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RPG研究会コミュのRPGにおけるロールプレイング

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このトピックでは、RPGにおける「ロールプレイング」(役割演技)要素の在り様を考えてみます(あるのかないのか、重要なのか否か、も含めて)。「ロールプレイング」については、「なりきり」「感情移入」「自己投影」「シミュレーション」などといった様々な概念への転化・言い換えが可能だと思います。それらのキータームについての自分なりの解釈を述べていただいてもかまいませんし、他の概念を立てていただいてもかまいません。

■注意事項
ややこしいタイトルなので(内容もややこしいです)、最初に言葉の整理をしておきます。概念の混乱を避けるために、一読していただけるとありがたいです。

このコミュニティおよびこのトピックで使う「RPG」という用語は、いろんなところに書いているように、『ドラゴンクエスト』(FC,1986)以降日本の主にコンシューマ(家庭用ゲーム機)ゲーム上で展開したコンピュータゲームの一ジャンルを指します。『DQ』『FF』などを模範とする形式を持つ、いわゆる「ロープレ」です。「CRPG」とも呼ばれます。その特徴については本コミュニティの「RPGの定義」トピックかウィキペディア「コンピュータRPG」の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BFRPG)をご参照ください。以下とくに断りのない場合は、「RPG」という語は上記内容を指します。

一方、このRPGの名前の由来となった「本来のRole-playing game」(役割演技ゲーム)は別種のゲームです。これはテーブルトークRPG(TRPG)とも呼ばれるテーブルゲームの一種で、「プレイヤーが一堂に集まり、ゲームマスター(審判役)が提示するルール・状況・シナリオ・課題に従い、ゲーム世界内での自分の代理人であるキャラクターにどんなことをさせるかを申告しながら、他のプレイヤーと共に課題達成へ向けてゲームを進める」というゲームです(詳しくは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0)。この種のゲームについては、以下「本家RPG」「TRPG」などと表すことにします。

コメント(31)

RPGはよっぽどのことがない限り、難易度は高くないと思われます。これは、RPGが操作者のテクニックと言うよりは、物語を体験してもらうということを主にしていると考えられます。なので、「なりきり」や「感情移入」に近いものがあると思われます。ただ、主人公の名前を自分の名前などに変えてる場合には自己投影などにもあてはまると考えてもおかしくはないんじゃないかと思います。
全クリをした後にその世界をくまなく回るということを考えると、自己満足の領域かとも思いますが。。。

ってこんな感じでイイのかな??いまいち理解できてない感じもしますが。
大した障害もない(難易度が低い)にも関わらず、なぜRPGが楽しめるのか、というのは注目すべきところで、まさにご指摘のとおりなのです。なのですが、このトピではその「ゲームの体験」の仕方、その実態に踏み込んで話をしてみようということです。つまり「なりきり」とか「感情移入」の内容の話です。それらは一体どういうことで、ゲーム内容のどの部分がそれらを生じさせているのかという。

ちなみに「そんなの人それぞれじゃん」という見方もあると思います。これはある程度の本質を突いていますが、RPGがある程度一定の体験方法(遊び方)を想定して設計されていて(意識的・無意識的にかかわらず)、さらにそれが支持されている、ということを無視した言い方です。それを言ってしまえば「ジャンル」というものは解体するわけですから。マリオで「なりきり」ができるのか?ということです。

ちょっと僕も整理できていないのですが、なんか書いてみます。
その不思議を考えてみようと思っています。

「主人公=自分自身」(まろにぃーさんもキャラ成長トピで「自分の性格を反映できる」と表現されていましたが)というのは、キャラクタあるいはゲームへの「自己投影」というような言葉でまとめてみたいですが、果たしてこの「自己投影」という楽しみ方が、本来的な「役割演技(なりきり)」あるいは「感情移入」(この内容についても吟味していきます)という楽しみ方の延長線上にあるのかどうかということについても考えたいと思います。

個人的には、えみさんのおっしゃる通りRPGというのは本来は「自己投影」ゲームではなかったのではないかと思っていますが、もしかしたらある時点(それもけっこう早い時点)で「役割演技」ゲームから「自己投影」ゲームへの転換(誤解によるものかどうかはわかりません)が図られたのかもしれないとも思っています。

