ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

みちしるべ〈仮〉コミュの『坐禅から「くう」への行き方♪』

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
阿部敏郎さんのコミュに立てたトピ『ノーリターン・ポイント』に、“解ってる(だろう)人”なコメントをくださって、マイミクになっていただいた へー(heiress)さんの日記の転載。


『坐禅から「くう」への行き方♪』
2012/08/11 11:39

昔を思い出していたら、ある事に気づいたので書きます。
私が坐禅等と言う地味な物をやり始めたきっかけは、当時通っていたシナリオ塾の先生の影響でした。

私達は脚本を書く為の講義を受けていたのですが、ある時先生が
「結局、人は感動を求めているのだから、感動を書ければいいんだ」
と言い出し、私達塾生は、それ以降「感動とは何か?」がテーマになりました。
私達は感動の正体を「心の中にある琴線」と仮説をたて、それを探し始めました。
講義は、書くテクニックではなく、哲学へと変わったのです。
シナリオ塾は1泊2日の合宿形式で行っていました。
夜はほぼ徹夜レベルで、色々語り合っていました。

ある夜、先生が「明日の朝、坐禅に行く」と言い出しました。
10人程度の塾生の中から、仕方なく先生に付き合う5人位が誕生しました。
真夜中過ぎまで語り合った後、誰かの目覚ましで、強制的に起こされ、もう本当に嫌々、お寺に行きました。

行く時は本当に嫌でしたが、まあ終わってみれば、清々しいし、何よりなんだか高尚な事している自分にも満足してました。
けれど、行く時はやっぱり嫌々でした。自ら望んで坐禅をしていた訳ではなかったのです。


私が今日、思い出したのは、この部分です。
「望んでした訳ではなかった」
これが、坐禅から瞑想状態に進めたヒントであるとわかったのです。
坐禅等の瞑想方法を用いて、瞑想状態を作るには、目的があってはならないという事です。

私は当時「悟る為」に坐禅に行ったのではないのです。仕方なく嫌々というのは、ただやっつけ仕事であったのです。
そこに目的など一切ありません。
行きたくないから始まって、早く終わればいい、そんなスタンスだったのです。
そこに何かがあるなんて、期待の一つもありませんでした。
ただ、折角やっと起きてここまで来たのだから、真面目に坐禅しよう、とは思っていました。終わったら、美味しい朝御飯が食べれるしっ♪そんな気持ちでした。

精神世界を学ぶと、坐禅や瞑想にある期待と目的を持ってやる事になると思います。


〜コメント1に続く〜

コメント(1)


それが例えば「悟りたい」ではないにしても、何かを持ってやっている筈なのです。

何かがなければ「やらない」からです。

私達は目的がないと「できない」のです。

目的がなく「やる」可能性は「やらされる」事なのです。

例えば、私達は仕事を「仕方なくやって」いたりします。

勉強を「やらされて」たりしています。

しかし、仕事も勉強も、目的が生まれると、好きでやりたくなります。

禅の修行には、長い長い坐禅の時間を作ります。

修行する位ですから、坐禅には当然目的を持っています。

その目的を消し去る為に「もうやりたくない程」の強制的な坐禅の時間を作るわけです。

坐禅が嫌で嫌で仕方が無い、そんな中で、人は目的を忘れる事が出来るのでしょう。

私は偶然にも、無知識のおかげで「嫌々坐禅をした」訳ですが、知識ある皆様にとっては、目的を排除する方法がとても難しいと思います。


でも、提案します。

「嫌々する事」です。

「仕方なくする事」です。


今日、思い出して気づいた事がこんな提案である事を申し訳なく思います。

行き詰っている誰かのヒントになれば と思います♪LOVEYOU♪

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

みちしるべ〈仮〉 更新情報

みちしるべ〈仮〉のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング