半蔵門かきもの倶楽部コミュの第百一回　JONY作　恋愛温度　（テーマ選択『グラス』）

　ハロウィンは終わったが、クリスマスにはまだ早く、気候も１１月だと言うのに夏日があったり、突然寒い日があったり、何とも落ち着かない季節だった。先ほどから、俺の店のカウンターの奥で、読書会会員のA子（仮名）と、彼女の周囲公認の交際相手でやはり読書会会員のB男（仮名）が、ほかに客がいないことを良いことに、いちゃいちゃしゃべっているので、俺は彼らからなるべく離れたテーブル席に座り、文庫本の推理小説に神経を集中させていた。
　俺は、A子たち二人の存在をいつしか忘れ、本の中の、恰幅のよい髭のベルギー人探偵の灰色の脳細胞に感心していたが、しばらくして、B男の怒気を含んだ「どうして嘘をつくんだ」という言葉が、俺を物語の世界から現実に引き戻した。
　別に彼らの会話の内容に興味は無かったが、B男は、普段の彼からは想像もつかないような、余裕の無い表情になってA子を問い詰めていた。
　話の断片から、B男の主張を推測すると、先日、新宿の大きなラブホテルのロビーのソファでB男の友人がA子を見かけたというのであった。そのホテルは、ラブホテルなのに、ロビーに、テーブルやダーツやビリヤードの台を置いて、チェックインまでフリードリンクでゆっくり待たせる解放的な作りのラブホテルで、客同士が公共のスペースで顔を合わせるのも普通だった。A子は、最初は、そのホテルで女子会をしていたと言ってごまかそうとしたが、目撃されたのは男と二人のところだと言われて言葉に詰まってしまったのだった。
　「いったい、相手は誰なんだ」
　「･･････」
　「C（仮名）じゃないだろうな。もうCとは会わないって約束したじゃないか」
　「その目撃したっていう人に訊けばいいじゃない」
　「訊いたよ。顔はっきり見ていないそうだ」
　「それなら、私を見たっていうのも、当てにならないじゃないの」
　「今、女子会でそこに行っていたとキミ自身が認めたじゃないか」
　「じゃ、カマかけたの？」
　「間違いだと確かめたかったんだよ。そしたら、行っていたと言うんだもの。ぼくは、キミと真剣につきあっているんだよ。キミがCともう会わないって言ってくれたから、ぼくは、キミだけとしか会っていない。キミを親にも紹介して、結婚前提でつきあっている。それなのに･･････」
　「大丈夫よ。私だって本気なのはあなただけよ」
　「じゃ、ホテルで会っていた相手は誰なのか説明してくれよ」
　「聞いてどうするの？」
　その質問は、B男の勢いを削ぐ効果があった。Bは、しばらく天井に目を走らせ、考えてから、手に持った『グラス』からビールを一口飲んで、言った。
　「そ、そりゃあ、相手によっては、君との関係を考える」
　「私と別れるってこと？」
　「そんなことにはなりたくないけど、もしCだったら、立ち直れない」
　A子は自分の握っていたモスコミュールのトールグラスをカウンターテーブルの上に置いて、手を隣のB男の手の上に伸ばして上からしっかりと握った。
　「大丈夫、Cさんじゃないわ」
　Bの表情に一瞬喜びが現われ、すぐに、また不安が広がった。
　「じゃあ、相手はだれなんだ」
　そのとき、偶然音楽が終わって、店内は静寂に包まれ、B男の真剣な声だけが響いた。A子が答えないままシンと空気は静まりかえり、俺は、仕方がないので、カウンターの内側に歩いて入り、オーディオをいじり、なるべく陽気なジャズピアノを流した。またテーブル席に戻ろうとしたが、A子が俺に助けを求めるような表情で、こちらを見てくるので、仕方なく、カウンターの内側のシンクで洗い物を始めた。
　しばらくしてカウンターの向こう側で、A子がB男のほうを見もせずに、俺に向かって言うように、Bの質問に答えた。
　「Cさんじゃないんだから、もう、いいじゃないの」
　Bは懇願するように言いつのった。
　「ただ、知りたいんだよ。浮気なら浮気でいいから。相手が誰なのかを知りたいだけなんだ」
　「どうでも良い人よ」
　「じゃあ、言えるだろう？　誰なんだ」
　A子が懇願する眼で俺を見つめながら、ゆっくりと言った。
　「Jさん（俺のこと）よ」
　B男は、俺の名前がA子の口からでると、
　「へっ」
　と意味不明の侮蔑的な音声を漏らした。
　「冗談だろ。Jさん、嘘ですよね」
　俺はA子の表情に視線を走らせ、そこに哀願を見た。
　俺はB男の質問を無視し水仕事を続けた。B男は声を大きくした。
　「Jさん。嘘だよね」
　俺は沈黙を続けた。B男の顔にはみるみる血が上って真っ赤になった。
　B男はA子に向かい
　「おまえ、何やっているんだよ。ふざけんなよ」
　と言い、A子の髪の毛をつかんだ。
　A子はきゃっと悲鳴を上げた。
