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ココが変だよ「日本の教育」コミュの道徳を「教科」に

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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=192225&media_id=20
道徳を教科に・数値で内面の評価はできない
(読売新聞 - 04月11日 01:51)
 「道徳」を、国語や算数などと同じ「教科」にする――。安倍首相直属の教育再生会議は5月の第2次報告に、そんな提言を盛り込む方針だ。

 今は小、中学校に週1回の「道徳の時間」がある。文部科学省が作った「心のノート」、民間の教材会社や教育委員会作成の副読本、ビデオなどを使って授業をしている。試験はなく、5、4……といった数値評価もしていない。

 それを学習指導要領上、小中高校の正式な教科にしよう、というのだ。

 「道徳指導に熱心でない教師がいる。教科の意識を持てば、しっかり教えてもらえるだろう」。教科化の理由を、再生会議はこう述べる。すべての児童生徒がきちんとした道徳観、倫理観や規範意識を学ぶことに異論はない。

 2000年、小渕―森内閣の「教育改革国民会議」も同様の提言をした。「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの教科を設け、専門の教師や人生経験豊かな社会人が教えられるようにする」という内容だ。

 当時は、新しい学習指導要領の実施が1年半後に迫っていたため、道徳の教科化は具体的には検討されなかった。

 ここに来て、再び再生会議が議題にしたことの背景には、安倍首相の提唱する「美しい国」づくりがある。折しも、学習指導要領は改定作業の真っ最中だ。提言内容によっては、そこで道徳の教科化も論議される可能性がある。

 教科になったら、成績評価はどうするのか。再生会議では、数値による評価はしないことでメンバーの意見が一致したという。妥当な結論である。

 今の道徳教育は、細分化された「徳目」や知識を教え込むものではない。社会生活の基本となる道徳的価値、自分自身のあり方・生き方、他人や社会とのかかわり方、規範意識などを自覚させ、道徳的実践力を身につけさせるものだ。

 進み具合は児童生徒一人一人で違うだろうし、内面の価値観を教師が数値で評価すること自体、困難だろう。

 「総合学習」や、東京都が今春から高校で必修化した「奉仕」では、記述式評価が採用されている。そうした方法も視野に入れつつ検討してはどうか。

 教科書について、再生会議は「多様な教科書を用意して、選べるようにする」方針だ。道徳教員の資格に関しては、今後の議論だが、「地域の人も、保護者らも道徳の教師になりうるのでは」としている。地域の力を、ぜひ活用したい。

 道徳の時間が設けられてほぼ半世紀がたつ。より良い道徳教育に向けて、議論を深める好機ではないか。
=====================================

まだ最新の道徳の教科書を読んでいないのですが、個人的にはわざわざ道徳として教科にするよりもその時間を歴史等の時間に割り当てて歴史と共に自然に身に付く方がいいような気がするのですがどうでしょうか。


ちなみに私は代々東京育ちなのですが、関西と関東では小学校の道徳教育の内容が違ったというのを成人してから知りました。

関西では「同和問題」を道徳の時間に取り上げて「部落の人達や在日の人達を差別しちゃいけません」と教えていたそうですが、東京ではそういう教育はありませんでした。

歴史の授業で「えた・ひにん」について学ぶ時に「そういう人達は単純に河原の近くに家があったからとか、そういう理由で勝手にえた・ひにんにされてその後部落って名前が変わったんです。その人達、何にも悪くないですねー」と習っただけですがそれで充分納得いきましたし。

高校では歴史から紐解く道徳教育という視点と「奉仕」が必修化となってますが「奉仕活動を最低何日以上したという第三者の署名が必要」とかではないんですかね?小学校から単位を取るための「奉仕活動」をさせると逆にダメだとは思いますが高校の場合はその方がいいと思うのですが。

コメント(117)

19以来の書き込みになります。
熱い議論がなされている中、水を差すかもしれませんが…。


このトピックは、道徳が「教科」として位置づくことについて
議論するためのものではないのですか?
皆さんの意見はとても具体的で興味深いですし、
それぞれの言いたいことも非常に本質をついたものだと思います。

しかし、テーマが「道徳を『教科』に」なのに
どちらかというと道徳一般、あるいは教育そのものに対する
議論になっているように思えてなりません。
結局のところ、皆さんが述べているような
道徳や教育を前提とした時、
道徳が「教科」になるとどういう事態になるのでしょうか?
その辺が今のところ見えてこないのです。


僕自身の考えとしては、
今の道徳教育は多くの問題を抱えていると思います。
これまでの意見でも似たような意見が
取り上げられていたと思いますが…例えば以下が挙げられるでしょう:
・授業で伝えられる徳目を身につけていない教師がいる。
・徳目に対してとにかく従順になることが求められ、
 批判的に考えることが許されない授業構成になりがちになる。
・学校で道徳授業以外で道徳観を伝えようとする意識が
 多くの学校・多くの教師において乏しい。


これらの問題は、道徳が教科となることで解決される問題でしょうか。
個人的には何の解決にもならないと考えますが…皆さんはどうですか??
トピずれ通り越して大脱線失礼しました。
さぬぅさんが挙げられた点も大きな問題ですが「道徳」「社会通念」と現実の矛盾を誰がどう伝えるのかというのも課題として残りますね。戦争はいけないと世界でいちばん歴史の授業で教えてる国ですが「でもいまも戦争はあるのは何故か?」とか「軍隊を捨てた国もあるのに日本はどうして自衛隊という名前で軍備をしているのか?」とか。

