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西田幾多郎コミュの意識現象が唯一の実在である

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「意識現象が唯一の実在である」というのは、「善の研究」の第2編第2章のタイトルである。

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがある。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方であろうが、西田はそれこそが実在であるというのである。

ここで西田が言う「実在」については少し説明が必要だろう。例えば、目の前にリンゴがあったとする。我々の多くは、リンゴの実体がそこにあって、それから反射した光からの刺激を視神経が受け止めて、リンゴのイメージを認識すると考える。つまり、ここにはリンゴの「実体」と「イメージ」という2つのものが存在するわけである。そして普通は実体の方を実在すると考え、イメージの方は虚像であると考える。しかし西田は、我々にとってリアルな現実というのはイメージの方であるというのである。

このことについては、現象学の始祖であるフッサールも同じことを言っている。従来は、「リンゴの実体がそこにあるので私たちに赤くて丸いものが見えている」と考えられていたが、フッサールは「赤くて丸いものが見えているから私たちはそこにリンゴがあると確信する」と考えたのである。

よくよく反省すれば、確実に言えることは「赤くて丸いものが見えている」という事実だけなのである。むしろ実体と思われていたものは、その事実から推論されたものに過ぎない、という主張は妥当なもののように思われる。西田はリンゴのイメージを「意識現象」、そして実体の方を「物体現象」として、次のように表現している。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり(推論を通じて)論理的に構成した仮説であると言っているのである。

西田やフッサールは、従来は実と考えられていたものが虚、虚と考えられていたものが実であると主張するのである。

「意識現象」という言葉は西田が主張しようとしていることからすると適切ではないかもしれない。意識現象と言うからには意識する主体があるはずだからである。しかしここのところが西洋哲学と西田哲学の大きな分かれ目となる。、西田は主体を設定せず、「意識現象」がただ「実在である」とだけいうのだ。

    では、その「意識現象」はどこにあるのか?

西田はそれを「場所」と名づけた。どこの場所か? 実は「場所」はどこの場所てもない場所である。どこでもないどころか、いかなる形容もできない、何ものでもないそのものに、あえて「場所」と名づけたのである。何ものでもないところから、それは「無の場所」と呼ばれる。

あえて言うなら、それは映画のスクリーンに例えることができるかもしれない。
映画のスクリーンは白い布でできているので無とは言えないが、それは我々が映画をその外側から見ているからである。映画の中に入ってしまえば、スクリーンそのものを見ることはできなくなる。映画の中の世界においてスクリーンは「無の場所」と言える。

無の場所に意識現象(純粋経験)が自己展開されていく、というのが西田哲学の主張するところである。これは禅者の見る世界と一致しているように見受けられる。

次は、道元禅師の正法眼蔵の有名な一節である。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

ここでいう万法とは、自分の感官に触れるものすべてという意味である。目の前にそびえる山、鳥のさえずり、ほおをなでる風、カレーライスの匂い、これらのすべてを万法と呼んでいる。西田の言う「意識現象」(純粋経験)のことである。

ここに認識する私(自己)というものはない。私(自己)は経験する主体ではなく、経験の中に顕現してくるものである。西田も道元も固定的な私(自己]は想定していない。禅者は雲を見れば自分が雲になるという。音楽を聴けば自分が音楽になるという。これが「万法に証せらるる」ということである。固定的な私はない。私は経験の中にダイナミックに成立しているのである。

私はこれを一元論的素朴実在論と呼びたい。

コメント(17)

御坊哲さん、とても勉強になる論述をどうもありがとうございます。

>物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり(推論を通じて)論理的に構成した仮説であると言っているのである。

「と言っているのである」ばかりではなく、ここにはすでに私以外にさまざまな人が存在している、ということが前提されていないでしょうか。
>>[1]

もちろんそうです。
我々が通常「物理空間」と呼ぶ各人共通のものを措定し、その中における各人の位置や個物の位置それらの間の距離や角度について、整合性のある関係性を物体現象と呼んでいるのでしょう。
>>[2]

そうすると、西田先生は無意識のうちにさまざまな他者やさまざまな物体が実は実在していることを前提しながらそれを否定するという気づき損ねた自己矛盾におちいっているということでしょうか。
>>[3]

>さまざまな他者やさまざまな物体が実は実在していることを前提しながら‥

違います。さまざまな他者や物体は意識現象として実在しているのであって、物体現象として実在しているのではありません。

西田は意識現象と物体現象という二元論を否定しているだけです。あえて言うなら「意識現象」だけが実在である、と言っています。意識現象と物体現象という二元論の枠組みでとらえる限り、内在は意識現象の方だから、自分の外部にあるとされる「物体現象」は論理的構成物と見るしかないわけです。
失礼します。前回このコミュニティーにはお世話になりましたので、少し貢献したく思いまして、参加させて頂きます。
自分が未熟であることは自覚しておりますが、率直に意見を述べようと思います。非礼などあれば、お許し下さい。
  ※
御坊哲さんの発問と、78910さん二人での議論を、私が全部正確に理解出来ているとは思えず申し訳ないのですが、どうもこれらの議論の実益が見えて参りません。

