【ヴィネーグル・ア・レシャロット(仏:Vinaigre à l'èchalote)】
プラトー・ド・フリュイ・ドゥ・メール(海の幸の盛り合わせプレート)に欠かせないソース。魚介類と相性の良いエシャロットを刻んで、赤ワインヴィネガーと合わせ、良く冷やして、牡蠣に合わせるのが定番。
【ソース・オ・ヴィネーグル(仏:Sauce au vinaigre)】
鱸など、しっかりした味の魚に合わせることの多いソース。魚を焼いた後の鍋を白ワインヴィネガーで、デグラッセ(鍋に焼きついた旨みを酢の水分で弛めるように溶かし込む)した後、沸いて来たら、更に白ワインヴィネガーを足して、しばし煮詰めた後、白ワインを加えて煮立て、バターモンテ(バターがちょうど白っぽいまま溶け込んだ状態をキープ)して、供する前に漉す。
ついでに(笑)地方色の強い、やはりフュメやフォンを使わないソースを並べてみる。。
【ソース・ア・ランティボワーズ(仏:Sauce à l'antiboise)】
南仏ニースの西に位置する港町がアンティーブ、このソースはアンティーブ風という名前。プロバンス地方の特産物の、トマト、オリーブオイル、バジルに、ノイリー酒(酒精強化ワイン、ヴェルモット酒のブランド名がノイリー。白ワインをベースに、香草やシロップが添加されている)や、バルサミコ酢を合わせる。
鍋にノイリーを入れて、塩、黒胡椒のミニョネット(粒胡椒を鍋底で荒く潰したもの)を加え、煮詰めたところへ、トマトのデに切ったもの(茹でて小さい四角に刻んだもの)を加えてさっと煮たら、オリーブオイルとバルサミコ酢も加え、バター少量でモンテする。豪華に行くときは、トリュフを加え、出来上がりにバジルとシブレットを刻んだものも加えて、焼いた鯛や鱸などに合わせる。
【ソース・オ・ピストゥ(仏:Sauce au pistou)】
ピストゥは、ラテン語で、粉にするという意味。イタリアでは、ペーストに、プロヴァンスでは、イタリア風の野菜スープに使われる名前。スープからソースに変化して、トマト、バジル、ニンニクなどを細かく刻み、オリーブオイルを加え、パセリ、セルフィーユ、シブレット、エストラゴン、バジルなどを粗みじんに切ったものも加え、塩胡椒をして温めてソースに使う。場合によって、レモン汁を加えることも多い。よく的鯛と組み合わされる。(因みに、的鯛は、サン・ピエールという名前で呼ばれ、的の模様は、ピエール聖人の拇印だと教わったような記憶がある。)
また、カイエンヌ・ペッパー【poivre de Cayenne:ポワーヴル・カイエンヌ】は、粉末にした唐辛子から作られる。
粒胡椒は、粒のまま(アン グレイン)マリネの漬け汁に使われたり、クール・ブイヨン(短時間の加熱に適した、香りづけをしただし汁)に加えたり、鍋底で軽く砕いて(ミニョネット)グリエやソースに用いることもある、
【Poularde de Bresse en vessie(プーラール・ド・ブレス・アン・ヴェッシー);ブレスの肥鶏のヴェッシー(膀胱)包み】
フランス料理を彼の地で勉強し始めの頃、既に相当勉強していた同期の女性から、彼のスペシャリテも知らないなんて、信じられない、となじられ&呆れられ、リヨンまで食べに出かけたのです。その日、グランシェフ本人もお店に居ました。恭しく運ばれてきたヴェッシーに包まれたブレス鶏には、皮から透けるようにトリュフが挿しこまれ、ブレス産であることを証明するものも提示されたと記憶しています。が、しかし・・・そこはかとなく、におう・・・
彼女と後に現れるグランシェフの手前、残すわけにも行かず・・平静を保ちながらも、心の中で、難行苦行だ・・・とつぶやいておりました。果たして、あの日の状態がノーマルなものなのか、それともたまたまよろしくなかったのか、その後食べる機会を得ませんで、謎です。今もスペシャリテとして供される様です。
後を継いだジャック・ピックJacques Picもミシュランの3ツ星を維持し続けます。前もって予約が必要だった“ブレスの肥鶏のヴェッシー包みPoularde de Bresse en vessie”や“トリュフのパイ包みTruffe en croûte”といったこの店の料理は絶品でした。またムニュー・ラブレー(『ピック』のスペシャリテで構成されたムニュ・デギュスタシヨンの一種)を考え出したのもこのジャックです。この店はしっかりと地元に根付いたレストランで、スタッフは基本として地元の人間しか雇わないことでも有名でした。ジャックが亡くなった後は息子のアランが後を継ぐのかと思われましたが、ミシュラン評価が2ツ星に降格してからはアランの妹、アンヌ=ソフィーとご主人のシナピアンご夫妻が経営に携わっています。数年前からレストラン、ホテル、キッチンを大きくリニューアル、2006年には併設のビストロを近代的なドライブイン感覚のレストランに変身させ、昔の栄華を取り戻す気迫が感じられます。
前出のアレクサンドル・デュメーヌもアンドレ・ピックも弟子を待たなかったのが共通点のようです。
ジャン=ピエール・ビュウ
現存する最後の弟子とよく言われるディジョンDijonの『ル・プレ・オ・クレール Le Prè aux Clercs』のオーナー・シェフ、ジャン=ピエール・ビュウJean-Pierre Billouxには会った事があります。現在はご子息のアレクシ・ビュウAléxy Billouxが後を継いだ形です。ジャン=ピエール・ビュウによると、デュメーヌは「ディジョンで近くに住んでいて、よく料理の話や相談にはのってもらったが、直接一緒に仕事をしていたわけではない」とのようです。
