半蔵門かきもの倶楽部コミュの第13回　おたけさん作『フィーリス・クライストと孫の物語学校』

「ねえ、勝手に決めないでよ。これは、うちの問題よ。」
屋敷の一隅にあるステンドグラスから千色の光が差し込む白昼。アターシャ・クライストは、金色の装飾に埋め尽くされた階段を上って行く父に、金切り声で呼びかけた。
「いや、一族の問題だ。それに、私が決めたのではなく、ショウタ自身が決めたんだ。私は、許可を与えただけだ。」
「フィーリス・クライストが許可を与えたなら、それが全てだって、どこのバカでも分かるわ。」
「でも、お前は分からない。」
階段を上りきった所にいる父が、アターシャを見下すように微笑みかける。
「私をバカにしているの？」
「ああ、たぶんな。」
彼女の父であるフィーリス・クライストは、なぜ、こんな者が自分の娘で、このクライスト家の一族なのだろうかと人生で思わない日が無かった。それは、先祖に詫びきれないことであり、彼の人生最大の汚点であることは疑いようが無かった。
しかも、この女は、美しさ以外に何も取り柄が無く、その美しさも最大級の讃辞では大きすぎる程度のものである。さらには、彼女が実子の中で年長だというアイロニーが、そこには存在した。
立ちくらみを覚えたフィーリスは、階段の遥か下にいる娘を見つめ、下がれと言わんばかりに手で払い、頭を手で抑えながら、今、この家で唯一落ち着くことができる自室へと歩を進めた。

そこは、白猫通り。黒猫通りと交差しているから、そう呼ばれるようになった。
もっと言えば、ここは、フィーリスの社域である。
誰でも知っていることだが、フィーリスの社域の天候は、フィーリス・クライストと感情連動〈エモーショナル・リンケージ〉されている。つまり、祖父の機嫌が良いと晴れ渡るし、怒り狂うと嵐になる。そのことを、ショウタ・クライストは２歳のときに、祖父が扉の端に足の小指をぶつけて、周囲に怒鳴り散らし始めた瞬間、晴れ渡っていた空が嵐へと豹変したことから知っていた。
なので、今、雲行きが怪しくなってきているということは、祖父の機嫌が悪いということだというのは、10歳になるショウタには分かりきっており、ゆえに、家に帰らずにもう少しどこかをうろつこうと彼は考えた。祖父の機嫌が悪いということは、祖父の元を訪れた母と喧嘩したということであり、そうなると母の機嫌も悪いことは目に見えていたからである。
大人のための商品が並ぶ黒猫通りと対をなす白猫通りには、子どものための商品が並んでいた。そして、その商品を目にしながら過ぎて行くと、混合域〈マーブル・エリア〉にたどり着く。そこには、学術機関や美術館など、各企業体が共有している領域であり、そこまで来ると、怪しくなっていた天候は存在せず、寒々としているものの晴れ渡る青空が広がっていた。
「おい、坊や。面白いのを連れているな。ソイツは噛まないのか？」
企業体歴史保護地区〈パサード〉のパリをイメージした石畳の古風な骨董街〈アンティキア〉の街角。片手に古臭い可塑端末〈フレブレット〉、もう片方の手に数学芸術〈マスマティート〉らしい幾何学模様と方程式柄の長傘を持った、如何にも旅行者らしいビッグフットがショウタを見下ろしていた。
彼が“ソイツ”と表現したのは、ショウタにぴったりついて来ているアオゾラヒョウのフィンゲルのことだ。夏は涼しさを演出するために澄んだ水色の毛を生やし、冬は暖かみを伝えるために淡い橙色をした上質のラグみたいな毛となる、組替生物〈メイクド〉である。
「いんや、噛むよ。」
その言葉に、ビッグフットは顔をしかめる。まるで、「噛まない」というのが世界の常識であるかのように。
「噛むなら連れて来ちゃダメじゃないか。」
行き交う人の中には、その光景を見てヒソヒソと話し合う人もいて、このビッグフットに注目が集まっていた。
しかし、ショウタはそんなビッグフットのおじさんのことをバカにしないで欲しいと思う。このおじさんは、遠い星から来て、自分のことを知らないだけなのだ。そして、それはショウタにとって、少し嬉しいことでもあった。彼のことを普通の少年と見てくれる人は、こういう風に反応してくれるのだと、“普通”というものが知れて嬉しかったのだ。
「でも、お爺ちゃんが、どうしても連れて行けって言うんだ。」
「ふーん。でも、鎖で繋がなくても良いって言ったか？」
「うん。鎖で繋ぐと興奮するから絶対にダメだって言ってた。あと、バカな人間よりは賢いから、むやみに人を噛むことはあり得ないって。」
おじさんは困った顔をした。きっと祖父のことを常識が無いと思っているんだろう。確かに常識は無いのかもしれない。常識があったら、天候と機嫌を連動〈リンケージ〉させたりはしないだろうから。
「まあ、いいや。おじさんは、ソイツに噛まれても痛く無いから。顎が開かないだろうし。」
そう自慢げに、ガハハと笑いながら言うおじさんの脚を見たところ、確かに大人の胴くらいあって、フィンゲルでも噛めそうに無かった。しかし、フィンゲルは脚ではなく、首に噛みつくということを、僕はおじさんに嫌われたく無いから説明しなかった。
「ところで、おじさんは、観光客なんだ。」
ビッグフットなので、エル言語は得意でないと思われるおじさんは、即時翻訳機〈ボーダレス〉を使っているのだろうが、機械は妙な変換をしている。おそらく、可塑端末〈フレブレット〉と同じく旧式なのだろう。
「おじさんを、どこかに案内してくれないか。」
「どこかって？」
「うまいものが食べられるところが良いな。行儀のいいペットは預かってくれる様なおもてなしのできる店がいい。そして、ペットにもうまい食事を食わせてくれるところがね。」
こうしてショウタは知らないおじさんについて行った。理由としては、料理を食べさせてもらえるかもしれないというのではない。ショウタの家では、日替わりで、何らかの機関の認定を取得している様なシェフがやって来て、食事が振る舞われるのだ。そうではなくて、ショウタは今日の日記に、いつものように考えた挙げ句に「何も無かった」と記録したく無かったからだった。

