半蔵門かきもの倶楽部コミュの第九十五回　みけねこ作　『波の音』

　五月の風が新緑の香りを運んでくる。私は、部屋の窓を開けて、引っ越しの荷造りをしていた。クローゼットの奥に見慣れない段ボールを見つけた。引っ越しを機に処分するものはしてしまおうと箱を開けると、中学生の頃のサイン帳や交換日記などが出てきた。実家を離れたとき、家族に見られたくないものを箱に入れてあとで処分しようと思いつつ、三十年以上置いていたようだ。箱の底を探ると、大きな巻貝が出てきた。
　耳に当てると、ざあっと波の音がした。

　中学二年生に上がったとき、男の子が転校してきた。黒板に『小野　祐司』と大きく書かれ、先生の横に立って挨拶をしている姿は、何か悪いことをしているように見えた。小野君は、背が高くすらっとしていて、色白だった。
「東京の中学から転校してきた小野です。　よろしくお願いします」
　そのとき思ったのが、東京の人って、なんてお行儀がいいんだろうということだった。ここは大阪だ。早速小野君は大阪の洗礼を受けることになる。
「なあ、なあ、東京弁ってどんなん？　しゃべってみて」
　小野君は嫌がることもなく話してくれた。さわやかな笑顔と順応性で、たちまち人気者になっていた。特に女子からの人気は絶大だった。
　そんな小野君と隣の席になった私は、小野君と友達としてよく話すようになり、彼目当ての女子と一緒に六人でグループ交際をすることになった。
休日、六人で遊園地に行ったり、部活のない日はみんなで一緒に帰ったりした。
　夏休み前のことだった。昼間だけではなく、夜もみんなで会ってみたいねという話になった。
「近所の公園で会おうよ」
「でも、どうやって家を出ていく？」
「星座を見る宿題があるってことにして、夜、待ち合わせしようよ」
　その夜、私は母に星座を見る宿題があるからと言って、家を出た。夜に嘘をついて家を出るのは少し罪悪感があった。
「あの公園は、痴漢が出ることもあるから気をつけてね」
　私は、小走りに公園に向かった。みんなも筆記用具を持って集まっていた。澄んだ空に星が煌めいていて、ジーっという虫の鳴き声が聞こえる。私たちは、ベンチに座り、土に落書きをしながら、クラスの誰と誰が付き合っているなどとたわいのない話をしていた。
「何してるん」
　強い口調の声がした。母だった。
「星の観察なんていうから、信じてたけど、あなたたちこんな夜遅くまでなにしてるん」
「遅くなってごめんなさい。星の観察の宿題があって、ぼくたち、同じ班なので」
　母に謝ってくれたのは小野君だった。母は私の腕を掴んだ。
「とにかく、帰りましょう。親に嘘をついてこんなことをするなんて」
「お母さん、お願いやめて」
　私は恥ずかしさとみんなに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
　母にせかされ、とぼとぼとそれぞれの家に戻った。
　次の日、学校の朝礼の担任の挨拶で私は打ちのめされた。
「星座の宿題があると嘘をついて夜に集まっている人がいるそうです。嘘をつくのはいけないし、危ないので夜に出歩かないように」
　母が学校に電話したのは明らかだった。私は、泣きながら仲間に謝った。
「やっぱり夜はやめればよかったな」
　小野君はポツリと言ったが、女子二人は口をきいてくれなくなった。グループ交際はそこで終わってしまった。私以外の仲間で夏休みに遊びに行っているかもしれない。私は、自分の母親のせいで友達を失ったことで深く心が傷ついていた。
母親のことを恥ずかしく思い、夏休みはほとんど母とは口を聞かなかった。
　辛い夏休みだったが、二学期になると、友達とも元のように話せるようになった。けれども、グループ交際は再開されなかった。そして席替えがあり、小野君と席が離れることになった。
　机の中のものを取り出していると、小野君は大きな巻貝を手に取って、私の耳に当てた。
「夏休みに東京の親戚と、海に行ってきたんだ。波の音がしない？」
　私は、彼が話す東京弁が好きだった。
「うん、ざあって波の音がするね」
「あげる」
　彼は、クロワッサンのような巻貝を私に手渡した。
「ありがとう」
　私は、何度も耳にあてて波の音を聞いた。
　一週間後、小野君は学校に来なかった。
　担任の先生から、お父さんのお仕事の関係で海外に引っ越したということを聞いた。
　　　

　三十年以上たっても、巻貝からは波の音がした。段ボールの中に残っているのは、当時の交換日記だろう。中を見ずに捨てることにした。巻貝は、布に包んで搬送用の箱に入れた。