十年に一度とも言われる大寒波が到来し、身を切るような寒さの中、コートに身を包みながら女性はそのボロい三階建ビルの階段を上った。一階は営業しているのかわからない異様なイタリアンレストランで、この周辺では一番古くからある老舗と宣伝しているが、どう見てもただのボロ屋敷である。二階にはインド料理レストランがあり、壁に貼られたペナントや店先の置物など、明らかにやりすぎと思うほどのコテコテのインドグッズが階段なのにも関わらず所狭しと並べられていた。
三階へ続く階段はもう半年は誰も登っていないのではないかとおもうほど、ホコリや砂でまみれていた。女性は一度この先に登るか躊躇しながらも、意を決して階段に靴を運ぶ。
階段を登りきった先には簡素な作りの扉があった。
『周防探偵事務所』
その表札の下には『事務所内の行動、発言はすべて録画、録音されています』と書かれていた。厳重なようにも見えて、その割にはドアノブや鍵はどこにでもあるビルのものと変わらないから、少し不安になりながら、手元にある紙をじっと見つめてみる。
確かにビルの番地も、三階にあるという話も、周防探偵事務所という看板も間違っていない。だがそれは想像していたものとは遥かに違っていた。
ここまで来たら入るしかないと、一つ深く呼吸をしてからドアをノックしてみる。一度、二度と繰り返すが返事がない。だが札は営業中になっているし、もしかしたらそのまま入ってこいということなのかもしれないと、そっとドアを開けた。
「にゃあ」
にゃあ？
目の前に広がるのは書類やら何やらで散らかっている事務所で、人の姿は全くない。そして視線を下に向けると、そこには一匹の三毛猫がこちらを見上げていた。
「にゃあ」
歓迎します、とでも言うように、顔を上げて一言告げる。思わずにゃあ、と返してしまいそうになる。
「お前、勝手に出るなって言っただろうが」
奥から男の声はするものの、その姿はまだ見ることができなかった。猫は構わずに女性の足元から離れることなく腰を下ろし、また一言「ニャア」と鳴く。クスリと笑って抱きかかえると、少し身をよじりながら腕の中におとなしく収まった。
ソファから起き上がった男は風呂上がりにそのまま蒲団に入ったようなボサボサ頭を掻きながら、女性の方へと近づいてきた。一応スーツのスラックスに白のワイシャツを着ているが、その一般的なサラリーマンの格好なのにクシャクシャと皺だらけで、清潔感が一切感じられなかった。
クアっと大きくあくびをする。うっすらと目元に涙を浮かべがらトロンとした瞳を女性に向ける姿を見ていると、そこにやる気の欠片も感じることはできない。女性も初めて探偵事務所というところに入ったが、この男が探偵の中でもあまりにも異質なことは容易に想像できた。
「いらっしゃい」
張りのない声を向けられる。低音で聞きやすくはあるのだが、眠気のせいかどことなく頼りなく感じられる声だった。
「あの……周防探偵事務所は……」
そこまで話したところで男は手のひらをこちらに向けて話を遮る。
「入り口の看板にもあったけど、この事務所内の言動はすべて録画、録音されている。警察沙汰や裁判になった時に提出する。これは盗撮、盗聴ではなく同意の上の録音である。以上のことを頭に入れて発言するように」
それだけ言い切るとゆっくりと背中を見せてソファへと腰を下ろす。納得したならばこっちに来い、嫌ならば帰れという意思表示なのだろう、女性は一つ息をのみ、ゆっくりとソファに座って男と対した。
「この録音はないとまずいのですか？」
「商売上ね。浮気調査とか依頼したのに、離婚裁判で拗れたらこっちに殴り込みにきたり、依頼者がそこまで詳細に望んでいない、違法なやり方だとか言い始める時もあったな。その証拠のために全部残してる……フォ……」
再び奥の銀歯が見えるほど大口を開ける。そのまま立ち上がると、奥にあるキッチンへと足を向けた。
「コーヒー、飲む？」
「あ、お気使いは……」
「まあ、俺が飲みたいから飲むんだけどね」
そう言ってコーヒーの入ったポットを机の上にガチャンと音をさせながら置き、マグカップを二つ用意した。元々は白い陶器だったのだろうが、コーヒーの色か茶渋が付いていて、底を茶色く染めていた。男は女性の眼の前で自分の分のコーヒーを注ぐと、そのまま一息で飲み干して、再び自分の分を注ぐ。
「砂糖とミルクは冷蔵庫にあるから」
「……砂糖が冷蔵庫にですか？」
「冷やして悪いもんでもないでしょ」
それだけ告げて立ち上がるつもりは全くないらしい。女性は立ち上がることもなく、コーヒーに手をつけずに男をじっと見つめた。腕の中はゆっくりとくつろいでいるが、その目は男を睨み付けているようだ。
その視線に気がついたのか、ふ、と一息ついた後、ゆっくりと目をつむり一度頬を叩くと、またゆっくりと目を開けて呟いた。
「それじゃ、依頼といきますか」
夫の死の理由を調べて欲しい。
女性……天野佑子は俯きながら重くその言葉を告げるが、男……周防は眉ひとつ動かすことなく依頼者をじっと睨みつけている。
「夫は幾つかの会社を運営していて、その代表だったのですが、つい先日、二ヶ月前に亡くなりました。毎年自分で所有する山にマツタケやきのこを採取しに行っていたのですが、家に持ち帰ってきたきのこを自分で調理した時に、誤って毒キノコを食べてしまったようで……」
そこで言葉が詰まり、一度視線を上げる。だが周防は何一つとして言葉を発さず、彼女をじっと見つめたまま「続けて」と話しかけた。深く深呼吸をして、また佑子は話を始める。
「警察の方によるとベニテングダケというきのこによる中毒だそうです。毎年誤食があって、被害者が何人も出てきてしまうと……専門的な知識がない人には多いようで。結論としては、このきのこの誤食による事故死ということになりました。それで警察の方も書類を書いていただき、葬儀も終えたのですが……
四十九日も終えてふと一息ついたのですが、日が過ぎると疑問になってしまったのです。夫は毎年山に出かけていました。仲間も何人も引き連れて、初めのうちは専門家と行っていたようですが、もう自分も詳しいからと最近では部下を引き連れて逆に指導するようなことも……
周防さん。そんな人が私でも知っている有名な毒キノコを誤食すると思いますか？」
そこまでいい終えると腕の中の猫が「フニャ」と声を上げながら逃げ出していった。どうやら話していくうちに前のめりになってしまい、猫にとって息苦しい体勢になっていたようだ。「あっ、ごめん」と思わず呟くが、猫はそれを気にすることもなく、佑子の横に腰を下ろした。
口元に手を当てた周防はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「天野さん、あなたはどう見ても二十代後半か、三十代前半だ。あなたと旦那はいくつだった？」
「私は今年で三十一になります。夫は……六十三でした」
「結婚したのはいつ？ 子供は？」
「今年で結婚十五年です。子供は……いません。できませんでした」
「五十近くで高校生と結婚か。想像するだけ嫌になる」
手元のチラシの裏に聞いたことを書いていく。
「旦那が亡くなられた日、あなたはどこで何を？」
「実家に帰っていました……すみません、言葉が悪いですね。正確には姉と両親のお墓に行っていました」
「旦那さんは抜きで？」
「夫がマツタケを採りに行く日は天候の様子を見ながら、多忙の中予定を組んでいつも行っています。山に行く日を今日明日と決められる立場でもありませんし、私の方もその日を聞いていなかったのですれ違いになってしまって……前日から実家の方へと帰省して、翌日の夜に帰ってきた時にはもうすでに……」
周防は再び頭を掻いてチラシにあれこれと書き込んでいた。その様子を見ながら、佑子は唇を軽く舌で舐めて濡らす。
「毎年マツタケ、ね……飽きそう」
さて、と呟いて顔をチラシからあげる。
「で、状況は分かった。死因は警察が結論付けてわかっている、後は何を調べろと？」
「……本当に夫は事故だったのか、それとも自殺だったのか……」
声を震わせながら話す。
「……亡くなる前日は、私たちの結婚記念日でした。その席で旧知の板前さんを呼んで、割烹、天ぷら、フグなども堪能して、二人では食べきれないほどで……」
「わかんねえな……」
その涙ながらに語る声を遮り、周防は首をひねる。
「何でそんな依頼をしてくんのかね？ 警察が事故として断定している、それならそれでいいだろうに。第一、これで俺が自殺だと証拠付きで断定したとして、それで何が変わる？ 警察が動くこともないし、保険屋や遺産話も一探偵の俺の意見なんか気にもしない」
猫はフニャアと一声上げながら周防を軽く睨みつけ、そして佑子の指を軽く二度ほど舐める。その様子に少し頬を緩ませ、その頭を撫でてやった。
「……自己満足なのはわかっています。ただ……なんでしょうね。こうしていなくなってみるとあの人の真意がどこにあったのか、知りたいんです」
「そのためにわざわざ俺のところへ？」
「はい。知り合いに尋ねたら優秀な探偵がいると言われて……」
その紹介した人物になんとなく目星をつけて、周防は一つため息をついた。それが本当にその人物だとしたら、この案件の持つ意味がなんとなくわかってしまう。
頭を抱えながら「うーん」と唸り始める。その様子に面食らいながらも、猫を撫でる手は止まることなく動き続ける。
「悪いけれど、お断りさせてもらうわ」
その答えが返ってくる可能性を全く考えていなかったのか、目を丸くしてその顔を見つめた。コーヒーを手に取りながら、ズズ、と音を立てて飲む周防。
「お金、ですか？」
「いんや、気が乗らないの」
「それだけですか？」
「そんだけ」
そのまま立ち上がると流し台の方へと消えていき、カップをじゃぶじゃぶと洗い始める。その態度に若干眉を潜めつつも、天野は力なく立ち上がり、ゆっくりとドアの方へと歩いて行った。周防はゆっくりと振り返り、佑子のために扉を開けてあげた。
「あのこれが連絡先ですので、何かあればこちらにお願いします」
「ご丁寧にどうも。依頼も受けてないのに、ごめんね」
「気が変わったら、連絡してください」
そして深々と一礼をするとゆっくりと外に出て行った。
そして深々と一礼をすると天野はゆっくりと外に出て行った。
ドアを閉めて再びソファへと戻ると、猫が周防をじっとりと睨みつけている。寝っ転がりながら連絡先の書かれた紙をじっくりと眺め、ぺっと机の上に放り投げる。「ミャア」という声を上げながら、猫が周防上に乗っかってきた。
「なんだよ」
ニャア、と声をかけてその胸を何度も引っ搔き始める。
「こんな依頼、どこに持っていっても受け入れてくれるはずがない。警察がらみの案件だし、すでに結論がでているんだ。俺が出張って何するって話だよ」
そのままゆっくりと目を閉じて、再び眠りの世界に入ろうとしたその時だった。ドアがコンコンとノックされる。せっかくいい夢を見ようとしていたのに、誰だよと呟きながらそのドアを開けると、そこにはいつもの見慣れた小さなお婆ちゃんの顔があった。
にこやかに応対するその顔を見て、少しずつ顔色が悪くなる。そのまま閉めようかとも思ったが、足をドアに挟んで閉めようにも閉まらなかった。ヤクザみたいなことをしやがる、と内心思いながらもなんとか作り笑いを浮かべるが、誰がどう見ても胡散臭いものにしかならなかった。
「周防さん、今月の家賃なんですが」
決まりきった定型句を並べられて、余計に顔が引きつる。ハハハ、なんて精一杯ほんわかとしたムードを作り出そうとするが、相手はこの道四十五年の大ベテランだ、そんなことで態度を軟化させることはなかった。
とりあえずいつものように必死に弁明を繰り返し、今持ち合わせがないこと、少ししたら仕事の入金があるから、それで払える旨を必死に何度もなんども繰り返して伝えた。あらそう、なんて言いながらその顔は一切納得していなかったが、ここで粘っても仕方がないと判断したのか、はたまた今日は回収できないと踏んでいたのか、にこやかな笑顔を浮かべながら帰って行った。
すっかり眠気など吹き飛んでしまった周防は、ソファに座ると何気なくコーヒーに手を伸ばすが、カップを先ほど洗ってしまったことを思い出して再び置いた。そんな様子を尻目に、対面のソファでは猫が丸くなって大あくびを浮かべている。
そのまま十分ほど茫然と動かずにいたが、やがて大きなため息を一つこぼすと、電話機に手を伸ばした。
「あ、天野さん？ 気が変わった。今変わった。やります、精一杯やらせてもらいます」
つい最近まで黄色い悪臭で満ちていてから、どうしてもこの公園には近寄りたくなかったが、冬も本番に入るとさすがにその匂いは消え去っていた。靴にまとわりついたそれは、どれほどアスファルトに擦り付けても取れないことに辟易としていたが、もうその心配もないと安堵したその直後に、今度は犬のフンを踏んでしまう。
これだから公園ってのは嫌いなんだよ、と小さく毒づく。その様子を隣でちょこちょこ歩きながら見ていた猫は、「フン」と小さく鼻を鳴らしてせせり笑っているようにも見えた。
ベンチの前には大きな池が広がっていて、このクソ寒い中をカップルや家族連れがボート遊びに興じていた。その様子を見るだけでこちらも寒くなりそうだと、コートをより強く巻きつける。
「相変わらず見ているだけで寒いな」
隣に同じようなコート姿のおっさんが座る。そのまま新聞を大きく広げると、それを読みながら話し始めた。周防もそちらに顔を向けることなく、正面を向いたままだった。
「お前の頭を見てから言えよ」
「うるせえ、あんまり差別的な発言をするとしょっぴくぞ」
はいはい、と答えながら周防は胸元に手を突っ込み、メモリーカードをベンチに置き、おっさんは何くわぬ顔でそれを手にするとコートの中へと無造作に入れた。
そのやりとりが行われた直後、猫がピョンと二人の間に入り、丸くなった。
「また相棒も一緒か」
「勝手についてくるんだ」
「誰にも懐かないやつだったのにな。お前とあいつだけだ、こいつがそこまでくっつくのは」
おっさんは手を伸ばしてその背中に触れようとすると、キッと一度睨みつけながらも、仕方ないとばかりにそのまま大人しくしていた。その様子に苦笑いを浮かべながら、その手を引っ込めて再び視線を新聞に戻す。
「で、天野信宏の話だったか。何が知りたい？」
「……とりあえず身辺のことかね。やっこさん、飲食チェーンの代表だろ？」
「かなり手広くやっていたよ。居酒屋、ファミレス、中華なんでもござれだ。同じ居酒屋でも大衆店から高級店までな。それも今となっては虚しいもんだが」
「業績悪化が著しくて、次々閉店しているしな。ついそこにあったチェーンも潰れちまった。そんで従業員も次々解雇しているような有様なんだろ」
「素人にはわからんが、経営者としては当然の判断だろう。その分、悪評も後を絶たないが」
周防は頭の中でその顔写真を思い出していた。六十も半ばを超えたというにも関わらず、やせ細る気配は一切なく、その顔には皮脂が浮かんですらいた。それが代表挨拶のホームページに載っていた背一杯のみられる写真なのだから、実物は相当あれな人物だったのだろう。
「元々敵は多かったし、敵対者は金と力で握り潰してきたような人間だからな。今回の一件を天罰だという連中も、それなりにいるだろう」
「死んで喜ぶ連中は掃いて捨てるほどいるわけね……実際、やっこさんは死にそうな様子はあったの？」
「あるわけねえよ、次々畳んでリストラしても、自分だけは生き残る気だったろうさ。それだけのバイタリティがあるから成功してきたんだ」
そうだろうねぇ、と周防はつぶやく。何枚か顔写真や全体写真を見比べていたが、どれを見てもやつれたりする様子はなく、この年齢を考えると異様なほどに血色も良い。歳が半分ほどの周防よりも断然健康的だった。
「嫁さん、だいぶ若いな」
その話題になるとおっさんは少しだけ眉をひそめて、新聞をペラリとめくった。
「……あんまり気持ちの良い話じゃねえさ、あいつの経営手腕も悪評も全てそこから始まっている」
「あの人そんなにやばい感じなの？」
「本人じゃねえよ、実家の話」
ああ、そういえば実家がどうのとか、墓参りがどうのと言っていたことを思い出した。
「天野佑子の実家はそこそこ名の知れた酒屋でな、遡れば江戸時代まで辿り着くってそりゃ良家のお嬢さんでよ、戦後一気にでかくしたのは天野佑子の爺さんだった。この爺さんが曲者で、戦後の混乱期に水増した酒やら密造酒やら、配給品やらを売りまくったってわけさ。後ろにも真っ黒な連中がたくさんいてよ、お得意様だったらしいぜ」
「時代だねえ」
「神武景気やらイザナミ景気やらに上手く乗って、飲食業や不動産にも手を出して、どんどんでかくなっていった。その爺さんの下で働いていたのが、天野信宏だ。
何があったかは知らねえが、爺さんがえらい気に入ったらしい。若い時分から人渡りが上手かったんだろうな。みるみるうちに出世して、若いながらも爺さんの右腕みたいな存在になった。それだけ真っ黒なやつの右腕なんで、そりゃ真っ白なわけがねぇ。
