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問題解決する姿勢で議論をしたいコミュの掛け算の項の順序について

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現在の小学校では、文章題

みかんが3個ずつ入った箱が5箱あります。
みかんは全部でいくつありますか?

に対して、
解答A 3×5=15 答 みかんの数は15個
解答B 5×3=15 答 みかんの数は15個

はどちらも○とする先生や、解答Aは○で解答Bは△もしくは式の部分を×答は○というように
する先生もいるそうです。

コレに対して、後者の先生はおかしいという批判も出ていますし、
私はあらゆる前提を考えてみておかしいとは即断できないという主張をする人もいます。

大分議論がされていますが、
当コミュニティでは、特に両者のありうる前提を色々と考えてみようと思います。

コメント(376)

>>[336]

 0.999…<1 と感じられるけど 0.999…=1 とする

の「0.999…<1 と感じられる」を表現する「数理」と「0.999…=1 とする」を表現する「数理」を区別しているということですよね?
別に儂が区別しとる訳じゃなくて最初から別物ですわ実数か超実数か
標準か辞書式順序か
の2×2択に過ぎんですよ
>>[338]

粋蕎<イッキョウ>さん さんのおっしゃっていることではなく紹介された内容について >>[337] をかきました。誤解される表現をしてしまって申し訳ございません。

「最初から別もの」の「数理」の「選択肢」を用意して

 「0.999…<1 と感じられる」と「0.999…=1 とする」

を区別して表現することは可能と思っています。他の「選択肢」もありうるでしょう。そのような例の一つについては,

http://mixi.jp/view_bbs.pl?page=19&comm_id=63370&id=72470765

の [364] あたりで考えてみました。そこの, [376] [377] あたりで「かけ算の順序問題」と関連することも書きました。
「かけ算の意味」を記号列の順序を利用して表現すれば

 √2×√3=√3×√2

がなぜ成り立つかの「数理」を説明できる…そうでなければ「乗法の交換法則」は「数理」ではなく記号列操作の規則として受けとめるしかなくなるでしょう。

 交換法則が成り立つから「正しい順序」などない

といった主張は二重に混乱している…それはある教育の結果のようにみえます。その教育の「犠牲者」が別の教育を受け入れられないことは十分起こりうる…。
 教育によってはじめて考えることができるようになる

かもしれません。だからといって受けた教育の範囲を超えて考えることができないといことにはならないでしょう。受けた教育を出発点としながらもそこから離れることは可能で,

○与えられる「偏見」を身につけること
●与えられる「偏見」から離れることもできるようになること

の両方が大切でしょう。

さらに教育では言語によって明示されたメッセージだけでなく明示されていないメッセージのやりとりも生じる…教育を受けるなかで,

 「ε-δ論法」による説明こそが「本物」である。

というメッセージを受けとった人たちもいるかもしれません。そんなメッセージが明示的にかかれた文献がどれくらいあるのかわたしは知りません。「文脈」によって成立する「数理」でも「文学」でもないこうしたメッセージは,あるもののみかたを形づくりながらもそのものが反省的にとりあげられる機会は少ない…。

 かけ算には順序はない。

などというメッセージを受けとった人たちがいなかったとは断定できない…

 かけ算の順序

などというあいまいな表現が,大した説明なしに通用し,このトピックのタイトルにあるような表現をあまりみかけないのは事実でしょう…。
ツイッターの #掛算 タグ
https://twitter.com/search?q=%23%E6%8E%9B%E7%AE%97&src=typd&mode=realtime

での議論はようやく収束したようです。

(1)かけ算とは1あたりのいくら分をもとめることである
(2)1あたり×いくら分 の順序でかく

という文脈を知っていれば,

 「1ふくろあたり□個の□ふくろ分は 8×5個とかく」の空欄(□)をうめなさい

という問で混乱する人はいないようです。文脈を無視すれば,いかなるナンセンスも導けるでしょう。たとえば,

 「log_{10}{2}=0.3010 とする」

と問題文にあるとき,「2^699=5^301 が成り立つ,よって 2=5 である」などを導くのはナンセンスでしょう。明記されない「文脈」にしたがって問題を解釈しなければならないことはそんなに珍しいことではない。(1)(2)は授業であつかわれるのでしょう。そういう授業を受けなかった大人たちがナンセンスな大騒ぎをしてしまうのはごく自然なことでしょう。

 小学校であつかわれる内容はすべての大人たちが理解できる,少なくとも「理系」出身の大人,とくに数学者が理解できるものでなくてはならない。

という前提があったようです。かつて「集合」を算数であつかったときがありました。間もなくなくなってしまったようです。「乗法の意味の理解」も間もなくなくなってしまうかもしれません。

 順序に意味はない

という主張もありました。

 意味を順序で表現している

なら「順序」だけを「問題」にしても当然意味はないでしょう。

「乗法の交換法則」にかかわって「√2×√3=√3×√2」の説明についてたずねると多くの人がまともな答えができなかったのは大変印象に残っています。

 算数に √2×√3 は関係ない(三角定規になじんでいる小学生はたくさんいる)
 √2×√3=√6,√3×√2=√6 だから(循環論法)

などという反論・説明は論外として,

 一つの角をはさむ 2 辺の長さがそれぞれ,√2,√3 である長方形の面積を考えればわかる

というのが循環論法であることに気づく人は少ないようでした。

 もし乗法の交換法則が成り立たないのなら,長方形の面積がつねに一つの角をはさむ 2 辺の長さの積でもとめられるとはかぎらない

ということをだれも考えないことも印象的でした。小学校で教わったまま,そこでとどまり続けている大人たちが少なくないのは自分を振り返っても十分理解できます。でも「指導書に書いてあることを鵜呑みにする小学校教師」を批判する人たちが,小学校でならったことや,学習指導要領に書いてあることから一歩も出ようとしないどころか,上のような指摘にたいして感情的な発言ないし議論の拒否以外の反応がほとんどないことには別の理由があるように感じました。

極限操作をもちいた「√2×√3=√3×√2」の説明もみられました。現代日本の算数・数学教育では,乗法の交換法則は極限操作によって示されるようです。すなわち,中等教育まででは,「成り立つことがしられている」と教えられ,高等教育において「ε-δ 論法」によって「厳密」に示されることとなっているようです。「現代数学」を学ぶにはそれで十分ですし,「√2×√3=√3×√2」がなぜ成り立つか,とか,「長方形の面積が一つの角をはさむ 2 辺の長さの積でもとめられる」のはなぜか,など「重要ではない」。「かけ算の順序問題」「反対派」がよく馬鹿にしたようにとりあげる「みはじ」「サンドイッチ」のように彼らは「乗法の交換法則」を鵜呑みにしている。数学書,歴史的な資料,ネットで得た情報の断片をならべてこじつけている姿は彼らのえがく「推進派」「擁護派」のそれそのもののようにもみえました。

一方で初等幾何における Pappus の定理とよばれるものの一つ(射影幾何で話題になるもの)によって線分算における乗法の交換法則を示すことができます。そこでは実数の連続性などを前提にする必要はない。「√2×√3=√3×√2」は幾何的に確かめることができる。面積は,分解合同ないし補充合同によって定義でき,それが線分算の積で表すことができることも連続性の公理なしに示すことができる。(続きます)
>>[344] (続きです)

「集合」が算数で導入された「数学教育現代化」以降,算数・数学教育での初等幾何のあつかいはうすくなったようです。そのため,上記のような幾何的な説明は現代の算数教育にはなじまないかもしれません。けれど,意味もわからずに公式を鵜呑みにしながら,「意味もわからずに公式を鵜呑み」にしている人たちを批判し,そのことを指摘されるとキレる大人たちを見るにつけ,「乗法の意味の理解」は大人たちにとっての課題ではないかと感じるようになりました。

意味のない計算の結果に踊らされる大人たちは少なくないかもしれません。大人たちがそんなふうなのにこどもたちにだけ「乗法の意味の理解」をもとめるのはどうかとも思います。