RPGをどういうふうに遊ぶかは、本家RPGでも議論になっているらしく、Ron Edwardsという人は「GNSセオリー」というのを考え出して、本家RPGの楽しみ方を「ゲーム主義」「物語主義」「シミュレーション主義」の三つに分類しているみたいです。これの評価についてはまたあとで詳しく書くつもりですが、興味のある方はこちらをご参照ください(英語です。需要があれば訳します。http://en.wikipedia.org/wiki/GNS_Theory)。これはわりとコンピュータRPGにも適用できる分類なんじゃなかろうかと思っています。
所謂「洋ゲー」についてちょっと。

日本産のコンピュータRPGと諸外国のそれとは、根を同じくするもののそれぞれに異なる進化を遂げており、今日では明らかに異質なものとして成っています。
そうなった原因は、視点の違いにあると考えます。

国産RPGは、謳い文句としてしばしば「映画的」という形容が使われることからも解りますが、キャラクタとプレイヤーが分離した、「客観視点」である場合が多いようです。
キャラクタは大概デフォルトで、名前すらプレイヤーに決定権がなかったりします。
長ぁいムービーが終わるまでの間、コントローラに触らずに画面を眺めてるだけなんてゲームを体験された方も多いと思います。

それに対して、外国産RPGはキャラクタをプレイヤーと同一視する「主観視点」のゲームが主流です。
ストーリー性はあまり高くなく、キャラクタの成長やアクション性などに重心が置かれます。
とはいえ、最近はスタンドアローンのRPGはほとんど見かけませんね。かといってMMOが盛り上がってるかといえばそうでもないみたいですし、RPGというジャンル自体廃れつつあるのかもしれません。
ポストRPGってFPSとかRTSなんですかね?

さて。上記をふまえて、
国産RPG=客観視点「感情移入型」
外国RPG=主観視点「なりきり型」
と分類できると思います。

勿論例外はたくさんあって、国産のなりきり型も当然存在するのですが、数はそんなに多くないですよね。

感情移入型が圧倒的に支持される国民性というか土壌というか、そのへんも考察すると面白いかもです。
たいへん参考になります。日本とアメリカでは、確かに遊び方というかゲームの捉え方自体がある程度ちがうんでしょうね。このコミュでは主に日本のものを対象にしようとしていますが、洋物の在り様を照射すれば見えてくるものも多いと思います。

なんかこの問題はなかなか整理できなくて、まとまった文章が書けないのですが、ポストRPGのところだけちょっと。

仮にRPGジャンルが廃れるとして、その解消の方向は一つではないと思いますよ。もちろんRPG的要素のある部分はFPSやRTS等に解消されるかもしれませんが、他のある部分はたとえば『ぼくのなつやすみ』だとかそっち系に解消されるかもしれません。ストーリーテリングの要素もありますし、RPGのある側面を引き継いだ新たなジャンルが生まれてくるかもしれません。RPGプレイヤーの向かう先もいろいろなんじゃないでしょうか。
僕自身は感情移入と役割演技(なりきり)の区別はある程度はっきりついているのですが、その区別が程度の差によるのか質の差によるのかについて答えを出すのはとても難しいです。またその差の実感が人と共有できるのかどうかについても自信がないです。
オノさんが言われているように、役割演技と感情移入の相違が主観的と客観的の相違に対応する、と言うことができれば話は簡単なのですが、そのあたりまだ整理できていないのです。とりあえず僕がこれらの言葉を使うときに想定している意味内容(概念)のニュアンスを具体例を出して示しておきます。ちなみに制作側は関係ありません。全て受け手(プレイヤー)側の話です。

1. ままごとは「役割演技的」遊びであり、リカちゃん人形で遊ぶのは「感情移入的」遊びである。
2. 車掌の口真似は「役割演技的」であり、鉄道セットで列車を動かすのは「感情移入的」である。
3. 四人パーティの全員に対して感情移入はできるが、四人全員の役割演技はできない。
4. ある選択肢があったとして、役割演技プレイヤーは「キャラクタとして」選択し、感情移入プレイヤーはキャラクタの選択を「追認」する。自己投影プレイヤーはキャラクタを介さずに選択する。
5. キャラクタの体験とプレイヤーの体験との関係についてもほぼ4に準じる。

