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半蔵門かきもの倶楽部コミュの第七回 肉作 「ピウ・モッソ」

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 松谷音楽事務所に演奏許可を申し出るために僕はホームページを見ていた。シンプルでわかりやすいページだったが、画面に浮かぶ、メールアドレスの黒色の文字を見て僕はにわかに緊張した。クラシックであれば著作権切れしていて問題ないが、業界団体に所属していない音楽家の場合は個別に演奏や編曲の許可を取る必要があった。顧問の秋葉先生いわく、「松谷ケンジは権利に異常に厳しいから、アマチュアしかも学生団体と言っても油断できない」らしい。僕はそれを思い出しながら、メールの文章を考えた。大人相手にメールを送ることなど、あまりない。社会人のメール作法をネットで検索しながら本文を作り、送信ボタンを押した。
「よっ、中辻」
 大学の学生会館にある共用パソコンで僕が作業をしているところに同じ四年の有村が声を掛けてきた。夕方の授業が終わったからだろうか、学生会館にも人が増え始め、賑やかさが増してきた。
「おいおい、受信ボックス見てみ。何か新着メッセージが来たんじゃないの」
 有村が言うので、画面を見てみると新着の印が付いていた。今し方、連絡した音楽事務所からだった。僕は期待しながらメールを開いた。
「自動返信メールだ」
「難攻不落と言われてる松谷ケンジがそうすぐに返事寄越さないわな。部室行って練習しようぜ」
 僕が所属する器楽サークルには現在八十余名ほどが在籍していた。サークルと言っても暇つぶしで入るような軽いノリではなく、真面目に練習し、春と冬には定期演奏会をこなす。設立されてからの歴史も古く、数十年が経とうとしていた。もともとは小さなアンサンブル集団から始まったらしいが、今ではオーケストラを組んで、大規模な管弦楽曲にも取り組める。僕は小学校からヴァイオリンを習い、その延長で大学でも続けたいと思い、このサークルに入った。大学お抱えの管弦楽団に入るほど自分の技量に自信もなかったし、音大受験に失敗した時点で、本気でヴァイオリンを弾くことに冷めてしまっていた。趣味として続けるにはいい環境だと、軽い気持ちで選んだつもりだったが、居心地がよく結局四年間続けてきた。一方、部内には僕とは異なり大学からの初心者も多く、クラシック音楽に触れたことさえない人間もいた。有村もそのような人間の一人だった。最初はボウイングはおろか、弓の持ち方やチューニングすらも覚束なかった。そんな有村もセカンドヴァイオリンの首席奏者を務めるまでになった。必死に練習してきた成果だった。この冬の演奏会は有村にとっても思い入れが強いのだろう。それは直接話題にあがらなくても、その練習姿勢から十分に伝わってきた。有村も僕もこの最後の演奏会に心血を注ごうとしているのだ。
 演奏会は二部構成になっている。今年は顧問の秋葉先生が東欧音楽をやるべきだと主張したため、選曲にはその影響が色濃く出ていた。一部はハンガリー出身の作曲者で固められ、バルトークやコダーイの曲が抜粋される。二部はドボルザークの交響曲に当てることになった。一部も二部も練習を欠かせない難しい曲だったが最も僕が力を入れたいと思っていたのは四年生だけで行われる四年合奏だった。