だがよ、ある時ぽっくりと爺さんが逝っちまって、それを継いだのが天野佑子の親父だった。時代もあるのか、経営手腕はあるが倫理的に問題のある爺さんのやり方に反発して、クリーンにしようと奮闘したんだがな、結局爺さんの武器を捨てて邪魔者を次々生み出すだけだった。業績は悪化、赤ばかりが重なる毎日。
そこに目をつけたのが独立した天野信宏だ。奴さんは世話になった例にと支援を申し出た。いくらか融資してもらってなんとか乗り切っていたが、それでも根本的に問題がある、やがて無理が出てきた。そこで奴はこんな提案をしたんだ」
おっさんは新聞を半分に折りたたむと、空いた手で缶コーヒーを手に一口飲んだ。目の前を犬を連れてランニングをしている爺さんが横切っていく。その後を犬が追っかけているが、その様子は『もう勘弁』というようにグダッとして、だらしなく舌を出しながら、半ば引っ張られるように去っていく。
「親戚関係になろうってことか。大方、親類間の借金ならばもっと融通ができるとかなんとか言ったんだろ」
「その通り。旧家の娘というステータスを欲しがったのか、はたまた自分を苛め抜いた爺さんの可愛い孫を欲しがったのか……まあ美人姉妹とは言われていたが、いい女なんていくらでも買えるようなやつではあったがな」
「そんな話、普通は乗らねえよな」
「普通は。だがな親父はいい人間だったんだが、経営者としては致命的にダメなやつでよ、なるべくリストラや路頭に迷う社員を出さないために走り回っていたのさ。娘が嫁に行けばそれだけで社員も守れる。だからその話を呑んだ。
ここの家は三人姉妹だったんだが、長女はすでに結婚していた。次女はその決定を呑まなくて逃げ出した。大方、一番下の妹には話がいかないと思ったんだろう。そりゃそうだ、その時三女はまだ十四歳だったからな。だが、親父も天野信宏もその三女で話を呑んだ。決まったその日に連れてかれたらしい」
目の前の池では手こきのボートに親子三人が乗っていた。パパ、パパ、と小学生にもならない女の子が、母親の膝の上で両手を伸ばして呼びかけている。それに父親も答えるように父親も少し調子に乗って、舟を揺らして遊んでいた。女の子はキャッキャとはしゃぎ廻るが、その子を抱える母親は眉をひそめがら文句を言っていた。
「……ひでえ話だ」
「さらに悲惨なのはこの後だ。十六の誕生日に結婚したのは良いものの、結局経営状態は改善しない。天野信宏も終いには見限って支援をやめると言い出した……まあ、経営からすると当然の流れではあるのかもしれないがな。
結局、母親は娘を犠牲にした心労もあって病気で亡くなり、親父は最後に首をくくった。守りたかった従業員もチリジリになり、一家離散って話だよ」
「三姉妹はどうなった？」
「……長女は嫁いだ家の人間だからと縁を切った。次女は……まあ、実質妹を売ったようなもんだからと胸を痛めているうちに、いいように言いくるめられて天野信宏の何人めかわからんが愛人になった」
もう、ヤダァ、とゲラゲラ笑い声を上げながら制服姿の高校生たちが通り過ぎていく。短いスカートをひらめかせ、男の肩をバシバシと叩きながら、悩み事などこの世に一切無いような顔をしている。一方が青春を謳歌し、一方が人質になることのは何が違えばそうなるのだろうか。
「そんだけ女好きなのに、子供がいないもんかね」
「種無しなんだよ」
「種無し？」
「ああ。だから女を次々作って好き放題したのかもしれねえが……やっこさん、本当は子供が欲しかったみたいだな。金銭的に恵まれない家に生まれたから家族を欲したのかもしれないが、どんだけ女とやっても子供ができない……末の娘を欲しがったのも、自分のせいではないと証明したかったんだろう。若い娘なら、ってな」
「家族を望んだ男が、逆に家族を崩壊させた、か。皮肉なもんだな」
なあ、と同意を求めるように猫に話しかけると、興味がないように見向きもせずに目を細めていた。
「それで、どうするんだ？」
周防はおっさんに話しかけた。肩をすくませながら答える。
「どうもこうもない、結論は出ている。症状はどう見てもベニテングの中毒、台所には調理済みのきのこも発見されている。その日に取りに行った時間から考えても、疑う余地はない。これでおしまいだ。もう体は燃えちまっているし、何を考える必要がある」
「まあ、そうだよなぁ……」
どうすっかなぁ、と呟いた。
おっさんは新聞を折りたたむとベンチの上に置き、胸ポケットをまさぐり始める。
「おいおい、こんなとこで吸ったら善良な市民に怒られるぞ」
「それなら心配いらん」
そう言って取り出したのは都こんぶだった。ブスッとした表情で一本取り出すと、それを齧る。
「娘に子供が出来てからというもの女たちが煩くてな。いい機会だ、ここいらでタバコをやめてみることにした」
「一日二箱は吸っていたのに、それも都こんぶですか」
「口が寂しくてな。飴はすぐ噛み潰すし、ガムはほっとくと飲み込んじまうからこれが一番だよ」
あの狂犬がね、と呟きながら周防は立ち上がった。
「家庭ってのは牙も抜くらしいな」
「不満か？」
「いや、『正義の味方』らしくもないからな」
「俺たちは法の……番犬さ。嚙みつく相手を覚えただけだ」
「あんたが番犬、俺は野良犬。違いなんてそれだけさ」
好きにさせてもらうさ、と軽く手を上げながら背を向ける。その後ろを猫はゆっくりと飛び降りると、その後ろをくっついていく。
おっさんはその後ろ姿をただただ眺めることしかできなかった。
三階へ続く階段はもう半年は誰も登っていないのではないかとおもうほど、ホコリや砂でまみれていた。女性は一度この先に登るか躊躇しながらも、意を決して階段に靴を運ぶ。
階段を登りきった先には簡素な作りの扉があった。
『周防探偵事務所』
その表札の下には『事務所内の行動、発言はすべて録画、録音されています』と書かれていた。厳重なようにも見えて、その割にはドアノブや鍵はどこにでもあるビルのものと変わらないから、少し不安になりながら、手元にある紙をじっと見つめてみる。
確かにビルの番地も、三階にあるという話も、周防探偵事務所という看板も間違っていない。だがそれは想像していたものとは遥かに違っていた。
ここまで来たら入るしかないと、一つ深く呼吸をしてからドアをノックしてみる。一度、二度と繰り返すが返事がない。だが札は営業中になっているし、もしかしたらそのまま入ってこいということなのかもしれないと、そっとドアを開けた。
「にゃあ」
にゃあ？
目の前に広がるのは書類やら何やらで散らかっている事務所で、人の姿は全くない。そして視線を下に向けると、そこには一匹の三毛猫がこちらを見上げていた。
「にゃあ」
歓迎します、とでも言うように、顔を上げて一言告げる。思わずにゃあ、と返してしまいそうになる。
「お前、勝手に出るなって言っただろうが」
奥から男の声はするものの、その姿はまだ見ることができなかった。猫は構わずに女性の足元から離れることなく腰を下ろし、また一言「ニャア」と鳴く。クスリと笑って抱きかかえると、少し身をよじりながら腕の中におとなしく収まった。
ソファから起き上がった男は風呂上がりにそのまま蒲団に入ったようなボサボサ頭を掻きながら、女性の方へと近づいてきた。一応スーツのスラックスに白のワイシャツを着ているが、その一般的なサラリーマンの格好なのにクシャクシャと皺だらけで、清潔感が一切感じられなかった。
クアっと大きくあくびをする。うっすらと目元に涙を浮かべがらトロンとした瞳を女性に向ける姿を見ていると、そこにやる気の欠片も感じることはできない。女性も初めて探偵事務所というところに入ったが、この男が探偵の中でもあまりにも異質なことは容易に想像できた。
「いらっしゃい」
張りのない声を向けられる。低音で聞きやすくはあるのだが、眠気のせいかどことなく頼りなく感じられる声だった。
「あの……周防探偵事務所は……」
そこまで話したところで男は手のひらをこちらに向けて話を遮る。
「入り口の看板にもあったけど、この事務所内の言動はすべて録画、録音されている。警察沙汰や裁判になった時に提出する。これは盗撮、盗聴ではなく同意の上の録音である。以上のことを頭に入れて発言するように」
それだけ言い切るとゆっくりと背中を見せてソファへと腰を下ろす。納得したならばこっちに来い、嫌ならば帰れという意思表示なのだろう、女性は一つ息をのみ、ゆっくりとソファに座って男と対した。
「この録音はないとまずいのですか？」
「商売上ね。浮気調査とか依頼したのに、離婚裁判で拗れたらこっちに殴り込みにきたり、依頼者がそこまで詳細に望んでいない、違法なやり方だとか言い始める時もあったな。その証拠のために全部残してる……フォ……」
再び奥の銀歯が見えるほど大口を開ける。そのまま立ち上がると、奥にあるキッチンへと足を向けた。
「コーヒー、飲む？」
「あ、お気使いは……」
「まあ、俺が飲みたいから飲むんだけどね」
そう言ってコーヒーの入ったポットを机の上にガチャンと音をさせながら置き、マグカップを二つ用意した。元々は白い陶器だったのだろうが、コーヒーの色か茶渋が付いていて、底を茶色く染めていた。男は女性の眼の前で自分の分のコーヒーを注ぐと、そのまま一息で飲み干して、再び自分の分を注ぐ。
「砂糖とミルクは冷蔵庫にあるから」
「……砂糖が冷蔵庫にですか？」
「冷やして悪いもんでもないでしょ」
それだけ告げて立ち上がるつもりは全くないらしい。女性は立ち上がることもなく、コーヒーに手をつけずに男をじっと見つめた。腕の中はゆっくりとくつろいでいるが、その目は男を睨み付けているようだ。
その視線に気がついたのか、ふ、と一息ついた後、ゆっくりと目をつむり一度頬を叩くと、またゆっくりと目を開けて呟いた。
「それじゃ、依頼といきますか」
夫の死の理由を調べて欲しい。
女性……天野佑子は俯きながら重くその言葉を告げるが、男……周防は眉ひとつ動かすことなく依頼者をじっと睨みつけている。
「夫は幾つかの会社を運営していて、その代表だったのですが、つい先日、二ヶ月前に亡くなりました。毎年自分で所有する山にマツタケやきのこを採取しに行っていたのですが、家に持ち帰ってきたきのこを自分で調理した時に、誤って毒キノコを食べてしまったようで……」
そこで言葉が詰まり、一度視線を上げる。だが周防は何一つとして言葉を発さず、彼女をじっと見つめたまま「続けて」と話しかけた。深く深呼吸をして、また佑子は話を始める。
「警察の方によるとベニテングダケというきのこによる中毒だそうです。毎年誤食があって、被害者が何人も出てきてしまうと……専門的な知識がない人には多いようで。結論としては、このきのこの誤食による事故死ということになりました。それで警察の方も書類を書いていただき、葬儀も終えたのですが……
四十九日も終えてふと一息ついたのですが、日が過ぎると疑問になってしまったのです。夫は毎年山に出かけていました。仲間も何人も引き連れて、初めのうちは専門家と行っていたようですが、もう自分も詳しいからと最近では部下を引き連れて逆に指導するようなことも……
周防さん。そんな人が私でも知っている有名な毒キノコを誤食すると思いますか？」
そこまでいい終えると腕の中の猫が「フニャ」と声を上げながら逃げ出していった。どうやら話していくうちに前のめりになってしまい、猫にとって息苦しい体勢になっていたようだ。「あっ、ごめん」と思わず呟くが、猫はそれを気にすることもなく、佑子の横に腰を下ろした。
口元に手を当てた周防はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「天野さん、あなたはどう見ても二十代後半か、三十代前半だ。あなたと旦那はいくつだった？」
「私は今年で三十一になります。夫は……六十三でした」
「結婚したのはいつ？ 子供は？」
「今年で結婚十五年です。子供は……いません。できませんでした」
「五十近くで高校生と結婚か。想像するだけ嫌になる」
手元のチラシの裏に聞いたことを書いていく。
「旦那が亡くなられた日、あなたはどこで何を？」
「実家に帰っていました……すみません、言葉が悪いですね。正確には姉と両親のお墓に行っていました」
「旦那さんは抜きで？」
「夫がマツタケを採りに行く日は天候の様子を見ながら、多忙の中予定を組んでいつも行っています。山に行く日を今日明日と決められる立場でもありませんし、私の方もその日を聞いていなかったのですれ違いになってしまって……前日から実家の方へと帰省して、翌日の夜に帰ってきた時にはもうすでに……」
周防は再び頭を掻いてチラシにあれこれと書き込んでいた。その様子を見ながら、佑子は唇を軽く舌で舐めて濡らす。
「毎年マツタケ、ね……飽きそう」
さて、と呟いて顔をチラシからあげる。
「で、状況は分かった。死因は警察が結論付けてわかっている、後は何を調べろと？」
「……本当に夫は事故だったのか、それとも自殺だったのか……」
声を震わせながら話す。
「……亡くなる前日は、私たちの結婚記念日でした。その席で旧知の板前さんを呼んで、割烹、天ぷら、フグなども堪能して、二人では食べきれないほどで……」
「わかんねえな……」
その涙ながらに語る声を遮り、周防は首をひねる。
「何でそんな依頼をしてくんのかね？ 警察が事故として断定している、それならそれでいいだろうに。第一、これで俺が自殺だと証拠付きで断定したとして、それで何が変わる？ 警察が動くこともないし、保険屋や遺産話も一探偵の俺の意見なんか気にもしない」
猫はフニャアと一声上げながら周防を軽く睨みつけ、そして佑子の指を軽く二度ほど舐める。その様子に少し頬を緩ませ、その頭を撫でてやった。
「……自己満足なのはわかっています。ただ……なんでしょうね。こうしていなくなってみるとあの人の真意がどこにあったのか、知りたいんです」
「そのためにわざわざ俺のところへ？」
「はい。知り合いに尋ねたら優秀な探偵がいると言われて……」
その紹介した人物になんとなく目星をつけて、周防は一つため息をついた。それが本当にその人物だとしたら、この案件の持つ意味がなんとなくわかってしまう。
頭を抱えながら「うーん」と唸り始める。その様子に面食らいながらも、猫を撫でる手は止まることなく動き続ける。
「悪いけれど、お断りさせてもらうわ」
その答えが返ってくる可能性を全く考えていなかったのか、目を丸くしてその顔を見つめた。コーヒーを手に取りながら、ズズ、と音を立てて飲む周防。
「お金、ですか？」
「いんや、気が乗らないの」
「それだけですか？」
「そんだけ」
そのまま立ち上がると流し台の方へと消えていき、カップをじゃぶじゃぶと洗い始める。その態度に若干眉を潜めつつも、天野は力なく立ち上がり、ゆっくりとドアの方へと歩いて行った。周防はゆっくりと振り返り、佑子のために扉を開けてあげた。
「あのこれが連絡先ですので、何かあればこちらにお願いします」
「ご丁寧にどうも。依頼も受けてないのに、ごめんね」
「気が変わったら、連絡してください」
そして深々と一礼をするとゆっくりと外に出て行った。
そして深々と一礼をすると天野はゆっくりと外に出て行った。
ドアを閉めて再びソファへと戻ると、猫が周防をじっとりと睨みつけている。寝っ転がりながら連絡先の書かれた紙をじっくりと眺め、ぺっと机の上に放り投げる。「ミャア」という声を上げながら、猫が周防上に乗っかってきた。
「なんだよ」
ニャア、と声をかけてその胸を何度も引っ搔き始める。
「こんな依頼、どこに持っていっても受け入れてくれるはずがない。警察がらみの案件だし、すでに結論がでているんだ。俺が出張って何するって話だよ」
そのままゆっくりと目を閉じて、再び眠りの世界に入ろうとしたその時だった。ドアがコンコンとノックされる。せっかくいい夢を見ようとしていたのに、誰だよと呟きながらそのドアを開けると、そこにはいつもの見慣れた小さなお婆ちゃんの顔があった。
にこやかに応対するその顔を見て、少しずつ顔色が悪くなる。そのまま閉めようかとも思ったが、足をドアに挟んで閉めようにも閉まらなかった。ヤクザみたいなことをしやがる、と内心思いながらもなんとか作り笑いを浮かべるが、誰がどう見ても胡散臭いものにしかならなかった。
「周防さん、今月の家賃なんですが」
決まりきった定型句を並べられて、余計に顔が引きつる。ハハハ、なんて精一杯ほんわかとしたムードを作り出そうとするが、相手はこの道四十五年の大ベテランだ、そんなことで態度を軟化させることはなかった。
とりあえずいつものように必死に弁明を繰り返し、今持ち合わせがないこと、少ししたら仕事の入金があるから、それで払える旨を必死に何度もなんども繰り返して伝えた。あらそう、なんて言いながらその顔は一切納得していなかったが、ここで粘っても仕方がないと判断したのか、はたまた今日は回収できないと踏んでいたのか、にこやかな笑顔を浮かべながら帰って行った。