これらは暫定的な説明で、自分でも半信半疑です。ダメ出しはどんどんしてください。
基本的には「〜になったつもりで・・・する」というのが「役割演技的」であり、「〜に・・・させる」というのが「感情移入的」であるという区別になるのかなあと思いますが、両者の本質的な違いは何かと聞かれると困ります。そもそも対立する概念ではないんじゃないかとも思います。キャラクタの動作に対する決定権の在りかとその決定の仕方、キャラクタの反応(感情表現)の有無とそれに対するプレイヤーの反応の仕方、などに着目して概念を整理しようとしていますが、なかなかうまくいかないです。今のところ考え中、としか言えないです(なんとなく形になりつつはあるのですが)。
ちょっとごちゃごちゃですが、頭の中がそんな状態なのです。
3の例はそのとおりですが、あんまり自信ないところです。

他のトピで映画化あるいはアニメ化できるかどうかが一つの鍵だと言われていたと思うのですが、映画やアニメに対しても「感情移入」はできると思っています(というか映画やアニメと同様にゲームにも現れる作品と受容者(プレイヤー)のある種の関係性を僕は「感情移入」と呼んでいます。このへん言葉の使い方(定義)で食い違いが起きているかもしれません)。
一方映画の登場人物に対して役割演技はできません。これは映画・アニメにおいては登場人物(キャラクタ)の行動に対する決定権が観客に全くないからです。この決定権については、ゲームの「インタラクティブ性」とかいう言葉でよく語られますが、ゲームというメディアの一つの特性であることはたしかです。要するに「観客」ではなく「プレイヤー」になれる、そこに参加できるという特徴です。

まとめると、「感情移入」は映画・アニメ・ゲームにおいて発生し得ます。それはキャラクタと受容者のある種の関係性、たとえば感情の同一化だったり、わかりやすく言うとキャラクタへの「いれこみ」です。このへん整理できてません。

「役割演技」はキャラクタの行動をある程度決定できること(インタラクティブ性)を利用した遊びです。ただこの決定の仕方にも種類があります。「〜ならこうするだろうから・・・する」(上でmoriyaさんが言われているようなことに近いです)とか「〜はこういうやつだから・・・という行動をしなければならない」(本家RPG的)というような「演技」の側面を持っているものを「役割演技」と呼んでいます。

「自己投影」と呼んだのはそれとは決定の仕方が違うもので、演技の側面(言ってみればキャラクタの性格)がなく、プレイヤー自身の性格をキャラクタに投影しようとするものです。

感情移入はキャラクタの受容の在り方の話であり、役割演技と自己投影はキャラクタに対する制御の在り方の話です。そういう意味で僕は、感情移入と役割演技は「区別はできるが対立するものではない」という表現をしたわけです。概念的な次元がちがうということです(実際は密接に関わってはいますが)。
以上は僕のとりあえずの言葉の使い方です(まだまだ考えますが)。
他の方はまた違う言葉の使われ方をしているかもしれません。

>>またその差の実感が人と共有できるのかどうか
>この辺の難しさですが、難しいというより不可能な部分だと思います

ここにつっこむと哲学的な話(それも不毛な方向)になってしまうのであまり言いませんが、「不可能」と言ってしまうと僕らが言葉を交わす意味、言い換えればものを考える意味がなくなってしまうのではないかと思っています。そこらへんは「共感は可能」だと信じたいものです。


>moriyaさん
ちょっとしばらくこの調子ですみません。
簡単に話すまでに整理がいるのです。
もちろん書き込みはどんどんしてください。
こちらこそごちゃごちゃで申し訳ないです。
簡単に言ってしまいたいのですが、なかなかうまくいきません。
感情移入の逆がなりきりみたいな感じになってる気が・・・
感情移入の度合が増せば増す程、なりきりになっていくんじゃないでしょうか。

なりきり度合で言えば、最もし易いのはTRPGやMMOですかね。
ある世界で決められたルールの中で、自由にキャラを設定でき、自由に行動できます。

逆になりきる事が難しいのは、テイルズやFFの様に
キャラの風貌、個性がすでに決まっていて
会話も行動も(イベント時)、こちらの意思は関係無く勝手に進んでしまいます。

ロールプレイという点に関して言えば、後者の方は本来の物より少し違った物になっているのでしょう。
だからと言って、後者のゲームが前者より劣っているという事にもなりません。

ジャンルと言う物を一括りにして論じると、それにそぐわない物は、ダメだ
という論調に成りかねないので難しいですね。
ども!こんにちわ!

