ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

西田幾多郎コミュの「意識のハードプロブレム」は存在しない?

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
いわゆる心身問題というものについて、現在の日本の代表的哲学者である中島義道先生は次のように表現している。

【 今、眼の前に一定の光景が広がり、さまざまな音が聞こえ、足の裏や尻に床や椅子の感触がするということは何の不思議ないように思われます。しかし、ここにあまたの不思議がつまっているのです。大脳や神経系を含めて私の身体はすべて物質からなっております。網膜も鼓膜もすべてある種の物質です。なのに、なぜ私は「見える」のでしょうか。「聞こえる」のでしょうか。網膜から大脳に至る如何なる部分も物質の状態以外の部分はありません。この関係は考えれば考えるほど不思議なことです。 】 (講談社文庫 「哲学の教科書」p.187)

この世界にあるのは物質ばかりである、それらは複雑に関係しあいながら力学的あるいは電気的に反応し合っている。しかし、そこで起こっていることはすべて物質的というか物理的な現象でしかない。なのにここでこうして私の意識(クォリア)が生じているのはなぜなのだろうかということであろう。

しかし、この問題は百年以上も前に書かれた「善の研究」においてすでに解決されていた問題なのである。第2編第2章「意識現象が唯一の実在である」の一節を次に引用する。

【 我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。 】 (岩波文庫版P.72)

「物体現象は(意識現象の中から)各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したもの」であると述べている。つまり、意識現象(クォリア)から構成した構成物、一種の虚構に過ぎないと言っているのである。

自然科学という仮説の集合は、我々の意識現象(クォリア)と矛盾なく構成されている。何々の波長の光は青色に感じるまたは赤色に感じる、というような説明は実にうまくできていて、我々はLEDなどで自在に好きな色を作り出せるようにまでなった。そういう意味において、自然科学は十二分にこの世界を説明しているのである。

しかし、「何々の波長の光はなぜ青色に感じるのか?」という我々の意識の根源にかかわる疑問に対しては自然科学は無力である。なぜなら、もともと科学は我々のクォリアをもとにしてその上に構築された構成物だからである。我々のクォリアを自然現象に伴う「随伴現象」であるというようなことを言う哲学者もいるが、それはなんの説明にもなっていない。我々は緻密な考察を重ねて、「何々の波長の光は青色に感じる」ということを見出した。その上で、意識現象を随伴現象であるというのは、重ねて「何々の波長の光は青色に感じる」と言っているのと同じことに過ぎない。

西田のこの「意識現象が唯一の実在である」という言葉は、「心身問題」についての問いの立て方そのものが倒錯的なものであることを示している。我々は何についても必然的因果関係の枠の中で解釈しようとする癖がある。つい何でも問うてしまうのだが、意識現象の根源を問うことはできないのだ。それはすでに現前しているものである。

まず「空が青い」という事実が先にあって、光がどうの波長がどうのということを後からとってつけているのであって、その逆ではないのである。

我々の眼前に広がる光景の究極的な根拠はない。因果関係を徹底的に追及する西洋的「必然の王国」にいてはこの「ハードプロブレム」を超えることはかなわないが、西田哲学においては、この問題は始めからなかったのである。

コメント(11)

とてもわかりやすく書かれていました。
とにかく私たちが、いや私が、何かをとらえるその意識の初発の現場に立ってみようとするなら、あらゆるものーー世界も、その中のさまざまな物も、出来事も、他人も、観念や考え、感覚などもみんな、意識としてあるものだ、という所に立たざるをえませんね。
そしてそこから身をひるがえして、いろいろ考察を始めると、この意識なるものは自分の脳がしっかり目覚めているからじゃないかとか、殺されてしまったら意識も消えるか否かとか、私の意識が消えたら、それは世界の終わりなのかそれとも世界は依然として、ひとりの人間の死に関係なく続いてゆくのか、などの疑問が立ち昇ってくる。
物質とか、それを描写する科学とかは、おっしゃるように他者の意識と共同で分かち持つことができると確認されたものに私たちが与えた名前なのかもしれない。
そして「私たち」という自分と他者の共同性は、私と同じ身体を持つ生き物の類として見えているもののことで、それらが「実在する」と考えたところから出発したほうが何かと好都合だから、「実在する」という表現を与えているのかもしれない。

しかしそうすると、他人とか世界とかよりずっと濃く、最初に「ある」「実在する」という言葉を与えられた意識についてはどうだろうか。
「ある」「実在する」なんてゆう言葉こそ後から来たもので、意識のその現れ、態様こそが言葉を寄せ付ける以前に「ある」のみ(言葉で語る際にはどうしても「ある」という言葉を使わざるをえないけれども)。
そうすると、「ある」「実在する」という言葉とはそもそも検証うんぬんに関係なく、私たちが実感するものに与える極めて感覚的な言語に過ぎないということになる。

だとしたら、他人とか物体とかこの世とかに対しても、温度・濃度の差はあれども、「ある」とか「実在する」とかの言葉を使ったって、そもそもが感覚的な表現だったのだから構わないのではないか、という新たな言語にまつわる疑問が浮上してくる。
>>[2]
これは存在論でもなく懐疑論でもありません。あくまで認識論的問題として提示しました。
「意識現象が唯一の実在である」と言ってしまうと、これはおかしい。『意識現象』という言葉自体が、科学的世界観の中で定義付けられた言葉だからである。「意識」を取ってしまえば、ただの「現象」になる。西田の純粋経験である。大森荘蔵の言葉を借りれば、「たちあらわれ」という言葉が相応しいような気がする。
客観的視点や超越的視点を排除して、ひたすら実存的視点から見ると、それは立ち現れてくる。もはや「見ている」のでさえなく、単に「立ちあらわれ」と言うしかないのだと思う。
>>[3]

「意識現象が唯一の実在である」とか、「その他に実在するものは無い」とか、「実在するなんて疑わしい」とかを言っているんじゃなくて、
どのように私たちの認識は成立するかを言いたかったのだ、ということでしょうか。
>>[4]

さまざまな知覚、表象が立ち現れているその現場に一度、じっくりと注意(念、観、ヴィパッサナー、マインドフルネス)をとどめて、すぐにふらふらと言語的思考へと迷い出してしまうことを戒めるのは、西田にしても仏教にしても同じですね。
>意識現象の根源を問うことはできないのだ。それはすでに現前しているものである。

感覚器官を介さずに脳に対して物理的な刺激を直接与えると何らかの知覚が生起するというペンフィールドらの実験は、意識現象の根源は脳の物理的な活動であることを裏付けているのではないでしょうか?
>>[7]
それはその通りです。
脳のどの領域にどういう刺激を与えればどのような知覚が生まれるというようなことはある程度分かっています。科学の役割とはそういうものだと私も思うわけです。「脳の視覚野にどのような刺激を与えればどういうビジョンが生まれる」というような結果をえられれば、それはそれで科学の目的は果たされています。ところが、「意識のハードプロブレム」を言い立てる人はそれで満足はできないわけです。ここではそのことを問題にしています。

「電磁波の波長が○○の場合は青で、××の場合は赤にみえる」という結果をえられてもなおその上に、「なぜ、○○が青で、××が赤なのか」と問うてしまうわけです。

このような問いはおそらく疑似問題でしょう。「この世界はなぜこのようなのか?」という問いにつながっていると私は考えています。
物理学では「空の色は波長○○の光だから青い」と言うが、「空が青い」ということが原事実であるということを忘れてはならないと思う。波長云々というのは後付けの説明である。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

西田幾多郎 更新情報

西田幾多郎のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング