半蔵門かきもの倶楽部コミュの第97回　文芸部Aガラス窓作「ある姫の物語」(テーマ選択『海』)

　披露宴の最中に、ひそひそと、ざわざわと、周囲がさざめき立った。
　私達に気取られないようにしてるような空気を読んで、気付かない振りを続けていたけれど、ついに、王子が席を立った。

　戻ってきた王子は、真っ青な顔をしていた。
　妹のような娘と言っていた、喋れず、足も不自由なような、あの少女が、塔の上から海に飛び込んだらしい。

　『気の毒な娘』と王子は呼んでいた。
　彼女は、ある日、裸で波打ち際に倒れているところを、通り掛かった王子に見つけられた。
　そこはまさに、私が倒れている王子を見つけたその場所で、王子は、自分が発見された時の記憶を思い起こそうと立ち寄ったそうだ。
　裸で倒れていたという状況から、誰もが、狼藉者に乱暴をされて捨てられたのであろうと思うことを、口々に婉曲に婉曲に伝えて、王子からその『気の毒な娘』を遠ざけようとしようとするのを、王子は、船が難破した時の夢で見たことのある娘だと言って、近くに置いた。

　私が、にわかに決められた許嫁の王子の国に来たのは、ひと月と少し前。
　婚姻より前に、この国の言葉や風習を学ぶために、先にこの国に嫁いでいた親族の館で行儀見習いをと言われて、言うなりにやってきた。
　聞けば当の王子は、独身パーティとかで、船の上で羽目を外して遊んでいて、城は十日も留守らしい。
　肖像画の真面目そうで爽やかなイメージとのギャップにガッカリしたが、「まぁ、殿方というのは、遊ぶのも甲斐性なのでしょう」と、侍女に言われてそう思うことにした。

　私の国は内陸で、海が珍しく、退屈で寂しい日々の大半を、海辺を散歩して過ごした。
　語学の先生が散歩に付き合ってくれて、明るい海を横目にそぞろ歩きながら交わす会話で、国にいた頃は憂鬱でしかなかった語学が、随分楽しく上達した。
　嫌々来たこの国が、少し好きになってきた頃、嵐が来た。
　私の国にも嵐は来ることがあるけれど、海辺の嵐の夜は、聞いたこともない恐ろしい音が一晩中響いて、一睡も出来なかった。
　が、翌朝、全てが洗い流されたような、キラキラと波間を輝かせる陽射しに、昨夜、国に帰りたいと大騒ぎして泣いたことを忘れて、ワクワクした。

　語学の先生に、高揚した気持ちを伝えようと頑張って、あまりに訂正されて凹んだ頃、岩陰に何か動くものを見つけた。
　「嵐で打ち上げられた魚でしょう」と語学の先生が言い、近付いたら、大きな魚が跳ねて、海に飛び込んだ。「ああ、やはり」と語学の先生が言い終わる前に、私は思わず駆け寄った。
　金髪で高貴な衣装を纏った男性が倒れていた。
　語学の先生が慌てて、「私は人を呼んできますので、姫様は、ここで動かずに」と駆け出して行った。
　私は、ただ茫然と、青白い顔の男性のそばにしゃがんで、見つめるしかなかった。時折、岩間で魚がビチビチと跳ねる音が、やけに響いて聞こえていた。

　唐突に男性がうめき、目を開けた。
　彼の問いに、私は何も答えられなかった。
　困っていたところに、語学の先生が人を沢山連れて戻ってきて、その男性を担架に乗せて連れ去った。
　親族の館に戻ったら、語学の先生が、私を1人にした事について叱責され、私共々、当面の海辺への外出を禁じられた。