　　俺は水仕事で濡れたままの手をカウンターの向こうに伸ばして、B男の手を掴んで、言った。
　　「よせ」
　B男は、A子の髪から手を離したが、今度は俺の胸ぐらを掴んできた。俺はB男のするままに任せておいた。B男は、泣きそうな顔で、俺の事を睨み、俺の胸ぐらを掴んだまま立ち尽くしていた。
　A子は、B男に対してか、俺に対してか、ただ、
　「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
とカウンターに顔を伏せて、呟くような声で言うばかりだった。
　B男はやがて、俺を責めても事態がどうにも解決しないことを悟ったようだった。いきなり、俺を突き飛ばすように、手を離すと、
　「ふざけんなよ」
と言い捨てて、自分の荷物を取ると、金も払わず、A子を残して、勢いよくガラスのドアを開け、外へ消えた。
　
　オスカー・ピーターソンの奇跡のような軽やかなピアノの音色だけが店内に響いていた。A子はまだカウンターに突伏している。
　俺は洗い終わったグラスをシンクの水切りから取り出して、白い布巾で丁寧に磨きだした。
　時間にして数分、あるいは数十秒だったろうが、長い沈黙の時間が過ぎ、ようやくA子が顔を上げた。
　俺は黙って彼女の前に、水の入ったグラスを置いた。
　彼女は、ただ黙ってグラスを手に取り水を飲んだ。そして、ようやく顔を上げて俺を見た。
　「ごめんね。迷惑かけて」
　俺は、また、グラスを布巾で磨き出した。
　「いいさ。俺で良ければ、いつでも、アリバイに使ってくれて。別に減るようなモンじゃない」
　「ごめんなさい。私、ダメだよね。Cさんと別れなきゃいけないよね」
　Cと言うのは、昔、よく読書会にきていた男で、B男が読書会に入って来る前からのA子の恋人だった。A子とCは二人とも性格が似ていて、恋愛関係が華やかで、そのせいで嫉妬もし、喧嘩もするが別れられないいわゆる腐れ縁だった。それに比してB男は経験の少ない真面目な性格で、Ａ子はＣからＢ男に乗り換えた形だった。
　「べつにＢ男にバレなきゃ良いんじゃないか？」
　「･･････」
　「Ｂ男の主観でＢ男の幸福も不幸も決まるんだから、君がＢ男といるときに１００％Ｂ男との恋愛に集中して温度をあげれば、Ｂ男に分からないところで君がＣと何をやっていようが、知らない限りＢ男は幸福でいれるだろう」
　「そうかな」
　「Ｂ男が今まで経験した恋愛の温度が最高で６０℃だとする」
　「何それ？」
　「Ｂ男が感じる恋愛のホットさの度合を、Ｂ男の主観で何度に感じたかっていうことさ。過去のＢ男の恋愛で経験した温度が高くても６０℃だとする」
　「･･････」
　「そこに君が現われて、君のルックスや、やり取りの言葉や、デート内容とかで９０℃の実感をＢ男が知れば、Ｂ男にとってはめちゃくちゃ良い恋愛ということになる」
　「･･････」
　「たとえ、君がＣとの間では１００℃だったとしても、Ｂ男と会っているとき90℃なら、Ｂ男にとっては90℃という高温は、未経験のつまりは最高の恋愛になる」
　「そうかな」
　「こっちに大量に注げば、もうこっちには余らないってもんじゃないだろ、ポットのお湯じゃないんだから。逆に、Ｃと秘密の100℃の関係を持つ君だからこそ、Ｂ男にも９０℃という高温を出せるとも言えるんじゃないか？」
　Ａ子は首をかしげ、氷が溶けて薄まったモスコミュールのグラスを啜った。
　「そもそも、君は、これから、どうしたいんだ？」
　「だって、Ｃが奥さんと別れることは無いんだもん。Ｂ男と結婚するしかないじゃない」
　「だったら、すぐに、Ｂ男を追いかけて、今回のラブホ目撃事件を上手く処理しろよ」
　「どうやって？」
　「俺にタロット占いをしてもらっていたと言えばいいだろう」
　「なぜ、わざわざラブホで、そんなことする必要があるのよ？」
　「Ｂ男とのデートはどこでしている？」
　「彼のマンションとか」
　「そうしたら、有名なラブホでどんなところか興味あったけど、Ｂ男には恥ずかしくて言えなかったので、俺に頼んでどんなところか見てみたかったとかさ」
　　あまり説得力はないが、Ｂ男自身の、Ａ子の無実を信じたい欲求に期待するしかない。
　　Ａ子の表情は俺と話しているうちに、だいぶ明るさを取り戻していた。彼女は、残りのモスコミュールを一気に口に流し込むと立ち上がった。
　「Ｊさん。ありがとう。私、行くね」
　歩きかけたところで、Ａ子は振り返り、俺に訊いた。
　「さっきの恋愛温度の話だけど、Ｊさんの温度は？」
　「常に200℃」
　Ａ子はそれを聞くと笑って手を振り、出ていった。Ａ子がガラスの扉を開いたとき、冷たい風が舞い込み、そろそろ冬だなと感じた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（終）