難しすぎてよく分からんけど読ませてもらってます!
で、オレが思ったのはですね、

ベクトルで言うと

==================
       感情移入

        ↑

自己投影  ←   →  なりきり
==================

とりあえず、自己投影となりきりは完全に反発する要素だと
思いました。
感情移入はいくらなりきろうが、自己投影しようがそれに
関係なくするものだと思いました。
例えばMMORPGでも自己投影して遊ぶのだけれど、それとは別で
そのキャラを使っているごとに好きになっていくというか
感情移入が起こると思うんです、長く使えば使うほど。
普通のRPGでも主人公のキャラが完璧に決まっていたとすると、それは自己投影でなく、なりきりになるのですが、それでもなりきっているキャラに対して感情移入が起こると思います。
感情移入自体はRPGに限らず、成長するタイプのゲームでは特に起こりやすい事なんじゃないでしょうか。
またまた例えばですが、
マリオ。
マリオ事態は自己投影ではないし、なりきりってほどなりきりでもなく、「見えているオッサンを操る」って感じだと思いますが、そこでヨッシーに乗って長らくノーダメージで同じヨッシーに乗っていると、死なせまいと思うようになるはず(オレはなったことありませんが)でこれが感情移入なんじゃないでしょうか。
わかりにくーてすません。
>ましらさん
とてもわかりやすいです。
シンプルに本質的なことを指摘されていて、びびっとくるものが多々ありました。

感情移入とかなりきりの定義はとりあえず置いておいて、おっしゃられていることにとても共感できます。これらは、ベクトルというよりは、それこそ図で表現されている感じのxyの二軸的(二次元的)に処理するものかなあと思います(そのことをくどくど書いたのが11あたりです)。

キャラクタの成長が感情移入に結びつくというのは面白い推論ですね。
これからそういう視点でも見ていこうかなと思います。

感情移入と言えばリップスですが、なんだか気が進まないのでとくに勉強していませんです。もちろん先人の考えを持ってくる必要もないのですが、共通の土台を作るためには、そういう先人の残したものは便利なので、そのうち気が向けば勉強するつもりでいます。
なんつーか
「自己投影」はキャラ立ちしていないキャラになりきるというか
自分がそのゲームの1キャラとして参加するって感じで。

「なりきり」は1つのキャラクターがいてそいつに乗り移るって感じだと思います!

最近だとテイルズウィーバーっていうMMORPGは「なりきり」型でFF11は「自己投影」型じゃないでしょうか?
MMOはどちらも存在するのでは無いでしょうか。

自分でキャラを設定してそのキャラになり切る人。
自分の素のキャラで地を行く人。

僕の場合
Wizみたいなキャラに個性が無いゲームは
自分で妄想したキャラを作って冒険させている感じですが

FFやテイルズみたいなキャラに個性ありきなゲームは
客観的に物語を見ている感じです。


ましらららさんの言うベクトルが結構しっくり来ます。

TRPGはなりきり?自己投影?どっちでしょうか。
ゲームに寄る物でしょうか。人に寄る物でしょうか。
まじっすかー!見逃してました!申し訳なし・・・。
でもMMOを除外したとしても
FFとDQをあげれば
FFがなりきり
DQが自己投影という形になるのではないでしょうか?

FFはストーリーの中で主人公がガンガン話しに参加していき
勝手にキャラクターが動いて生きています。
そこにプレイヤーはそのキャラクターに乗り移るというか、
そのキャラクターに「なりきって」プレイしていくと思うんです。

DQは最近はわかんないですけど、主人公は喋らないですし、
全ての話が受動的に進みますんで、主人公のキャラクターは
プレイヤーなりの考えというか完全ではありませんが
プレイヤーの分身として働くので自己投影かな、と。
SFCのDQ3の最初、性格診断で勇者の性格が決まるところなんて、更に分身としての意識をもっていかせるためって感じじゃないですかね。

っと、文が多くなると人の文も自分の文もワケわかんなくなるんでこの辺で!
初めての書き込みになります。
コンピュータRPGを考えるコミュニティとのことですが、少し本来のRPGについて。


RPGは、もともとボードゲームの一種である
「ウォー・シミュレーション・ゲーム」から派生したという説があります。

自分はあまりやったことが無いのですが、
これらはファイアーエムブレムやスパロボ等に代表される
「タクティカル・シミュレーション・ゲーム」のボードゲーム版だと思っていただければ結構です。
広義では、将棋やチェスなんかもそうですよね。