「ショウタには早すぎるわ。」
「そんなことはない。」
フィーリス・クライストは、こんなくだらない押し問答をするために、まだ屋敷に残っていた娘に、愛想を尽かしていた。なぜ、この女は、時間を無駄に使うことを耐えられるのだろうか。時間に追われる様な仕事をさせたはずだったが、実際は、誰かが気を遣って甘やかし、職務をちゃんとこなしていなかったということなのだろう。やはり働かせるのは、自分と関係の無い会社にすべきだったとフィーリスは後悔の念に襲われた。
「だって、私は、その年では入学しなかったわ。」
「人それぞれなんだよ。何十年も生きて来て、まだ分からないのか。」
その言葉を聴いたアターシャは、目を潤ませて、
「あの子は優秀だってこと？」
アターシャの質問に、フィーリスの顔は独特の歪み方をする。
「それ以外の答えが導けるなら、お前は天才だよ。」
フィーリスは、腹立たしげにコニャックを飲み干した。グラスの底を見ると、悔しさで泣きそうになっている娘が映っていた。
「お前も、働いたらどうだね。」
「それで、さらにバカにする気でしょ。そんなことしない。絶対に。それに私はショウタの面倒を見ないといけないから。」
フィーリスは、面倒を見てもらうほうの間違いでは無いかと言いたかった。しかし、さすがに言い過ぎだと思い、その言葉は心にしまい、安楽椅子に腰掛け、『ヒストリア』と題された本を開いた。それは、リーヴィズ社の物語最高責任者で、物語学博士のルーディシュ・ラマジャンが編纂した物語学の基礎書であり、喜劇、悲劇に始まり、多様な物語の分類と組み立て方が記されていた。
「アターシャ。お前も、物語を書いてみたらどうだ。意外と才能があるかもしれん。」
アターシャは、その言葉を鼻で笑い、
「昔、絵付きで書いてみせたけど、父上は鼻で笑ったわ。それで、エレシアが撮った写真を褒めたの。」
フィーリスは、安楽椅子から身体を起こして、娘を見据えた。それに気付いた娘の目は怯えた色を帯び始めた。
「ご、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの。許して。お願いだから。」
「今回だけは許そう。だから、今すぐ出て行きなさい。今日はこれ以上、お前の存在を感じたく無い。」
エレシアが、この世から去ってしまってから既に５年近く経つ。フィーリスは内心、そこまでの怒りは感じていなかったが、愚娘を追い出すのには良い口実であった。
怯えたアターシャは、荷物をまとめ、そそくさと部屋を出て行こうとし、その前に立ちはだかる大扉を、２人の執事が丁寧に開け、お辞儀をした。その謙虚な２人に可能な限り、尊大な態度をとったアターシャは、ツカツカと足音を鳴らしながら、自分の姿が映り込んだ大理石の廊下を延々と歩いて行ったのであった。
娘が出て行ってから、フィーリスは肝心のショウタはどうしているのだろうかと思った。物心がついた男の子が、母親が出かけ、無理をすれば外に出られるとすれば、することといえば一つである。
フィーリスは、自分の子どもの頃を思い出し、今、ショウタがどのような冒険を繰り広げているのか想像した。屋敷を出て、数多の通りをくぐり抜け、フィンゲルとともに町中を旅し、ひょっとしたらヴィザール物語学校まで行っているかもしれない。
そして、そんな想像に自分の少年時代を重ね、胸を熱くしたフィーリスは、孫が母親からの報告を聞いて喜ぶ顔を思い浮かべながら、早く帰るようにメッセージを送ったのだった。

「おじさんは、今は観光客だけど、新学期からは、ここの先生になる。」
格式の高い店内は、朱と黒の色調で統一され、テーブルに敷かれたクロスは純白で、その上に用意された敷物は深い青地に金の刺繍がなされていた。そして、高級店らしく、従業員も人間ばかりであり、店名も「原点回帰〈レディタス〉」と、懐古的な名前である。ここは、フィーリス・クライストお気に入りの店だったが、彼が来るには庶民的な店であり、母親であるアターシャは来店するのを嫌ったので、もっぱらシェフが、フィーリス・クライストの屋敷に召還されていた。
その中で、ビッグフットの旅人は、子鹿の赤身のステーキを二切れも口に運び、そして、口をくちゃくちゃ言わせながら、折り目がついてしまっている可塑端末〈フレブレット〉の画面を指差していた。
「スゴいね！　ヴィザール物語学校って、名門だよね。おじさんは、何を教えるの？」
「仮定物理学だ。知ってるか？」
ショウタは、バベルの図書館を通して、少しは仮定物理学の知識があったが、大人というのは子どもに教えてやろうと思ったのに、子どもがそれを知っていると機嫌を損ねる生き物なので、そのまま聴くことにした。
「知らないなあ。仮定物理学ってなんなの。スゴそうだね。」
「よし説明してやろう。」
そう言って、おじさんは、可塑端末〈フレブレット〉を開いて、恐竜に翼が付いた生物の骨格を表示した。
「生物デザイン学を先行している学生たちは、こういう生物が好きだ。しかも、肉付きの良い奴が。」
おじさんは、可塑端末〈フレブレット〉を器用に動かして、骨格に外皮などを付けて行き、筋肉質の翼竜が出来上がった。
「しかし、これじゃ、動かした途端にぺしゃんこだ。生物デザインの奴らは、お絵描きは好きだが、動かしたときにどうなるかが理解できてない奴が多い。」
と言いながら、おじさんがスタートボタンを押すと、動き出した翼竜は崩れてしまった。
「何が問題か分かるか？」
ショウタは、首を横に振った。
「骨格が稠密すぎるんだ。おい、プテラノドンを知ってるか？」
ショウタは、首を縦に振った。これは、知っていても気を悪くしない箇所である。
「おお、知ってるか。良かった。奴らは、空を飛べるわけだが、それは鳥と同じで、骨が含気骨になっていて、軽いがそれなりに丈夫な骨格になっているからだ。」
翼竜の骨が拡大されると、それには中身が詰まっていたが、ボタン一つで、空洞になり、その中に太めの蜘蛛の糸の様なものが張り巡らされた。
「これで、軽くなったので動くことはできるようになった。でも、もっと軽くしないと、空は飛べん。翼をぱたぱたさせるニワトリやペンギンみたいな滑稽な生物になってしまう。」
そう言って、おじさんは、画面を切り替えた。すると、象と数式が表示された。
「まあ、こんな感じで、ほ乳類みたいな稠密な骨だと、数式から考えて陸上では体長が倍違う生物同士だと、骨の太さはだいたい３倍は違う。こういう風に考えると、象くらいの大きさが限界と成るわけだ。海中では、鯨くらいの大きさが可能だがな。」
「だから、恐竜は象より大きかったんだね。でも、仮想現実ではものすごく大きい生物がいるよ。」
「良いところに気付いたな。それは、仮想現実ならではのトリックを使ってるんだよ。」
と言いながら、再び可塑端末を取り出し、人間の骨格を表示して、ボタン一つで、その骨をメタリックな素材に置き換えた。
「たとえば、こうやってカルシウムでできた骨をチタン合金に変えてやれば、強度は、まあ５倍くらいになる。そうすれば、大きさを変えても、ある程度までは耐えられるわけだ。でも、骨がチタンでできた生物は発生や成長する過程を計算するのが難しい。現実世界には、そんな生物はいなかったからな。よって、大量に測定データが残されている通常のほ乳類の発生過程、つまり、カルシウムでの成長過程データを使用して、強度計算のときのみチタン合金に置き換えるというインチキみたいな方法が使われているんだ。」
ここで、ビッグフットは、ビールを飲んで一息つき、
「だが、そんなインチキみたいなことだけではなくて、旧国家のSF作品で描かれたみたいに、シリコンでできた生物の発生仮定を設計〈モデリング〉する研究が最初に行われ、徐々に炭素など通常生物で用いられる元素以外での生物発生についてモデルが出来上がってはいる。こんな感じで、仮定物理学は、仮想現実内の火山活動から大鳥の飛行と衝撃波の関係までのあらゆる物理法則を、より精緻にすべく日々研究を進めているのだ。こうして、仮想世界は単なるゲームの世界から、原子レベルで相互作用する世界ができるのも夢ではないっちゅーことだ。それに、地球や火星の完璧なモデルを仮想現実世界に作ることができれば、そこから未来予測ができると考えているぶっ飛んだ研究者もいる。まあ、さすがに、そこまでの精度を達成するには、どれだけの時間がかかるか分からないがな。」
「仮想現実世界で未来予測するなんて、『一方向の物語』に出て来るアウトバーグ博士みたいだね！」
「そう。その通りだ！　アウトバーグ博士みたいになりたいというのが、仮定物理学者を目指すのがオーソドックスな動機だよ。」
ビッグフットは、酔って来たのか少し顔を赤らめて、興奮気味に机を叩いたので、店にどよめきが生じたが、ビッグフットは照れくさそうに自分で頭を下げて事態を収拾していた。
「つい、な。すまん、すまん。おお、そういえば、名前を伝えてなかったな。」
ショウタの目の前に出されたのは、紙の名刺だった。そこには、凝ったフォントで、“リウォーデン・ストロガツキー”と書かれていた。それを受け取ったショウタは、クライスト家であることを知られると面倒なので、自分の名前だけ伝えた。
「あー、つい、名刺を出してしまった。ショウタ、なんだか、キミと話していると、ずいぶん大人と話している気分だよ。」
そう言うリウォーデンの皿の上には、乱雑にフォークとナイフが置かれていたが、ショウタの皿の上には、きちんと５時の方向に、それらが置かれていた。
「リウォーデン、まさかあなたなの？」
リウォーデンの横に、すらりとした紅衣の可愛らしい女性が立つ。青いストライプのシャツの上に、紅色のカーディガンを着て、翠のスカートを履き、それらは最近流行りのフォニックフォニックのもののようであり、女性の豊かな巻き毛のブロンドから感じる柔らかさに、洗練された雰囲気を与えていた。
その声に対し、リウォーデンは餌を待つ鳥の雛みたいに、ぱっくりと口を開けた少し間の抜けた格好で横に立つ女性を見上げ、頭を掻きながら考え込んでいた。
「あ、クロエか？　お前、なんで南極にいる？」
やっとのことで思い出したリウォーデンは、手を叩き合わせ、女性の方に身体ごと向けた。
「それは、こっちの台詞。放浪の旅に出ている素材屋のあなたが、なんで、あなたの嫌いな、閉鎖感溢れる南極にいるのかしら。」
「野暮用でね。そっちは？」
「私は、ここで働いてるの。」
「このレストランで？」
「違うわよ。ヴィザール物語学校で、講師をしてるの。」
「じゃあ、おじさんと同じじゃない。」
ショウタは、会話に入れてもらえず無視されているようで寂しかったので思わず言ってしまったが、リウォーデンが慌てて黙っているようにジェスチャーをしたので、言いたく無かったのだということが、よく伝わって来た。
「この子は？」
クロエが、ショウタの方へ微笑みかけてから、リウォーデンに詰め寄る。もしかすると誘拐かもしれないと言わんばかりに、厳しい視線を向けている。
「俺が町で迷ってたとこ、案内してくれたんだ。名前は、ショウタ。」
間違いないのかという眼差しをショウタに向けてくるクロエに、彼は大丈夫の意味を込めて頷き返す。
「なんだ、あなたの子じゃないのね。まあ、似てないか。でも、キミ。怪しいおじさんについていっちゃダメじゃない。」
クロエの冷静な言葉に、ショウタは、「フィンゲルがいるから」と答えそうになったが、それだとリウォーデンを怪しんでいるようでかわいそうだったので、曖昧な微笑みを返しておくにとどめた。
「クロエ、ショウタが困ってるだろ。その辺にしといてくれ。それより、このあと時間あるか。」
「別に無くは無いけど、なぜ？」
「ヴィザール物語学校を案内してもらおうと思ってな。場所がいまいちよく分からんし、一緒なら、ショウタの心配をしなくて済むだろう。」
冗談っぽく言うリウォーデンに、クロエは、
「いいわ、案内してあげるわよ。その代わり、なぜ人に雇われることを、あんなにも嫌っていたあなたが物語学校で働くことになったのか、経緯をちゃんと説明して。」
「いいだろう。今から考えておくよ。」
リウォーデンは席を立ち、クロエと２人で会計の方へと向かって行った。
ショウタは、自分が介しないところで、どんどん話が決まって行くことに戸惑いを覚えつつ、ヴィザール物語学校へ行けることにワクワクした。

「なぜ、即時翻訳機〈ボーダレス〉を？」
会計場所の前に立ったクロエが、怪訝な表情でリウォーデンに尋ねる。
「言語が最適化されすぎて、ついていけないんだ。冗談で使える言葉の組み合わせを作るために言語を変えて行くなんて、それこそ冗談もいいところだ。」
リウォーデンが、とっておきだと言わんばかりの表情で皮肉を口にすると、クロエは呆れた表情で、
「媒脳にしないからよ。奢ってあげるから、お金貯めて買いなさい。今頃、媒脳じゃないなんて、恥ずかしいわよ。」
「いや、あのヴァーサフだって媒脳じゃない。媒脳は創造力が削られるんだ、ヴァーサフが言ってた。きっと、そのうち媒脳にしたことを後悔する世の中が来る。媒脳手術やら臓器置換術を受けつづけると、どんどん自分だった身体の部分〈パーツ〉が失われていって、しまいには古代ギリシャのテーセウスの船のように、自分は自分のままかどうか分からなくなるさ。」
リウォーデンの言葉を聞き流している様子のクロエは、店の会計機〈チェッカー〉に手をかざした。ハッキングされないように設計された会計機は、残額をアドリに通信して返すのではなく、紙で印字する方式だったようで、その古典的な情報伝達媒体が機械から出てきた。ショウタは、そこに書かれていた彼女のクレディトの残額を見て、クライスト家である自分と対して変わらないことに驚いた。
「お姉さん、クレディト持ちなんだね。」
「大人の所持金を見るもんじゃないわ。ましてや、言うべきでも無いわね。どこの社域の子？」
クロエは、怪訝そうな顔をしてリウォーデンの方を見たが、彼は首を傾げるだけであった。
「そういや、ショウタ、どこに住んでんだ。」
そのとき、店の従業員がやっとの思いで、透明な檻〈ケース〉に入れたままにしてあるフィンゲルを一行の前に運んで来たのだが、それを見たクロエは、「きゃっ」という短い悲鳴をあげ、会話が中断された。
「冗談でしょ。この子、アオゾラヒョウ？　首を噛む動物は、ゴメンだわ。」
その言葉を聞いたリウォーデンは、そんなことは聞いてないと言わんばかりに、ショウタの顔を睨んだ。ショウタは、仕方なく首を横に振って知らなかったフリをする。
「そんな、首を噛むだなんて。おじいちゃんは言ってなかった。」
俯きがちに、苦し紛れの抗弁をしたショウタの鼻先に何か冷たく、ざらざらしたものが当たったので、彼は恐る恐る視点をあげて行くと、そこには大人の手くらいの大きさのワニがいて、じろりとショウタの方を見つめていた。
驚いたショウタは、「わっ」と悲鳴をあげ、後ろに飛んで尻餅をついてしまったが、さらにワニはショウタの顔めがけて、飛んで来て、口をぱくつかせている。
それでも、必死に後ろに下がって逃げようとするショウタをワニが追いかけて来て、壁に追いつめられたところで、ワニとにらめっこになり、鼻が噛みつかれそうになった。
しかし、そこで、ワニの顔がどこかへ行き、代わりにクロエの顔がショウタを覗き込んだ。
「物語学校では、嘘つきはコイツに噛みつかれるのよ。自分が一番賢いと思わないことね。」
そう言いながら、クロエは、自分の手を大蛇やピラニアに変えてみせて遊んでいた。ショウタも見たことが無い技術だったので、何か聞きたかったが、その前にクロエが、
「リウォーデンに謝ってあげなさい。」
と厳しい口調で咎めたので、ショウタは、
「リウォーデン、ごめんなさい。騙すつもりは無かったんだ。ただ、首を噛む動物なんて連れてて、嫌われたくは無いと思ったんだ。」
子どもらしいショウタの姿に、クロエとリウォーデンの２人はすっかり許す気持ちになり、
「ああいいよ。気にすんな、ショウタ。俺が噛まれる様なことをしなけりゃ問題ないわけだから。で、どこ住んでんだ。」
「フィーリス社域」
「フィーリス社域？　ここまで磁下鉄〈メトロ〉で来たのか？」
「ううん。フィンゲルがいるとメトロには乗れないから、白猫通りを歩いて来たの。」
「それは遠いわね。で、誰か家にはいるの？」
「お母さんが、いつもいるけど、今日はおじいちゃんとこに出かけちゃった。」
「そうなの。今頃、主婦なんて悠々自適で良い暮らしね。なら、おじいちゃんところは、どこにあるの？」
「白猫通りから、黒猫通りを抜けて、フィーリス通りをずっと先に行った丘の上。」
困惑の表情を浮かべたクロエは、自分のアドリを起動させた。おそらく、フィーリス社域を見ているのだろう。そして、ショウタの祖父の家が、どこか分かったのか、フィンゲルのときよりも驚いた表情を見せた。
「ショウタ。今の説明だと、おじいちゃんの家は、フィーリス・クライストの屋敷の方になるけど…」
ショウタは、黙っていた。結局、いつもこうなる。こうなって、誰も自分に本当のことを言ってくれなくなり、壁ができるのだ。
ショウタのこの沈黙を、クロエは肯定の合図と受け取ったようで、
「リウォーデン、良かったじゃない。あなたもこれで有名人ね。きっと今頃、誘拐犯として指名手配されているわ。」
「じょ、冗談じゃない。俺は、ただの観光客だぞ。」
「これからは、各企業体の保安部で、観光客への取締が厳しくなるでしょうね。」
リウォーデンの血色の良い、ふっくらした顔から、みるみると血の気が引いて行っているのが端から見ても分かり、今にも倒れ込みそうにも見えた。
「冗談よ。安心して、私、フィーリス・クライストとは面識有るから。悪いようにはされないわ。」
「フィーリス・クライストと？　なんでまた。」
九死に一生を得て、安堵の表情を浮かべたリウォーデンが不思議そうに尋ねる。
「あなたが、低重力の星々を放浪して背が伸びてるみたいに、私にも私の時間が流れているのよ。」

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[1] mixiユーザー 02月07日 13:51

そして、ショウタの方を意地悪い笑みを浮かべて見て、
「あとは、この子次第ね。」
「大丈夫だよ。何にも言わないから。ヴィザール物語学校に連れて行ってくれれば、それで満足だから。」
「さすがクライスト家だな。主張がしっかりしてるよ。まるで、脅迫みたいだ。」
リウォーデンは、胸を撫で下ろし、そのままテクテクと店の外へ歩いて行った。