御坊哲さんは、純粋経験というものを、未だ概念として理解出来ていない者のために、導入となる記述を目指されたのでしょうか。
そうであるならば、大きな意味があると思うのですが、

「では、その「意識現象」はどこにあるのか? 」という問題提起では、かえって純粋経験とはどのようなもので、それはどのようにして実感・体得できるのか、という本来目指すべきだと私の思う方向性を離れる気が致します。

また、お二人でいくつか議論を重ねておられますが、私の感じる限り、すでに純粋経験という概念を獲得され、その実践についても身につけておられるであろうお二人が、改めて純粋経験の概念の説明における言葉の違いにこだわって議論なさる理由が、私には理解しかねます。
  ※
私は、西田幾多郎は、「善の研究」しか知りませんが、これはもともと高校生を相手に倫理の授業として、生きる指針を学ばせる目的で説かれたものであると聞いております。
ならば、本来は、実践的に私達の生き方の支えとなるべきものです。
私は、現代人にとっても(むしろ現代人にとってこそ)、同書を通じて西田幾多郎が伝えようとしたことが、伝わるならばきっと大きな心の柱となると、実感をもって思います。
そうであるならば、すでに瞑想をもって純粋経験を実践できる域にあるようなお二人が、説明に用いる言葉に関して、原典以上に難しく説明し直すような議論をなさっていて良いのでしょうか。
より平易に、実体験などを用いて、未だ純粋経験という概念を思考するばかりの方々に中身を伝えようとするべきではないでしょうか。

本来、哲学というのは、生き方の糧とならなければならないと思います。たしかに、学問的に概念を整理することに意味もあると思いますが、初めて西田幾多郎を知ったばかりの者も多いであろうこのような場では、より生き方の糧となる哲学を論じるべきだと、このように私は思います。

これこそが、純粋経験を通じて自己実現を果たした者が、「他愛」を通じてさらに自己実現をする方だと思うのです。既に理解の達したお二人が、西田幾多郎の実在論を議論するのであれば、いかに平易に、わかり易い言葉で伝えるか、という観点から議論なさって頂きたいと思いました。

 ※
ただ、御坊哲さんの、道元に関するお話は、興味深く思いました。
「万法に証せらるるなり」という境地がいかなる実感を伴うものなのか、ー西田幾多郎の言う「愛」・「自己実現」・「神の面目を捕捉」する地点と類似するならば、ますます西田幾多郎の説く心の柱が強く太く育つと思うのです。

長々と失礼致しました。不快に思われるようなことを記してしまい、申し訳ないです。
改めて、御坊哲さんの発問を見直すと、原典以上に難しいというのは、少し言い過ぎだと思いました。すみません。ただ、ただでさえ独特の造語によって説かれる内容を、新たにご自身の造語によって説き直すことは、ある意味で難解と思うところです。
>>[7]

純粋経験については西田の定義そのものが一貫しておらず、人々を混乱させる結果ともなっています。このことについては、いずれトピックを改めて設けたいと考えています。しかし、結論から言えば純粋経験はそれほど難しいものでもしんぴてきなものでもありません。あなたが見ているディスプレイ、指先に感じるタイプの感触、朝食のにおい、これらはすべて純粋経験です。感官に触れるものすべてが純粋経験であります。あまりに身近すぎて説明しずらいという程度のものだと考えています。

>本来、哲学というのは、生き方の糧とならなければならないと思います。たしかに、学問的に概念を整理することに意味もあると思いますが、初めて西田幾多郎を知ったばかりの者も多いであろうこのような場では、より生き方の糧となる哲学を論じるべきだと、このように私は思います。

率直に申しまして、純粋経験がよりよい人生にどのようにつながるのかというような道筋は私には見えておりません。そのようなところに到達する以前の所を私は論じています。
哲学への向き合い方は人それぞれです。実践的な生き方への模索をする人もいれば、私のように何の役にも立たない趣味の哲学をしているものもいます。ですから、G.L.Eさんの要求にはお答えできないかもしれませんが、このようなトピックスがあってもよいのではないかと私は考えるのです。
一昨年の夏、富士山頂に登り、御来光を見て参りました。頂上に至るまで休憩と仮眠を含めて約17時間登り続ける中で、日々の生活に埋もれて心に付いた“くすみ“が、振り落とされるような清々しさがありました。そして、8月にしてはやはり寒かったですが、天候にも恵まれ、無事、御来光を拝むことができました。
その光景に抱かれて思ったのは、自分が大自然の中で生かされている、ということでした。大宇宙の中の、小さな存在であることを感じるのです。しかし、不思議と体中に勇気が満ちて幸福を感じた瞬間でした。
こうした体感は、周りに聞く限りですが、大自然に面した比較的多くの方が共有するものだと思っています。

しかし、再び日々の生活に戻って時間が過ぎると、私は、どうしてもこうした感動の瞬間を失っていました。忘れることはなくとも、あの時抱いた勇気や幸福に満ちた思いは、所詮私の頭の中で脳の電気刺激によって生じた、私の作為によるものではないか、と疑ってしまう時がありました。

しかし、西田幾多郎の実在論を前提とする限り、本当に確かなもの(実在)は、後に振り返って疑いを向けて得た分析ではなく、大宇宙の中で生きる私の、勇気や幸福に満ちた瞬間の実感なのですよね。

 ※
私は純粋経験は、こうしたものと思っています。御坊哲さんには、きっと理解して頂けると思います。
そして、西田幾多郎の思想は、理論を用いて理性に訴える方法で、直感によって得た実感の世界、精神の世界に目を向けるための道を切り開くものだったと私は思います。
おかげさまで、私は自信をもって、私の実感する精神世界を信じてよいのだと励まされました。西田幾多郎の実在論は、大きな心の支えとなっています。

 ※
私は、決して御坊哲さんのなさる思索や、こうした記述が何の役にも立たないとは思わないです。それは、「真摯に考え真摯に生きんと欲する者は必ず熱烈なる宗教的要求を感ぜずにはいられない」ことの現れであると思います。西田幾多郎と出会われた御坊哲さんの歩みを尊敬いたします。

ただ、迷い、苦しんいる人を多く見掛けるこのような場所では、理解の及んだ者としては、そのような方々に向けて西田幾多郎の思想を開いて用意して差し上げる役割があると思った次第です。
西田幾多郎の『善の研究』に関しては、第一編・純粋経験、第二編・実在、ばかりではなく、第三編・善、第四編・宗教も視野に入れて、議論が成されればと願う次第です。

おっしゃる通り、あくまで私の考えにすぎませんので、これからも御坊哲さんの思うようになさって下さい。
少し、私の考えを押し付けるように記してしまい、申し訳ございませんでした。お許し下さい。
>>[3]

【「西田先生は(純粋経験を唯一の実在とする中で)無意識のうちにさまざまな他者やさまざまな物体が実は(物質的に)実在していることを前提」しているのではないか?】

やっと理解が及びましたが、鋭いご指摘と思いました。
御坊哲さんにおかれましても、私の自己主張ばかり先行させてしまい、申し訳ございませんでした。恥ずかしい限りです。

 ※
前提として、一言に純粋経験といっても、私は、個々の純粋経験には濃淡、密度、温度の違いがあるイメージなのですが、どのように思われますか?
例えば、物語ですが実在の人物と仮定して、メロスが日々仕事をこなす際の純粋経験、妹の結婚式に参列する際の純粋経験、セリヌンティウスの元に戻る中で精根尽き果て諦めかけた際の純粋経験、期限までにセリヌンティウスの元に戻ることができ抱き合って喜んだ際の純粋経験、いずれも純粋経験ですが、より高濃度で高密度で高温度のものがあると思うのです。

ここで、御坊哲さんのように、五感によって知覚して実感する世界をもって純粋経験と定めるならば、他者は、自己が知覚する者として存在するという意味で、「さまざまな他者や物体は意識現象として実在している」という答えで正しいと思います(御坊哲さん、誤った理解であればすみません)。

しかし、私は、もう少し、純粋経験を「しんぴてき」なものと考えています。比喩的には、ある程度の濃度、密度、温度のあるものと考えています。
そして、他者の実在は、その者と純粋経験を共有する中で、感得するように思います。
例えば、メロスが期限に間に合いセリヌンティウスと抱き合って友情を感じる場面では、セリヌンティウスも同じだけの友情を共有しており、そこでは同じ感覚を二人の人間が不思議と共有している世界が存在します。これに感動した王様も、友情の輪に加わることになります。ここにおいて、三人は、同じ思いを実感する者として、自他の区別なく(純粋経験の中で)実在するのだと思います。
この輪に加わる以前の王は、メロスやセリヌンティウスからすれば、「未だ実在の無い他者」であったと思います。しかし、それは全く実在が無いのではなく、愛を交換する純粋経験の中で実在「しうる」相手として、「潜在的に」(純粋経験の中で)実在するのではないでしょうか。
したがって、(言葉が適切か不安ですが、)純粋経験を唯一の実在とするならば、それを自他の区別なく共有する存在として純粋経験の中で現れてくる者を他者といい、純粋経験を実在と認めることがすなわち他者の存在を認めることであると、私は思います。
なので、ここに自己矛盾は無いかと。
近日中にトピックを新たに設けて、純粋経験について論じてみたいと考えています。「善の研究」における純粋経験についての定義は錯綜していて、西田自身の混乱が見受けられます。結局西田は純粋経験の定義に失敗したのだと思います。これ以降の論文では、西田は一切純粋経験という言葉は使用しておりません。
結局、経験を純粋経験とそれ以外の経験に分離することが出来なかったのでしょう。安井先生は、経験はすべて純粋経験なのだと言っておられます。私もそのように考えるべきだと思っています。