さぬぅさんの挙げられた項目については道徳を「教科」とする事で更に手抜きな道徳の授業が展開される恐れがありますね。ついでに教科にすることで採点される訳ですから通知表の査定でとりあえず「親や教師が聞いたら喜びそうな事」を作文に書いたり意見として述べたりする子が高い査定をもらうんでしょうね。

疑問を持つことから学び始めるタイプの子が損をする世の中になりますね。ただ、それは他国の教育にもある危うさで、例えばヒットラーの「我が闘争」を読んだ経験があるというだけで危険分子とみなす国はたくさんあるんですよ実は。

私はまだ読んだことがなく、そのうち読もうと思ってるんですがそれを言うと「何故読もうと思うんですか?」と聞かれる。私は「批判する相手をより知った上で批判したいから」と答えます。ヒットラーを崇拝する訳ではなく、「何がいけないのか」をより知る努力をしたいというのも実は簡単には伝わらないのが各国共通の事実なようです。

とりあえず日本の道徳に宗教的なものが持ち込まれない限りはいいんですが他国は宗教持ち込む場合が多いですからそれは嫌ですね。
息子の小学校では総合学習(だったのかなぁ?)の時に警察署から警官を呼んで実際にエクスタシーとかスピードとかドラッグの現物を見せてもらって学習したみたいですよ。親向けにって冊子ももらったけど中身見たら「私全部知ってるからお前読め」と息子に返しましたが。

その中身について、担任に具体的に「大麻取締法違反と覚せい剤取締法違反は罪の重さが違って、マリファナは大麻、スピードは覚せい剤に入るから逮捕された時の扱いが違うという事が書いてない」とか「乱用してはいけない薬物の中に向精神薬が入ってたが、今はネットで購入出来る世の中だから確かに問題だけれども向精神薬、精神安定剤、睡眠導入剤は乱用が問題であって精神疾患の人や現代病とも言える鬱病、不眠症の人達にとっては健康を取り戻すための大切な薬だからそこを誤解させない方がいい」と言いに行ったのですが担任も忙しい中廊下を歩きながら「はい、はい」と聞いてたから私が言った話は教室ではしてないだろうなぁ。息子には説明したけど。

せっかくいい授業をしてもやはりどこか抜けているところはあるはずだから、それをフォローしていく事も考えて欲しいですね。
@さぬぅさん

はじめまして。

おっしゃる通りですね。
私的結論を先にいえば、道徳を「教科」にすることには反対です。教科にすれば必ず「評価」が必要になりますし、評価は客観的でなければならないため「数値化」が必要になります。はたして「道徳」が「数値によるランク付け」に馴染むのか、非常に疑問なのですね。
都立高校で導入が決まった「奉仕活動」の義務化も、結局は「数値的評価」に帰結せざるを得ず、非常に違和感を感じます。私が最近の「公教育」に懐疑的なのも、「日の丸・君が代」の強制や「つくる会の歴史教科書」の採用などと合わせて、疑問だらけだからです。

さて、道徳って学校だけで教えられるものでしょうか?
それこそ、家庭や地域の「教育力」を総動員しなければできないものだと思います。

また、教育基本法「改正」で盛り込まれた「愛国心」の植え付けもとんでもない話だと思います。だいたい、自信のない国家ほど教育を通じて愛国心を植えつけようとしますね。まず「愛される国づくり」が先なのに。一方的に「愛せ」というのは、ストーカーと変らないでしょう。基本法に「教育の目的」として盛り込まれた以上、学校だけでなく、家庭教育や地域教育でもそれを目指さなければならなくなりました。私立学校も例外ではありません。

そこで、国家に言われるまでもなく、「道徳心」をいかに育むか(「そんなもん、育まなくてもいい」という意見は、また別の議論になります)を考えた場合、やはり学校のウェートは無視できません。そんなとき、「電車で騒ぐ子ども」→「私立が悪い」というような主張を見たとき、「ちょっと待ってくれよ」と言いたくなる立場も理解していただきたいのです。

「統制」から「放任」に至るまで、教育方針は家庭によって様々だし、それでいいと思います。ただ単に「公立=雑多な子ども達の間で揉まれてハングリー精神を養えて逞しく育ち、その後の人生でもへこたれない」という「ステレオタイプ」の認識が、私が知る世界では「ちょっとズレてるな」と指摘したかったのです。

人生は長いようで短い。
「すべてを経験する」ことなど不可能です。私も若い頃は「なんでも経験したい。いろんな人と交わりたい」と思っていましたが、さすがにこの歳になってそんな「青春ドラマ」のような「純粋真っ直ぐ」が通用しないとこはわかってきました。世の中には、「経験しなければならないこと(交わらなければならない人」「経験したほうがいいこと(交わった方がいい人)」「経験しないほうがいいこと(交わらない方がいい人)」「経験してはならないこと(交わってはならない人)」が存在するのです。

「教育はともに未来を語ること」(ルイ・アラゴン)ですが、「語るに足る相手」は万人ではありません。

私は、教育、健康、福祉などの現状を取材しています。
特に教育に関しては「衣食住が足りれば、次に家計を振り向けるのは子どもの教育」ということを経験を通じて知っています。それだけ重要なテーマです。イズミさんがおっしゃるように、教育は「結果論」でしか測れないのです。やっている最中は誰もが暗中模索、五里霧中でやっているのです。「正解」なんかありません。