「リウォーデン、約束よ。ちゃんと、経緯を教えなさい。」
混合域〈マーブル・エリア〉の芸術区にある長い坂を下りながら、クロエは、後ろからついて来るリウォーデンに問う。
「長い話になるから、夕食を食べながらにしよう。」
「長い話になるなら、分割して聞いてあげる。まず、学校を突然去ってから何をしてたの？」
「キミが言った通り、素材屋だよ。たくさんの星を放浪して、物語を集めていたんだ。」
「それは知ってる。たまたま、あなたと遭遇したカミュスキュデュから聞いたから。そうではなくて、それ以外に何をしてたのかってこと。」
「それ以外？　別に何もしてないさ。物語の素材を集めて、星間連絡網〈エスルート〉の高い通信料を払って、あのケチで悪名高いリーヴィズ社の物語保管部に、それを安価で買いたたかれるから、さらに物語の素材を集めて旅をするというのを繰り返してたんだ。フリーで生きるということは、生きることと働く時間がどうかするということだというのを身をもって体験させられたよ。」
「その割には、栄養状態は善さそうね。」
「ああ、一人旅というのは、食べることしか楽しみが無いからな。」
「でも」
「クロエ。キミは、ずっと企業体に所属しているから分からないんだ。世の中、余暇を充実させることに一生懸命になれる人ばかりじゃない。同じものさしで測るのはフェアじゃないし、腹立たしくもある。」
「なら、なんでそんな道を選ぶ必要があったの？　私には理解できないわ。」
「それは、俺が雇用されて生きることを理解できないのと同じだよ。」
「ここ、学校じゃない？」
半ば口論になっている２人がヒートアップするのを抑えようと、家で使っている方法と同じ、“話をそらす”という手法で、ショウタは会話を打ち切った。
さすがに、２人もショウタの言葉に自分たちの状況を思い出したのか、それ以上争うのは止めた。
「ここが、ヴィザール物語学校か。意外と近かったな。」
ゴシック風の柵と煉瓦の塀に囲われ、公園のように芝生の広場や噴水が配置された敷地内には、象牙色の施設が聳え立っており、静寂に包まれていた。研究施設というよりもフェルナ教の寺院の様な建物は、楽しさというより権威的な雰囲気を醸し出していたが、その権威を理解できないのか１人の少女が囲いの塀によじ登って柵に顔を付けて、中を覗き込んでいた。
そんな風景をぼんやり見つめていたショウタが、ふと、リウォーデンの方を見遣ると、歩き疲れたのか街路樹の周囲に配置された石の囲いの上に、どっかりと腰掛けて息を切らしていた。そんなリウォーデンに、クロエは腕組みした姿勢で、
「お休み中悪いけど、ここ、ヴィザール物語学校の施設ではあるんだけど、大学院の研究施設なのよね。」
「ここが物語学校じゃないのか？」
リウォーデンは、驚いた口調で、ため息をつく。
「ええ。学校自体は、メトロで十数駅行った先にあるマグマード駅にあるわ。」
「じゃあ、行かなくていいや。」
リウォーデンが投げやりなことを言うので、ショウタは思わず、
「約束を破るの？」
「ここから十数駅だぞ。しかも、どうせ学内は広くて歩き回らないといけないんだ。面倒だし、時間はあるから明日行けばいい。」
「僕は、そういう訳にはいかない。」
「俺は、それでいいんだ。クロエに連れて行ってもらえばいいだろ。」
クロエは、少し嫌な顔をして、
「リウォーデンが約束したことでしょ。私にだけ押し付けないで。」
「僕は、リウォーデンが来なくてもいいけど。」
クロエは、ショウタに微笑みかけ、
「私もショウタを案内するのは歓迎よ。でも、リウォーデンに利用されるのが癪だから、ちょっとね。」
「そうだよね。クロエさん、ありがとう。」
ショウタは、クロエに丁重におじぎをしてから、リウォーデンに向かって、
「ならいいよ。こっちにも考えがあるから。」
「なんだ、大人を脅す気か。クライスト家だからって調子に乗るなよ。大人の全員が、不死者の一族に対して、へこへこするわけじゃないんだ。」
座ったままリウォーデンが、ショウタを睨みつけているところに、先ほどからヴィザール物語学校の研究施設を覗き込んでいた少女が壁を飛び降り、すたすたとショウタのところへ歩み寄ってきた。クロエは「ちょ、ちょっと」と慌てて、謎の少女がショウタに近寄るのを阻もうとするが間に合わず、少女は周囲を気にすること無く、堂々とショウタに声をかけた。
「あのー、すみません。」

[2] mixiユーザー 02月07日 13:52

その透き通った独特な声〈ソプラノ〉は、向日葵と檸檬を思い出させた。
「なに？」
「キミ、クライスト家なの？」
またこれだ。だから、どうしたというのだろう。どこまで行っても、僕はクライスト家の誰かでしか足り得ないんだろうか。
「だから？」
「スゴいなって。私なんか、別になんでもない人間だから。」
「まだ名前も聞いてないよ。」
すると、少女は申し訳無さそうにして、
「私、フィオナ・ハートランド。キミは？」
「ショウタ。名字は知っての通り。」
「フィオナ、あなたの将来の夢は？」
クロエの質問に、フィオナはすぐさま、
「別に何にも無いよ。」
「そんなこと無いわ。何にも考えてない人は、あんなところ覗かないと思うの。」
クロエは少女に微笑みかけると、彼女はおずおずしながらも答えた。
「私は、歌手としての演出を学んで、舞台に立ちたいわ。私の歌声が宇宙に響き渡るの。素敵だと思わない。」
ショウタは、宇宙には空気が無いから音は響かないことを知らないのだろうかと思ってしまったが、相手のいうことを否定するのはダメなコミュニケーションだと、祖父は言っていた。気をつけないと。
「素敵だね。どんな曲を歌いたいの？」
「歌いたい場所は？」
ショウタとクロエが立て続けに質問すると、少女は黙ってしまった。
「可哀想に。質問攻めにするなんて。」
リウォーデンが、皮肉っぽい言い方をすると、クロエは、
「どこかの人みたいに、興味をもたないより良いでしょ？」
と言いながら、手を“ニャンデンドルフ”という子猫の形をしたアニメキャラクターへと変身させ、フィオナの前で歌わせた。すると、フィオナはますます困ってしまった。
「子どもの相手に慣れてないのがよく分かるよ。」
そう言ってリウォーデンは苦笑いしながら、
「そういや、さっきショウタを驚かすのに、それを使ってたな。義手か？」
「ナノセルブロックよ。アドリと連動していて、メニューから選んだ形に変えることができるのよ。面白いでしょ。」
「全く、キミは女らしいよ。」
「そうかしら。」
「ああ、そうだよ。そんなに化けるのが好きなわけだから。」
「そう言うあなたは、相変わらず偏屈で、窮屈で、退屈ね。だいたい、私がいるのに、この学校に働きに来るなんて、ほんとどうかしてるわ。」
「俺だって、知ってたら断ってた。俺は、未だにキミがフィーリス社で、造成生物〈パロパロ〉をいじくってるもんだと思ってたんだ。それがふたを開けてみたら！」
パロパロとは、フィーリス社が生産している組替生物を非難する卑語〈スラング〉である。そんな言葉が、リウォーデンから出てくることにショウタはショックを受けたが、世の中そういうものなのだろうと思い直し、また心が離れて行った気がして悲しくなった。
「この２人、仲悪いの？」
フィオナが、不思議そうにショウタに尋ねるが、彼にも２人の関係性は分からなかった。もしかすると、昔は恋人同士だったのかもしれないし、今も別居中の夫婦なのかもしれない。しかし、２人が並んでいる姿は、美女と野獣そのものであった。
ショウタは、ここまで来たら、２人に気のすむまで喧嘩させようと思い、手持ち無沙汰なのでメッセージを確認することにした。
成長過程にある人体には悪い影響があるかもしれないという理由から、目に入れるコンタクトレンズ型のアドリではなく、可塑端末を持たせられているショウタは、それを手に持ち、時間を確認した。
すると、新着メッセージが幾つか届いており、中には祖父のものが入っていた。内容は、母が帰路に着いたので、ショウタも、あまり遅くならない程度に帰った方が良いと思われることが記されていた。
「リウォーデン、クロエ。お話中悪いけど、僕帰るね。」
その言葉に、２人は再び口論を止め、ショウタの方を見た。
「ショウタ、悪かったな。今日でなければ一緒に行ってやるよ。」
そう言いながら、リウォーデンは、自分の可塑端末〈フレブレット〉を指でつつき、
「アドレスを交換しないか。その方が何かと便利だろう。」
「おじいちゃんが許可を出した人じゃないといけない、って言われてるんだ。」
「そうか、なら仕方ないな。学校で、また会おう。お嬢ちゃんもな。」
こうして、４人は、それぞれの帰路に着いたのだった。

「やっぱり、おじいちゃん、ダメだって。」
家に帰るなり、ショウタは、屋敷の中にある暖かな植物園で、アフタヌーンティーを楽しんでいる母親にそう宣告された。
「ダメって？」
ショウタは、目に涙が溜まっていくのを感じた。
「物語学校に入学するのは認めないってこと。こんなこと言うのも何だけど、私、おじいちゃんから怒られて最悪だったわ。」
水晶でできたテーブルに頬杖をついて、気怠そうに語る母親は、“永久に美しく”と名付けられた美容用焼菓子を齧りながら、

[3] mixiユーザー 02月07日 13:53

「クライスト家が、物語だなんて認められるわけが無いのよ。ショウタは、やっぱり、おバカさんね。」
勝ち誇った様な笑みを隠さない母に、ショウタは何かがおかしいと感じた。そもそも母が、ショウタの物語学校行きに反対していたが、祖父が賛成を匂わす様なことを、この前言っていたので、母が焦って説得しに行ったのだった。ショウタの短い人生観でも、祖父が母の説得により考えをより強固にすることはあっても、翻すことは無いように思えた。
しかし、それを言ってしまうと、母がいつものヒステリーを起こすだけなので、ショウタは祖父に直接尋ねようと考えた。メッセージだと、自分の気持ちが伝わらないだろうから、直接会うべきである。
でも、明日まで待っていたら遅い気もする。かといって、今、家を出て、祖父に会いに行くことは母が許さないだろう。
ショウタは、憂鬱な気分になりながら、母が寝起きする別館に続く長い長い廊下を横切り、自分の部屋へと続く階段を昇って行った。そして、階段の途中にある、父親の部屋に続く扉が開いていることに、ショウタは気付いた。
はやる気持ちを抑えて、ショウタは自分のタブレット端末を開き、祖父とのメッセージのやり取りを確認したところ、祖父はまだ自分がリウォーデンたちとの別れ際に送ったメッセージを読んでいないようだった。
祖父は、一日単位で行動を決定するのが好きだ。働く日は働くし、外出する日は一日中外出する。母が祖父の家に行っていたということは、今日は一日、家にいる日であるはずだ。
しかし、いつもはすぐに読んでくれるショウタのメッセージを読んでいないということは、メッセージを読めない状態にあるのだろう。とすると、考えられるのは、一つである。
ショウタは、父の部屋に入り、部屋の片隅に置かれた仮想現実体験機であるLVSを起動した。そして、機械の横に据え付けられたタッチパネルを使い、“XenoTerra”へのログイン画面を開き、父のアカウントとパスワードを入力すると、メニュー画面が表示された。仮想現実世界に入り込むための「意識転送」、世界情勢を確認するための「ニュース」などの中に、「戦況報告」のメッセージがあることを確認し、ショウタは“XenoTerra”上での戦況報告を確認した。
その中には、父の分身〈アバター〉が雇っている耳〈スパイ〉たちからの様々な報告がなされていたが、その中に、現在、“財政王”がデッセンヴェルグ領に攻め入っているとの報告もあった。
ここで“財政王”とは、祖父フィーリス・クライストの分身だ。つまり、祖父は現在、XenoTerraの世界に意識転送〈シフト〉しているのだ。
ショウタは、父が媒脳に繋げるためのシフト・コードを抜き、父に買ってもらったショウタ用のシフト・スーツを子供部屋から持って来て、LVSに接続した。
シフト・スーツは、媒脳に直接コードを繋げることができない、自然体〈ノーマル〉のためのインターフェースであり、無数のセンサーが埋め込まれている。媒脳者であれば、LVSに接続しても、身体を動そうという意識をそのまま仮想現実世界に反映すればいいので、現実世界で手足を動かす必要は無く、コードが届く範囲であれば、どこにでも好きな場所に座禅を組む様なスタイルで身体をその場に置くだけになる。しかし、自然体〈ノーマル〉だと、そのようにはいかないので、手足を動かした際の角速度や現実世界での空間での位置を測定し、それを仮想現実世界へと反映するのだ。そのため、自然体〈ノーマル〉用のLVSには２メートル四方の個室が付属しており、中には、ダ・ヴィンチが描いた「ウィトルウィウス的人体図」のように身体を固定する装置が備え付けられており、飛んだり走ったりして自由に身体を動かしても、その装置の範囲から外へは出ない様な工夫がなされているのである。
この装置を見るたびにショウタは、早く媒脳持ちになりたいと思うのだが、身体が成長しきるまでに媒脳を付けてしまうと手術を繰り返すことになってしまい、それはさすがにできなかった。しかし、エリートと言われる人に入るためには、14歳になる頃、あと４年後くらいには媒脳を受けないといけないのである。
ショウタは、身体を装置に固定し、大きく息を吸い込み、ゴーグル付きのヘッドセットを身につけた。すると、視界には目の前の現実世界が背景として映し出され、前面には仮想の世界へ切り替えるかどうかの選択肢が提示されていた。ショウタが、「YES」と表示された左側に首を横に振ると、カウントダウンが始まり、視界には荒廃した世界が映し出された。

