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戦国時代/戦国武将コミュの秀吉矢傷の後。

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 阿坂城を落とした織田軍は、近辺の北畠小城は歯牙にもかけず、そのまま軍団を進めて町を焼き払い、八月二十八日、北畠具教の立て籠もる大河内城を包囲した。信長に下った進藤山城守、後藤喜三郎、蒲生右兵衛大夫、永田刑部少輔、青地駿河守、山岡美作、玉林などの近江の武将は池田恒興、丹羽五郎左衛門、滝川一益、稲葉伊予守などとともに大河内城の南方に配置された。
 秀吉は三千の兵を率い別動隊となって西へ動いた。霧山城に集まった北畠軍が大河内城に合流しないように食い止めるためである。
 雲出川沿いを西へ進撃した秀吉は、小山二ノ谷の小鳥山頂上にある大多和兵部少輔の山城を落とし、井生の成福寺に火をかけた。さらに白山まで侵攻して、白山神社にも放火する。このため本社三殿、長宮、神楽殿、絵馬殿、拝殿などことごとく焼亡、山内西方の八幡宮、北方の愛宕神社、東南方の八王子末社に至るまで類焼した。秀吉は次なる標的、井ノ口権現山の波瀬蔵人具祐の城に狙いを定めて、大仰から波瀬に入ったが、この辺りから阿坂城攻撃時に大宮大之丞景連に射抜かれた太股の矢傷が疼きだした。
 なにしろ十日ほど前まで、秀吉は兵庫の生野で戦っていた。
 生野銀山を支配する山名祐豊の出城生野城や、祐豊の居城此(この)隅(すみ)城など十八の城を攻め落とし、但馬から急遽帰陣したばかりである。遠征の疲労に加えて、阿坂で受けた矢傷が秀吉を苛(さいな)んだ。馬上で痛みを堪えて、なんとか下(しも)の世古(せこ)の辺りまでは来たが、高熱が出て、だんだん意識が混濁していく。
「兄者、ひどい脂汗じゃ。大丈夫か」
 馬を並べた秀長が心配する。
「心配するな。これしき……」
 虚ろに答えた藤吉郎秀吉は馬の首に額を押しつけると何も言わなくなった。
「孫平次、何処ぞ兄者を休ませるところはないか」
 振り返って滝孫平次(後の中村一氏)に尋ねる。
「あれに手頃な武家屋敷がみえまするが」
「…孫八郎、井ノ口の波瀬城までどのくらいの距離じゃな」
 今度は孫平次の弟孫八郎(後の中村一榮)に聞いた。
「半里程かと…」
「それほどの距離があるならば、あれでよい。あの家に兄者をお連れ申せ」
「承知仕った。安全かどうか、右近ら我が手の者に確かめさせることにいたしましよう」
 滝孫平次配下の騎馬七、八騎が偵察のため川縁の武家屋敷めざして駆けていく。太股の矢傷に馬上で気を失った秀吉は弟秀長の配慮により、川縁の武家屋敷で一時休息することになった。しかし、その瀟洒な武家屋敷こそ、正室松姫の住まう御台屋敷であったのだ。
「御台様、織田の兵らが、屋敷を借りたいとと押し入って来ました。仏間からお出になりませぬように……」
 与志摩は慌ただしく松姫に知らせて、ふたたび織田の兵士の対応に走った。織田の士卒は土足で上がり込み、襖を開け放って各部屋を改める。
 仏間に籠もっていた松姫も、与志摩や侍女たちが拘束されている部屋に引き立てられた。
やがて門口に馬蹄の音がして、勢い良く五、六人の侍大将が上がり込み、次いで二人の武将に肩を支えられて総大将と思われる男が担ぎこまれた。
「北畠に仕える者か、名を名乗られよ」
 弟滝孫八郎が佐々木与志摩に尋ねる。
「只今、主家より勘気を被る身なれば名乗るを差し控えたい」
