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chopstick undergroundコミュのone more time

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その男は「たっつん」とか「たつ」などと呼ばれているが、本名は知らない。

世の中には知る必要がないこと、知らない方が良いことも、またある。
わたしはその男のことを「たつさん」と呼んでいる。
たつさんとわたしは十余年の付き合いで、しかも親子ほど年が離れている。
だから路地界隈のみんなが彼をそう呼ぶように、蔑称で呼ぶことは気がねがする。

たつさんは、50を過ぎたシンナー中毒で、シンナー専門の売人だ。今まで職についたことは一度だってない、おれは中学を出てからずっと、シンナーを商売にしてきた。この道40年のいわばプロだ、おれは日本一、いや世界で一番のシンナーの売人だぞ。
たつさんは、ろれつの怪しいほとんど歯のない口からひっきりなしに唾を吐き、わたしに会うたび、そんなことを繰り返し言った。




おい、馬鹿たつ、まだ生きてたか、たっつん、おいおい、朝からシンナーくせえなあ、こっちくんなよ、今どき中学生だってそんなもん買わねえよ、やめてください、うちの子に近づかないで、やだ、汚い、迷惑なんだよ、いい年して、みっともない、その腐れた脳味噌ぶちまけて、はやいとこ死んでくれよ。




わたしがたつさんに出会ったのは地下鉄の駅の構内だった。冬だった。風が強く、冷たい雨がみぞれに変わって横なぐりに吹いていた。
わたしは高校を中退したばかりで、どこへも行くところがなかった。戻る場所もなかった。
わたしの両親はわたしが幼い頃のある夕方に突然出かけたきり、二度と帰って来なかった。四才のわたしは何日か待ちつづけたが、射しこむような痛みをともなう空腹に耐えかねて、アパートの隣人に助けを求めた。
確か真夜中だったと思う。
ドアを叩くようにすると、隣人の大学生風の男が不機嫌な様子でドアを開け、わたしを見ると、首をかしげた。
とてもお腹が空いている、お母さんとお父さんが帰ってこない、というようなことを拙い言葉で隣人の大学生風の男に伝えると、不思議そうにわたしを見下ろしていた男の顔が困惑の色に変わった。
捨てられた、という実感がまるでなかったわたしは男の表情を見てはじめて急激な不安でいっぱいになり、激しく泣いた。いつからだ?わからない。
それから男は部屋にわたしを入れてくれて、インスタントラーメンを作ってくれた。


わたしはみぞれまじりの冷たい風のなかを
さまよい歩き、少ない所持金で地下鉄の入場券を買った。雨と風がしのげる、それだけのことを考えて、改札を抜けて、地下に降りた。
ホームの一番端にあるベンチに腰掛けて、わたしはただ、じっとしていた。
何も考えなかった。考えたくないことばかりだった。
蒸発した両親に代わってわたしを引き取った親戚の家にも、学校にも、その頃のわたしは生活というものにまるで馴染めなかった。朝起きておはようと挨拶をして食卓につく、そんなことですらわたしとって限りない苦痛だった。
やがて終電の時間近くなって、駅の職員たちが掃除をはじめた。相変わらずわたしはベンチにじっと座り、視線を落とし、自分の濡れたスニーカーの先端あたりを所在なく眺めていた。
足先と指先、鼻頭が、冷えて、痺れた。
しかしわたしの頭にはぼんやりとした雲がかかり、それは熱気をおびた眠りのようにわたしにいつまでもつきまとった。
おい、お前、
その時少し高いしゃがれた男の声が、確かにわたしに向けて発せられた。警察だな、とわたしは思い、顔をあげず、わたしの前に立ち尽くしている男の足元をじっと眺めた。
おい、寝てるのか?おい、と声は続いた。男の靴はわたしのと同じように、先端が濡れて黒いしみになっていた。
その時、右頬に何か熱いものが触れて、驚いたわたしは顔をあげた。


男は、笑っていた。缶コーヒーを左手に持って、いたずらっぽく、笑っていた。
笑顔の真ん中で前歯が二本、途中から折れたように欠けて、なかった。

それがたつさんとわたしの出会いだった。






それからわたしは、大検の資格を取り、地方の大学を出て、OA機器の小さなメーカーの事務職員になって、先月、車を買った。
30万円で購入したエアコンの壊れた中古のメルセデスベンツは、まともに使えるのがカーラジオくらいだが、リアにはBOSEのスピーカーがついていて、割りと気にいっている。
車といえば、やっぱりベンツだろ、それしかねえ、とよく言っていたたつさんは、二回、シンナーの売買で逮捕され、三回、更生施設から脱走して、おととしの冬にシンナーの一斗缶をペンキ工場から盗み出そうとしたところを通報を受けて駆けつけた警察官に現行犯で逮捕された。

いいか、シンナーをやる時は、煙草はやるな。これはすぐに火がつくからあぶねえんだ。それと酒はやめろ、シンナーと酒は仲が悪い、一緒にやるとあっという間に肝臓をやっちまうぞ。
そう言ってたつさんは、透明のビニール袋を差し出した。袋の中にはティッシュペーパーに染み込ませたトルエンが入っていた。あの何もかもが憂鬱な冬の夜。あるいは、とわたしは思う。

あるいは、たつさんに出会わなければ、わたしは最終電車に飛び込んでいたかもしれない。







小雨が降っていた。
刑務官二人に付き添われ、たつさんは灰色の建物の格子戸を背をかがめて、くぐって、出てきた。
歩き出したたつさんに、刑務官のひとりが何か声をかけたが、たつさんはそれに答えず、まっすぐわたしの方に歩いて来て、手をあげると、笑った。

寒い日で息が白く、ベンツのフロントガラスはすぐに曇った。
その度にわたしはエアコンをつけたり消したりして、寒い、とたつさんに文句を言われた。
たつさんは以前よりずいぶん痩せて、顔中に引っ掻いたような傷が目立った。
わたしは、エアコンの調子が悪いんです、と笑い、謝った。
なんだカッコばっかりで、まともなのは、ラジオくらいかよ。

今夜は全国的に、雪になるでしょう。ラジオからはMCの声が、BOSEのスピーカーを小さく震わせて心地良く流れてくる。
そういえば、たつさん、昨日、誕生日でしたね。おめでとう。おれ、なんか奢りますよ、飯、行きますか?
おう、
はらへってねえんだ、飯、はいいよ。
たつさんは窓の外に視線を泳がせて、そのまま黙りこんで、目を閉じた。
ラジオから daft punkのone more timeが流れはじめた。
エアコンの壊れた中古のメルセデスベンツは、夕方の渋滞の中をゆっくり進んだ。
フロントガラスで雨はみぞれになって、雪になった。


http://www.youtube.com/watch?v=n6RTF4OPzf8&feature=youtube_gdata_player


「雪だ」

たつさんは目を開けたが、黙っていた。
one more time
音楽はわたしたちの隙間に入り込むように流れて、たつさんの沈黙の上にやわらかく、降って、積もった。
one more time
もう一度、わたしは言う。
「たつさん、ほら、雪になったよ」


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