　そこから半月以上の日々が過ぎ、ついに、王子との初顔合わせの日が訪れた。
　私の語学はあやふやのまま、憂鬱なその日を迎えた。
　現れた王子は、私を見て驚いた。私も驚いた。横で語学の先生は驚きすぎて倒れそうになるのを、侍女2人に支えられていた。
　あの日、海辺で倒れていた金髪の男性が目の前にいた。
　「私を助けてくれた女性、ずっと探していた女性が、許嫁の姫だったとは。神に感謝します」と、王子は跪いて十字を切った。
　「私は何もしていないけれど」と、ふうふう言っている語学の先生に囁いたら、「姫様を介して私が人を呼びにやったのですから、姫様が王子様を助けたという事で良いのです」と言われた。
　よく分からないまま、私は、王子の命の恩人という美談と共に、王族も国民も皆が婚礼を待ち望む婚約者となった。

　婚礼までの期間、私は、親族の館から、母の末の妹である叔母と数人の侍女と語学の先生と共に、王宮の一角に居を移した。
　食事は、大広間で、国王一家と共にした。
　高貴な一家の洗練された晩餐の中で、唯一異質な存在があった。
　とてもとても美しい少女が王子の隣の席に座り、自分は一切食事を口にせず、ただただ、ペットの猫のように王子に纏わりついているのだ。
　「あの方はどなたなのですか？」と聞いてみても、皆、困ったように顔を見合わせるだけなのは、私の語学力が不充分なせいなのかと思い、落ち込んだ。

　思い悩んでいる私のことを誰かが進言したのか、ある朝食後に、王子が、自分の通訳と私の語学の先生と共に、私を温室の中の美しいお茶席に招いてくれた。そこで、あの謎の美少女の事を語ってくれた。
　嵐で難破した船から流れ着いたという海辺に、(助けた事になっている)私の手掛かりを求めて行ってみたところ、倒れていた少女を見つけたこと。聞こえてはいるようだけれど、全く話せず、文字も書けず、少女の身元は分からないままなこと。医者に見せても異常はないようなのに、うまく歩けないこと。気の毒に思うけれど、自分にのみ懐いていて、他の人の言う事を聞かず、もてあまし気味なこと。けれど、どこか夢に何度も見たような運命的な記憶があって、どうしても見捨てるに見捨てられないこと。
　「運命といえば」と、私の目を見て、「海辺で目を開けた時に見た貴女の顔が、ずっと忘れられなかった。国と国の間の取り決めとしてではなく、貴女を愛しています。どうか、あの『気の毒な娘』の事で気に病まないでください」と、王子と通訳と語学の先生から、二つの言語で三重に、畳み掛けるように言われて、私は思わず吹き出してしまった。
　王子と二人きりでロマンティックな会話が出来るように、もっと語学の習得を頑張ろうと思った。

　それ以降、少女の存在は、あまり気にならなくなった。王子は私に優しく、二人で過ごす時間も増え、通訳を介さずに話せる内容も増えていった。
　少女の、王子を見つめる明らかに恋をしている視線、私に対する嫉妬の目線、憎しみの目線。結婚式の後に少女が海に飛び込んだと聞いて、ずっと見ない振り、気付かない振りをしてきたそれらが、一気に思い起こされてきた。
　そう、彼女は女として王子を求め、私を憎んでいた。私は彼女に、余裕がある優越感を覚えながら、グイグイと無言でアピールしてくる、その彼女の感情の一切に、無視をしていた。

　必死の捜索にも、彼女は見つからず、披露宴は中断されたまま済し崩し的にお開きになり、私達は新婚初夜とかいう場合じゃなくなった。
　「もう、存命は難しいでしょう」と多くの人達に言われても、王子は何日も何週間も捜索を続けさせた。
　私達の婚姻は受理されていたものの、予定されていた祝賀行事は延期に延期を重ね、私の国の使節団は帰国してしまった。

　「貴方は彼女を愛していたのですか？私よりも？」と聞いてみたら、王子は殴りかからんばかりに私を睨みつけ、無言で目を背けた。
　海からの風が、私の頬を撫ぜ、何故だかそれが、死んだとされる少女のクスクスいう笑い声に感じた。彼女の笑い声なんて、聞いたこともないのに。

　その耳障りな風の音は、窓を閉めても鳴り止むことがなく、私の心を苛み続けた。