すっかり眠気など吹き飛んでしまった周防は、ソファに座ると何気なくコーヒーに手を伸ばすが、カップを先ほど洗ってしまったことを思い出して再び置いた。そんな様子を尻目に、対面のソファでは猫が丸くなって大あくびを浮かべている。
そのまま十分ほど茫然と動かずにいたが、やがて大きなため息を一つこぼすと、電話機に手を伸ばした。
「あ、天野さん？ 気が変わった。今変わった。やります、精一杯やらせてもらいます」
つい最近まで黄色い悪臭で満ちていてから、どうしてもこの公園には近寄りたくなかったが、冬も本番に入るとさすがにその匂いは消え去っていた。靴にまとわりついたそれは、どれほどアスファルトに擦り付けても取れないことに辟易としていたが、もうその心配もないと安堵したその直後に、今度は犬のフンを踏んでしまう。
これだから公園ってのは嫌いなんだよ、と小さく毒づく。その様子を隣でちょこちょこ歩きながら見ていた猫は、「フン」と小さく鼻を鳴らしてせせり笑っているようにも見えた。
ベンチの前には大きな池が広がっていて、このクソ寒い中をカップルや家族連れがボート遊びに興じていた。その様子を見るだけでこちらも寒くなりそうだと、コートをより強く巻きつける。
「相変わらず見ているだけで寒いな」
隣に同じようなコート姿のおっさんが座る。そのまま新聞を大きく広げると、それを読みながら話し始めた。周防もそちらに顔を向けることなく、正面を向いたままだった。
「お前の頭を見てから言えよ」
「うるせえ、あんまり差別的な発言をするとしょっぴくぞ」
はいはい、と答えながら周防は胸元に手を突っ込み、メモリーカードをベンチに置き、おっさんは何くわぬ顔でそれを手にするとコートの中へと無造作に入れた。
そのやりとりが行われた直後、猫がピョンと二人の間に入り、丸くなった。
「また相棒も一緒か」
「勝手についてくるんだ」
「誰にも懐かないやつだったのにな。お前とあいつだけだ、こいつがそこまでくっつくのは」
おっさんは手を伸ばしてその背中に触れようとすると、キッと一度睨みつけながらも、仕方ないとばかりにそのまま大人しくしていた。その様子に苦笑いを浮かべながら、その手を引っ込めて再び視線を新聞に戻す。
「で、天野信宏の話だったか。何が知りたい？」
「……とりあえず身辺のことかね。やっこさん、飲食チェーンの代表だろ？」
「かなり手広くやっていたよ。居酒屋、ファミレス、中華なんでもござれだ。同じ居酒屋でも大衆店から高級店までな。それも今となっては虚しいもんだが」
「業績悪化が著しくて、次々閉店しているしな。ついそこにあったチェーンも潰れちまった。そんで従業員も次々解雇しているような有様なんだろ」
「素人にはわからんが、経営者としては当然の判断だろう。その分、悪評も後を絶たないが」
周防は頭の中でその顔写真を思い出していた。六十も半ばを超えたというにも関わらず、やせ細る気配は一切なく、その顔には皮脂が浮かんですらいた。それが代表挨拶のホームページに載っていた背一杯のみられる写真なのだから、実物は相当あれな人物だったのだろう。
「元々敵は多かったし、敵対者は金と力で握り潰してきたような人間だからな。今回の一件を天罰だという連中も、それなりにいるだろう」
「死んで喜ぶ連中は掃いて捨てるほどいるわけね……実際、やっこさんは死にそうな様子はあったの？」
「あるわけねえよ、次々畳んでリストラしても、自分だけは生き残る気だったろうさ。それだけのバイタリティがあるから成功してきたんだ」
そうだろうねぇ、と周防はつぶやく。何枚か顔写真や全体写真を見比べていたが、どれを見てもやつれたりする様子はなく、この年齢を考えると異様なほどに血色も良い。歳が半分ほどの周防よりも断然健康的だった。
「嫁さん、だいぶ若いな」
その話題になるとおっさんは少しだけ眉をひそめて、新聞をペラリとめくった。
「……あんまり気持ちの良い話じゃねえさ、あいつの経営手腕も悪評も全てそこから始まっている」
「あの人そんなにやばい感じなの？」
「本人じゃねえよ、実家の話」
ああ、そういえば実家がどうのとか、墓参りがどうのと言っていたことを思い出した。
「天野佑子の実家はそこそこ名の知れた酒屋でな、遡れば江戸時代まで辿り着くってそりゃ良家のお嬢さんでよ、戦後一気にでかくしたのは天野佑子の爺さんだった。この爺さんが曲者で、戦後の混乱期に水増した酒やら密造酒やら、配給品やらを売りまくったってわけさ。後ろにも真っ黒な連中がたくさんいてよ、お得意様だったらしいぜ」
「時代だねえ」
「神武景気やらイザナミ景気やらに上手く乗って、飲食業や不動産にも手を出して、どんどんでかくなっていった。その爺さんの下で働いていたのが、天野信宏だ。
何があったかは知らねえが、爺さんがえらい気に入ったらしい。若い時分から人渡りが上手かったんだろうな。みるみるうちに出世して、若いながらも爺さんの右腕みたいな存在になった。それだけ真っ黒なやつの右腕なんで、そりゃ真っ白なわけがねぇ。
だがよ、ある時ぽっくりと爺さんが逝っちまって、それを継いだのが天野佑子の親父だった。時代もあるのか、経営手腕はあるが倫理的に問題のある爺さんのやり方に反発して、クリーンにしようと奮闘したんだがな、結局爺さんの武器を捨てて邪魔者を次々生み出すだけだった。業績は悪化、赤ばかりが重なる毎日。
そこに目をつけたのが独立した天野信宏だ。奴さんは世話になった例にと支援を申し出た。いくらか融資してもらってなんとか乗り切っていたが、それでも根本的に問題がある、やがて無理が出てきた。そこで奴はこんな提案をしたんだ」
おっさんは新聞を半分に折りたたむと、空いた手で缶コーヒーを手に一口飲んだ。目の前を犬を連れてランニングをしている爺さんが横切っていく。その後を犬が追っかけているが、その様子は『もう勘弁』というようにグダッとして、だらしなく舌を出しながら、半ば引っ張られるように去っていく。
「親戚関係になろうってことか。大方、親類間の借金ならばもっと融通ができるとかなんとか言ったんだろ」
「その通り。旧家の娘というステータスを欲しがったのか、はたまた自分を苛め抜いた爺さんの可愛い孫を欲しがったのか……まあ美人姉妹とは言われていたが、いい女なんていくらでも買えるようなやつではあったがな」
「そんな話、普通は乗らねえよな」
「普通は。だがな親父はいい人間だったんだが、経営者としては致命的にダメなやつでよ、なるべくリストラや路頭に迷う社員を出さないために走り回っていたのさ。娘が嫁に行けばそれだけで社員も守れる。だからその話を呑んだ。
ここの家は三人姉妹だったんだが、長女はすでに結婚していた。次女はその決定を呑まなくて逃げ出した。大方、一番下の妹には話がいかないと思ったんだろう。そりゃそうだ、その時三女はまだ十四歳だったからな。だが、親父も天野信宏もその三女で話を呑んだ。決まったその日に連れてかれたらしい」
目の前の池では手こきのボートに親子三人が乗っていた。パパ、パパ、と小学生にもならない女の子が、母親の膝の上で両手を伸ばして呼びかけている。それに父親も答えるように父親も少し調子に乗って、舟を揺らして遊んでいた。女の子はキャッキャとはしゃぎ廻るが、その子を抱える母親は眉をひそめがら文句を言っていた。
「……ひでえ話だ」
「さらに悲惨なのはこの後だ。十六の誕生日に結婚したのは良いものの、結局経営状態は改善しない。天野信宏も終いには見限って支援をやめると言い出した……まあ、経営からすると当然の流れではあるのかもしれないがな。
結局、母親は娘を犠牲にした心労もあって病気で亡くなり、親父は最後に首をくくった。守りたかった従業員もチリジリになり、一家離散って話だよ」
「三姉妹はどうなった？」
「……長女は嫁いだ家の人間だからと縁を切った。次女は……まあ、実質妹を売ったようなもんだからと胸を痛めているうちに、いいように言いくるめられて天野信宏の何人めかわからんが愛人になった」
もう、ヤダァ、とゲラゲラ笑い声を上げながら制服姿の高校生たちが通り過ぎていく。短いスカートをひらめかせ、男の肩をバシバシと叩きながら、悩み事などこの世に一切無いような顔をしている。一方が青春を謳歌し、一方が人質になることのは何が違えばそうなるのだろうか。
「そんだけ女好きなのに、子供がいないもんかね」
「種無しなんだよ」
「種無し？」
「ああ。だから女を次々作って好き放題したのかもしれねえが……やっこさん、本当は子供が欲しかったみたいだな。金銭的に恵まれない家に生まれたから家族を欲したのかもしれないが、どんだけ女とやっても子供ができない……末の娘を欲しがったのも、自分のせいではないと証明したかったんだろう。若い娘なら、ってな」
