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詩は表現ではないコミュの詩論を書け!

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自己の詩論を書きませう。
とりあえずトピックだけ作りました。
詩論は大切。うん。

コメント(19)

以前ちょっと書いた文章。去年の夏くらい。




落下傘部隊

詩を書くという行為は、
落下傘部隊を観察する行為とよく似ている。
基本姿勢として、待つことしかできない。
彼らは気ままに降下してきて、勝手なところに落ちていく。
観察する身分としては、センサーを敏感にして、
いち早くベストポジションを探し、
できるだけ精密に、彼らをスケッチする。

詩は落下傘部隊ではない。
落下傘部隊を観察する行為も詩ではなく、
その行為の結果が私にとっての詩だ。
詩は作るものでも生まれるものでもなく、観察の結果に近い。
どもども。
「形にする」「実現」ってのは大事ですよね。
そしてそこに、「意思」がどこまで流入するのか、
なんかそのへんが気になります。
意思が入るべきなのか、それとも排除すべきなのか、
入るとすれば、それはどこまでのレベルで対応されるべきなのか、
そのへん。

俺自身は原則排除の方向なのですが、
それでももちろん、完全な排除は不可能です。
自分の言葉を使えば、「私が観察した」という事実は払拭できないので。
なので、んー、
「私」を排除していった先に残る「私」というものが、
オリジナリティとして光るんじゃないかなと思っています。
それ以外の「私」は、「詩」にとってジャマでしかない。
去年の5月に書いた文章。



表現の道具・詩の言葉


ダンサーが表現行為において用いるものは身体だ。
身体が道具だ。
踊っているときの体の使い方と、
普段生活しているときの体の使い方は
“原則として”異なる。
同じ身体でも、使い方が違う。
あるいは同じ動作でも、使用に際しての意識の持ち方が違う。

詩人が用いるのは言葉だ。言葉が道具だ。
詩に用いるときの言葉と
日常の中での言葉は、
同じ言葉でも、使い方が違う。
同じ使い方でも、使用に際しての意識の持ち方が違う。



(もちろん異論はある。自身の中にもある。
 自身の中に論がひとつしか存在しないほうが不自然だ)
つい最近書いた文章。



言葉が自立する姿が詩である、という意見がある。
むろん異議はない。むしろ、
自身の詩作を考えるとき、
それこそが詩であると思っている。
詩は、自分の心を表現するための道具ではないのだ。

と同時にそれは、
詩で自分の心を表現してはいけない、という意識にはつながらない。
要は、主従関係の問題だ。
詩が道具なのではなく、
心が詩の道具になるべきである、いやむしろ、
心こそが道具であるべきなのだろう。
と、考える。考えている。
せっかくなので僕も書いてみます。

でも、すでにいとうさんが
「言葉が自立する」というのはよく分かるし
僕もそのようでありたいと思ってます。
それは、言葉がひとつの概念の結晶としてあらわれることだし
あるいは、記号として何か意味するものではなくて
汲み尽くせない意味を産出するモノ、世界の開かれ
としてあるようなあり方だと思っています。

で、それを書いている「私」はいったい何処に?
ということがここで問題になっているのだと思いますが
別に僕はそんなに「私」を排除しようと徹底しなくても
それが自立するのであれば
「私」と「詩」とは相対するのではないかと思ってます。
(要するに僕は「私」を排除しようがしまいが
「詩」は自立しうると考えているのです)

何気ない普通の会話でさえ、
言ってから驚く自分の言葉がありうるということは
そういう可能性を言葉がそもそも持っている
ということだと思います。

じゃ、詩が自立する条件ってのは?
と考えると今から5分で考えるには
ちょいと厳しいので今はパスしたいと思います(苦笑)
詩が自立するか。自立する条件ですか?うぅむ。

建築家に詩的魂がなければ。よい建造物はできないだろうし、
サービスを人に提供して生きる人に 詩的なスピリットがなければ、ここちよいサービスは提供できない。ダンサーもしかりだと思う。

ほんとうの詩は よりよい建築家の魂をゆさぶり、よりよい建造物を育てるだろう。
ほんとうの詩は ダンサーの筋肉をより美しく踊らせるだろう。
詩は読み手の 生きる力を よび水のようにひきだす 井戸の呼び水みたなものだと思う。

詩人に必要な素質。それは ちゃんと生きている人を生きていると、あたりまえに表現する。そんな簡単なことができる。そういう人なんじゃないかなあ?

難しい詩を書く人は、なにか遠い昔 すばらしい詩にふれて そのスピリットに触発されてしまったような。詩人というより むしろ建築家のような方になっておられ方のような気がする。
読み手に創造した結果しかくれない。読み手の創造力を なにも触発してくれない。

人間は馬鹿だから、簡単なことほど できない。
それが、できる人こそ 詩人として尊ばれるべき人だと 私は、想う。

そういう人の書く詩は 詩として自立していると想います。
触発するかどうか、というのは重要なポイントだと思います。

細かいところでは全然、
僕は共感しないのですが。

「ほんとう」とか、「よりよい」とか
そのままでポジティブな言葉をそのままに
使うのは非常に安易だし、
何より、何も定義できない。
よいものになるためによくなりなさいというのでは
まったくなんの手がかりにもならない。

>詩は読み手の 生きる力を よび水のようにひきだす 井戸の呼び水みたなものだと思う。
まだ、これのほうがいい。

あと、「簡単」で「あたりまえ」で
そういうことほど「できない」
というレトリックも僕にはとても退屈だ。
ごく単純に「できない」ことは「簡単」ではない。

そして、「あたりまえ」で「簡単」なのは
どういう意味なのか、
そして、なぜ「できない」のか
(これについては
>読み手に創造した結果しかくれない
というのはそれつつも、回答になっているのかもしれない)
そういうことへ向かわないと
少なくとも詩論としては成立しない。

というか、この文章としても
ここが分からないと
「それができる人」「そういう人」の
内容がまったくわからない。
とりえあず「よきいきる人」なのね、と
アリストテレスだかソクラテスだか、
僕の大っ嫌いな真善美の予定調和の世界。

たぶん、僕はしゃべりすぎたな。

でも、最後にひとついちゃもんを。
「そういう人の書く詩は 詩として自立」するかどうか。
自立しているかもしれないし、そうでないかもしれないが
すくなくとも、「そういう人」の陰が
詩につきまとわざるをえないなら、自立していないだろう。

ここまで書いておいてなんだけれど
僕は個人攻撃なぞしてるつもりはありません。
単に大っ嫌いな概念に触れてしまったので
ヒートアップしてます。
別にこれにさらに批判してもいいし、
つまらないし、場が濁ると思えばスルーしてください。
僕も個人攻撃でもなんでもないですから
次の書き込みは普通に(笑)とか書いてると思います。

ただ、ここは議論ありだろうと踏んだので
だいぶアクセル踏み込んだんですが
てめぇなんか極道でもやっとれと思えば
そうおっしゃってください(笑

最後に最近読んでる本で面白い一節がありましたので
お口直しに。

鷲田清一『メルロ=ポンティ』より孫引き

森の中で、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしは内から浸され、すっぽり埋没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。
さっきレスしてたのだけど、脳みそがウニのようになり消してしまいました。読んでしまった方、ごめんなさい。
**********************************
人としての自立とは と いう議論にも似て難しい話題ですね。

自立しているでイメージしたのは、まどみちおさんです。 彼の詩は自立してらっしゃると思います。
「ぞおさん おはなが ながいののね。そうよ。かあさんもながいのよ。」この詩は多くの人によって歌われてきた詩です。人の基礎を育てることばを 尊敬しています。

大人の心には退屈と感じられるやもしれませんが、私は こういう言葉を紡げる人って 尊敬しています。
詩が作者の手を離れ。実際に 多くの人の心を育んできた詩であるという点で自立していると私には想えます。

それにしてもテツさんの 自立している言葉とはなにかという 問題定義は、刺激的だとおもいました。
私も 詩を書きますが 自立なんていうポジディブの似合う詩ばかり 書いているとは思えない。

立っている詩が書けた瞬間があったとしても、私の場合は おいしいお米がご飯としてよりよく炊けた時、「米粒がたっている。」っていいかたするじゃないですか?私の『立っている』はその程度の
立つだと想います。おいしそうな言葉がほしい。立派である必要はないな。失礼しました。ぺこり。
まず謝意を。
ちゃおさんありがとうございます。

さて、ボールが来ましたので
そろそろ、「自立した詩」について考えます。

詩が作者の手を離れていても
それでも鑑賞に堪えうるかどうか、
というのはそうでしょう。

僕らが普段おしゃべりする時の
言葉達は、どうしたって向かい合う人と
自分自身の互いの人格に多くを負っています。
その時、言葉は単純な記号ではなく、自立していないのです。

言葉が単純な記号でないものとして
簡単にあげられるのはたとえば
恋人同士で「馬鹿だなぁ」って言ってやるのは
とても愛情にあふれた言葉であるかもしれません。

で、横で聞いてた僕が「いい言葉だ」と思って
「馬鹿だなぁ」と詩のつもりで一言書いたとします。
むろん、発表する場所が人格的なものを持っていて
「ここに書いてある言葉はすべて詩である」
という前提が共有されるならそれは詩かもしれません。

(これは他の諸芸術も悩まされて、鬱になった人がたくさんいたので
「美術館なんか飛び出そうぜ」ってのが流行りましたね)
(あと、便器を美術品として提出したデュシャンは
美術館のその力を逆用したアイデアマンとして著名です)

でも、トイレの落書きにそれが書いてあったら「なにこれ」と思って、
「オマエモナー」と横に書くのが関の山です。
(これだけできたら上出来かも)

だから、自立した詩、言葉とは
まず第一に人格や、場の持つメッセージを超えて
言葉が言葉自身のつながりによって
自己自身を創造する働きでなくてはなりません。

では、それは外部環境から隔てられた構築物なのか、
というと、それは対象が言葉である以上
無理な注文です。
言葉はいつだって言葉の外側を指し示しています。
この機能を失えば何もできません。
だから、確かに内部の言葉を内部の言葉によって
触発しながら、変形させ、新たな展望を作り上げるにしても
それは決して「箱庭」にはならないのです。
(あるいはそうしようとするなら自分の欠陥を承知したうえで、なので
僕の敬愛すべき椎名林檎のようにどこかニヒルなものになるんでしょうか)

少し、元に戻りましょう。
先に進むには今一度助走が必要な気がします。

僕はちゃおさんの
>創造した結果しか与えていない
詩がつまらなく、読み手を触発させる詩こそが
よい詩である、ということには同感です。

この「読み手を触発させる」というのが
箱庭でない言葉のあり方にヒントを与えているのは確かです。
でも、それは「メッセージ」ではないでしょう。

別にメッセージの言葉がよくないわけじゃないのですが
メッセージは人格が強く付着しているために
そこをひっくり返したらメッセージが転倒したり
パロディにされたり、言葉そのものの力としては
弱いものになりそうです。
(なんかポエムってのはこの辺じゃないかな)

(また、一歩戻ろう。
進めるんかな。)

当たり前で簡単なこと、
僕が人に何かを伝えるとき、
それがちゃんと伝えられたなら
その言葉が詩なのではなくて
僕が詩なのだ。と考えてみよう。
僕の「詩」性があなたに
伝えたがっているものを伝えたのだ。

そして、僕が詩を書こうとする時、
僕は、感光紙であり、マイクであり、
文字のひとつひとつであり、そうして
詩が、言葉になる。そう考えてみる。

僕があなたに伝えたかったものは、
なかった。
僕はあなたに気持ちを変えてもらいたかった。
嬉しくなってもらったり、悲しくなってもらったり
楽しくなってもらったり、怒りたくなってもらったり。
そうだった。

僕はたとえば
「好きだ」ということを言いたかったんじゃなくて
あなたを喜ばせたかった。

だから、僕は
「好きだ」という言葉を言う必要はなかった。

詩を書くとき、
それは伝えようとするものを伝えるのではなかった。
伝えようとするものはなかった。
それは詩がからっぽだと言っているのではなくて
詩を見せたかったんじゃなくて、
詩を見た人の表情が変わるのを見たかったはずだということで
詩ができあがったものでない、単なる創造の結果ではない
というのはそういうことだ。

でも、なんで「表情が変わるのを見たかったはず」
だなんて断言できるんだ?
それが自立した詩なら、
それが僕を記号におとしめて、生まれ直した
ひとつの存在なら、記号である僕は
そうやって詩を読んでくれた人を通して
やっと息を吹き返すからだ。

僕が人格を持って、言葉を話すとき、
僕の存在があなたを喜ばせて、はじめて
言葉が生きているように。

***

先に謝ります。ごめんなさい。
やっぱり、手に余ります。こいつ。
最後は言葉がインフレしてます。
なもんで、詰めは甘いです。
でも、このくらいで許してください。

っていうか、長くても読んでくれた人には感謝。
そして、さらにコメントつけ返してくれた人がいたら
ようやくはじめて僕が蘇ります(笑
こんばんは。僕も「自立した言葉」って何かなと考え、
テツさんの引用(メルロ=ポンティ)を見て思ったのですが、
詩に限らず、どうしてももの造りをはじめてしまう人にとっては、個に重点を置く、置かないという意識は特に重要ではないんじゃないでしょうか。
森の中で自然と絵筆を走らせてしまう自我と、日常の自我とを意識しないこと。
例えば、シャマンが世界と今後を見通す言葉を発するとき、自身の感情・経験はアウトラインを整えるための道具としてしか機能していないでしょうし。
結果として残る自我というものは、鑑賞者に親近感を抱かせる程度にとどまっていると思います。

言葉と「私」、主・従という二元論的発想は、オーディエンスからすれば糞尿のようなものでしょう。伝記好きな人には、その作家の肥料のほうが興味深いのかも知れませんが‥。
作品のなかで、作者の影としてあらわれる選ばれた言葉・描く色・カメラワーク等は、受信側(・発信側の両者)にとって、単にひとつの(デュシャン風に言えば、網膜的な)制作過程としてしか認識されないでしょう。
それら個を越えた動力による作品は、すでに自立し、向かう方向も定まっているはずです。
世界を別の方向へ数センチでも動かせるのは、それら超個己の言葉ではないでしょうか。
そういうのってある程度、時代精神を含んでますよね。僕はそんな詩に弱いです。

同意・共振がどの程度になるかによって、詩作の自立度合いは変わるんでしょうね。しかし、全く完全に作者の手を離れ、自立した作品なんて民謡・文様などのパブリックドメイン的なものしかないでしょう。でも自分の生活とのギャップがあり過ぎて、スリルが無いので僕はあんまり興味ありません。
いろんな人に出会い、言葉を交わしていくと、やっぱり「万人受けする魚」なんて無いんだなってよく感じることがあります。コミュニケーションなんてものは不毛ですね‥。
結局のところ、この問題は、個々人の中で終始してしまうので、この作品がどうであの作品がどうだ、なんて遊びとは無縁なんでしょう。
(以下テツさんの引用)
それが自立した詩なら、
それが僕を記号におとしめて、生まれ直した
ひとつの存在なら、記号である僕は
そうやって詩を読んでくれた人を通して
やっと息を吹き返すからだ。

私は、この捉え方には10年程前に一度で会っていまして、考えた末に離れてしまいました。
中平卓馬という人の紹介に努めた人から、教わっていまして

その当時、私が考えていたことは、断片についてです。私は、今でもそうなのですがジャーナリズムとか、共通のイメージとは何かということを、18才当時分からずに聴いておりました。それと平行して、歴史性というものを、見直そうという作業をっやっていました。つまり、詩で言えば、書こうと思っていなくても、そこに入り込んできてしまうものですね。私たちが意識しなくても、そこに読み取ってしまうものがあるんだということ。

詩は、言葉の断片ですね。そこから、読み取っていって、今の私たちにとっての歴史性として捉え直してみましょう。ということを、うかがった記憶があります。私は、前衛芸術についておもいめぐらしていたので、距離をおいていました。ただ、ことばは、社会性をもつことでみんなの財産になるんだと言うことですね。今までの、表現では、そういう側面というのは、見過ごされてきたということは、あるのでしょうか。ただ、歴史の背景に眠っていた、詩をもう一度、光の下に照らしてみるということは大事ですね。(重要な人物が隠れてしまっている可能性がある)そういう、埋もれてしまっている人たちに、ライトをあてることは、歴史の認識を変える事になりうる。忘れられてしまっていたこと、気づかれないでいたものを歴史として捉え直す作業ですね。

これに関して、言葉が無意識に内包しているイメージということを手がかりにして、書き手なら、ジャーナルナリスティックに創作していく必要がある。と踏むこともできるとおもいます。共通のイメージがポイントですかね。

断片の話は、長くなってしまったのでパスしますね。
長くなってしまって申し訳ないです。

ただ、私も、そういったことを、少し無名性と結びつけて考えてみたい。
これは、悪魔で10年前の私の解釈です。当時の私が距離をとった理由は、即断になってしまうことと。
よこchの(全く完全に作者の手を離れ、自立した作品なんて民謡・文様などのパブリックドメイン的なものしかないでしょう。)という意見に接近した意味合いがあったかもしれません。ただし、根拠は、異なっていますが。しかし、論点が、ここでは、そういうところにないのであまり、気にする必要はないと考えています。当時でも、すでに映画評論家の方が、指摘していた問題でもありますね。

今少し感想を読んで、記号としてというのは、自分はなくて良いのではないか。そういうことを感じました。論としてですがね。記号というのは、私ではなくなっていて、機能ですね。(おそらく)それは、構造として、乗っかってますよということではないでしょうか。ポンティなんて当時の私は、知りませんでしたが、構造建築なんかもそうですが、構成美はあると思いますね。溝口健二なんかの映画は、私にはそういう美学あるように想われますね。特に背景なんかもそうですが、建築で全部セットを作っている。そういうものを、感じますね。
溝口健二の補足、全部、歴史性を狙っていること。背景も全部そうではないかとおもいます。

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