半蔵門かきもの倶楽部コミュの第九十七回　　JONY作　「灯台の見える浜辺」　（テーマ選択『海』）

　小高い丘の上の灯台へ続く上り坂の途中で、道が分かれて、海岸へと下る小道が延び、その両側の草むらには、白い浜百合や紫の浜昼顔が群生している。俺は、その下り坂の草の中の小道を、半袖のTシャツにジーンズという恰好で、額に薄っすらと汗を浮かべて、女の手をしっかり握り歩いている。女はデニムの短いスカートを履き白のカットソーを着て、少し上気した肌から微かに柑橘系の香が上ってきている。太陽は中空にあり俺たちの影は濃く短かった。
　この女とは昨夜初めて会った。
　俺の店に閉店間際に一人でふらっとやってきたのだが、美術の趣味が合い、アンドレ・ドランとか、モーリス・ド・ヴラマンクとかをスマホの画像を見せ合ったりしながら話していたら、いつの間にか、終電の時間を過ぎてしまい、中野坂上のマンションに住んでいるというので、俺の住まいとは方向が違ったが、「送ろうか」と言ったら、即答で「いいの？」と言われたので、車の助手席に乗せた。麹町１丁目の交差点を新宿通りをいつもは右に行くところ、反対の左に曲がりそのまま新宿を超えて一本道で中野坂上まで20分ほどで行った。女が降り、手を振り車を出そうとしたとき、なぜか、発作的に
　「明日暇なら海行かない？」
　と言う言葉が俺の口からでた。女を車に乗せるときも、途中の道を走っているときも、相手との距離を詰めたりすることは全く考えていなかったのに、女とLINEの交換もせずに、分かれるときになり、明日の土曜が空いていると気づき瞬間的に生じた願望なのだろう。それが自分で意識する前に既にそのまま言葉になっていた。
　女はびっくりした表情で、俺の顔を黙って数秒みつめたが、
　「いいけど。私、泳げないんだ」
と言った。俺が、すかさず、
　「浜からのんびり海見るだけだよ。俺もまだ冷たい海に入ったりはしないよ」
と言うと、女は頬を緩め
　「それなら行く」
と答えた。
　「じゃ、ここに明日の正午迎えにくればいいかな？」
　「うん」
　再度お互いに手のひらを相手に向けて振り、車を走らせ始める。新宿の大ガードを抜け新宿通りではなく、まだ人やタクシーの溢れている歌舞伎町前の靖国通りを走りながら、俺は自分の性格について考えた。よく石橋を叩いて渡るなどと言うが、俺の場合は迷う前に石橋を駆け抜けてしまっていることが多かった。ビジネスも恋愛も人生そのものも。こんな性格だったから、あちこちで転けてばかりで、怪我は絶えず、損してばかりだが、たぶんこの性分は一生変わることはないだろう。