 合奏練習の後、部室には四年生と顧問の秋葉先生だけが残っていた。僕は松谷音楽事務所に連絡した旨を報告した。先生からは依頼してあった編曲譜面が配られた。
「お前ら本当にこんな曲でいいのか?もっとふさわしいクラシックの名曲をやればいいのに」
 秋葉先生は僕達が四年合奏で弾く曲が気に入らないらしい。格を重んじるOBとしての性なのか、それとも個人的趣味に一致しないからなのか、その理由は判然としない。小言を言わないと気が済まない性格なのだろうというのが、僕達の共通認識だった。今日の練習でも一部、二部の曲に対して手厳しい指摘がたくさんあった。確かに真っ当な意見であり、音楽的にも正確なのだけれど、口汚く罵っているようにしか聞こえなかった。かつては泣き出す部員もいるほどだったという。妥協を許さぬ指導方針に露骨に反発するメンバーもいた。僕は我慢できる質だが、有村などは強く嫌悪していて、四年合奏の選曲には秋葉先生の声を一切入れないと言って憚らなかった。ただ、編曲に関しては依頼せざるを得ないので、小言も受け入れるほかない。ただ、出来上がった譜面を目の前にして選んだ曲のことをとやかく言われるのには少し閉口してしまう。秋葉先生もこの大学、そしてこのサークル出身だ。最後の定演を控えた僕達の心境がわからないはずもないだろう。
「ともかく、スコアを見て欲しいんだが、一人につき一パートあるからな。よく譜面の音をさらっておけよ。今日は初見で一回やってみろ」
 実のところこの曲は初見ではなかった。もちろん先生の編曲譜は初めて見るが、曲自体はかつて一年生の時に合宿で弾いた曲だった。当時流行っていた映画のサウンドテーマだ。松谷ケンジ作曲ということでも話題になった。俗といえば俗な音楽だろうが、悪い曲ではない。元はピアノ曲でそれをオーケストラ風にアレンジして演奏した。夜通し練習したのを昨日のことように思い出す。今、久方ぶりに弾いておそらく全員があの頃を思い出しているのではないだろうか。僕達は一番思い出深い曲を四年合奏に選んだのだ。
「お前ら、初見にしては結構弾けるな。まあ四年生なんだからそのくらいは当たり前か。でも、全く駄目だ。こんなんだったら演奏しないほうがましだ」
 その後も、細かい注意を秋葉先生は述べていった。一回聞いただけで、各パートに指示を与えるとはさすがとしか思えないが、その言い方に腹が立っているのか、隣の有村は仏頂面で譜面にメモを残していた。先生は言いたいことだけ言うと、部室を出て行った。学生会館の閉館時間も迫っていた。僕達も後片付けをして、皆で部室を出た。
「ホント、ムカつくよな。秋葉のやつ。ちょっと音楽センスのあるOBだからってさ」
「口は悪いけどさ、指導は本物なんだし、譜面もこうして完成したわけだし、気にするなって」
 学生会館を出ると、大抵は秋葉先生の愚痴を言いながら駅までの道を歩く。そのまま解散することもあったし、食事をすることもある。その日は有村が中華を食べたいと言うので表通りにある中華料理屋に入った。
「俺達がこうして、練習後に飯を食うのって後何回だろうな」
「十二月の定演まであと十週間はあるから、掛ける練習二回で、二十回はあるんじゃない?」
 誰かが計算して答えを言った瞬間、その場には空白ができたように沈黙が広がった。
「俺はA定食」
 有村の声でみんなも空腹を思い出したのか、一斉に注文を始めた。僕も有村と同じ定食をたのんだ。
「何だよ、同じのかよ。違うのだったら一口もらおうと思ったのにさ」
「それをされると思って同じのにしたんだよ。お前ちょっとじゃなくて大量に食うじゃん」
「お前、心狭いな。猫の額くらい狭いぞ」
 僕と有村のやりとりを聞いて皆が笑っている。そこにライスと小鉢のザーサイが運ばれてきた。会話は演奏会のチケットの話題に移っていた。
「チケットができたらしいんだけどもらった?」
「え、もうできたの?わたし、まだもらってないんだけど」
 アマチュアのコンサートではチケットも手作りであることが多い。演奏会の細々とした準備は三年生の仕事だった。
「俺は今日先にもらっちゃった」
 そう言うと有村はカバンから茶封筒を出し、その中にあるチケットの束を僕達に見せてくれた。緑色のチケットには僕達のサークル名、日時や場所、曲目がしっかりと印字されていた。チケットの話が出た時、僕はチケットを贈る相手のことを考えていた。家族を招待したかった。僕はついに四年間一度も家族をコンサートに呼ぶことはなかった。高校生までは毎年のように家族を呼んでいた。ところが、大学に入った途端、僕は彼らを呼ぶことをやめていた。音大に行かなかったのに、ヴァイオリンを続け、負け犬のような姿を見られるのが嫌だったのだ。しかし、そんな感情は全部僕が勝手に思っているだけの被害妄想だと最近になって気付いた。家族だって僕がサークルで何をやっているか、仲間とどのような音楽を作っているかきっと聴いてみたいだろう。サークルに入った当初こそ投げやりに音楽に接していたが、今は違う。演奏会という目標がある。誰もが本気で練習し、音楽を追求していた。だから、この最後の機会に演奏会に来て欲しいと思った。今なら胸を張って招待する自信があった。特に四年合奏の曲は、僕がこのサークルに入って良かったと心の底から感じた思い出の曲だ。レベルのそれぞれ違うメンバーと曲を練習していく過程に戸惑いはあったが、そんなことはすぐに忘れ、面白くなっていった。下手くそでどうしようもない有村は、あの曲を契機に練習にのめり込んでいった。僕もまた、音楽への情熱を取り戻すきっかけになった。四年間で培ってきたものをステージの上から家族に届けたかった。

 それから数日後、音楽事務所から返事のメールが来た。件名には、「お問い合わせの件について」とあった。内容は無味乾燥とした、機械的な言葉ばかりだったが、許可するということが書かれていた。学生団体ということで、一切の費用は発生しないらしい。それもまた僕達にとっては幸運なことだった。僕はすぐにこの吉報を皆に伝えた。三年生の進行マネージャーや秋葉先生にも連絡した。先生以外からはすぐに返事が来た。明日は練習日ではなかったが、四年生だけで合わせようということになった。
 次の日、ほとんどが定刻よりも早く集まって、個人練習をしていた。僕は皆のそういう姿勢が心強かった。練習は個人の戦いだが、合奏は共同作業だ。皆の意識が同じ方向に向いてこそ良い音楽になる。技術はそこそこでも気持ちで負けてはいけないと秋葉先生も言っていた。
 秋葉先生は僕達のOBではあるが異色の経歴を持つ。卒業後、就職せずに音大に入学し直し、指揮科のマスターコースを経て、プロとして活躍した後、それでは食ってはいけないということで一般の会社に就職したそうだ。秋葉先生を快く思っていない部員などは先生のことを「プロ崩れ」と陰口を叩いている。僕はそれにだけは同調する気になれなかった。秋葉先生の立場になって初めて感じる苦悩があるのだろうし、同情するわけではないが好きな物に裏切られる感覚は僕もよく知っていた。それでも必死に音楽に情熱を傾けることは並大抵のことではない。
「今日って秋葉来んの?」
「いちおう連絡入れてあるよ」
 すでに夜八時を過ぎ、練習時間は少なくなっていた。恐らく秋葉先生は仕事の都合で今日は間に合わないだろう。有村に至ってはいけ好かない顔を見なかった分、得をしたと言って喜んでいた。いつものように僕達は譜面台を片付け、楽器をケースにしまい学生会館を後にした。その日も駅の途中の飲食店で食事をして解散になった。絵に描いたような充実した学生生活のワンシーンだった。僕はこのまま全てがうまくいくと信じていたが、音楽の神様はそれを許さなかった。

