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長篠・設楽原の戦いコミュの『信長公記』『松平記』の記さない「空白の2日間」とは?

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言うまでもなく、『信長公記』は信長サイドの太田牛一が記し、『松平記』も徳川氏の創業史という性格を持つものであります。

『信長公記』には、5/21の決戦の3日前に信長は設楽原の極楽寺に本陣を構え、馬防柵の構築や、設楽原の地形の解説、20日に長篠城を監視する鳶ケ巣山砦などを奇襲するための別動隊の出陣の解説の後、いきなり21日の決戦と話が移り、19〜20日の決戦場周辺の様子が書かれていません。

20日に信長が京都にいる長岡藤孝に宛てた書状には、「18日に鉄砲放を押し詰め」とあることから、織田・徳川連合軍の先遣部隊が長篠城付近まで押し寄せたと推測する書籍があります。

『松平記』にも、19〜20日の様子が抜けていることから、信長や家康にとって都合の悪い出来事(先遣部隊の敗北?)があり、牛一や『松平記』の筆者がそれぞれの記録に残さなかったと、学研M文庫・『日本戦史戦国編2』内の「第4章 長篠合戦の戦略」河合秀郎氏は述べている(『松平記』にもないことは先程自分が気付きました)のですが、皆様はどう思われますか?

直接戦いの勝敗には影響しなかったかもしれませんが、河合氏は連合軍先遣部隊を追撃して、連子川付近まで武田軍は釣り出された、と解説されています。

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