　草むらの小道を歩いていると、前方の藪の向こうから波の音が聞こえてきた。そう言えばさっきから潮の香が強くなっている。小道の先の数段の石段を降りると、薮の先に急に視界が開けて、眩しい陽光に照らされた海と石の浜が見えた。
　「わあっ」
　と彼女が歓声を上げ、俺の手を引っ張り波打ち際に走り寄った。波が靴を濡らすギリギリまで行っては引いて行く波に合わせて進み、波が寄せると慌てて逃げる。
　「何年ぶりだろ？海」
　そう言いながら俺の顔を見る。別に答えを求めている訳でも無さそうなので俺は笑っているだけだが、この全く知らない女は、中野坂上という不便でも無い東京の中心近くに住んでいながら、海を何年も見ないような生活を何故しているのだろう。
　昨夜以来、彼女とはお互いの自己紹介のようなものをまるでしていなくて、お互いに名前も知らない。昨夜は、フォービズムの絵とパリの話だけしかせず、今日は、車の中では、お互いのiPhoneを車のオーディオに繋ぎ、お気に入りの曲を流しながら、プログレの話から楽器をやるときにスコアを見て練習することの是非の話などをしていた。
　波打ち際でしばらく遊んでいたが、いつまでもそうしていても仕方がないので、ちょうど木陰になっている岩陰の大きな流木の上に並んで腰を下ろした。彼女の腰の下に敷くハンカチを出そうとポケットを探ってる間に、先に流木の上に腰を下ろされてしまった。
　この流木はおそらくこの木陰の場所に誰かがベンチにする為に波打ち際から運んで来て、以来ずっと何組ものカップルのために使われて来たものなのだろう。
　座ってしばらく二人とも無言で海を見ていたが、いつか自然と身体を寄せて、俺は彼女の背中に手を回した。そしてそのまま静かに時間が流れたが、彼女が沈黙を破った。
「もし、私が結婚していると言ったら怒る？」
　と俺の方は見ずに、海を見たまま訊いてきた。俺も視線は海に向けて、彼女に手を回したまま答える。
「いや。ぜんぜん。俺だって結婚している」
「それは、昨夜、お店で聴いたわ」
　たしかに、昨夜すでに、話していたことを思い出した。（パリの街の話をしている中で、大昔に、最初の妻と過ごした誰でも名前を知っているホテルチェーンのスイートの部屋と、それから１０年後に、二回目の妻と過ごした無名の小さなエレベータも無い安ステュディオの狭い屋根裏部屋の話などをした記憶があった。ちなみにどちらが良いと言う話では、もちろん、無かった。）
　彼女は続けた。
「あなたは、いいのよ。結婚していても。むしろ、独身とか言われたら変だし。私、昨夜、自分も結婚していると言うべきだったのかも知れないけど、何となく言えなかったの。だって、あなたは、ぜんぜん、個人的なこととか訊いて来ないし、連絡先とかも訊いてこないし」
　俺は非難されているのだろうか。しかし、何も言わずに、黙って彼女の話の続きを聴いた。
「だから、あなたは私に興味がないのかなと思ったの。そうしたら、いきなり、ドライブに誘われて、こうして一緒に座って海を見ている」
　そこで彼女は手にもっていたミネラルウォーターのペットボトルから、水を一口飲んだ。一体、彼女は何が言いたいのだろう？　
「私、結婚しているの」
　彼女は、繰り返して言った。
「もう、結婚１０年になるわ」
「じゃ、結婚したのは、君が１５歳くらいの時かい？」
　彼女は、唇を数ミリ動かしてわずかに微笑んだが、その軽口を無視して、先を続けた。
「子供はいないけど、夫をすごく愛しているの」
　と言うと、俺の反応を確かめるように、俺の顔を覗き込んだ。俺は笑顔を作り、
「素敵じゃないか。ラッキーなことだ」
と言った。だが、彼女は、まじめな顔になって言った。
「結婚してから、夫を裏切ったことは一度もないわ」
「良いと思うよ。君の夫もラッキーガイだね」
「あなたには信じられない事かも知れないけど、結婚してから夫以外の男性と二人で出かけた事もないの」
「そうなんだ。じゃ、俺も、ラッキーガイだな」
　彼女は、俺から視線を外して、海を見た。海面は穏やかで、初夏の陽光を反射して白く輝いていた。
「私、この灯台の見える浜に今日連れて来てもらうまで、東京の近くに、こんなに素敵な場所があるなんて知らなかったわ。誘ってくれてありがとう。でも、本当に悪いと思うけど、私、やっぱり夫を裏切ることはできないの。ごめんなさい」
　俺は、心の中で、『いい娘だ』と呟き、彼女に対する好感度が急上昇するのを感じていた。
「なんで謝るんだい？君は何も悪いことなんかしてないよ。夫に対しても、俺に対しても」
　彼女は気まずそうに黙った。俺は話を続けた。
「君は俺の車を褒めてくれたけど、良い車の絶対条件ってなんだと思う？それは性能が良いことでも見た目が良いことでもない。安全なことだ。事故を起こさないことだ。事故ってのは交差点で起こるんだ。それを防ぐために信号機という素晴らしい発明がある。よく赤信号が危険で、青信号が安全だと言うけど、それは逆で、交差点に全赤（ぜんあか）つまり全ての方向の信号が全部赤になる時間は２秒とかあるけど、全青というのは無い。もしあったら大変なことになる。青ってのは危険なんだよ。信号機の無い交差点も危険だ。君は今、俺にはっきり赤信号をだしてくれた「進むな止まれ」って。赤信号を俺は無視しない。だから安心してくれて良い」　