 本番まであと一週間になった。十二月も半ばとなり外は寒い。手袋をはめた手で楽器ケースを持ち僕は学生会館へ向かっていた。建物に入る一歩手前のところで僕の携帯が震えだした。登録がないため相手の名前は出ない。
「もしもし」
 建物の中に入り、僕はその電話に出た。手袋を外し、楽器を置いた。横のスペースにはコピー機が数台並んでいて、学生のグループが懸命にレポートらしきものを印刷している。
「中辻さんでいらっしゃいますか?こちら松谷音楽事務所の北条と申します。以前、お問い合わせいただいた件でお話したいことがありお電話差し上げました」
 嫌な予感がした。相手が黙ると、隣のコピー機から発せられる音がはっきりと聞こえた。
「残念なお知らせですが、許諾取り消しをお伝えしなければなりません」
 もう本番まで一週間を切っている。このタイミングでそれを言われても困る。
「どうしてですか?」
「手違いで許諾を出してしまっておりました。権利者である松谷の意向ですのでご理解いただくしかありません。直前の連絡となってしまったことは誠に申し訳ございません」
 担当者はただひたすら謝るばかりだった。僕は反論しようにも焦ってしまい、何を言えばいいかわからなくなっていた。隣で印刷していたグループはいつの間にかいなくなっている。一方的に向こうの用件と謝罪だけが伝えられ、同じ内容をメールでも送ると言われ電話は切られた。僕は心を落ち着けるために部室に向かった。

「他の曲に変更しちゃう?」
「それって四年合奏する意味なくない?あの曲だからこそ演奏する意味があるんじゃないの」
「それに時間的にも他の曲だと仕上げるのに時間が足りないよ。秋葉だって編曲が間に合わないでしょ」
 僕が連絡するとすぐに四年生が部室に集まってきた。練習時間が過ぎても話は続いた。後輩達は地下のホールに向かい、一部の曲から合奏練習をスタートするという。僕達四年生の緊迫した雰囲気が部室には充満していた。
「ということは曲の変更はなし。松谷ケンジ本人にもう一度考え直してもらうか、無許可で演奏するか、そのどっちかじゃない?」
 後者は意見が分かれた。どうせバレないというものがいる一方でルール違反はよくないという反対意見もあった。僕も反対派だった。
「でも、みんなやってるじゃん。学生団体なんて演奏許可とか曖昧なんじゃないの」
 結論は出ることなく、僕達は部室を出て後輩達の合奏に合流した。それからしばらくして秋葉先生が到着した。休憩時間に僕は取り消しの件に関して報告した。
「演奏を強行するのは絶対駄目だ。それは許さない。俺にそんな権限あるかないかではなく、もしそんな重大な規則違反を犯すなら俺がお前らを訴える。権利者が駄目だというならそれはもうどうしようもない。あきらめろ。練習が終わったら、四年だけ集めろ。俺が話してやる」

 秋葉先生の一切の異論を認めない物の言い方に四年生全員が反発した。それは僕も同じだった。秋葉先生は再度の交渉もするべきではないと言った。
「もう一度、掛け合うくらいいいじゃないですか?何故、それも駄目なんです?」
「そんなことして許諾がおりる相手じゃないんだよ。行くだけ無駄だ。大体、そんな時間があるんなら他の曲の練習をしろ。一部も二部もまだまだ伸びしろがある。お前ら先輩としての責任はないのか?お前らのエゴに後輩や観客を巻き込むなよ」
 有村が立ち上がり、秋葉先生に食って掛かかろうとする。
「ふざけるなよ。どれだけ練習したと思ってんだよ。楽しみにしてんだよ。駄目もとでいいから、事務所行こうぜ。電話でもメールでも何でもいいから連絡取ろうぜ」
「勝手にしろ。俺は帰るぞ。許諾無しでは編曲譜面の利用も演奏も駄目だからな」
 先生は僕達に念を押して部室を出て行った。
「じゃあ、松谷ケンジのとこに押しかけるか。明日の朝イチでどうよ?」
 気を取り直して、わざと明るく有村が提案した。玉砕覚悟の上で、次の日僕達は事務所に連絡を入れてみた。松谷本人と連絡が取れないそうで、交渉には応じてもらえなかった。海外公演中で、日本にいないらしい。僕達は身動きを封じられた。全員が意気消沈し、最後の一週間を過ごした。

 本番の日は朝からゲネプロと呼ばれる全通しリハーサルがある。一部が終わった後、ちょっとしたサプライズが僕達には用意されていた。結局、僕達は四年合奏を諦めていた。だからその時も次の二部の譜面を用意し、入場ベルが鳴るのを待っていた。しかし、僕の耳に届いたのはベルの音ではなく、ナレーターの声だった。
「二部の開演に先立ちまして、四年生による現役最後のアンサンブルをお聞き下さい」
 後輩が僕達のために用意してくれたステージだった。
「中辻さん、観客は僕達しかいませんけど、聞かせてください。お願いします」
 進行マネージャーが僕に演奏を促した。公式の演奏ではないから、許諾云々は関係ない。有村は少し涙ぐんでいた。
「バカだなあ、あいつら。ゲネでこんなの用意しちゃってさ。意味ないのにさ」
 有村は文句を言いながらもとても嬉しそうだった。気持ちは僕も同じだった。演奏をしないと決めてからも、毎日練習だけはしてきた。披露する機会が失われても、一縷の望みを掛けて練習していた。ついにその機会はなかったが、こうして後輩が違う形で希望を叶えようとしてくれた。その気持ちで十分だった。
「お前ら、譜面は?」
 すでに泣いている有村が皆に確認している。
「二部の譜面の前に糊付けして貼ってるに決まってんでしょ。それより、有村、演奏中は泣かないでくれる?」
「汗だよバカ。お前も化粧崩れてるぞ、涙で」
「おい、喧嘩するなよ。ステージに出るぞ」
 舞台の上は照明で明るく、客席の方に目を向けると暗い中に後輩達の顔が見えた。真剣にこちらを見てくれている。
「じゃあ、始めるよ」
 僕の呼吸に合わせて、ゲネプロでの四年合奏が始まった。

 正午前にゲネプロが終わった。楽屋に戻り、休憩することになった。夕方の本番までまだ数時間あるが、それまでは個人練習をしたり、精神統一をしたりと過ごし方は人による。
「中辻先輩、ロビーにお客さんが来てますよ」
「誰?」
「松谷音楽事務所の方だそうです」
 今さら何の用があるのだろうか。僕はロビーに急いだ。そこにはスーツ姿の男性が待っていた。僕の姿を認めると立ち上がり近寄ってきた。声に聞き覚えがあった。電話で応対してくれた人だった。
「演奏会の開催、おめでとうございます。けど、今日はそんなことを言いに来たんではないんです」
「何でしょうか」
「二転三転しますが、実は先ほど、松谷本人から連絡があり、やっぱり許可を出すと。そこで私がお伝えしに参りました。携帯の方は、繋がらなかったもので」
 ゲネプロ中は携帯の電源を切っていた。それでわざわざ来てくれたのだろうか。
「松谷は気難しい音楽家です。ただ、こういうことは珍しいです。本人は今朝まで海外にいたんですが、戻ってくると大抵はそのまま休暇に入るんです。でも、今回はここに来て演奏を聞くと言ってるんです」
 こんな奇跡があるとは思わなかった。演奏したいに決まっている。それに本人も聞きに来るというおまけが付いてきた。
「演奏できることをみんなに伝えます」
 僕は楽屋に猛スピードで戻った。幸い、進行マネージャーの後輩と四年生達が話をしていた。
「おい、中辻」
「いや、待て僕が先に話したい」
 僕は手で有村の発言を遮ろうとした。ところが方々から声が飛び交う。
「松谷ケンジのブログを見て」
 僕に誰かの携帯がパスされた。ロン毛で金髪姿の松谷が目を引くデザインのブログだった。そこには今日の日付で最新記事が出ていた。無事、帰国したことが書かれ最後に自分の曲を今から聞きに行くことが書かれていた。
「僕もさっき知った。事務所の人が来て、演奏許可出すってさ」
「なんだよ、ゲネプロでやって良かったじゃん」
「じゃあ、ホールの人と打ち合わせよう。一部と二部の間に、四年合奏、正式に復活ということで」