フェルナン・ポワンFernand Point(1898〜1955)
父親を始めとして、母親も祖母も料理人という環境に生まれ育った彼は父の下で料理人の見習いを始め、『ル・ブリストル Le Bristol』(パリ)、『フォワイヨFoyot』(パリ)、『ロテル・ロワイアル L'Hôtel Royal』(エヴィアン)などの有名店で働き、基礎を作りあげました。こういった経験を通じて彼は料理に対する3つのポリシーを確立したのです。それは「前日から仕込みをしない」、「ソースの重要性」、「もっとバターを」というものでした。
ポワン家の墓所(ヴィエンヌ)
1923年、父オーギュスト・ポワン Auguste PointはヴィエンヌVienneにあったレストラン『ギューGuieu』を買い取り、2年後店を引き継いだフェルナン・ポワンは、レストラン『ラ・ピラミッドLa Pyramide』と改称します。1930年にはアルデッシュ出身のマリ=ルイーズ・ポーラン(愛称 マド)と結婚、じきに彼女の秀でた接客センスや知性は店にとって欠かせない存在となります。マドはレストランには料理だけでなく、内装やカトラリーや雰囲気が重要な要素と考え、それらを完璧に整えたのでした。間もなく『ラ・ピラミッド』は世界中の美食家たちから注目される名実ともに世界一のレストランとなります。またポワンの元には後年“ヌーヴェル・キュイジーヌ”の台頭とともに世界的に有名になる料理人たちが弟子入りしたのでした。彼らに関しては別項目で語ることにしましょう。
肥鶏のドゥミ=ドゥイユ
19世紀末、リヨンを中心とした地域には「メール〜 Mère〜(おばさん)」とよばれる女性の料理人たちが数多くいて、店をとりしきっていました。メール・ギーGuy、メール・ビュイソンBuisson、メール・フィユーFilloux、メール・ブランBlancなどがいます。中でも後年レストラン『ラ・メール・ブラジエLa Mère Brazier』のオーナー・シェフとなるウジェニー・ブラジエはひときわ有名な「メール」でした。20才でリヨンの大きなお屋敷の召使として入り、そこで料理を任されます。お屋敷での仕事を辞した後、当時有名なレストラン『メール・フィユー』のもとに弟子入りを果たし、レストランビジネスも学ぶものの、フィユーとは気が合わず、『ラ・ブラッスリー・デュ・ドラゴンLa Brasserie du Dragon』に移ります。そして、この店で料理人としての頭角を現し、有名になります。1922年、自分で店を開くものの、健康を害し、休業。その後、別の場所においてレストランを再開し、ついに1933年にはミシュランの3ツ星を獲得するまでになります。盛り付けは決して繊細とはいえないが、しっかりした味と分量の料理は私の舌の記憶にも残っています。
クネル
とりわけ“肥鶏のドゥミ=ドゥイユPoularde demi-deuil”“クネル グラタン仕立てQuenelles au gratin”、“子牛のフォア、パセリ風味、マカロニのグラタン添えFoie de veau persillé au gratin de macaroni”がもっとも鮮明に残っています。
1946年には後出のポール・ボキューズが見習いとしてこの店で料理修行を始めています。(←***ここで繋がるのでした。)
レイモン・オリヴェReymond Oliver(1909〜1990)
1970年、大阪で催された<万国博覧会>でフランス館のレストランを取り仕切っていたことや、辻調の故小川忠彦先生が1969年に彼のレストラン『ル・グラン・ヴェフールLe Grand Véfour』で研修されていたことなどでなじみ深い人物です。4代続いた料理人の家系に生まれたオリヴェは『ムーラン・ルージュMoulin Rouge』のバーテンダーとして自ら飲食業界に入ります。その後、父親の紹介で料理人としてこの道を歩み始め、1948年にパレ・ロワイヤルにあったレストラン『ル・グラン・ヴェフール』を『マキシムMaxim's』の支配人から買い取り、オーナーとなります。調理場は優秀なシェフに任せ、古い料理の文献の収集やTVの料理番組出演などを積極的にこなし、レストラン料理の普及に努めます。プロの料理人の地位をメディアの力で一般に示した彼の功績は大きいものでした。
残念ながら現在の『ル・グラン・ヴェフール』はオリヴェの息子ミッシェル・オリヴェがミシュランの評価が2ツ星に降格した時に店を手放し、シャンパンの醸造会社がオーナーとなっています。しかし、現在のシェフ、ギー・マルタンGuy Martinによってこのレストランは再度ミシュランの3ツ星を取り戻しました。メニューは殆ど変わってしまったが、内部の雰囲気はそのまま残っています。
キュルノンスキーCurnonsky
:本名モーリス・エドモンド・サイアンMaurice Edmond Saillan(1872〜1956)
この人物は料理人ではありません。料理歴史家、著作家で1900年〜25年まで《ル・ジュルナルLe Journal》、《ル・マタンLe Matin》といった当時の二大新聞などに執筆活動を行い、地方料理を中心にフランス料理の真髄を収めた《美食のフランスLa France Gastronomique》(全28巻)なども著しています。1926年には読者の投票によって決める、「美食のプリンス」に選ばれています。フランス料理の素晴らしさを世界に発信した彼の功績は実に偉大なるものだと言えるでしょう。