　黙って聴いていた彼女は、少し驚いたような表情で俺を見た。俺はそれが愛しくて空いている方の手で彼女の頭を撫でた。中位の長さの髪は艶やかな黒でサラサラしていた。彼女は心地良さそうに眼を閉じた。俺は彼女の髪を撫で続けたが、眼を閉じたままの彼女の愛らしい小さな顔を見ているうちに、気がつけば少しづつ自分の顔を近づけていた。
　その気配は間違いなく伝わっている筈なのに彼女は眼を閉じたままだった。
　俺はその柔らかな唇に自分の唇の先で触れた。彼女は相変わらず眼を閉じたままだった。俺は少しずつ身体の角度を変えて片手を彼女の頭の後ろに当て、片手を彼女の腰に当てて徐々に引き寄せ、唇をだんだん強く押し付けた。
　その状態がしばらく続いたが相変わらず彼女の眼は閉じられたままだった。そして、わずかづつ彼女の唇が開いた。俺は舌先で彼女の歯を探り、彼女の歯が開いて行くのに従って口の中に舌を入れていった。
　とても長いキスを終えて、彼女も俺の身体に手を手を回してお互いに抱き合い、彼女が俺の胸に顔を埋めた姿勢で黙ったままでいたが、やがて、小さな呟きのような彼女の声が聞こえてきた。
「あなたは赤信号を守るって言ったのに」
　俺はしばらくしてから答えた。
「赤信号は守るよ。必ず。君が嫌がることは絶対にやらない」
　彼女は俺の胸から顔を上げて俺を真剣な眼で見た。
「本当？」
「本当だよ」
「私がセックスを拒んでも、また会ってくれるの？」
「もちろん」
「ごめんね。夫を裏切れなくて」
　そう言う彼女の口を俺は再びキスで塞いだ。彼女は再び眼を閉じ、今度は彼女の舌先が探るように俺の口の中に少しづつ入ってきた。
　単調な波音だけがして、磯の香りに包まれていた。すでに夏の空気だった。
　その日は国道沿いの海の見えるイタリアンで食事をした。シーザーズサラダにアクアパッツァとペペロンチーノ、飲み物は彼女はよく冷えたシャルドネ、俺はノンアルコールビールにした。
　暗くなりかけた時間に中野坂上に着き、少し細い道に入り交通の邪魔にならない公園前の路上に車を停めた。屋根を閉めて、空調を入れて、ちょうどかかっていたチェットベイカーのYou Can't Go Home Againを最後まで聞いた。曲が終わると、俺は、オーディオのスイッチを切った。空調の効いた車内に時たま脇を通り過ぎて行く車の走行音が微かにする。
　彼女の表情は悩ましそうだった。それは今日のデートが終わってしまって、家に帰らなければならないと言う気持ちも、勿論あっただろうけど、夫を愛していながら、俺と二人で楽しい時間を過ごしてしまったという良心の呵責を感じているように見えた。彼女は普段は石橋を叩いても渡らないで今まで生きてきたのだろう。
　長い沈黙の時間が過ぎ、俺がその沈黙を破った。
「何を考えているの？」
「私、悪い女なのかな」
「俺には君はとても良い女だと思うけどな。あ、女として優れていると言う意味では、もちろん、君は容姿や性格のイイ女だけど、そういう意味じゃなくて、良い子、悪い子という倫理的な意味で君は良い子だと思うよ。俺たちはまだLINEの交換をしてないし、それどころかお互いに、『あなた』『君』と呼んでいるだけで、俺は君の名前もまだ知らない。それは、俺たち二人の間には名前なんか必要ないからだ。相手の仕事も年収も関係ない。どこに住んでいるとか誰と住んでいるとかも関係ない。何の打算もない。LINEを交換してなくても、俺の店はネットに載っている。てか、君が俺に会おうと思えば、店までくれば、いつでも俺に会える。俺は君のことが好きだ。だから身体の関係にもなりたいと思う。でも君が本心からしたいと思うまで、セックス抜きの関係でも俺は大丈夫だよ。君がいつか、俺と身体の関係になっても、夫を裏切ることにはならないと言う風に考えられるようになったらしよう」
　彼女は俺の言った言葉の意味が明らかに理解できなかったようだったが、それってどういうこと？とは訊き返さなかった。
　俺も敢てそれ以上の説明はしなかった。俺が説明をするとすれば、『夫を裏切らないというのは手段であって、その目的は、君の愛する夫が幸福でいることだ。そのためには、君自身が幸福でなければならない。それはむしろ君の義務だ。そして、俺と身体の関係を持つことで君が幸福を感じられるようになるなら、君自身の義務を果たすべきだ。誰かの決めた義務ではない君自身の心が求める君自身の義務を。つまりは幸福にならなければいけないと言う義務を。夫が俺との関係を知って嫌な気持ちになるなら隠せばいい。なぜなら君の幸福にならなければならない義務は君の愛する人、夫の幸福のためだからだ。』のようなことを言っただろう。しかし、石橋を叩いても渡らない彼女は、この言葉の意味を理解しようとせず、誰かの決めた『夫以外と交わってはいけない』という妻の義務を果たすことを選ぶだろう。
　俺は自分のシートベルトを外し、ゆっくりと助手席に身体を伸ばして彼女の唇に軽くキスをした。
　運転席のドアを開けて、外に出てぐるっと反対側に回り、助手席のドアを開けて、公園の金網にぶつけないように押さえた。彼女はそれでも固まったままでいたが、俺がずっとドアを押さえたまま外で笑顔を浮かべて待っているを見かね、助手席のシートベルトを外して外に出てきた。
　俺が運転席に戻ろうとすると、公園前の路上で、腕をつかんで訊いてきた。
　「また、会える？」
　俺は笑顔で答えた。
　「もとろん。いつでも待っているよ」

