半蔵門かきもの倶楽部コミュの第百七回　JONY作「KENJI」（テーマ選択『信じる』）

　このところ、自分の店を舞台にした小説を離れて、自分の頭の中みたいなモノを、この文芸部の作品に2ヶ月続けて書いた（2024年3月、4月）。そんなエッセイみたいなモノをあまり続けていても、飽きられると思うので、ストーリーのあるものを今月は書こうと思う。しかし、何か俺に語るに足るストーリーがあるかと探してみるが、仮名（かめい）で書いてもその人が万一にも読んだらと思うと殆どのことが書けなくなる。
　
　書くとすれば、10年以上前のこと、読書会も、この店も、始める前のことだ。
　今でも覚えている経験として、セックスの最中に、自分以外の人の名を叫ばれてビックリした体験があるので、そのことを書こうと思う。

　A子（仮名）と言う女が、俺としている時、絶頂を迎えた瞬間、大声で
　「KENJI」
と言う声を出した。その頃のことはもう色々忘れてしまったが、この知らない男の名前を突然叫ばれた体験だけは、よほど印象に残ったのだろう。ふとしたときに今でも思い出す。
　俺はKENJIという発声が、何のことか分からず身体の動きを止めた。しかし、自分が、それなりに好きと感じていた、『信じて』いた女が、俺との初めてのセックスで、まさに絶頂を迎えた瞬間に、別の男の名前を叫んだのだと知ったとき、なぜか一層興奮して、前にも増して、A子を激しく攻めた。彼女はそれに反応して、何度も、KENJI、KENJIと男の名を大きな声で呼んでいた。

　A子は、顧客会社の担当社員だった。取引が終わって、その会社との縁も無くなった後、何故か俺の事を自宅での自分の誕生日パーティーに呼んでくれ、話が弾んでいるうちに気がつけば俺が最後まで残った客になり、帰るとき靴を履いてから、玄関で、目の前に送りに出ていた彼女の顔が間近にあって、思わずキスをしてしまってから、個人的に会うようになった関係だった。

　恋人というには相手と知り合ってから日が浅かったし、お互いに相手の事をあまり知らなかったが、たぶん俺も彼女も最初から相手を異性としてしか見ていなかった。なのでその誕生日からの3回目のデートで彼女をマンションまで送ったときに、部屋に寄って行かない？と誘われたときは、俺のことを『寝ても大丈夫な男』と言う判断を彼女がしたのだと思った。

　そして、予想通り、ソファでキスをしているうちに、二人とも裸になり、自然とベッドに移った。普段は知的で物静かな彼女が、豹変して、積極的になるのは、嫌いじゃなかったし、彼女も俺との相性が良かったので、スイッチが入ったのだと思う。そして、絶頂を迎えたとき
　　「KENJI」　
と叫び声を上げた。
　何度もその知らない名前を叫んでいる彼女の中で俺は果てた。おそらくは嫉妬の感情が俺の興奮を数等倍高めたのだった。

　死んだように動けない感じですべて終わって、さらに彼女が俺の胸の中でまどろみから冷めて、俺は彼女の部屋のシャワーを、借りた。バスタオルを腰に巻きバスルームを出ると、彼女はキャミソール姿でキッチンのコーヒーメーカーでコーヒーを作ってくれているところだった。
　俺は彼女との、最初のデートで、自分は既婚者で門限（その当時も午前4時だった）もあることなどを話していたので、俺が帰らなければならない事を知っていたのだった。
　
　バスタオル姿のままキッチンのテーブルに付き、熱いコーヒーを啜りながら、テーブルの反対側に座った彼女と眼を合わせた。彼女は以前とは比べ物にならない柔らかな顔になっていた。完全に俺に心を許してくれているようだった。

　俺はコーヒーを飲みながら、『A子は、自分が、セックスの最中にケンジなる別の男の名前を叫んだことを覚えているだろうか？』と考えた。そして、すぐに答えはノーだと結論を出した。なぜなら、彼女の様子には、安心感、満足感、幸福感のようなものしか窺えず、もし、そのような記憶が断片でもあるなら、「私、何か変なこと口走らなかった？」と俺に訊いてこないはずはないと思えたからだ。
　と言うことは、彼女の意識の奥に固定された名前が、「KENJI」であり、普段は出てこないが、絶頂を迎えるときには、無意識にその名が浮上してくると言うことだろうか。
　「KENJI」とは誰か？彼女の恋人か？あるいは昔の初体験の相手か？あるいは初恋の人か？
　俺は知りたい気持ちを押さえて、コーヒーを飲みながら何気なく部屋の中を見回した。
　A子の部屋は三軒茶屋にあるマンションで、女の一人住まいらしいピンク系のカーペット、カーテンに白い家具で統一されたキチンと片付けられた部屋だった。賃貸だからなのか、壁にはカレンダー一枚貼ってなくて、その代わり、食器棚にハガキ大の写真立てが飾ってあった。
　俺はコーヒーカップを持ったまま、食器棚に歩み寄り、顔を近づけて、その写真を見た。
　フレームの中には日焼けした笑顔を綻ばせて白い歯を見せている一人の男子スキーヤーの姿があった。
　どこかで見た顔だった。
　後ろからA子が近づいてきて俺の身体に手を回して、写真立てを一緒に覗き込んだ。
　俺はA子に尋ねた。
　「誰？」
　「私の一番好きな人」
　「？」
　「嫌だ、知らないの？」
　「え？」
　「荻原健司じゃない」
　そうだった。確かにノルディックスキーの荻原健司だ。
　え？
　KENJIだと？
　まさか？
　俺はA子に訊いた
　「知りあい？」
　「まさか。むこうは私のことを知らないよ。私がファンなだけ」
　「好きなんだ」
　「うん」
　「俺には似てないね」
　「え？なに、それ？」
　「嫉妬しただけ」
　彼女は笑顔になると俺をぶつ真似をした。

　俺の記憶にあるのはここまでだ。
　『KENJI』が荻原健司なのか別の男なのかそれは永遠の謎だ。
　最も親密な行為の最中に別の男の名前を無意識で叫ばれたからと言って、その当時の俺はすでに、それを当の本人に指摘したり疑問を解こうとしたりはしない程度の人間には成長していたからだ。
　それまでの数え切れない程の、俺のささいな好奇心やら正義感やら自己保身本能や自己顕示欲やそのほかのつまらない欲望で女を傷つけてしまった失敗を経てようやく女に恥をかかせない男にはなっていた。
　今、これを書きながら、つくづく感じる。大事なことはすべて女に教わったし、今の俺は過去の女で出来ていると言っても過言ではない。
　　
　もう、A子のことは、殆ど覚えていない。この頃の日記を繰ればこの後に俺たちがどうなったのかディテールが判明するだろうが、A子と喧嘩した記憶も無いし、おそらくお互いに別の好きな相手ができたりして、自然消滅したのだろう。
　こうして思い出すとき、昔いっとき接点があったA子に対する気持ちは感謝だけである。たとえ短くても、君の人生におじゃまさせてくれてありがとう。俺の人生に足を踏み入れてくれて俺に得難い経験をさせてくれてありがとう。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終