「家族を望んだ男が、逆に家族を崩壊させた、か。皮肉なもんだな」
なあ、と同意を求めるように猫に話しかけると、興味がないように見向きもせずに目を細めていた。
「それで、どうするんだ？」
周防はおっさんに話しかけた。肩をすくませながら答える。
「どうもこうもない、結論は出ている。症状はどう見てもベニテングの中毒、台所には調理済みのきのこも発見されている。その日に取りに行った時間から考えても、疑う余地はない。これでおしまいだ。もう体は燃えちまっているし、何を考える必要がある」
「まあ、そうだよなぁ……」
どうすっかなぁ、と呟いた。
おっさんは新聞を折りたたむとベンチの上に置き、胸ポケットをまさぐり始める。
「おいおい、こんなとこで吸ったら善良な市民に怒られるぞ」
「それなら心配いらん」
そう言って取り出したのは都こんぶだった。ブスッとした表情で一本取り出すと、それを齧る。
「娘に子供が出来てからというもの女たちが煩くてな。いい機会だ、ここいらでタバコをやめてみることにした」
「一日二箱は吸っていたのに、それも都こんぶですか」
「口が寂しくてな。飴はすぐ噛み潰すし、ガムはほっとくと飲み込んじまうからこれが一番だよ」
あの狂犬がね、と呟きながら周防は立ち上がった。
「家庭ってのは牙も抜くらしいな」
「不満か？」
「いや、『正義の味方』らしくもないからな」
「俺たちは法の……番犬さ。嚙みつく相手を覚えただけだ」
「あんたが番犬、俺は野良犬。違いなんてそれだけさ」
好きにさせてもらうさ、と軽く手を上げながら背を向ける。その後ろを猫はゆっくりと飛び降りると、その後ろをくっついていく。
おっさんはその後ろ姿をただただ眺めることしかできなかった。
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佑子が再び事務所を訪れたのは依頼から二週間が過ぎた、冬の凍てつくような寒さが一区切りして、心なしか暖かくなった日のことだった。コートも一応羽織ってはいるが、以前のように吹きすさぶ風に身を包み込むこともない。
ドアを開けるとやはり出迎えたのは、あの時と同じ三毛猫だった。こんにちは、と挨拶を交わすとその軽い身を抱き上げる。
「いらっしゃい」
前と同じようにソファに周防が座っている。寝癖のついていない髪を見るに、以前と違って今日はこの上で眠っていたわけではないようだ。三毛猫を抱えたまま対面に座る。
「この子、名前はなんていうんですか？」
あの時とは違い、朗らかな笑顔を周防に向ける。きっと世の男たちの多くはこの表情にやられちまうのだろうと、周防は思った。
「名前？ 名前ね……猫」
「え？」
「名前ないんだよ、そいつ」
指を指しながら答えると「ふにゃ」と首を一つ縦に振って猫が答えた。その可愛らしさに同じように頬を緩める。
「この子、オスなんですね」
「そう。漁師がいたら売ってやろうとも思っているんだけど、そんな相手いなくてね。仕方ないから非常食にしてる」
ブニャと大きな声を上げて猫が非難した。その様子に思わず笑い声を漏らしてしまう。
テーブルの上には前回と同じようにコーヒーとカップが二つ用意されていたが、今回は周防はその両方に注ぎ入れた。その対応の違いに少しだけ目を丸くしながら、両手でカップを持ち上げて一つ口をつけた。
「さて、本題に入りますか」
こちらもコーヒーに一つ口をつけて話し始める周防。猫は佑子の膝の上で丸くなっている。
「……まあ、少し調べれば分かったよ、でもその前に一つだけ、もう一度だけ聞かせて欲しい」
「なんでしょうか？」
「なんでこんな依頼をした？」
前回と同じ質問だったが、佑子はその言葉に固まってしまった。そしてゆっくりと視線をずらし、一度目を瞑る。
「……ふと誰もいなくなった部屋の中で一息つくと、考えることがあります。私と夫は歳の離れた夫婦ですし、会話もそこまで多かったとは思いません。夫とは家の都合で結婚することになりましたが……あのまま家にいたところで、私が幸せになれたとは全く思えないです」
幸せになれたとは思えない。
この言葉が意味するものを見逃すほどに、周防は愚かではなかった。だが、こんな時にかける言葉が浮かぶほどに、賢くもなかった。
だから今、彼にはただただ話を聞くことしかできなかった。
佑子は俯いていた顔を上げると、まっすぐに周防の瞳を見つめながら、笑みを浮かべた。
「考えてみれば私、人生の半分以上をあの人と暮らしていたことになります。でも結局、あの人のことは何もわからなかった。ひどい人だと思うけれども、弱い人でもありました。
だから、あの人の最期の意味だけでも、私、知りたいんです」
まっすぐと伝えられた言葉を、その表情を直視することに耐えられなくて、周防は顔を背けてしまう。
そしてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「旦那は、事故死だよ」
ドアを開けるとやはり出迎えたのは、あの時と同じ三毛猫だった。こんにちは、と挨拶を交わすとその軽い身を抱き上げる。
「いらっしゃい」
前と同じようにソファに周防が座っている。寝癖のついていない髪を見るに、以前と違って今日はこの上で眠っていたわけではないようだ。三毛猫を抱えたまま対面に座る。
「この子、名前はなんていうんですか？」
あの時とは違い、朗らかな笑顔を周防に向ける。きっと世の男たちの多くはこの表情にやられちまうのだろうと、周防は思った。
「名前？ 名前ね……猫」
「え？」
「名前ないんだよ、そいつ」
指を指しながら答えると「ふにゃ」と首を一つ縦に振って猫が答えた。その可愛らしさに同じように頬を緩める。
「この子、オスなんですね」
「そう。漁師がいたら売ってやろうとも思っているんだけど、そんな相手いなくてね。仕方ないから非常食にしてる」
ブニャと大きな声を上げて猫が非難した。その様子に思わず笑い声を漏らしてしまう。
テーブルの上には前回と同じようにコーヒーとカップが二つ用意されていたが、今回は周防はその両方に注ぎ入れた。その対応の違いに少しだけ目を丸くしながら、両手でカップを持ち上げて一つ口をつけた。
「さて、本題に入りますか」
こちらもコーヒーに一つ口をつけて話し始める周防。猫は佑子の膝の上で丸くなっている。
「……まあ、少し調べれば分かったよ、でもその前に一つだけ、もう一度だけ聞かせて欲しい」
「なんでしょうか？」
「なんでこんな依頼をした？」
前回と同じ質問だったが、佑子はその言葉に固まってしまった。そしてゆっくりと視線をずらし、一度目を瞑る。
「……ふと誰もいなくなった部屋の中で一息つくと、考えることがあります。私と夫は歳の離れた夫婦ですし、会話もそこまで多かったとは思いません。夫とは家の都合で結婚することになりましたが……あのまま家にいたところで、私が幸せになれたとは全く思えないです」
幸せになれたとは思えない。
この言葉が意味するものを見逃すほどに、周防は愚かではなかった。だが、こんな時にかける言葉が浮かぶほどに、賢くもなかった。
だから今、彼にはただただ話を聞くことしかできなかった。
佑子は俯いていた顔を上げると、まっすぐに周防の瞳を見つめながら、笑みを浮かべた。
「考えてみれば私、人生の半分以上をあの人と暮らしていたことになります。でも結局、あの人のことは何もわからなかった。ひどい人だと思うけれども、弱い人でもありました。
だから、あの人の最期の意味だけでも、私、知りたいんです」
まっすぐと伝えられた言葉を、その表情を直視することに耐えられなくて、周防は顔を背けてしまう。
そしてゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「旦那は、事故死だよ」
それから三十分ほどかけて調査結果を伝えていった。ベニテングダケを食べた後の症状、その発症までの時間、状況からの推測、一緒にきのこ狩りにいった部下の証言、警察の見解から医師に相談した結果、そして自殺ならば動機となりそうな負債の内訳からその返済方法のプランまで、事細かに一つ一つ説明していった。
説明するどの結果を見ても、事故死という線が濃くなっていくものであり、自殺に結びつくような結果はない。
「……以上の結果、どれを見ても自殺であることは否定できても、事故であることを否定できる結果ではない。誰がどう見ても、これは事故だ」