それだけに、「自分の方針」を正当化したがるのです。
自分も教育を受けてきたし、自分の子供の教育にも携わった(携わっている)。「誰もが一家言もっている」(ジャーナリストの斎藤貴男氏)のです。百人いたら百通りの「教育」があるのです。それを邪魔されずに貫きたいのです。いや、少なくとも、自分のやっている「教育」が「間違っていない」と信じたいのです。私が言いたいのは、私が信じる教育を実践する上で、「邪魔になる」環境には自分の子どもを置きたくはない、ということなのです。それがほかでもない、公立中学なのです。イズミさんのおっしゃるような「しっかりした自律的な子ども」が多いのなら、私も安心して公立に子どもを行かせるでしょう。しかし、現状はそうなっていないから問題なのです。私が挙げた麻布の後輩や単身赴任の方々の生の声は見事に無視されていますよね(高橋秀樹さんの著書や東京新聞の「携帯」の記事の言及も無視されました)。それもそのはず、それらの「事実」を認めたたら最後、公立に子どもを行かせる(積極的動機の)「根拠」の根っこが揺らぐからです。

私はワーキングマザー(働くお母さん)の生の声も聞いています。そこで感じるのは、働くお母さん方が仕事で忙しくて「あまり子どもに向き合えていないのではないか」という一種の「後ろめたさ」を感じているということです。本来なら、そんなことなど気にせずに仕事と育児の両立ができるような社会体制の構築が急がれるのですが、なかなか現実は動きません。だから、働くお母さんは教育に「熱心」になるのです。それは「過度のコミットメント」だけではなく、「放任主義」のお母さんも「私は確固たる方針に基づいて、意識的にそうしているのよ!」という、意地にも似た感情さえ働いているのです。ですから、それにちょっとでも批判的・否定的な事実・意見・考え方が提示されると、自己防衛本能が機能して、過剰に攻撃的に「反撃」に転じるのです。そんなことは、20年来の経験でわかっているのです。

それを否定するつもりはありません。
ただ、どのような「方針」を持とうとも、他者の「方針」をぶち壊すこと、具体的には最低限、教室での授業を妨害すること、それだけは絶対に止めていただきたい、ということなのです。そして、残念ながら、現在の公立中学では、それをお願いしても学校以前に、「独自の方針」をもった親御さんたちに理解はされないだろうな、ということです。「ハングリー精神」けっこう、「草に寝転がって大声で笑う」のもけっこう。しかし、真面目に「人格の陶冶」と「心身・学問の修練」を学校教育に期待している人々の妨害はしないでほしい、ということだけなのです。

ましてや、「子どもの教育に関して親や大人が出来ることは殆ど無い」というのは、私に言わせれば、この問題を考える「土俵」に立つ気さえない「暴論」に思えるのです。だったら、このコミュに出入りしなければいい。学校における「道徳の教科」問題も、つまるところ、そこに行き着くと考えるからこそ、あえて議論に加えさせていただいているのです。
傍観していましたが、ちょっと失礼します。
>トムさん
>>いいも悪いも親が決め、ご自分の価値観のコピー人間を作りたいように私は感じますが

Pierreさんには申し訳ありませんが、私もそのような感じを少し受けました。大人が子供の道を敷いてしまう事によって、子供は夢を持つ事を失います。これ、私。

子供の考えより、自分の考えが先。そんな親、特に母親の影響が強かったために、夢なんか無かったですね。母親を喜ばす事で一生懸命だった子供で、それが目標でしかなかった、そんな子だったかもしれません。

でも、反抗という形は「心の病」として現れましたよ、ちゃんと。非行に走ったわけではないですが、摂食障害になりましたね。これも、反抗の一つの形です。ま、いまでは完全に治り、人生再スタートというか、まだ大学生していますが。


道徳の話に戻すと。。。
私も教科としての道徳には納得いきませんね。「価値観」って頭ごなしに教えられるものじゃなくて、特定の社会のなかで習慣として、身についていくものだからだと思うのです。

また、道徳が成り立つときって、ある社会あるいは地域が特定の価値観を強く持ち、均質性があるときに成り立つような気がします。(アジア圏の教育は、本来、儒教や道教の影響が大きく、「集団」を意識したものですね。)

でも、今日の日本において、人と人のつながりが様々な要素で希薄になっています。人を見た目や所有物(例えば車とか家とか洋服とか)で判断するようになってから(つまり消費主義)、人間は他人と競う、比較する事になぜか夢中になっているような気がします。また、その事によって、「階層」が生まれつつあるような気がしますが、話がそれるので。そいう社会において、「モラル」があっても価値が見出されず、むしろ権力や消費・購買力によって人間が評価されがちなのではないか、と感じます。(あくまでも、一論です。)

教科として道徳を教えなくとも、学校の様々な場面で道徳的価値観を教える事ってできますよね。例えば、子供が喧嘩したときとか、給食を残してしまったときとか。こういううときに、教師が「叱る」のでなくて、「理由」を示し子供の価値観と照らしあわす。そして、子供の価値観と先生の価値観が違うのであれば、十分に論議をしたらいい、お互いが納得するまで。ここで、先生の「力量」が試されるべきなのだと思います。

道徳を教科にして「評価」する事の意味が全く見えません。モラルが無い子供は、親がモラルが無いからであって、完全に子供のせい、とは言いきれませんもんね。道徳心の無い親の子供にいくら、学校で道徳心を教えても身につくはずがない。親に道徳心があって、初めて子供は親から吸収した道徳心を学校という場、小さな社会、において実践できるのだと思います、学校は、その道徳心の形成を手助けするだけの機能しか持たないと思っています。評価をするところではない、というわけです。
私と対話してくださっている皆さん

「道徳を教科に」のトピの趣旨から離れて、そもそもの「教育論」「親子関係」に大きく話題が広がっているようです。

そこで、「道徳を教科に」以外の論点に関しては、別のトピで語り合いませんか?
これまでにそういう趣旨のトピがあったならそこでもいいし、私が新たに「自分の子どもをどう育むか」(仮題)というトピを立ててもいいです。

共有できる一致点が見出せるかどうかはわかりませんが、いかがでしょうか?
>ひでさん
>基本的には周りの大人や教師は子供のファシリテーターであるべき、という点で根底では一致しています。

はい、私は基本的なラインはひでさんと同じ考え方ですね。

>pierreさん
別トピ立てて頂いて構わないと思います。親子関係は教育の基本ですし。でも「自分の子供をどう育むか」というよりも社会として(大人として)子供にしてあげられる事っていう側面も大事だと思います。子供を学校に入れている以上、自分の子供だけでなく他の子供との接点も生まれますし、公共の場で子供と接する事もありますし。自分の子供は自分だけが育てている訳ではないですからね。
あの、ぜんっぜん関係ないですけどpierreさんて意外にギャルい文章に抵抗ないですよね。半角小文字を多用するし、「茶髪」とか「携帯デビュー」とかそういう言葉も自然に使ってるし。それを非難してるんじゃないですよ。mixi見てると意外に「そこにだけはうるさい」人の方が目につくので。ていうかこれも私のADHD的こだわり観点なんで鬱陶しければスルーしてくださって構わないんですが。
@☆トムぉっchi★さん、イズミさん

ありがとうございます。

>でも「自分の子供をどう育むか」というよりも社会として(大人として)子供にしてあげられる事っていう側面も大事だと思います。自分の子供は自分だけが育てている訳ではないですからね。

待ってました! 大賛成です!!
では、新トピの「仮見出し」、考えますね。

>pierreさんて意外にギャルい文章に抵抗ないですよね。半角小文字を多用するし、「茶髪」とか「携帯デビュー」とかそういう言葉も自然に使ってるし。

ははは。
女子大生はじめ、仕事柄いろんな年代、職業の人と接触する機会が多いので、「許容範囲は広い」つもりです。「茶髪」「携帯デビュー」も、とくに若い女性記者が使っているので、自然と「抗体」がなくなったんじゃないでしょうか。「バリキャリ」とか、「リーマン」とかね。教育や福祉、労働、地域づくりなど「生活まわり」全般を扱うセクションなんです。

半角カタカナは、全角が大きすぎて鬱陶しいので使っています。

>それを非難してるんじゃないですよ。

わかってます。
ていうか、私のこと、相当の「オヤジ」だと思っていませんか?(怒、笑)

>mixi見てると意外に「そこにだけはうるさい」人の方が目につくので。

別に美学とか、こだわりとかはないです。ネットでニュース原稿書こうと思わないから。

>ていうかこれも私のADHD的こだわり観点なんで鬱陶しければスルーしてくださって構わないんですが。

いいですよ。

ところで、ひでさんの、
「授業妨害をしないで欲しい、というのはどの親でも共通のお願いだと思いますが?w 」
について書こうとも思ったんですが、息子の教室の「崩壊」は、「多動」によるものではないか、と他の親御さんと話したことがあります。だって、授業参観で親が見ている前で、席を立って歩き回る、じっとしていない、私語をやめない、紙ヒコーキと飛ばす、ですからね。見かねた親が注意しても止めない。歩き回る子の親は来ていなかったようですが。

教育担当の記者によると、「ADHDは脳の発達障害で、学級崩壊の一番の原因。家庭教育のあり方とは直接関係がない」そうです。しかし、全員がADHDであるわけがないので、多くは「便乗」で騒いでいるだけと思われますが。

担任の先生がご家庭の事情でコンスタントに学校に来れなくなって、複数の先生がもち回りで息子のクラスの面倒をみるようになったのも原因かもしれません。「自分の子どもくらい、しっかり家で躾けてから学校によこせよ」と思いましたが、そうなると他の可能性も考えなければなりませんね。
>pierreさん
学級崩壊とADHDに関しては新トピで話題にした方がいいですね。その際にじっくり書きますので(笑)。

>ていうか、私のこと、相当の「オヤジ」だと思っていませんか?(怒、笑)

済みません、多分思ってます。。。私より1周りくらい上かなぁとか(それはないとは思いつつ)・・・(笑)。
@みなさん

>94のレスについての感想は新トピの方に書き込みます。

「感想」もいいですが、ご自身の経験に基づいた「ヒント」のような内容が盛り込まれていると助かります。

>隔離トピ・・・(笑)

ははは。
どうして「隔離トピ」なんですか?
いろんな経験を持った方に参加していただきたいですね。

おそらく、それぞれの「教育観」とは、それぞれが育ってきた環境の中で(不可逆的に)導き出した人生観、世界観と密接につながったものですので、かなり幅広い話題になると思います。

>学級崩壊とADHDに関しては新トピで話題にした方がいいですね。その際にじっくり書きますので(笑)。

私もその分野は素人ですので、よろしく(お手柔らかに)お願いいたします。

>>ていうか、私のこと、相当の「オヤジ」だと思っていませんか?(怒、笑)

>済みません、多分思ってます。。。私より1周りくらい上かなぁとか(それはないとは思いつつ)・・・(笑)。

ははは。
でも、子どもをもつ親としては同じですよね。
人生の経験値は高いかもしれませんが、子育て経験はイズミさんのほうが豊富そうですので、よろしくお願いいたします☆
三度カキコです。
雑談している中申し訳ないですが、
話を本題に戻させてくださいね。



「道徳を教科にすること」については
このトピックの書き込みを見る限り反対派が多いようです。
僕自身も一応はそっちの立場ですが…
19で書かせてもらったように、本音は「どっちでもいい」なんです。