 僕は秋葉先生に連絡を入れてみた。本来なら朝から指導してくれる約束だったが急用が入ったとかで開演直前に駆けつけると言っていた。演奏に許可が出たことを伝えたかったが電話はつながらなかった。メールで内容だけ伝えておいた。
 一部の開演時間が迫っていた。膨大な練習時間にも関わらず、本番というのは一回きりの演奏で、ほんの数分で終わる。儚いものとは思うが、この一瞬に全てを捧げてきたのだ。
「さっき泣いたから、もう涙出ねえな」
 ステージ袖で開演時間を待っている間、僕は有村と話していた。
「一部じゃあそうかもしれないけど、四年合奏だったら出るんじゃない?」
「俺とお前が泣きながら弾くと何か気持ち悪いな」
「それを見て秋葉先生も号泣したりしてな」
「するわけねえだろ秋葉が。顧問のくせにまだ来ないとかあいつ舐めてるよな。まあ、いない方がいいんだけど」
 開演時間になった。ベルが鳴って僕達は順番にステージに出て行く。満席に近く、僕は家族がどこにいるかは確認できなかった。
 一部が終わると一度全員が舞台袖にはけた。舞台上ではセッティング担当の後輩が、四年合奏用の編成を作ってくれている。手が汗ばんでいた。
「おい、緊張してるのか。その方が音が固くなって、曲には相応しいかもな」
 ステージ袖に秋葉先生が来ていた。僕は先生に挨拶をしようと思ったが、そこでベルが鳴った。入場しなくてはならない。先生はいつもの厳しい顔つきではなく、優しい目をしていた。指導顧問というより、一人の先輩として見送ってくれているような感じがした。全員が位置につき、客席に向けて礼をする。割れんばかりの拍手が鳴り響く。それに合わせて僕達は着席する。やがて拍手が鳴り止み、そのタイミングで僕は皆に目で合図した。今まで本当にありがとう。いっしょに音楽を演奏できて良かった。曲が始まった。予想とは裏腹に一小節目から僕は涙が止まらなかった。譜面が見えなくても、音は指が覚えていた。はっきりと全員の音が聞こえた。高音も低音も、誰がどのパートで今は誰がメロディで伴奏なのか、それらが全てわかった。本番中にそんなことを考える余裕などないはずなのに、僕は楽しんで演奏している。一番盛り上がるところでは、力の限り弾いた。まだ終わって欲しくない。いつまでも弾いていたかった。誰かが繰り返し記号を誤ってもう一度弾かないだろうか。譜面にないリタルダントをかけて、曲を遅らせはしないだろうか。ずっとこの時間を楽しんでいたかった。今日で最後なのだから。このメンバーだけで合奏する最後の機会なのだから。曲が終わろうとしていた。僕は涙の顔に、無理やり笑顔を作った。拍手が鳴り響いていた。

 まだ演奏会自体は終わりではなかったが僕は安堵していた。秋葉先生が近づいてきて四年生一人一人と握手をした。暗くてよく見えなかったが目が潤んでいるようにも見えた。有村はまた小言を言われるのかと構えていたようだが、そうではなかったので拍子抜けしていた。二部の始まりの時も秋葉先生は僕達を静かに見送った。二部は交響曲だ。先ほどまでの緊張から解放され、余裕を持って弾くことが出来た。僕はコンマスとしての責務を全うした。アンコールも無事に終わり、最後の定期演奏会は幕を閉じた。
 後片付けは後輩に任せて、僕はロビーに向かった。家族、それから松谷ケンジに会うために。
 父と母は僕が出てくるのを知っていたかのように、僕を待っていた。僕は照れくさかったが、来てくれたこと感謝した。両親とはまた家で話せばいい。僕は松谷ケンジを探した。金髪頭の音楽家は出口のあたりにいた。
「松谷さん、ありがとうございました」
「思ってたより、良かったよ」
「一つよろしいですか」
「どうして急に演奏を許可したかってことかな?」
「そうです」
「君、俺のブログわかる?検索すれば出てくるから」
 そう言うと、松谷は去って行った。僕は携帯を取り出し、彼のブログにアクセスした。
「学生のコンサートとか超ひさびさ。
 知り合いが監督やってる団体。クラシックの選曲があいつらしくて渋い笑
 その間に一曲だけ、俺の曲をやるっていうから、気になって聴きに来た。
 もともとピアノ曲だから、オケには通常、許諾を出していない。
 ただ、今回はその古い知り合いがどうしてもって言うから、渋々OKした。
 海外公演中だってのに、深夜に毎日電話かけてくるから根負け笑
 おまけに、色々文句を言ってくるので参りました涙
 ちなみにそいつ音大の同期なんですが、作曲の授業中、俺をよくコケにしてくれました・・・
 まあ、そんな口の悪いやつが、俺に平身低頭してまで、お願いするわけだから断れないわ。
 演奏は荒削りだったけど、熱い演奏だった。
 いい刺激になったので明日からも頑張ろうかな」
 僕はこの画面を有村や皆に見せたかった。有村は秋葉先生のことを見直すだろうか。先生も有村も僕も音楽をやっているからこそ、こうしてつながっているのだ。ひたむきな努力と姿勢が秋葉先生の心を打ち、松谷ケンジにも届いたのだろうか。僕はブログのページをブックマークした。いつでも出せるようにしてから、携帯をポケットにしまった。それから僕はみんなと合流し、帰り客に紛れて打ち上げ会場に向かった。