「フィーリスが勝つか、デッセンヴェルグが勝つか。」
仮想現実の荒廃した街角で、十数人の男女たちが木箱の周りに集まって、その中に貨幣を投げ込み、茶色の汚い服を着込んだ男が赤か青のカードを配っている。

[4] mixiユーザー 02月07日 13:53

「デッセンヴェルグに攻め込むなんてな。フィーリスのやつ、耄碌してんじゃないのか。」
赤のカードを配られた男が毒づく。
「いや、奴は“財政王”だからな。どうせクレディトで解決するんだ。馬鹿げてる。」
「とかいいながら、お前はフィーリスに賭けるのか。XenoTerra〈ここ〉に来ても不死者の足を舐めるなんて、恥ずかしく無いのかよ。」
「賭けに負ける方が恥ずかしいだろ。」
ショウタは、その光景を横目に街の東へと向かって行った。地図によると、デッセンヴェルグの居城は、ここから北西に30マイルほど離れているようだ。とても徒歩で行ける距離ではないし、鎖帷子などを付けているのか、身体がいやに重い。
だが、先ほど革袋の中に、鱗が入っているのを見つけた。手のひら大の、ざらついた、緑褐色の鱗。それは、ヴェロキラプトルを模して作られたヴェグヴェンバーと呼ばれる小型竜のものであり、騎竜として良く用いられるタイプのものだ。地図によると、この城塞に囲われた街の東側には、騎竜を預ける牧場があるようだ。そこに行って、この鱗を見せれば、騎竜を渡してくれるはずである。
しかし、何度か経験はしていたが、仮想世界とは、本当にリアルだった。特にショウタは、一年ほど前に母親に悪戯で、昼寝しているときに仮想現実のゴーグルを付けられたことを思い出した。目覚めると、熱帯雨林の中にいて、慌てて四方八方を見渡したが、どこを向いても鬱蒼とした森が広がっていて、遠くからは獣の唸り声が聞こえてくるのだ。今ではバベルの図書館で調べて、ゴーグルが頭を振る角速度を検出して、現実世界で頭を振っているのを再現しているのだということが分かっているが、当時はその技術は魔法のように感じたのだった。
そして、そうやって自分が慌てているのを見て、母親が笑っていたことを思い出す。それは、人生で何番目かに嫌な思い出だったが、このときはショウタが泣きそうになると、母親はショウタへの愛を滔々と説いたものだった。そのとき、母親が重い病気なのだと思い知らされた。深い心の病。
「あいた。」
間の抜けた声とともに、目の前に30代後半と思われる中年男性が倒れ込み、ショウタは考え事の世界から仮想世界へと引き戻された。自分にぶつかって倒れるなんて貧弱な人だと思ったが、よく考えると今は父の分身〈アバター〉の姿であった。華奢な男性が、ラマルクという豪傑の身体に当たって倒れるのは当然のことである。
「大丈夫ですか？」
ショウタは、ラマルクの野太い声で、男性を起こす。
「ええ。どうにか。前を見てなくて、すみませんでした。」
腰の低い男性の周りには、妙な形の生物や書き込みがなされた羊皮紙が散らばっていた。その図は、ダ・ヴィンチが描いた人体解剖図や兵器のデッサンのようにも見えたが、描きかけであるところを見ると、この男性が作成したようであった。
「ところで、あなたが、その手に持っている鱗。それは、ヴェグヴェンバーのものですよね。」
「そうですけど。」
「ということは、どこかに向かわれるんですか？」
妙なことを訊く人だと思ったが、こちらが悪いことをしてしまったので無下にもできず、正直に、デッセンヴェルグの居城の方に向かおうと考えていることを伝えた。
「おお、ちょうど良かった。差し支えなければ、そこまで乗せて行ってくれませんか。」
自分の不注意であることを認めておいて頼み事をするとは、この人もなかなかだなと、ショウタは思いつつも、ひとりでは不安だったので、
「別にかまわないですが、何か、そのデッサンと関係があるんですか。」
男性は、説明していいのか迷っている風だったが、２人でデッサンを拾い集め終わった頃には迷いも消えていたようで、
「助かりました。他の人に言わないんで欲しいんですが、このデッサンは、次の拡張大地〈アドイア〉の原案なんです。」
拡張大地〈アドイア〉とは、このXenoTerraの世界に、新たな大地〈フィールド〉を追加することである。
「ということは、あなたは、リーヴィズの方なんですか。」
ショウタの質問に、男性はズボンについた埃を払いながら、
「その話は、道すがらしましょう。まだ道中長いですし。」
そして、男は手を差し出し、
「ヤハト・テムジンです。ヤハトと呼んでください。よろしく。」
これが、ショウタと、文化素材学者ヤハト・テムジンとの出会いであった。

「あんた、今日は腰が低いな。いつもなら、馬丁に当たり散らすのに。」
牧場に着いたショウタが牧場主の男に鱗を渡すと、彼は騎竜をひっぱってくるように部下に指示をした後、感情を込めず平坦な声で、そう言った。
「僕が？」
ショウタは、思わず聞き返す。
「僕だって？　はは。人が違ったみたいだな。」
牧場主は飼育料などのクレディト額を計算しながら、