というのも、78でも書きましたが
今の道徳教育の問題は
道徳を「教科」にしたところで解決されないと考えるからで
す。

ただこのことは、
「道徳を教科にすると、もっと道徳教育がだめになる」
ということを意味しているわけではありません。
今のように「教科」でも「特別活動」でもない
「道徳の時間」が設けられているよりは、
いっそのこと教科にしてしまった方がいいかもしれません。
ただ改革というのは、良し悪しは別にしても
現場の多くの教師を振り回すことになります。
たいした効果があるとも思えない改革で
いちいち現場を振り回して欲しくない、
その意味で僕は「反対」なんです。

他の方々の反対意見の主な理由は
読ませていただいた限り「道徳の評価」にあるようですね。
「道徳を教科に」とは話がずれますが、
僕は子どもの道徳性を評価することは必要だと思います。
実際、教科はおろか、生活態度さえ
学校現場は評価しているのです。
子どもの道徳性を評価すること事態は不可能ではないですし、
学校の役割として、むしろ評価しなければならないと考えます。

ただし教科内容と違って、生活態度は他人と比較されて
評価されたりはしません。
道徳性も「他人との比較」という形は望ましくないと思います。
しかしそれは、
「評価をしなくてよい」という理由にはならないと
僕自身は考えますが…どうでしょうか?


ちなみに道徳性の評価方法として、
コールバーグの「道徳性発達理論」を用いれば
ある程度の客観的な評価は出来るかと思います。
(注:この理論は道徳性の発達をモデル化したもので、
   道徳性を評価するためのものではありません。
   ただ個人的には評価方法として応用できると考えています。)



で…そもそもこの理論、ご存知ですかね??
道徳が「個人の利益」から「罰と報酬」「法への従属」
といった感じで段階的に発達していく、って理論なんですけど。
詳しくはこちらを参照してください:
http://www.urban.ne.jp/home/awamura5/doutoku.htm
道徳は目指すべき理想、法律は人間が守るべき最低の基準・・・だと聞いたことがあります。まあ、そうでないことも多々あるのが現実ですが。

で、教科として教えるのなら、理想は理想として、最低限の基準・ルールがどのような仕組みで出来上がっているかを教えてほしいと思っています。

教科名はともかく、変な精神論、マナー論で、学校現場、ひいては子どもたちを振り回すのだけはやめてほしい。

ある程度の遵法意識は「最低限必要なマナー・道徳」として語ることもできると思いますが、理屈抜き・・・というのが、日本の道徳教育の根底にあるような気がします。是非はともかく、ある程度は理屈抜きに共有できる宗教や社会的価値観なりが弱体化、崩壊してきていることが、道徳意識の低下として顕在化しているのだと思います。

ですから、それに代わるものは、理想に飛びつくのではなく、下から積み上げるべきだと思います。

法(社会生活上のルール)と、哲学(理想、徳、品などと言われるものの本質)、両方をバランスよく教えていくことが大事だと思いますが、今の道徳教科化の流れでは、そのどちらもおざなりにされている気がします。

***

ところでコールバーグ・・・話として聞く分にはおもしろいですが、実際にはどうかな・・・と思います。

道徳についての研究としては、重要であることに変わりないでしょうが。

指標として、使える部分というのは、実はコールバーグでなくてもよさそうな一般的な部分だけのような・・・。

文化的に偏った道徳観がベースになっている、あるいは、道徳とは文化的に偏らざるを得ない、という点で、コールバーグの指標を学校教育に取り入れるのは、個人的には違和感があります。

中学・高校以上なら、コールバーグの理論そのものを紹介し、それを学習教材として考えさせる、というのは、効果的だと思いますが。
>ともさん

一週間遅れの書き込みになってすみませんm(__)m


道徳はある程度理屈ぬき、下から積み上げるべきというのは
要は生活の中で道徳を学ぶのがいい、ってことですか?
確かに道徳教育の本当のところは「生活の中で学ぶ」のようです。
実際、終戦直後の日本にはそういう趣旨もあって
「道徳」に相当する授業を特に設けていませんでしたから。
(もちろん、戦時中の「終身」の反省もありますが…)

しかしそれで実際には学校のどこでも
道徳を教えていない状態が続いてしまい、
そのような事態を何とかすべく「道徳」が出来た、
日本の教育史を紐解いてみると、そんな感じですね…。
ただそれでも単に徳目を国語の授業みたく教えて終わり、
あるいは生活=道徳とみなして
実際には道徳とは関係のないレクをやる、
それが今の道徳教育の現状のようですね…。

生活を通しての道徳、
そして特定のイデオロギー(特に宗教)に依存しない
道徳教育の方法は
社会学者E.デュルケムによって編み出されています。
しかしながら今の日本の教育ではそれほど支持されていない、
あるいはそもそも知られていない、
そういうのが現状のようですね…。



で、先に述べたコールバーグについては、
(ある程度予想したとおり)問題あり、という感じのようですね。。。
ともさんがこの中で「使える」と思った部分がどの辺なのかが
とりあえずは興味があります。
あとコールバーグの道徳観が文化的に偏っているとした理由も。

ちなみに中学・高校でコールバーグ理論を教えるのは
個人的にも面白いと思いました。
いつ、どの教科・単元で教えるの?って問題はあると思いますけど。
>101. さぬぅさん

返信ありがとうございます。

> 道徳はある程度理屈ぬき、下から積み上げるべきというのは
> 要は生活の中で道徳を学ぶのがいい、ってことですか?