この三十分ほどずっと話し続けた周防は、一つ大きく息を吐くと、ゆっくりと体を伸ばす。話の最中、佑子は一度も口を挟むことなく、その語られることに時に相槌をうち、時に首を傾げながらも、じっくりと聴き入っていた。
ここで休憩とばかりに一度立ち上がると、窓の外をそっと見る周防。街中はいつもと変わりなく、遅い時間に資源ごみの回収に来た収集車が音楽をテラテラと流しながら走り回っていた。外の陽気に誘われてか、心なしか外を歩く人の姿がいつもよりも多いように見える。この寒空の中でも鳥たちは群れをなして、文句も言わずに大空を飛んでいる。
周防はそこから席に戻ろうせず、佑子と向き合った。その端正で整った顔立ちは心をざわつかせてしまう。
「何か質問は？」
佑子はゆっくりと首を振った。
「いえ、特には……そうですか、やはり事故死ですか……」
そう、と呟いて顔を伏せる。
「……もう、檻の中の鳥じゃない」
突然の予想外の言葉に、え？ と言葉が溢れる。
「あんたは十分檻の中で苦しんだんだ。いい加減外に出てもいい頃だろう。汚れてしまった鳥であっても、翼があれば大空を飛び立てる」
「……」
「自分の力で檻を壊したんだ。その方法がどうあれ、空に飛び立つチャンスを得た。それならば、誰も気に止めることなく、地上のことなんて、今までのことなんて吹っ切って、空を飛び立つべきだ。そうは思わないか？」
「……周防さん」
「……真実よりも大事な幸福がある。違うか？」
うん、うん、と頷く佑子の目には大粒の涙が溢れていた。
「本当に、ありがとうございました」
泣き止むのを待って外に送りに行くと、佑子は初めて来た日と違って晴ればれとした満面の笑みを浮かべていた。
「周防さん」
「うん？」
「実は私、一つだけ賭けをしていたんです。でも、私、負けちゃった」
憑き物が落ちたような表情を浮かべる佑子とは対照的に、周防の顔が晴れることはなかった。料金と振込先を教えると、佑子はゆっくりと背を向けて去って行った。その背中を周防は見えなくなるまでじっと見つめていた。
了
説明するどの結果を見ても、事故死という線が濃くなっていくものであり、自殺に結びつくような結果はない。
「……以上の結果、どれを見ても自殺であることは否定できても、事故であることを否定できる結果ではない。誰がどう見ても、これは事故だ」
この三十分ほどずっと話し続けた周防は、一つ大きく息を吐くと、ゆっくりと体を伸ばす。話の最中、佑子は一度も口を挟むことなく、その語られることに時に相槌をうち、時に首を傾げながらも、じっくりと聴き入っていた。
ここで休憩とばかりに一度立ち上がると、窓の外をそっと見る周防。街中はいつもと変わりなく、遅い時間に資源ごみの回収に来た収集車が音楽をテラテラと流しながら走り回っていた。外の陽気に誘われてか、心なしか外を歩く人の姿がいつもよりも多いように見える。この寒空の中でも鳥たちは群れをなして、文句も言わずに大空を飛んでいる。
周防はそこから席に戻ろうせず、佑子と向き合った。その端正で整った顔立ちは心をざわつかせてしまう。
「何か質問は？」
佑子はゆっくりと首を振った。
「いえ、特には……そうですか、やはり事故死ですか……」
そう、と呟いて顔を伏せる。
「……もう、檻の中の鳥じゃない」
突然の予想外の言葉に、え？ と言葉が溢れる。
「あんたは十分檻の中で苦しんだんだ。いい加減外に出てもいい頃だろう。汚れてしまった鳥であっても、翼があれば大空を飛び立てる」
「……」
「自分の力で檻を壊したんだ。その方法がどうあれ、空に飛び立つチャンスを得た。それならば、誰も気に止めることなく、地上のことなんて、今までのことなんて吹っ切って、空を飛び立つべきだ。そうは思わないか？」
「……周防さん」
「……真実よりも大事な幸福がある。違うか？」
うん、うん、と頷く佑子の目には大粒の涙が溢れていた。
「本当に、ありがとうございました」
泣き止むのを待って外に送りに行くと、佑子は初めて来た日と違って晴ればれとした満面の笑みを浮かべていた。
「周防さん」
「うん？」
「実は私、一つだけ賭けをしていたんです。でも、私、負けちゃった」
憑き物が落ちたような表情を浮かべる佑子とは対照的に、周防の顔が晴れることはなかった。料金と振込先を教えると、佑子はゆっくりと背を向けて去って行った。その背中を周防は見えなくなるまでじっと見つめていた。
了
「ミャア」
「いって！」
足元に絡み付いていた猫が周防の足を思いっきり引っ掻いた。その際にズボンに跡ができてしまったし、肌から血が滲み出ている。
「なんだよ、ひっ掻くんじゃねえよ！」
そんな文句の声を上げていても猫は聞く耳を待たないとばかりに、何度もなんども爪を立てて攻撃してくる。それ躱して首根っこを掴むと、持ち上げるがそんな状態でもなんとかしようと、爪をガムシャラに振り回している。
「なんだよ、そんなに文句があるのかよ」
ミャア、ミャアと暴れる猫。
「わかってるよ、お前が言いたいこともさ。今回の件は事故なんかじゃない。当然自殺でもない」
「これは殺人だよ」
ビルの二階のインド料理屋はランチタイムの営業も終わり、本来ならば夜までの休憩の時間となっていた。だが周防はこの時間に店に入ることが多い。人嫌いで混む時間帯に入りたくないというのもあるが、特に大きな理由は今目の前の席に我が者側で座る猫の存在だった。
四六時中ついてきて離れないこいつは、インド料理屋に入る時も付いてくる。動物がいることを店主は一切気にしていないのだが、周りの客が気にするので客のいない時間を狙っているうちに、同じビルのよしみでこの休憩時間に来てもいいことになっていた。
「ハイ、チャイ」
インド人の店長はチャイを一杯持ってきてくれた。ありがとうと礼を言うと、砂糖を手に取る。
「さて、問題だ。このチャイの中に砂糖をまず小さじ一杯ほど入れよう」
誰に聞かせるわけでもなく、目の前に座る猫に向かって話しかける。
「次に、同じ量の塩を入れよう。そうしたらこのチャイの味は甘くなるか、しょっぱくなるか……」
テーブルにあった塩を手に取り、同じ量のチャイの中に放り込む。そしてグルグルとかき混ぜた後、少しだけ口に入れた。
「……まずい」
ニャア、と呆れたような声を上げる。気を取り直して話を続ける。
「まあ、答えはしょっぱいわけだ。じゃあこれを、塩の量を減らすとどうなるかというと……まあどこかの時点でちょうどいい塩梅が生まれてくる。
それはベニテングダケでも同じだ。
ベニテングの持つアコニチンは確かに猛毒だが、同じ猛毒のテトロドトキシンと合わせるとこの二つが拮抗してしまい、本来すぐに影響が出るはずにも関わらず、表面上はケロリとしていることがある。テトロドトキシンといえば、フグの肝臓などに含まれる毒だ。
おそらく前日の結婚記念日にアコニチンとテトロドトキシンを含んだ食べ物を……まあベニテングとフグの毒を食べたんだろうな。そのまま家に帰って翌日を迎えて、キノコ狩りに行った後に毒が回り始めた。
そして苦しみ始めて死亡したということだろう。あとは帰ってきて夕飯に作っておいた鍋にでもベニテングを入れておけば全て終わりだ
フグ毒なんてのは、実家にいた元従業員の誰かが仕入れてくれたんだろうな。あの男に人生を滅茶苦茶にされて、恨んでいる人間なんて腐るほどいるんだ、そんなやつを探すのなんてわけないさ」
向かいの座る猫はそこまで聞いた後、大きく首を振った後に背中を伸ばし、そのまま丸くなってエメラルドに輝く大きな瞳を閉じた。
なんだよ、聞きたかったわけじゃないのかよ。
ぼそりと呟きながらチャイを再び口に運ぶが、やはり不味いものは不味い。
一度溶けてしまった砂糖や塩はそう簡単に取り出せない。
それは毒や恨みも同じなのだろう。
「周防サン、ご飯ダヨ〜」
店主がナンとバターチキンカレー、そしてタンドリーチキンを手にしながらやってきた。机の上に乗せると、いつもと変わらない笑顔を見せる。
「彼女、帰ッテキタンダネ」
手でナンを千切っているところにそんな言葉をかけられて、思わず手が止まってしまう。その言葉の真意を考えているうちに、やがて一つの結論に辿り着いた。
「ラオさん、あんたまだ日本人の顔の見分けができないでしょ」
オオ、日本人難シイネー、などと話しながら、間違えてしまってバツが悪そうにゆっくりとテーブルから離れていった。
さて、食べようかなとナンをカレーにつけた時、閉じていたはずのエメラルドの瞳が周防をじっと見つめていた。別に気にするようなことでもないはずなのに、どうにもその瞳から視線をそらすことができない。