コメント(14)

泣ける小説ということで、青春に焦点を当てました。
泣けるかわかりませんが、構造的には
1頑張って練習 → 2本番直前でちゃぶ台返し → 3怖いやつがめっちゃいいやつ
このようになっています。
書き終わると2万字近くあり、字数を削るのに今回も苦戦しました。
>>[2]だよ?さん
感想ありがとうございます。テーマに添えて良かったです。泣く場面配置の構造上、文章のバランスはいつもより整えやすく、それで過不足なくという具合に仕上がったのかもしれません。いい勉強になりました。




 泣きはしませんでしたが、とてもよい作品でした。清々しい感動を覚えました。作品と直接関係ないのですが、クエスチョンマークの後は1マス空けるのがルールのはずですが、それがされてないのに疑問を感じました。

 最近はうるさく言われないのかな。私がオリジナル小説の同人誌に参加していた頃は先輩に指摘されましたが。小説ではクエスチョンマーク自体、使わない方がいいという作家もいます。使ってる作家もいますが。

 それから小説講座に通っていた時先生に指摘されたのは、副詞は漢字ではなく、ひらがなにした方が読みやすいという事。「声を掛けてきた」「寄越さない」などは個人的には「かけてきた」「よこさない」と、ひらがなにした方がよみやすいと思う。が、肉さんなりのこだわりがあるのなら、漢字でも別にいいと思います。

 後、段落を変えずにずーっと文章が続くところがありますが、同人誌時代、3行ぐらいで段落を変えると読みやすいと言われました。

 それから、文章の最後の文字が「た」で終わるのが続くところがあって、ここもあまり「た」で終わらないように続けた方がいいかなと思います。

 また、「僕」の数が多く感じる箇所があり、こんなふうに書き直してはと思ったので、参考までに。

(元の文章)

 後片付けは後輩に任せて、僕はロビーに向かった。家族、それから松谷ケンジに会うために。
 父と母は僕が出てくるのを知っていたかのように、僕を待っていた。僕は照れくさかったが、来てくれたこと感謝した。両親とはまた家で話せばいい。僕は松谷ケンジを探した。金髪頭の音楽家は出口のあたりにいた。

(こんなふうに『僕』を減らしてみてはいかがでしょうか)

  後片付けは後輩に任せ、ロビーに向かった。家族、それから松谷ケンジに会うために。 父と母はこのタイミングで出てくるのをまるで知っていたかのように、僕を待っていた。照れくさかったが、来てくれたことに心の底から感謝している自分に気づく。