コメント(7)

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[1] mixiユーザー 11月06日 00:28

あー僕は長ったらしく考えて書きすぎた・・・爆
短くて読みやすいのに奥が深い・・・
Ｂ男が言ってること矛盾してて子供だなと思うし、90℃でも舌を焼く人だと思う

いつも200℃天ぷらあがるくらい熱いのがいいと思います。

Ａ子悪い子だなと思うけど結構いるんだろうなぁこんな人＾＾と思いました＾＾－－－

[2] mixiユーザー 11月06日 08:37

>>[1]
素敵なコメントをありがとうございます。この架空の人物Jも、トシとったら、変化し落ち着くのが、みっともなくないのですが、昔と同じ２００℃だと思いたいのが、何ともイタイところです。

[3] mixiユーザー 11月07日 09:37

冒頭の書き出しから見事ですね。
もう冬なのに夏日という現実のカレントな話題から、アンビバレンツな天候の不安定さを描き、それがそのままＡ子とＢ男の不安定な空模様とかぶる、現実の現象から虚構の世界への移行の描き出しがすごいです。
そしていつもようにＪさんのハードボイルドな男の優しさ
いいですね。
最後の２００℃には思わず笑みが浮かびました。
男たるものいつまでかくありたいですね。
ちなみに、作中のラブホテルは実在するのですか？
なんだかすごくリアル感があったので。

[4] mixiユーザー 11月07日 17:28

>>[3]
過分なお言葉を頂戴し、恐れ入ります。
200℃という見栄や大言壮語をもういい加減卒業すべきなのでしょうが。
実在します。（画像は今、Webから拾ったもの）

[5] mixiユーザー 11月07日 19:44

>>[4]
おお、あったのですね。
好奇心から、行って見てみたい気もしますが、でも偶然、知り合いと会ったら、やましくない相手とのやましくない目的での利用（小説の取材とか）でも何だか気まずいですね。
例えば担当の離婚事件の関係者とかだった気まずいを通り越して、かなりややこしいことになりそうですしね……

[7] mixiユーザー 11月13日 18:24

冒頭の現実の気温のアップダウンの表現が、Ａ子とB男の恋愛温度のようで、巧みでうまい！と感じました。

JONYさんの安定の「Ａ子シリーズ」今回もまるで実話のようで、とても楽しく面白く読ませていただきました。

現実にはC男と解放的なラブホにしけこんだけど、そこはダンディーなマスターＪだと瞬時にB男に思わせるマスターの無言の力、すごいですね。

B男の取り乱し方はすごいですね～。
Ａ子の髪を掴むような暴力はしちゃいけませんよね～。
それだけＡ子に対する愛が深いんですかね。
その愛が、憎しみに変わらないことを願うばかりです。

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