「なんだよ……やらねえぞ」
そうじゃねえだろ、と言うように「フン」と鼻を鳴らすだけだった。そのままナンを口に放りこもうとしたが、観念したように小さく切り分けるとポイ、と放り投げる。猫は飛びつくこともなく、緩慢な動きでゆっくりと椅子から飛び降りると、一口かじり、まあまあだねと言うように「ミャ」と一声鳴いた。
「いって！」
足元に絡み付いていた猫が周防の足を思いっきり引っ掻いた。その際にズボンに跡ができてしまったし、肌から血が滲み出ている。
「なんだよ、ひっ掻くんじゃねえよ！」
そんな文句の声を上げていても猫は聞く耳を待たないとばかりに、何度もなんども爪を立てて攻撃してくる。それ躱して首根っこを掴むと、持ち上げるがそんな状態でもなんとかしようと、爪をガムシャラに振り回している。
「なんだよ、そんなに文句があるのかよ」
ミャア、ミャアと暴れる猫。
「わかってるよ、お前が言いたいこともさ。今回の件は事故なんかじゃない。当然自殺でもない」
「これは殺人だよ」
ビルの二階のインド料理屋はランチタイムの営業も終わり、本来ならば夜までの休憩の時間となっていた。だが周防はこの時間に店に入ることが多い。人嫌いで混む時間帯に入りたくないというのもあるが、特に大きな理由は今目の前の席に我が者側で座る猫の存在だった。
四六時中ついてきて離れないこいつは、インド料理屋に入る時も付いてくる。動物がいることを店主は一切気にしていないのだが、周りの客が気にするので客のいない時間を狙っているうちに、同じビルのよしみでこの休憩時間に来てもいいことになっていた。
「ハイ、チャイ」
インド人の店長はチャイを一杯持ってきてくれた。ありがとうと礼を言うと、砂糖を手に取る。
「さて、問題だ。このチャイの中に砂糖をまず小さじ一杯ほど入れよう」
誰に聞かせるわけでもなく、目の前に座る猫に向かって話しかける。
「次に、同じ量の塩を入れよう。そうしたらこのチャイの味は甘くなるか、しょっぱくなるか……」
テーブルにあった塩を手に取り、同じ量のチャイの中に放り込む。そしてグルグルとかき混ぜた後、少しだけ口に入れた。
「……まずい」
ニャア、と呆れたような声を上げる。気を取り直して話を続ける。
「まあ、答えはしょっぱいわけだ。じゃあこれを、塩の量を減らすとどうなるかというと……まあどこかの時点でちょうどいい塩梅が生まれてくる。
それはベニテングダケでも同じだ。
ベニテングの持つアコニチンは確かに猛毒だが、同じ猛毒のテトロドトキシンと合わせるとこの二つが拮抗してしまい、本来すぐに影響が出るはずにも関わらず、表面上はケロリとしていることがある。テトロドトキシンといえば、フグの肝臓などに含まれる毒だ。
おそらく前日の結婚記念日にアコニチンとテトロドトキシンを含んだ食べ物を……まあベニテングとフグの毒を食べたんだろうな。そのまま家に帰って翌日を迎えて、キノコ狩りに行った後に毒が回り始めた。
そして苦しみ始めて死亡したということだろう。あとは帰ってきて夕飯に作っておいた鍋にでもベニテングを入れておけば全て終わりだ
フグ毒なんてのは、実家にいた元従業員の誰かが仕入れてくれたんだろうな。あの男に人生を滅茶苦茶にされて、恨んでいる人間なんて腐るほどいるんだ、そんなやつを探すのなんてわけないさ」
向かいの座る猫はそこまで聞いた後、大きく首を振った後に背中を伸ばし、そのまま丸くなってエメラルドに輝く大きな瞳を閉じた。
なんだよ、聞きたかったわけじゃないのかよ。
ぼそりと呟きながらチャイを再び口に運ぶが、やはり不味いものは不味い。
一度溶けてしまった砂糖や塩はそう簡単に取り出せない。
それは毒や恨みも同じなのだろう。
「周防サン、ご飯ダヨ〜」
店主がナンとバターチキンカレー、そしてタンドリーチキンを手にしながらやってきた。机の上に乗せると、いつもと変わらない笑顔を見せる。
「彼女、帰ッテキタンダネ」
手でナンを千切っているところにそんな言葉をかけられて、思わず手が止まってしまう。その言葉の真意を考えているうちに、やがて一つの結論に辿り着いた。
「ラオさん、あんたまだ日本人の顔の見分けができないでしょ」
オオ、日本人難シイネー、などと話しながら、間違えてしまってバツが悪そうにゆっくりとテーブルから離れていった。
さて、食べようかなとナンをカレーにつけた時、閉じていたはずのエメラルドの瞳が周防をじっと見つめていた。別に気にするようなことでもないはずなのに、どうにもその瞳から視線をそらすことができない。
「なんだよ……やらねえぞ」
そうじゃねえだろ、と言うように「フン」と鼻を鳴らすだけだった。そのままナンを口に放りこもうとしたが、観念したように小さく切り分けるとポイ、と放り投げる。猫は飛びつくこともなく、緩慢な動きでゆっくりと椅子から飛び降りると、一口かじり、まあまあだねと言うように「ミャ」と一声鳴いた。
それから二日ほど過ぎたある日のことだった。
いつも通り客も来ない事務所内で、ぐうたらと横になりながらテレビを眺めている。猫は一番暖かいテレビの横で丸くなり、もう一時間は動いていなかった。
携帯が着信を告げる。五回ほどコールが鳴った後、ゆっくりと手を伸ばすと通話ボタンに指を置いた。電話はおっさんからだった。
『天野佑子が自首してきた』
電話の奥からその言葉が聞こえる。
『今日の朝のことだ。事故死と言われていた旦那は実は私が殺したと自供してきた。困ったもんでな、物証証拠が焼けちまってどうにも証明のしようがない。お前のとこにも捜査員が行くだろうから……』
了解、とだけ話して電話を切る。その奥からは『話はまだ！』などという声が聞こえるが、周防はそれを黙殺した。
薄汚れた天井のシミを見つめる。テレビは相変わらず芸能人の不倫ばかりを報道していて、見ている人間を飽き飽きとさせている頃だった。窓の外からは学校帰りの小学生たちが、奇声ともわめき声とも区別のつかない笑い声を上げながら、集団で帰っていく。その横を一台の救急車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。
「……檻の中のが自由よりマシ、か」
ニャアと鳴きながら猫が周防の胸の上に飛び乗ってきた。普段だったらば払い退けるところだったが、今日だけはこのまま載せておくことにした。
トントン
事務所のドアがノックされる。さっき言っていた捜査員だろうと、ゆっくりと立ち上がり緩慢にドアを開ける。
「なんでも自由に持っていけよ」
「家賃だけいただければ何もいらないわ」
この小さな体に不釣り合いなほど力強い瞳を向けられて、周防は苦笑いを浮かべるしかできなかった。
了
いつも通り客も来ない事務所内で、ぐうたらと横になりながらテレビを眺めている。猫は一番暖かいテレビの横で丸くなり、もう一時間は動いていなかった。
携帯が着信を告げる。五回ほどコールが鳴った後、ゆっくりと手を伸ばすと通話ボタンに指を置いた。電話はおっさんからだった。
『天野佑子が自首してきた』
電話の奥からその言葉が聞こえる。
『今日の朝のことだ。事故死と言われていた旦那は実は私が殺したと自供してきた。困ったもんでな、物証証拠が焼けちまってどうにも証明のしようがない。お前のとこにも捜査員が行くだろうから……』
了解、とだけ話して電話を切る。その奥からは『話はまだ！』などという声が聞こえるが、周防はそれを黙殺した。
薄汚れた天井のシミを見つめる。テレビは相変わらず芸能人の不倫ばかりを報道していて、見ている人間を飽き飽きとさせている頃だった。窓の外からは学校帰りの小学生たちが、奇声ともわめき声とも区別のつかない笑い声を上げながら、集団で帰っていく。その横を一台の救急車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。
「……檻の中のが自由よりマシ、か」
ニャアと鳴きながら猫が周防の胸の上に飛び乗ってきた。普段だったらば払い退けるところだったが、今日だけはこのまま載せておくことにした。
トントン
事務所のドアがノックされる。さっき言っていた捜査員だろうと、ゆっくりと立ち上がり緩慢にドアを開ける。
「なんでも自由に持っていけよ」
「家賃だけいただければ何もいらないわ」
この小さな体に不釣り合いなほど力強い瞳を向けられて、周防は苦笑いを浮かべるしかできなかった。
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