　車を出して甲州街道から新宿南口にかかるあたりで渋滞になり、俺は、ラジオをつけた。ちょうど、良く知っているジャズバラードが流れてきた。誰が歌っているのか知らないが、渋い男の声だ。

But don't change a hair for me　
しかし俺のために髪の毛1本だって変えないでくれ。
Not if you care for me
もし俺のことを思ってくれるなら。
Stay little Valentine, stay
そのままの良い子の君でいてくれ、そのままで。　

　彼女は、今頃、家に帰って愛する夫と過ごしているだろう。今夜、眠る頃には、灯台の見える浜辺を思い出し俺とのキスを思い出すだろう。今日どこに出かけたかについて、夫にどんな嘘をついたか知らないが、彼女の性格なら、夫に嘘をついたことに悩むかも知れない。でも俺にLINEメッセージを送って相談することはできない。俺から連絡がくることも望めない。俺は連絡先を知らないので連絡がくるはずがない。俺と接触したければ、自分から動くしかない。連絡をとろうと思えば、店をやっている俺は簡単につかまる。
　君が決めるしかない。俺とまた会いたいのか。俺とのわずかな時間のために夫にまた嘘をつくのか。
　
　車の流れは新宿駅南口の渋滞を抜けると嘘のように流れだし、そのまま長い御苑トンネルに入った。俺は、ラジオから流れてくる歌声に合わせて小さな声でつぶやくように歌う。
　
My funny Valentine,
Sweet funny Valentine
　
　ああ、夫想いの君。良い子の君。君は再び俺に連絡をしてくるだろうか。そのときは、やはり、自分がhappyでなければ、夫を幸福にできないと考えるのだろうか。それとも新たな別の価値観でもって夫との愛と俺との逢瀬を両立させるのだろうか。

My funny Valentine,
Sweet funny Valentine

　終わり