このウォー・シミュレーションというゲームに、キャラクター性やらストーリーやらを
くっつけたのが 今のコンピュータRPGの原型となる本来のRPGなのです。


で、ここまでが前提です。(長いよ)

よく巷では「ロールプレイング」のことを「役割演技」だとか「なりきり」といった
説明をされますが、本来の言葉の意味としては間違っているのではないかと思います。

ロールプレイングの動詞形、すなわち "play a role"を調べると
「役柄を演じる」よりも先に「役割(役目)を果たす」という意味が出てきます。

つまり本来ロールプレイングゲームとは
「役になりきるゲーム」ではなく「役目を果たすゲーム」だとは考えられないでしょうか?


ここで、先のウォー・シミュレーションの話に戻ります。

ウォー・シミュレーションで、各コマに求められるのは
キャラクターの性格でも、口調でも、過去の経験でもありません。
そのコマがどういう能力を持つか、です。

例えば、戦士なら剣や槍を持って前衛に立ちます。
弓兵なら城壁の上に陣取り、看護兵なら救護室で負傷者の手当てをするでしょう。
このように、各ユニットの能力を見極め、役割ごとに適切な場所へ配置するはずです。

同じコトがRPGにも言えるのではないでしょうか。
戦士なら戦士として、魔法使いなら魔法使いとして役目を果たす、
それが本来のロールプレイングの意味だと考えます。

# いや、別に間違ってるから直せという意味ではないですよ?
# 要は方言のようなものだと思うので。
ゲームジャンルが必ずしも内容を適切に表しているかどうかには疑問が残るところであり、
いわゆるゲームジャンルである「RPG」と「Role Playing」は(起源的にはともかく)もやは関係がない。



…というのはこのスレ的にはダメなんですかね。
無関係なものを関係付けようとするからややこしいことになっているだけだと私は思っています。
R.F.D.さん、はじめまして。
重要な点をご指摘いただいたと思います。

いわゆるウォーゲームがロールプレイングゲームのルーツだという話はいろんな問題を含んでいる気がしますが、とりあえずゲイリー・ガイギャックスが『D&D』を作る前に『Chainmail』という中世を舞台にしたウォーゲームを作っていたのは確かなようです。重要なのは、ウォーゲーム(あるいは現在のコンピュータものも含めた多くの戦略戦術系ゲーム)のユニット(被操作体)が一般的に軍隊などの集団であるのに対し、ガイギャックスの『Chainmail』においてはユニットが個人であったという点です。おそらくそこで見出された個人を操作して楽しむゲームの在り様は、最初のロールプレイングゲームと言われる『D&D』への発展につながったはずです。逆に言えば、ロールプレイングゲームをウォーゲームと区別せしめているものは、まさにその被操作体の個人性、換言すれば「キャラクタ性」への傾向の有無ではないかということです。そこにはキャラクタ性を生かすべき舞台装置としての「世界」あるいは「物語」がおのずから付随します。そのあたりはご指摘の通りです。

「play a role」のplayをどのように捉えるかは僕も悩んでいるところです。役割を「遊ぶ」か「演じる」か「ふるまう」か。とりあえず一般的な訳をあてて「役割演技」という言葉を使ってみましたが、たしかに「演技」というのはちょっとおかしいですね。少なくとも俳優のやるいわゆる「演技」とは決定的に質がちがいますから。ただこの「play」を何と考えるかは、それほど本質的な話ではない気がします。ロールプレイングゲームが、基本的には何かしらの設定(ルール、制限、縛り)のもとでプレイヤーが一個のキャラクタの役割を担い、そのまさに「義務的縛り」のもとでの振る舞いに快感を見出す遊びだとすれば、その義務性に焦点を当てるのが「役割を果たす」という言い方であり、その義務ないし模倣によって導かれる快に焦点を当てるのが「役になりきる」という言い方であると考えられるのではないか、つまり観点・立地点がちがうだけではないかということです。そういう意味では、「方言のようなもの」というご指摘は的を得ていると思います。

