乱しかしていない主人公を書きたかったので、伝わって安心です。
私が何もかも見透かしているということもないと思うんですが笑、たぶん脳みそが男っぽいところがあるのかもしれません。
私の作品から学ぶことは特にないとは思うのですが、それでも読んで頂けただけで嬉しいです!明日はどうぞよろしくお願いいたします。
読み始めも、読んでいるときも、自分はドキドキが止まりませんでした。

主人公と同様に動揺してたら「それって、どうよー?」と自分自身に言わなければなりませんが、
ドキドキは止まりませんでした。

それは星村麻衣の「Doki Doki」を聴きたくなるほどの。

今作は「妻」がこわいですね。
普段は出汁からとって料理する「妻」が、まさかのお好み焼き。
弁当でも惣菜でも冷凍食品でもなく、お好み焼きというのが気になって仕方ないです。

人生において、「せんたく」がとても大切なことであることに気づかせてくれる かとうさんの連作に感動と感銘を受けながら、今後も一ファンとして読ませていただきます。
駅から十五分ほど離れているというのが、一言で様々な背景を説明していて優れた1文だと思いました。
人間の微妙なやり取りが丁寧に描かれているのが、そういうのが苦手な自分には勉強になりますし、時に垣間見える人間の暴力嗜好性が現実味があって好きですね。じわじわと人を苦しめるような。
あと、この夫婦の関係性も興味深いです。経済的な差による対等に戦えない状況というのも人間関係の本質が出ているようで。
>>[3]
ありがとうございます!みけねこさんをどきどきさせられて嬉しいです(^ω^)私も意外なほどキャラが育ってきて嬉しいですね。
描写に関しては、やはり発展途上なので、自分の中でチャレンジしたいなぁと思い、書いております。伝わるものがあって嬉しく思います。
お好み焼きの描写は、私の才能というよりただ単に性格がねっとりしてるだけかも笑。でもお褒めいただき嬉しいです!ありがとうございます。
>>[4]
ご感想ありがとうございます!話は短めに、なるべくインパクトを出したかったので、伝わるものがあって嬉しいです。星村麻衣は残念ながら存じ上げませんが!
妻の怖さが伝わって嬉しいです。お好み焼きは、弁当や惣菜を一人でちまちま食べるよりも、ファミリーサイズのお好み焼きをでん!と出された方が詫びしいだろうなぁ…と。わいわいみんなで食べたいものの代表格なのに、パックだし食べづらいし!みたいな。鴨志田が途方にくれる描写にしたかったんですね。
拙作にありがたいお言葉を、恐縮です!なんとか完成させたいと思います
>>[5]さん
ありがとうございます!そんな細かいところにも気づいていただけて嬉しいです。一応武蔵小杉あたりが舞台なんですが、たぶん徒歩10分とか5分とかあたりのタワマンは高くて手が届かなかったんでしょうね。住宅事情は地味に大切なポイントでした。
勉強になるなんてとんでもないです。おたけさんは私には絶対できないことをしてるので、尊敬しております。

夫婦関係もそうだし、鴨志田と梢の夫の経済格差とか、妻と梢の女としての格差とか。そういうゴシップ的ないやらしい事をつい考えてしまいます笑。
次作もできましたらまたよろしくお願いします
>>[7]

主人公が途方にくれる描写、大変リアルに伝わってきました。

切ないし辛いけど、自分が蒔いた種だしなぁ、とか色々考えさせられながら読ませていただきました。

かとうさんの連作、引き続き大変楽しみにしています♪

あまり気負わず、かとうさんらしく書いていただければ幸いです☆彡
>>[9]
ありがとうございます。いやいや、やはり自分の作品には愛着があるので、いいもの書きたいと思ったら気負っちゃいますよ笑。
とは言え、そろそろ連作に飽きてきているところもあるのですが…(´Д` )続きはいつだせるかわかりませんが、また文芸部でよろしくお願いします!

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