でも「集合」はけっして難しいとは感じられなかった,むしろやさしいとすら感じた記憶があります。こどもたちはどう感じているのか?には興味があるのですが,混乱しているとしか思えない大人たちの「納得できないこどもたちの実例の報告」をよんでも実際になにがおこっているのかを知ることは困難に感じられてしまうのです。教える側も混乱していることもあるでしょう(それも「集合」のときにもあったのではないかと思われます)。

これを機会に,大人たちがこどもたちとともに「乗法の意味」について考えるなら,無意味な記号列操作としての計算から大人たちはこどもたちとともに解放されるかもしれません。こどもたちから教わることだってありうるとも思います。
>>345 おそらく、線分算?では手続きがまったく違うところで「手続きが違う」
というのがはっきりしますね。結果としては同じ長さの線分が得られるにも関わらず。

数式だけを見つめたら等しいの意味は一意と見たほうが
良いこともたくさんあります(計算が楽になるから)が、
計算原理について考えるときはそれをやっちゃダメとも思います。

従って、「常に違うものとして見続ける」「常に同じと見続ける」のはよろしくなくて
使う時は後者でOK、それそのものを調査するときは一度からっぽにして前者の目で見る
ということが「同じものを見る」ときの見方なのだろうと
自分は自分の経験でそう考えていました。
まあ、Sparrowhawkさんほどこの問題に情熱がなかったので
「おそらく、別の考え方はあるんだろう。」ぐらいにしか考えずに放置していましたが。

射影幾何のことはきちんと勉強していないので(というか私は幾何学を勉強したとはとてもいえない)
勉強になります。キーワードだけでもあれば検索ができるので。

---
>>346
集合はド・モルガンなどだけでなくて、表記の仕方(要素を列挙する方法と内包的な書き方)の理解
で止まるのではなく、集合族や写像までいかないと
面白くないし、難しくない気がします。
難しいといっても工夫したらきっと独り立ちできる気がします。
連続性とかは難しいかもしれないので避けても良いでしょうけど、
全射とか単射とか逆像とかは有限集合間の写像でも
目に見えるから。

中国人留学生は x ∈ ∩_{n=1}^∞ A_n の定義を 全てのnについて x ∈ A_n だと
無知識で類推していました。
全部という言い方。
>>[347]
>従って、「常に違うものとして見続ける」「常に同じと見続ける」のはよろしくなくて
>使う時は後者でOK、それそのものを調査するときは一度からっぽにして前者の目で見る
>ということが「同じものを見る」ときの見方なのだろうと
>自分は自分の経験でそう考えていました。

「常に違うものとして見続ける」と「常に同じと見続ける」を同時に行うことが必要なのかもしれませんね!前者しかしないのが「反対派」のえがく「推進派」,後者しないのが「反対派」というとわかりやすいかも…たとえば,

 1 + 1

の 2 つの「1」が異なっていると思わなければ,これは「2」にはなりえない。でも等しいと思わなければやっぱり「2」にはならない…基数だけでなく,線分の長さ,角(回転)などでも同様のことがいえるように思います。

算数であつかわれたのは,和集合と共通部分,そして包含関係くらいだったように記憶しています。よく「反対派」が話題にする「正方形は長方形である」などは教わったように思います。わたしと同じ世代と思われる同じことを小学校で教わったはずの「反対派」の人たちが「自然数は四元数である」というと混乱するのは印象的でした。演算が交換可能かどうかはその演算の定義域による,というあたりまえのことをいいたかったのですが,「こじつけ」にみえたようでした。子供心には集合は「やさしい」と感じましたが案外「難しい」のかもしれません…。
>>348

>たとえば,

>1 + 1

>の 2 つの「1」が異なっていると思わなければ,これは「2」にはなりえない。でも等しいと思わなければやっぱり「2」にはならない

この部分がついていけなかったのでどういうイメージを持っているのかをもう少し詳しくお願いします。
ふたつの「1」が異なっていると思わないと「2」には成り得ない
の「2」になり得るなり得ないについてどういう意味でおっしゃったのかがよくわからないということです。
というのは、計算機的にはメモリ上にある「1」を表すビット列について
まったく同じメモリを2回見てそれらの値を足すのと
異なるメモリの「1」を見てそれらの値を足すのと
違いは参照するメモリなんですが、結果として吐かれるものは2なので
区別していてもしていなくても良いという考えもできるように思ったのです。