もちろんあるルールに則った遊び方(楽しみ方)は人それぞれですが、図式化すれば、ウォーゲーム系のゲーム性が戦略・戦術性、演繹性、戦闘状況のシミュレーション性に重点を置くのに対し、ロールプレイングゲームのゲーム性は個人・キャラクタ性、物語性、キャラクタのシミュレーション性に重点があると言うことができます(かなり乱暴ですが)。そういう点では、ウォーゲームにおける「役目を果たす」と、ロールプレイングゲームにおける「役目を果たす」との間には少なからず質的な差があります。それは楽しみ方の差です。「魔法使いとしての役目」と言った場合に、ウォーゲームでは戦略上の「駒」としての役目ですが、ロールプレイングゲームでは、戦略上にしろ物語上にしろ、その状況の中でどのように選択し、どのように生きるかという「個性=キャラクタ」としての役目です。それを記述するのにどういう言葉を使うかは人それぞれの語感の問題ですが、僕自身はそういうロールプレイングゲームの楽しみを「なりきる楽しみ」と表現すること自体にはそれほど抵抗がないです。
Dr.Kさん。

ジャンル名ってのは基本的にはただのラベルですから、内容を指示するものでないことは往々にしてありますね(「ニューミュージック」とか)。
んでもちろんコンピュータRPGもその類です。
なのでスタート地点としては、おっしゃるとおり、「Role-playing」という語と「コンピュータRPGのジャンル」は無関係だ、とぶった切ったほうがスマートだと思います。

ただ実際のところ、歴史的なつながりというのはそれほど軽視できるものではないんじゃないかと思っています。システムのひとつひとつにしたってそうですが、案外「ロールプレイングゲーム」の亡霊(というと過去のものみたいですが)がいろんなところに顔を出します。それが構造上のものだけなら無視もできるのですが、構造にひっぱられた遊びの形も引き継いでる側面が少なからずある(と思う)ので、関係を断ち切るのはなかなか難しいです。

ただしその関係を強調しすぎるのも問題です。「ロールプレイング」という言葉を使うとどうしても議論がそういう過去との関係にひっぱられがちになるのかもしれません。僕自身は「RPG」「ロールプレイングゲーム」「Role-playing」などを使い分けることで、半分ごまかしながらこのしがらみを避けようとしているのですが、あんまりよくないですね。トピタイトルからして、トピ運用の戦略的には失敗してるかもしれないです。
「play a role」の訳について、ちょっと補足を。

例えば、「ボケ」キャラには「ツッコミ」がいます。
「熱血漢の若者」の傍らには「クールなライバル」や「渋い玄人」がいることでしょう。
「おてんばな姫君」には「世話役」とかもベタかもしれません。

こういう立ち位置も、一種の「役目」と言えるのではないでしょうか。
D&Dは指輪物語の指輪物語らしいところを抽出したゲームを作ろうということで生まれたゲームです。で、似たようなルールのTRPGがいくつか生まれて、キャラクターや成長といったRPG特有であったルールを、1人で遊べるコンピュータゲームにしたのがコンピュータRPGのはしりです。コンピュータ移植の際に、そのRPGという言葉を特に意味を考えずに流用してしまったのではないでしょうか。

私は「Role Play」の意味合いはコンピュータゲームになった時点で失われたと思っており、その理由を以下のように考えています。

「ロールプレイする」という風に表現をしたりしますが、その主体は何なのか。
それは「I(私)」であり、RPGの本来の意味どおりに考えれば「I play a role.」でしょう。
役割役割と議論されていますが、役割を果たしたり演じたりするのは、
すなわち舞台に立っていなければならないのは、他ならぬプレイヤー「I」であるはずなのです。
コンピュータRPGでは、確かにプレイヤーの操作を反映するべきキャラクターがいますが、プレイヤーそのものが舞台に立っているわけではありません。

もう1つ考えていることは、「役割」というのは自分ひとりしかいないところには生じない、2人以上の人間がいて他者とのインタラクションがあるからRoleが生じる、ということです。CRPGが1人用のゲームになった時点で、Roleは必要なくなってしまったのではないでしょうか。CRPGにおけるコンピュータは、ゲーム世界内のルールを司る存在であり、物理法則に相当するゲーム世界内の法則を、因果関係に従い表示しているに過ぎないので、自分とコンピュータプレイヤーとの間に役割が生じる、とは言えないでしょう。
>R.F.D.さん