>三人は、同じ思いを実感する者として、自他の区別なく(純粋経験の中で)実在するのだと思います。

禅の研究を読めば確かにそのように読めます。しかし、これには私は異を唱えたいと思います。これだと、例えば、剣の名人同士が無念無想で真剣で切りあった時、切ったものが切られ切られたものが切った、というような状態があり得るかのように想像してしまいます。実際はそんな神秘的なことはあり得ない、血を流しながら倒れているほうが切られたに決まっているのです。
>>[11]

もうこれ以上議論するつもりはありませんが最後に書かせて下さい。

私は、『善の研究』しか知りませんが、そこで純粋経験という概念は十分な役割を果たしていると感じます。
純粋経験という概念の主眼は、唯物的な世界観を打ち壊して精神世界に目を向けさせることにあると思います。
その上で、純粋経験という概念は、 ー善に生きるには私たちが自己実現を目指す必要があること、その自己実現は他愛の中で果たされること、真に自己実現を果たす境地にあっては無限の愛、無限の喜悦にあって神の面目すら捕捉できることー こうした精神世界に価値を置く生き方の指針を導くための確かな足場となっていると思います。
そもそも、すべての事象を純粋経験という概念に当てはめようとして、説明出来ない例があるから、純粋経験は「その定義に失敗した」ものだ、という議論は西田幾多郎の本意でないと思います。
安易に「失敗した」などと評価して頂きたくないと思いました。
私たちは人間社会の中である程度成育すると、もうお互い同士が共通に分かち合っている認識が先にある事実かのように考える思考回路にあぐらをかいてしまう。ところがフッサールにしても西田さんにしても、「いやいや、自分における認識の成り立ちそのものに立ち帰って見届け直してみよ」と私たちに指示する。
そうすると、人間社会で私たち全員が共同的に分かち合う「あれがあり、これがある」という諸実在の認識が先にあるのではなく、むしろ私個人の意識に映じるさまざまな表象のたわむれこそが最初にあったものに他ならないと誰でも確認できる。
御坊哲さんとは別のところで「意識は存在しない」という議論をしています。しかし同時にわたしは、「意識一元論」を重要視するとも言ってます。そこのところを「矛盾だろ」と突っ込んでもらえると期待していたのですが。
論者おのおのが「意識」なる言葉でどんなことを媒介するのかが関心なので、「意識というもの」をありとするか無しとするかというのは別の話だ、というのがわたしの考えです。

ド頭から物質(物体)の実在を前提するのは独断論の一種なのでやらない、とヘーゲルも言ってるようです。意識一元論は西田さんの独創ではなく、わりとポピュラーな考えだと思います。
>>[14]
この件に関しては、近いうちに「哲学が好きコミュの独我論ってどうなんでしょうか?」で意見を述べたいと考えています。
まず純粋経験の事実が把握されて、その上で初めて個人における自己が自覚されてくる。
純粋経験に焦点を合わせて、自己の自覚と純粋経験の自覚をともに深めてゆくと、「純粋経験こそ唯一の実在としてすべてを説明しうる」という場所が開けてくる。これが西田さんの言う〈判断的一般者〉の場所だ。
さらに自覚を深めてゆく時、西田さんの言う〈自覚的一般者〉の場所が開かれ、これが〈判断的一般者〉の場所を包摂するに至る。
自覚の深まりはさらに〈表現的一般者〉の場所を開き、この時にはまだ安定的ではないものの瞬間的に〈絶対無〉の場所が開かれる。
西田さんにとって純粋経験の世界は歴史的実在の世界としてとらえられるに至る。そこは自己の自覚と世界の自覚が一つであるような〈制作(ポイエーシス)〉の世界だ。あらゆる物は想像的に作り出される。
〈制作〉の世界では自己は万物に見出されるとともに、同時に常に絶対矛盾的自己同一的に、あらゆるものと区別された個的自己が自立している。

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