違います。書き方が悪かったので書き直します。

今の日本においては「理屈抜きに共有できる価値基準がなくなっている」のであるから、あらたな価値基準を作り上げるためには「下から」つまり「とりあえず守るべき最低限のルールはなにか」から「積み上げ直すしかない」だろう、ということが書きたかっただけです。

生活の中で、か、あるいはどこで教えるべきか、は、先のコメントでは、まったく意識の外でした。

「積み上げ直す」という視点からいうと、学校で、というのもありだと思います。学校だからこそ、必要最低限にならざるを得ないと思いますし、むしろ、集団生活のルールを守ることから法律の学習に進むことのほうが、内容・効果ともに適切だとも思っています。

今、道徳意識を失った子どもたちに道徳意識を持たせようと思うのであれば、その基礎にある知識・技能・考え方は、やはり、ルールや法律に立脚すべきですから、むしろ生活や社会でこそ教えるべき、したがって「道徳」という教科はいらない、というのが、私の考えになります。

***

コールバーグ・・・あまりここで踏み込みたくないですが・・・学術的な話ではなく、あくまでも基準として導入し、使うのはコールバーグなんて名前しか知らない人たちだとすると・・・。

使えると思うものは、コールバーグでなくても言いそうな部分がほとんどですね。ただ、段階的発達の最初の二つは、社会生活上大事なことで、そこを踏み外して、次の段階には進めないというのは、カリキュラムを組むうえではとても参考になると思います。義務教育レベルであれば、第2段階まででよし、ということになるでしょうから、その意味では「使える」と思います。

ただ、3,4,5とあがっていくと、非常に宗教的あるいは哲学的思想が要求されます。

コールバーグ自体は、どのような答えが正である、というような設定はしていないはずで、むしろ自分の中にどのていど確固たる基準ができているか、が問題となるわけですが、いわゆる西欧的個人主義やキリスト教的一神教の信仰を持っていると、他人と同じことを言っていても、あるいはそれが他者からの受け売りであっても、自分の意見だといってしまえば、それが自己の内部に確立された道徳的価値基準として通ってしまう、という側面が強いと感じています。つまり、社会や他者からの影響という部分で、あえていうなら従来の東洋的価値基準と西洋的価値基準の違いが、如実に反映されてしまうのかな、と。

実際にワークして見ると、1,2がクリアされているのはわかる、でも、それ以上は・・・???となりませんか?基本的に、道徳的価値は先人の生き様に学ぶものが多いわけですから。

一番危惧するのは、実は、今の子どもたち、1〜3の段階が積みあがっていなくても、5を達成したかのような錯覚に陥るのではないか、ということです。社会全体が、そういう風潮だと思います。

それこそが、アノミー、社会が共有できる価値観の崩壊した状態なのかもしれません。

一人一人の価値観が社会のそれとうまくリンクしていない状態では、コールバーグの段階的発達の理論も、有効ではないと感じるのです。

コールバーグがなにか特定のイデオロギーを支持しているから、ということではなく、道徳そのものが、社会規範に依存せざるを得ないということになるでしょうか。そして、彼の理想とした規範は、西洋的な哲学の流れから大きく逸脱するものではなかったがゆえに、今、それを日本に当てはめようとすると、ゆがみ・・・それも、実態がなくても高評価が得られる危険・・・が大きくなると感じています。

その点ではデュルケムは、もっと研究、導入への検討はされていいと思いますが・・・一方で宗教は、神への信仰の部分を除けば道徳教育そのものだと思うので、むずかしいところですね・・・「徳」自体が、そういうものだと、私は思っているので。

そうすると、じゃあ、道徳って何?という話になり、私は、ここでそれを議論したいとは、あまり思わないのです・・・ごめんなさい。

コールバーグにつられて出てきたのは失敗でした。

***

とりあえず、この件はこれで終わりたいと思います。

コールバーグやデュルケムについてもっと・・・ということなら、場を改めて、ではどうですか?>さぬぅさん

私がコールバーグにつられてしまったんですけれども・・・。

私は、そもそも、「道徳」を教科にしたい人たちが考える「道徳」の中身が、コールバーグやデュルケムが考えたような「道徳」ではないと思っているので、このトピックの範囲内で話を続けるのは、ちょっと無理かな、と思います。
中教審の山崎正和会長が26日、「学校制度の中でやるには無理がある。道徳教育はいらない」と発言しました。
(読売、東京、その他)

あくまで「個人的意見」だそうですが、教育再生会議との整合性など議論を呼びそうです。

「人のものを盗んではいけないかは教えられても、本当に倫理の根底に届くような事柄は学校制度になじまない。(妊娠中絶や競争社会で勝者と敗者が出ることなど)学校で教えられるような簡単な問題ではない」

さすがに、人間を見つめ続ける劇作家らしい意見ですね。
「何故人を殺してはいけないか。他人の権利を侵害する権利は誰にもない」などという、「その場しのぎの道徳律」を素直に受け入れるほど、最近の子供は素直ではないし、逆にそれが正常だと思います。突き詰めたら、「どうしてこの世に人間が存在しなければならないのか。いなくなったっていいじゃないか」という問いに行き着くでしょう。それにロジックとロゴズをもって答えられる大人がいるのか? いやしないでしょう。何万という哲学者が何千年も考えて「100%の答え」は出ないのですから。

ならば、山崎氏も言うように、「順法精神だけ教えればいい」というのも一つの見解でしょう。つまり、「ダメなものはダメ」です。
>ともさん
過去に「道徳を教科に」のトピの趣旨からずれてると
指摘していたにもかかわらず
気づけば僕もトピずれしていた気がします。
書いていることはどちらかというと道徳そのものでした。。。
他の方も別のトピックで議論されているので
僕らは僕らで、道徳一般についてのトピックでも
立てたほうがいいのかもしれません。
ややアカデミックな方向には偏ってしまいますが
そこであればコールバーグやデュルケムの話も出来るでしょうし。


