ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

神奈川【市民と野党と労組】連帯コミュの「戦争、繰り返しちゃいけない」 幼少期の体験原点、撮り続け70年 宮前の写真家・小池汪さんに聞く

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2020年10月15日 07時26分東京新聞神奈川版
https://www.tokyo-np.co.jp/article/61920?rct=kanagawa

 川崎市宮前区在住の写真家小池汪(おう)さん(87)は、戦争の傷痕を長年撮り続けている。その原点には幼少期の戦争体験がある。70年近いカメラマン人生の総決算として、中原区で写真展「戦争暮らし」を開催中の小池さんに、自らの暮らしに関わる戦争の記憶を聞いた。(山本哲正)
 −一九三六年の「二・二六事件」に関わった部隊長が小池さんの父親に宛てて中国から送った手紙の写真を撮っている。
 陸軍青年将校たちがクーデターを起こした二・二六事件。そこに関わった近衛歩兵第一連隊に私の父親がいた。反乱部隊のほとんどは中国東北部に行かされた。父は四二年ごろ、現在の宮前区から高津区にかけてあった演習場で兵士を短期教育した陸軍歩兵第一〇一連隊(通称・東部六二部隊)に配属。私が九歳のとき一緒に世田谷から川崎に引っ越した。
 −川崎で戦争を肌身に感じた。
 毎日、防空ずきんを背負い、兵士用のカバンで通学した。小さなガラス瓶に入った消毒液を入れていた。いつ空襲があるか分からないから。
 私が十歳の時、家にいたら突然ウワーっと低空飛行の音がして、すぐバババババッと続いた。機銃掃射の音だった。私は妹と、防空壕(ごう)ではなく、芋を保存する穴蔵へ。どう逃げたか分からないけど気がついたらその中で震えていた。自宅に近い宮前区宮前平の高台に首都圏の防空のため高射砲陣地があったから、その陣地を狙ったのだと思う。
 戦争中は食べ物もないし、何よりつらいのは寝入りばなの空襲。空襲警報が鳴るとどんな時でも防空壕に入らないといけない。だけど熟睡し始めたころって全身に力が入らない。大人に「オラーッ」って起こされ、私はヨタヨタ歩いた。つらいことがいっぱいあった。繰り返しちゃいけない。
 −米軍基地を含め、現代の「戦争」の現場も追っている。
 四五年に日本は負けたが、軍用地だった所を戦後に訪れると、米軍基地になっている。軍用地は日本軍がつくったが、主(あるじ)が米軍に代わっただけで、変わってないじゃないか。沖縄を見ても分かるが、国際情勢が緊張すると基地周辺は不安だ。北朝鮮がミサイルを開発し飛ばすのも心配なら、もっと北や韓国、中国と真っ正面から向き合って、外交で戦争を避ける環境をつくらないといけない。
 それとね、私の「汪」は、四〇年に南京にかいらい政権・新国民政府を立てることになる汪兆銘から。日本軍の言いなりと見えて、戦時中は「立派な人」。「あの人と同じように立派になれ」と父親が付けた。
 妻は、勇ましく「出征」「征服」の「征」を使った名前を父親に付けてもらった。その父親は三度目の赤紙で中国戦線で死んでしまった。テレビで戦争ものが流れると妻は「やめてくれ」ってパチッと切る。トラウマ(心的外傷)だ。まさに今も続いているんですよ。わが家では、戦争が。
<こいけ・おう> 1933年、東京・世田谷区生まれ。川崎市に転居した後19歳で写真を撮り始める。写真界の巨匠・故土門拳さんに師事し、数々のルポルタージュ作品を発表。日本写真家協会会員。川崎市文化財団評議員。2006年度市文化賞受賞。写真集に「川崎50年」「民家の暮らし」「影向寺(ようごうじ)」など。写真展「戦争暮らし」は30日まで(月曜と20日は休み)、中原区の市平和館で開催。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

神奈川【市民と野党と労組】連帯 更新情報

神奈川【市民と野党と労組】連帯のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。