[5] mixiユーザー 02月07日 13:54

「まあ、乗っ取り〈アカウント・ハック〉なんて知ったこっちゃないが、もしそうだとしたら、あんた運が悪いよ。なんだって、そんな嫌われてる分身〈アバター〉のアカウントを奪っちまったんだ。」
牧場主は、悪気は無いのだと分かっているが、ショウタは彼を殴ってしまいたい気持ちになった。いつも、にこにこしている父が、そんなことをするはずが無い。
しかし、父が普段、何をしているのかショウタは全然知らないことを思い知らされた。父は、どういう経歴を歩んで来た人間なのだろうか。もしかすると、この世界では人格を変えてストレスを発散しているのだろうか。それが父の実際の姿なのだろうか。
「まあ、ソイツは強いからな。それだけは保証する。この街じゃ大人しくしてる方だから、特に何もないだろう。でもな、この牧場じゃラジオで歌列通信〈ソングライン〉をいつも流してるんだ。先月かな、ソイツが別の街でやりたい放題したのを知ってる。だから、アテミシアの街には行かないこった。せっかく仮想現実世界〈ここ〉に、自分の好きな邸宅を所有していた奴らに、大歓迎されるだろうから。」
そう言って、牧場主が提示した額をショウタはカバンに入っていた金貨で支払うと、牧場主はにこやかに「まいど」と返事してくれた。
「ところで」
ショウタは、ふと気になったことを口にした。
「そのクレディトは、どうするんです？　リーヴィズ社に入るんですか。」
「お前さん、ほんと失礼な奴だな。ワシは、リーヴィズ社が創り出した無機質〈エー・アイ〉じゃない、現実〈リアル〉な存在だ。つまり、向こうに身体があるわけ。だから飯を食わないかんので、こうして仮想の世界で金を稼いで、食いつないでいるわけさ。」
ショウタは、そういう世界があるのを知らなかった。もしかすると、母が以前に言っていた、企業体域の外の世界なのかもしれない。それが何なのかショウタには想像がつかなかった。それにショウタにとって、食べることは楽しむことであって、生きるために食べるというのは全く理解できなかった。

「やー、ずいぶん大きく、鱗の発色の良いヴェグヴェンバーだなー。育てるの大変だったでしょう。」
牧場の入り口で待っていたヤハトが、のんびりとした口調だが興味津々といった感じで聞いてくる。物語に携わっている人間は、何にでも興味をもつと言っていた祖父の言葉が思い出される。
「いえ、そうでもないよ。自然に育つんだ。」
ショウタは、もちろん、どんな苦労があったか知らないので、適当に答えると、ヤハトは、そんなものなのかといった感じで「ほー」とつぶやき、感心してみせる。
ヴェグヴェンバーには、操縦者の鞍の他に、座席が一つ付いていた。振り落とされないようにするための手すりはもちろんのこと、ゆったりと乗れるように柔らかな布が敷かれ、背もたれまで用意された座席は華やかな花々の刺繍までしてあり、いかにも女性が乗れるようにしてあるように思えた。
ショウタは、そういった父の別の面を見て、いちいち気にしていたが、そんなことは知らないヤハトは、別に何を気にするわけでもなく、だらっとしたかんじで、その席に腰掛けていた。
「ラマルクさん、先ほどの拡張大地〈アドイア〉の件ですがね。」
ヴェグヴェンバーで駆け出して暫くして、ショウタの後ろから、ヤハトが話しかける。
「ヤハト。ラマルクで良いよ。」
ヤハトは、「じゃあ、ラマルクで」と、すんなりと受け入れた後、
「今、私が文化設計を任されてるのは、次の拡張大地〈アドイア〉である巨像世界のものなんです。」
「巨像世界？」
「そう。変な名前でしょう。そこでは巨大な機械仕掛けの像が歩き回っていて、人々は、それに踏みつぶされないように生活しているんです。」
「へえ。何だか地味ですね。」
ショウタは、その世界観を聞いて、あまり面白そうでは無いように思えた。
「ええ、地味です。しかし、責任者であるキルシュ・ボルティノアは、最近、火焔芸術が発展した都市や巨鳥が支配しているサンクチュアリなど、分かり易い拡張大地が続いているから、もっと文化や宗教などの側面が掘り下げられた拡張大地を作るという企画を打ち出したかったみたいで、このテーマが打ち出されてしまって。」
「どんな文化設計になるんです？」
「今のところは、二つの民族を考えてます。一つは、巨像を文化の中に取り入れている遊牧民。彼らは各地を移住しながら家畜を育て生活を営むことで、巨像の影響を受けないように努力をしています。一方の農耕民は、巨像に否定的で、巨像が入れない谷間の地に都市を築き、そこで鉄具を製造しながら、限られた土地で農業を営んでいます。そこに、巨像を力の根源として信奉する宗教と、巨像を災害と捉え消滅させようとする宗教の二つを登場させようと考えているのですが、どうも、しっくり来なくて。」

[6] mixiユーザー 02月07日 13:54

そこで、ヤハトは大きくため息をつく。
「だいたい、キルシュは厳しすぎるんです。締め切りは、他の編集者よりも１週間単位で早いですし、それでいて求めるものが高い。大学の同期なのに、あんまりだ。」
「仕事の愚痴ですか。」
と、ショウタは少し呆れた声で伝えると、
「あ、すみません。何を言っても否定されるので、つらくて、つい。」
「そうでしたか。それは、お仕事大変ですね…」
ショウタは、その上司の女性は、自分の母であるアターシャに重なるところがあると思ったので、ヤハトに同情した。
「しかし、そういう仕事なら、戦場に行く必要はあるんですか。」
純粋に疑問だったので、ショウタは、振り向いてヤハトに問うと、
「いや、何か思いつく気がして。実は、戦場を見たことが無くて、それが想像の幅を狭めているように思えたものですから。」
ショウタには、物語に携わる人の考えはよく分からなかったが、そんな考えについて行けないと物語学者にはなれないのだと自分に反省を促したのだった。

[7] mixiユーザー 02月07日 13:58

学校をテーマに書き始めたのですが、学校までたどり着きませんでした。。
長編ですみません。今までの中では最後まで書ける気がするので、また続きを書きたいと思います。

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