あ、でも正確にはアキュームレータに入れる時点でそれぞれの「1」は異なるかもしれません。
>>[349]

区別がつかない1つのものしかないのに「2つある」なんていえなくないでしょうか?
>>[350]

1回目と2回目の区別ができなかったなら「2回目」は意味を失うのではないでしょうか?区別するためには別の(異なる)メモリが利用されているのではないではないでしょうか?
2というものの概念次第な気もしちゃうのですよね。
もちろん計数では「異なる2個のもの」と対応させるので「異なるものを意識している」ように思いますが、
1を2に対応させるだけの世界は一応考えられる気がしたんです。
ただ1というものに対して2を対応付けしているだけのなんの意味もない世界かもしれませんが。
>>352 おそらく、∅、{∅},{{∅}} を0,1,2 と対応付けしていくやり方とかでも{} という概念が何個って数えられるのですよね。無から数が作り出せたわけではない気がするのは{ } がワンセット使われているから。
上記の2回めと言うのもそれに相当しますよね。

だから通常の意味での2を考える場合にはおそらく
何かしら区別しないといけないでしょうね。
その区別が数そのものではないものの出現回数に置き換えてしまって
数そのものは表に見えないようにするというトリックで数を数えていないと見ることはできます。

でもそもそもの2の意味から離れてしまえばなんでもできそうです。
つまりは2に対して意味づけをするということと表裏一体なのかもしれないですね。
ちゃんと考えたわけではないのですが。
意味はあるんだけど、従来の2とは完全に意味合いが違うもので異なる「1」二つを使わないで
定義したらどうなるんでしょう。ということでもあります。
>>[354]

「出現回数」も「1+1=2」が成り立たなければ意味を失いますよね?

 a∪a=a

と見比べるともっとはっきりするように思います。とくにここに現れる3つの「a」は「異なる」(3つある)けれど「同じ」でしょう。
>>357 ああ、そういう演算の場合は入力項が2個あっても2には対応しないですね。
逆に入力項は1なのに2に対応するものはないでしょうか。
2そのもの以外で。
(一応、今やっているのは徹底的に「異なるをしないといけない」を批判してみて耐えうるかどうかを見ています。)
>>[359]

やっかいなのは,

 1=1

かもしれません。
1を1とみてもよいし2とみてもよいし3とみてもよいとしたときに
=は通常の等号とした場合には
1=1は成立しないように思います。

左辺の1を2として右辺の1を3としたときには成立しないから。

異なるという見方をする方は結構酷い規則でも一応何か議論ができそうです。

「同じ」という見方をするときには、それなりの規則がないとすぐに矛盾してしまいそう。
>>[361]

もし,1 しかなければ,なにを等号で結んでも矛盾は導かれないでしょう!

 「多は存在しない」

とすれば「完全」かもしれません!
1しかないから操作のしようがないのですね。
>>[363]

ある意味「完全」かもしれません。「多」「運動」は不可能で「一なるもの」のみが存在する,というのがエレア派の思想のようです。そのままでは「完全」さが保てるくらい貧弱であるかもしれませんが。

「同じ」と「異なる」の「不釣合い」のなかにこそ意味があるのではないかと感じています。「不釣合い」はストレスでもあるかもしれません。それに耐えられないと一方に偏る…行き着く先は自己矛盾…。
エレア派のwikiを見て来ました。なんか絶対的真実「のみ」からなるというのを公理としているんですかね。
前提をx軸上に配置しようとしたときに、前提が複数選択可能なら、y軸の値は0と1の間を激しく行き交う関数のようになるけど、そもそもx軸上に一点しかとれないならy軸も一つの値に定まるような・・・
>>[365]

「x 軸」「y 軸」を用意するには同一平面上にない少なくとも「異なる」3点が必要でしょう…「多」は不可能なら「1点」以前に「x 軸」がとれない…
>>[365]