「role」は、おっしゃられるように、いろんな側面から捉えられるものだと思います。参加者としての役割、物語上の役割、パーティ内の役割、戦略上の役割、システム上の役割、キャラクタそのものとしての役割など。
「物語上の役割」と言ってもさらに細分化が可能で、たとえば例に出されている「姫―じいや」「熱血主人公―クールライバル」系の役割は、一つにはそのキャラクタ(性格)の対比によって局所的な物語運び(イベント運び)をしやすくするためと考えられますが(同じようなキャラクタばっかりだといかに単調な場面しか生まれないかを考えるとわかります)、一方で「さらわれた姫:冒険の動機」「王様:冒険の方向づけをするもの」「魔王とそれを頂点とする敵のヒエラルキー:克服対象」などは物語全体を構成する役割を担います。後者についてはある程度典型化していると定義トピでともいちさんが指摘されていますが、その通りだと思います。「キャラクタそのものとしての役割」というのは、たとえばたいていの作品に登場する「かわいい女の子」(いわゆるヒロインあるいは紅一点)といった類のものです。

あるゲームにおける被操作体の役割がどのような側面を持つかは、そのゲームのゲーム性によっています。たとえば純粋な戦略ゲーム(というとなんか語弊がある気がしますが)の場合は、あるユニットなりキャラクタなりの役割は「戦略上の役割」にほぼ限定されると思います。「桂馬」に「ななめとひとつ前に動く駒、成ったら金」以上の役割を見出すことは困難であり不自然です(もちろん桂馬に愛着を持つ人が駒に台詞を言わせたりして遊ぶかもしれませんが、それは「将棋」ではありません)。戦争ものの映画なり何なりで、冷徹な指揮官が「兵士は駒だ」とかのたまったりする定型シーンがありますが、これはその指揮官が、様々な役割(たとえば兵士としての、市民としての、夫としての、父としての、息子としての)を複合的に持つべき人間のうち、戦略的役割の側面のみを見ていることの表現なわけです。

対してRPG(広義)の被操作体(キャラクタ)はふつう複合的な役割を担います。「魔法使いの役割」と言った場合に、ファンタジー的な世界観を体現するという役割、戦闘において「飛び道具」を使えるという役割、物語においてたとえば「古文書を読める」とかいう役割、その他設定具合(妄想も含めて)によってはいくらでも加わります。RPGでは、これら様々な側面の役割を背負って、ひとつの「キャラクタ=人格」とそれに付随する世界と物語が立ち上がります。逆に言えば、そうやって一個のキャラクタを立ち上げることがRPGのゲーム性、面白さの一つではないかと思います。

「Role-playing game」は、プレイヤーがそのような複合的でいて人格的には統一された「role」を背負ったキャラクタを「play」するものと考えるのはどうでしょうか。この場合の「play」は「ふるまう(ふりをする)」でも「演じる」でも「なりきる」でも「一体化する」でもなんでもいい気がします。それは人それぞれの遊び方、「playing」の在り様によるものじゃないかと思います。

そういう意味では、ままごとも「桂馬に台詞を言わせる遊び」も広義の「Role-playing game」ですが、そのような遊び方に意識的に焦点をあてた、あるいはそのような遊び方に特化したゲームジャンルを、ジャンルとしての「ロールプレイングゲーム(本来の)」と言うことは可能です、なのかなあ…。自信ないです。


短くするつもりがちょと長くなって定義トピ寄りの話になりましたが、流れでここに載せておきますです。
>Dr.Kさん

たしかにRPGをコンピュータゲームにしようとした人の思考には興味深いものがありますね。ゲームマスターの役割をコンピュータにやらせてしまえ的な発想だったのかもしれませんが、一人プレイものになった段階で、本来のRPGとの間の埋めがたい溝を認識せざるを得なかったはずで、それでもなお「RPG」と銘打つ根性が不思議です。深く考えていなかったのか、RPGをコンピュータで再現できたという自負があったのか。いろんな事情があったのかもしれませんが。
TRPG→CRPGの過程でそぎ落とされたものは何か(あるいは付け加えられたものは何か)について考えることは、CRPGの性質を考える上で有用なものになりそうです。