 両親とは家でゆっくり話せばいいので、僕は松谷ケンジを探した。金髪頭の音楽家は、出口のそばに立っている。




※私の感想は素人の戯言に過ぎないので、黙殺していただいても結構ですし、あくまでこういった考えもあるという程度にとどめていただければ幸いです。とても素敵な作品を読ませていただき、感謝してます。
>>[4]
感想と指摘ありがとうございます。クエスチョンマークの後は1マス空けるのは知りませんでした。勉強になります。気をつけたいと思います。漢字やひらがなの使い方も、こだわり等ないので、次回からこだわって書いてみようと思います。
まさに「絵に描いたように充実した学生生活」の小説でした。
でもそんな学生生活、私送れなかったもんプンプン!と思ってしまったのは、きっと私に「1頑張って練習」経験がないからですね……。

一文目に引用した箇所、二回目に読んだときに気になりました。
というのも、主人公がリア充っぷりを自覚しているという腹黒さ(?)がこの善良な作品の中では違和感というか、
今までの肉さんの作品の登場人物の(思考と言動が異なる)腹黒さがけっこう好きだったのですが、まっすぐなのが青春ってことなんですかね!

「3恐いやつがめちゃいいやつ」は、第五回→伏線がわかるという意見ありも私はわからず、第六回→伏線がいい感じ、と来て、今回は、先生に割かれる文字数も多く、さほど意外な一面には感じませんでした(>_<)
でも、これは肉さんのスタイルに慣れてきたということで、初読みの方等には、また違うのかもしれません。

1番好きな箇所は、寒いから手袋をしてて、電話がかかってきたら手袋を外したという描写です。
こういうのが書けるのは、肉さんが日常生活の小さな動作を大切にされていることの表れなんだろうな〜と思います。
リアリティを追求される肉さんらしい描写だと感じました(^^)
>>[6]
感想ありがとうございます。
今回の登場人物は確かに性格が良い方かもしれません。字数に余裕があればそういう一面も出せたように思います。
怖いやつももっと怖くて嫌なやつをアピールしてもいいなと思いました。

自分自身の演劇部時代を思い出して胸が熱くなりました。芝居の脚本も権利関係うるさいので、すんなり感情移入しました。
あと、中学生の時の音楽教師がまさにこんな感じの「プロ崩れ」だったので、それもオーバーラップしました。こういう人のありがたみって、学生の頃には気づかずに、後になって思いかえすものだよな、なんて思いました。

今回は作品を観賞するというよりも、完全に物語に没入してしまいました。
なので、「泣ける話」というテーマには、ぴったりの話だったんじゃないかな、と思います。
>>[8]
感想ありがとうございます。いろいろ共感していただいて良かったです。葵さんじゃないですけど、れとろさんに褒められてうれしいっす!
演劇世界の権利関係の話など今度聞かせてくださいませ。
前作でも感じましたが、本作も特に会話文にぐっときました。こういう魅力ある会話文を書けるのは強みだと思います!

物語についても、
厳しめの指導者がいる環境→突如起こった権利問題→解決→と思いきや不承認→権利を得るための団結→指導者との対立→諦めて本番へ→ギリギリでの解決→舞台裏明かし
とかなり激しく展開していたので、読んでいて続きが気になって仕方ありませんでした。これだけ展開しているのに、ちゃんと読者が置いてきぼりにならないように説明が尽くされてると思いました。

秋葉氏のキャラ設定も良かったです。こういう厳しく頑固な人は、「許可をとらずに演奏する」なんて認めないでしょうし、その分、プライドが高いのでバレないように裏で協力してあげるという行動をとるというのは非常に納得できました。ただ、個人的には、大学時代にもっと厳しく指導された記憶があるので、学生に嫌われるレベルだとすると、もっと口が悪くてもいいのかなと思いました。映画『セッション』みたいに(あれはやりすぎですが)。
>>[10]さん
感想ありがとうございます。
先生のキャラクターをもっと怖くてとんでもないやつに仕立てるために、セリフとか辛辣なのを入れられたら良かったなと思いました。殴っても良かったかもしれません。次回の課題とします。


とても読みやすく、面白かったです。
落ち着いた語り口にも思えましたが、最後のブログのところで感動しました。

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