>pierreさん

記事を見る限り、「道徳を教科にしよう」という
教育再生会議に牽制をかける意図の発言のようですね…。
その意味では意義ある意見だとは思いますが、
「学校制度になじまない」
「学校で教えられるような簡単な問題ではない」
という発言には疑問があります。

確かに大の大人でも、哲学者でも100%の答えなんて出せないでしょう。
でも仮にそれが60%だったとして、
それを教えれば単純計算で6割の子が正しい道に進めることになります。
もちろん、残り4割の子どもを何とかしなくてはなりませんが、
100%ではないからといって、教育しなくて言い理由にはならないと思います。
それは結局、教育可能な6割の生徒まで放置することですから。

…とコメントしてみましたが、
これは山崎氏の意見でありpierreさんの意見ではないので
ここで今のようにコメントしても仕方ないかもしれませんが…。
この辺も道徳一般の問題として議論できるかもしれませんね…。
@さぬぅさん

>でも仮にそれが60%だったとして、
それを教えれば単純計算で6割の子が正しい道に進めることになります。

すいません。
この計算式が不明です。
「60%の答え」を子供全員に教えるとして、それが「60%の子供が正しい道に進める」というのがまったく理解不能です。

第一、哲学者の言ったことが「60%正しい」なんてわからないですもんね。

>100%ではないからといって、教育しなくて言い理由にはならないと思います。

「昔の哲学者はこんなふうに考えたんだよ」と教えるのは賛成ですが、「これが正しい哲学・倫理・道徳なんだ」と教え込むのには非常な疑問を感じます。

古今東西の哲学者の言説を通じて「道徳」を教えることに関してはいかがお考えですか?

>それは結局、教育可能な6割の生徒まで放置することですから。

したがって、これも不可解です。
「どうしてこの世に人間が存在する必然性があるんだ? いなくなったっていいじゃないか」と問いに、あなたはどう答えますか?
>pierreさん

この辺については、なかなかいい表現が浮かばないのですが…

100%正しいとは言えない知識を教える、というのは
教えることで正しい道に進む子どもがいる一方で
教えることで間違った方向に進む子がいる、ってことですよね。
そしてその正しさは100%に近ければ近いほど
正しい道に進む子どもが増えるわけで、
遠ければ間違った道に進む子が増えることになります。
先に出した60%の表現は便宜的なもので、
要は100%と0%の間であればなんでもいいんです。


60%がどうのこうのという話をもっと平たく言えば、
「100%正しいとは言いきれない事柄を教えないということは
 その事柄を教えることで救われる子どもまで
 放置することになる」ということです。
…が、多分これじゃかえって分からないですよね…。


>「昔の哲学者はこんなふうに考えたんだよ」
>と教えるのは賛成ですが、
>「これが正しい哲学・倫理・道徳なんだ」
>と教え込むのには非常な疑問を感じます。

同感です。
高校の倫理だと前者のような教え方をすると思いますが、
道徳ではどうも後者で教えてる傾向があると思います。
前者のやり方は、pierreさんの中では
「道徳を教える」には含まれないのでしょうか??


>古今東西の哲学者の言説を通じて
>「道徳」を教えることに関してはいかがお考えですか?

道徳のあり方としては十分ありだと思います。
ただし、やり方は
基本は「昔の哲学者はこう考えてたんだよ」で
そのあとはその考え方について2〜3時間ほどかけて
各自の体験を交えて議論させるのがいいと思います。
そうでないと、単なる知識で終わってしまいますから。


>「どうしてこの世に人間が存在する必然性があるんだ?
> いなくなったっていいじゃないか」
>と問いに、あなたはどう答えますか?

まずは自分の意見を述べますね。
その上で「これが正しい結論だ」とはせずに
先の哲学者の主張をもとにしたやり方でやります。
これは哲学者ほど崇高なものではないので
1〜2時間あれば十分だと思いますが。。。
通りすがりに失礼します。

具体的な例を挙げて『道徳を教科(必修)にしてはいけない』を論じてもらえませんか?^^;

教える側の理屈は分かりました、しかし・・・思いやりとか、他人の心の痛みを理解できない子供がいるのは確かでしょ?(全てではなく、極一部なんですが・・・)

その子達を放置していいのですか?




例えばですね・・・

遠足がありました、『遠足のおやつは300円まで』
そう決められていましたが『くいしんぼのAちゃん』はスグにお菓子を
全部食べてしまいました。
Aちゃんがアナタにこう言ってきました。
「アナタのお菓子ちょーだい」
この場合、クラスメイトとしてアナタはどうすべきでしょうか?


『お菓子を別けてあげるのが親切』

と答える子供がほとんどなのではないでしょうか?



とりあえず私の場合、
自分のおやつが残っているのならば別けてもいいんじゃね?と一瞬思いましたが・・・
しかしその場合「おやつは300円まで」という決まりを破ってしまいます。
自分がした行為によって『結果的にAちゃんに300円以上のおやつを与えてしまう』のですからね><;
「アナタのお菓子ちょーだい」
この台詞を言わせたのは誰か?なぜか?それはお菓子を食べてしまったAちゃんの前で
自分が美味しそうに食べていたから・・・ではないでしょうか?
ならば
自分もお菓子を食べるのをやめて(自分も全部食べてしまったと嘘をついてでも・・・)、
『Aちゃんの空腹を紛らわせる為に2人で話をする、もしくは遊ぶ』のが良いと思います。

ツツジの蜜をお菓子の代わりに・・・ってものアリだとは思いますが食中毒になるとかなんとか別のイマドキの問題になりそうなので却下でしょう^^;