…でも論理的であることは間違いない…そしてヨーロッパの反省的思考や論理学へのエレア派の影響は無視できないように思います。

Α 有限回の操作の結果の操作を考えることから矛盾は導かれない
Ω 無限回の操作の結果の操作を考えることから矛盾は導かれない

は計算の前提でしょう。機械による計算は少なくともΑを前提に行われているのではないでしょうか。Αは議論の対象になることは少ない。そもそもΑを利用しない議論のしかたをわたしたちは知らないのかもしれません。したがってΑへの疑念を覆す手立てがない。その意味で「完全」かもしれません。エレア派はΩのみならずΑにも疑問を投げかけているように思います。


Ωを前提にしたものとして

P 平行
I 帰納法
C 実数の連続性

などがあるでしょう(「乗法の意味」はここのPにかかわると思います)。Ωを前提にした計算を有限的な表現に言い換えたものをΑの前提のもとで基礎づけているのが「現代数学」かもしれません。ユークリッドの第五公準や「ε-δ論法」のまわりくどい表現にはエレア派の影響を感じてしまいます。

ΑからΩに一足飛びにいくのではなく,αをある具体的に与えられた順序数(ordinal)として

Oα α回までの操作の結果の操作から矛盾は導かれない

という前提をおくならもう少し秩序だって考えることもできそうに思います。ある自然数 n にたいしてO2^n の前提のもとでつくられているのが計算機ではないでしょうか?
>366 ああ、そのような意味で言ったのではなく、命題を定義域としてその真偽を返り値とするような関数を考えたときに、エレア派は定義域が一点というイメージを持ったのです。
一方で>366の指摘はそのような関数を考慮すること事態がエレア派にとっては不適切と見なすということでしょうか?
Oα もそうでしょうけれども、無限とαの関係を関連付けして初めて意味があるように思います。
関連付けがないと独立な前提に見えてしまいます。
>>[368]

終集合(値域ではなく)も「1点」かもしれないってことなんです!

>>[369] Pawnさん

「無限」ってなにかを規定しないと「無限とαの関係を関連付け」はできないでしょう。それにはまず順序数(ordinal)から始めた方が無難かもしれません。
なるほど、否定できそうにないです<終集合が一点かも知れない
ただ、実際にΩやAを実生活上で有効利用している以上
近似としての意味があるので、現実世界がエレア派のいうようなもので支配されていたとしても
想像の世界が現実世界に近いなら応用上は問題がないといったところなんでしょうかね。
どっかで矛盾があるにしても、世界が違うので当然というようなことかな・・・。

厳密にやると、0αを経由していくことになるけど、
そこをΩで楽をしているという風に考えると、実用上はΩでよいけど、でも楽した分の
違いは測れなくなるので、0αできちんと考えて、
何が「違い」として顕著になるかということを理解できれば、
Ωも使いやすくなりそうですね。
>>[371]

矛盾に気がついてないだけかもしれません。少なくとももし矛盾していないなら,矛盾していないことを証明できないのではないでしょうか。

Ωがなにか確かなものであるという保証はないでしょう。でもΩから導かれたものにもとづいて考えだされたものでわたしたちは生活しているようにみえます…。
Ωが確かなものであるという保証は確かにないでしょう。
どちらかといえば、物理などの応用でさほど問題を生じないとかそういう
比較対象があるから受け入れられているのかもしれません。

無限というものの考え方に別の独立な導入方法などがあれば
Ωの対立概念になりそうですが。
>>[373]

Ωを採用している以上論理的に困ることはないかもしれません。だからといって「正しい」とはいえない。エレア派はΩとは別のものを用意したようです。そちらでも論理的に困ることはない…。
私は、正しい正しくないは相対的なもので公理系が定まったときに定まる可能性があるものではないかと思います。もしエレア派がそのような論理の相対性も認めないとすると、その認めないということそのものが公理なのではないかと思うのです。
>>[375]

「アキレスは亀に追いつく」といっている人たちはエレア派の立場の論理の相対性を認めてないでしょう。

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