 与志摩は松姫の身を案じて出任せを言った。すると、その時であった。
「御貴殿、もしかして佐々木殿ではござりませぬか。…近江の…」
「…………」
「滝一政の子…孫平次です。…見覚えござりませぬか…」
 与志摩は邪魔者が入って、余計なことをしてくれるわいと思った。確かに滝孫平次である。甲賀多喜の出身で、滝川一益の父一勝が櫟野城から多喜城に移り多喜村を滝村に改める以前は多喜姓を名乗っていた。孫平次の父一政はかつて与志摩とともに佐々木六角の麾下にあった。松姫が北畠に嫁ぎ、与志摩が女佐の臣として北畠に来たのは天文十二年で、その頃、孫平次はまだ十一、二歳、孫八郎は十歳に満たなかった。多喜家は伴四党(大原、上野、伴、多喜)の一つで、甲賀多喜に四つの山城(多喜北城、多喜南城、梅垣城、青木城)を有していた。与志摩と一政はともに佐々木の庶流にあたり、その頃は、互いの屋敷を訪れ会って親密に交際していた。しかし、永禄二年(一五五九)一政四十五歳、孫平次二十七歳、孫八郎二十一歳の時、同族、多喜久助(滝川一益)の勧めもあって一家三百貫(三千石)の高祿をもって信長に仕官した。滝川一益の叔父恒利(一勝の弟)は尾張池田秀政の養子で、妻養徳院が信長の乳母、長男恒興は信長の乳兄弟である。
 この頃より信長は近江侵攻の布石として甲賀武士の調略に乗り出していた。孫平次は信長の小姓組に入ったが、墨俣に出兵する永禄八年に、孫八郎、右近らの弟とともに秀吉の与力に配属された。
 与志摩も風説でそのようなことは耳にしていたが、まさかこの御台屋敷で孫平次に会おうなどとは思ってもいなかった。
 孫平次、孫八郎、右近らの兄弟は伊勢侵攻に臨み、父親から与志摩が松姫について伊勢北畠に来ていることを知らされていた。与志摩は何も答えなかった。孫平次の目が一瞬険しく光る。
 担ぎ込まれた藤吉郎は半日、御台屋敷で横になっていたが、夜になると熱も下がり、腫れも引いて元気を取り戻した。
 だが、半日の遅れを取ってしまったため、波瀬城や霧山城の北畠家中を塞き止めて大河内城に合流せぬよう釘付けにすると言う初期の目的は達せられなかった。
 波瀬御所と称された北畠一族波瀬蔵人具祐は侍三百、足軽二百、合わせて五百の大将であったが、秀吉が御台御所で介護されている頃には、既に大河内入城を果たしていた。前夜の内に、与力矢川下野守、阿曽弾正、出丸四郎太夫、奥山常陸介らと井ノ口を脱出していたのである。
 ぐっすりと休んだせいか、痛みも取れて気分の良くなった秀吉が下知する。
「半日も遅れを取るとは情けなや。殿にお叱りを受けるに違いない。大河内城に向けてただちに出立じゃ」
 立ち上がったところへ滝孫平次が進駐に及ぶ。
「御大将、この屋敷内に北畠の奥方が匿われているのをご存じか」
 それから厳しい詮議が始まり、とうとう侍女のお倉が、お松の方の御台屋敷であることを白状した。
 その日から松姫は佐々木与志摩ともども木下秀吉の捕虜になった。秀吉は、治療のため立ち寄った館(やかた)で、敵軍の奥方を捕縛するという思わぬ戦果を得る。
「北畠正室と女佐の臣を人質として大河内城まで連れていく。孫八郎、そちに預けるゆえ、確と見張れ。大事な人質じゃ」
「承知仕った」
「先に参る。遅れるでないぞ」
 秀吉は先駆けして見えなくなった。
 「馬上の姫君」風一 http://nnr2.netnovel.org/rank17/html/

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