重要な点を二つご指摘いただいたと思います。
まず一点目について。
CRPGでもTRPGでもプレイ主体はもちろん生身の人間「I」だが、前者がモニタからメッセージを得てコントローラーのみでキャラクタを"操作"するのに対し、後者はプレイヤー同士が面と向かってメッセージを発しあい、それから実際の動作、言動をもってキャラクタを"ふるまう"。言い換えれば、CRPGでは舞台であるモニタに映る世界にプレイヤーが踏み込むことはできないが、TRPGでは舞台は現実世界であって、プレイヤーはそこに立っている。そこに違いがある、というご指摘かと思います。

違いがあることについては同意ですが、「role-playing」の点ではそれほど大きな違いではない気がします。実際の「舞台」に立つことがロールプレイの条件だとすれば、TRPGよりもその条件を満たすのはLARP(live action role-playing)の類ですし、たとえばバーチャル技術が進歩して神経回路に直接信号を送れるようになれば、そちらのほうがよりその条件に適する、と考えることもできます。つまりこの違いは「身体性」の差ですが、身体性がロールプレイに果たしている役割はそれほど大きいものではないと思うわけです。実際TRPGも会話(これはまさに非身体=精神的営みですが)を中心にゲームが組み立てられます。合わせて、多人数のネット上のチャットでもテキストベースのロールプレイングが可能であることを想像します(ただロールプレイのある部分は身体性が失われることにより変質する可能性はあります)。


二点目について。
こちらはちょと難しいです。
他者(他"人"、あるいは語弊を承知で言えば「自律的他者」とでも言えるもの)の存在の有無が遊びにどのように作用するかという問題に直結するので。要するに、一人遊びと、複数人遊びと、一人コンピュータ遊びとの間に、性質的な差はあるのか、あるとすればどのような点においてか、という問題です。簡単に言えば「駆け引きの有無」ですが、これは突きつめると結構厄介な話になりそうです。

とりあえず他者の存在の有無が「role-playing」にどのような影響を与えるかを考えるために、それぞれにおける他者の存在をざっくりとまとめてみます。
TRPGとCRPGについて見てみると、前者がプレイヤー(I)と他のプレイヤーとゲームマスター(とルールブック)によって成り立っているのに対し、後者では他のプレイヤーは存在せず、ゲームマスター+ルールブックの代わりをプログラムが担います。前者は、自分と他人(他プレイヤー)ともう一方の他人(ゲームマスター)で成り立ち、後者は自分と物(プログラム)で成り立っているという図式です(乱暴です)。両者の中間項としてMMOを考えてみると、それは自分と他人(他プレイヤー)と物(プログラム)で成り立っていることがわかります。

  プレイ主体/他のプレイヤー/ルール行使・ゲーム進行
TRPG プレイヤー あり ゲームマスター
MMO  プレイヤー あり プログラム
CRPG プレイヤー なし プログラム

この違いをどう考えればいいんでしょうね。ちょっとここはいろんな方の意見を聞いてみたいところです。問いの在り方としては、たとえば「客のいない劇場で演劇が成り立つか」「ままごとは一人でも可能か」「可能だとして二人以上でままごとをするのと遊びの性質上どのように異なるか」などと近い気がします。

問題点をいくつか。他にもいっぱいありますが。
1. 他プレイヤーの存在の有無によるちがい(CRPGとMMOのちがい)
2. コンピュータプログラムは他律的かどうか
3. 2を満たす場合、ゲームマスター(自律的)とプログラム(他律的)とのちがい(MMOとTRPGのちがい)
4. 一人プレイコンピュータゲームと一人遊びは同じかどうか

こういうのは「interactivity(双方向性)」をどう捉えるかにかかってる気もします。
ちなみに自律・他律ってのは、そこに「主体性」を認めるかどうか、というような曖昧でいい加減な意味合いで使ってますので、つっこまれるとたじろぎます。
このトピを掘りおこしたい気分だったのでちょっと。


この時期になると、
「クリスマスは本来云々な祭りだけど現在の日本では云々」
っていう言説がちょくちょく聞こえてきたりするものですが、
(2月の半ばにもそういうのありますね)
ロープレとRole-Playing Gameの関係って、
クリスマスとChristmas(降誕祭)の関係に
ちょっと似てるなあと思ったのです。

「日本のクリスマス」は、
すっかり日本に土着のお祭になっていますが、
やっぱり12月25日だし、Holy Night〜とか歌いつつ、
もみの木のてっぺんには(「ベツレヘムの」かどうかはともかく)
星がついてたりします(つかなくてもたぶん可です)。
そういうところが似てる。

単なるアナロジーですけど。

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