そんな事よりも一番問題にすべきなのは・・・
?自分が『お菓子をあげたくないから上記の理由を言ったのでは無い』と言える事。
?物欲を満たしてあげる事だけが親切(友情・愛)ではないという事。
?お菓子を食べてしまったAちゃんの前で『見せびらかしたような行為』をしてしまったのでは?と思う心を持つ事。

そしてAちゃんは「お菓子もっているくせに別けてくれなかった;;」と思ってはいけないこと。

ではないでしょうか?^^;

ダメな答としては・・・
「コレあげるから明日倍にして返してね^^」など見返りを求めた行為
とかでしょうかね?
一番怖いのは「分からない(うざい・だるい・めんどくせー)」と答える子供だと思いますがw

106までに書き込みされているみなさんの『模範解答』を教えていただきたいと思います。

みなさんの回答が並んだ時・・・
これは採点しようがないw
教える側の判断で評価が変わってしまうwww
じゃ道徳って教科にするのって無理じゃね?^^;

って結論から『道徳を教科にすることは反対』なら納得します^^;

道徳なんて『家庭で学ぶ』もんでしょ?って私は思いますが・・・その家庭(親・大人)に問題があるから今の状況に(ry
やはり僕は「道徳」は、教えるべきものではなく、学ぶべきものと考えます。

教えられても、数年後には忘れてるものです。

経験した事のほうが、残るものです。

大切なのは、人生の先輩として助言をし、学ばせる事。
特に子供は感情に左右されやすい。

共に喜び、共に泣き、共に笑い、共に学べる教師が必要。

「道徳」の真理を悟った者などいない。
宗教的にも真理など様々。
ならば、真理など存在しない「道徳」に於いて教師ができることは、人間として自分の理想を語ることだけ。

例として
「いじめ、カッコ悪い!」

その一言だけで良いのでは?
おかしは〜議論ですが、僕は自己管理の教育の一環とすべきではないかと思います。

遠足等が終わってから、生徒と共に語り合うのも良いのでは?

そして、それぞれに答えを見つけてくれれば、それでいいと思います。
けぬじさんのお書きになっていることには反論があります。
教えられても数年後には忘れているといいますが、たとえば道徳の授業って、小学校1年生とか、3年生とかに一度教えたら、もう数年間教えないんでしょうか?
義務教育期間の9年間を通して教え続ければ忘れないと思います。

ただ、人間には個性があるし、能力にも個人差があります。
数学を教えても100点取れたり高校入試で満点取れる子もいれば、教えても赤点の子もいるように、道徳だって学んでも高度に身につく子ばかりではないでしょう。
現に世の中の大人の中にも高度に道徳を身につけてる人もいれば、生活感情に道徳心が負けてしまう人もいます。
全員が優秀にならなくても、それでもあきらめずに全ての個々の生徒たちをより高いところまで導くべく、教育の努力はするべきだとわたしは思います。


それから、スローガンですが、わたしだったら、イジメながら笑っていえると思う。「いじめ、カッコ悪い!ぎゃはは」って。

できればそういうとってつけたような新しい価値観を模索するより、基本に立ち返って、弱い人を助けよう、友人とは仲良くしよう、人に対して優しさをもとう、という、古来変わらない原則的なものを覚えればいいと思います。
子どもたちが、生活のなかで別の世代(上の世代、下の世代)と関われるような仕組みを作っておけば、今「道徳」に期待されているものは身に付いていくような気がします。
>>112
そう思います。

もしも地方(イナカ)が活性化して、Uターンが増えたり、ふるさとで大学や専門学校を出たり結婚生活を送れるようになれば、子どもの面倒を見てくれるおじいちゃんおばあちゃんの近くで安心して子どもをたくさん産めるようになります。

そうすると、子どもたちはおにいちゃんおねえちゃん、そしておばあちゃんおじいちゃんからもよかれ悪しかれ教育的な影響を受けて自然な形で大人になっていけるだろうというのがわたしの考えです。

でもそういったら、どこかで「いまどきのおじいちゃんおばあちゃんも核家族で育ったわがまま坊ちゃん嬢ちゃんばかりだから、家族の情ってのがわからないし、そんなに孫のめんどうを見たがらないよ」って言われたけど。
それ以前に産科、小児科が減ってる現実を考えると子供を持つなら都市部から離れられないという人もいるかもしれないですよ。私は代々東京なので地方の事は解りませんがUターンが増えないのはインフラが整わないからじゃないですかね?まぁ地方だけじゃなくて東京でも救急対応の病院は事前に調べておかないと科によっては受け入れしてくれない所もあるみたいですが。

確かに今の祖父母世代も核家族で育ってますが、同居をしていなくても祖父母が近くにいるとか、親戚が近くにいるからよく集まるという環境だとやはり家族の情というのは体得していくものみたいですね。私の子供時代よりも今の方が親戚なんかも近くにいるので息子はそういう体験が出来てます。
全国的には小児科減ってるんだ。。
こっちは小児科結構あるのでそんな印象はなかった。。。
ていうか病院といえばほとんど小児科と内科、
皮膚科もあるけど肛門科がないからジをどうしようか。。。
ってかんじです。
眼科とかは一軒しかないから競争がないとなんだか適当にやるんじゃないかと怖くていけない。。

イズミさんが感じるように、実は最近のほうがまだ家族が素直につながりあえるようになってきたような印象をわたしも持っています。
昭和40年前後の頃に比べたら核家族志向もなくなって、柔軟になってる感じがしてます。だからきっとこれからよくなるんじゃないかともうっすら期待してます。
というか、都会でも、子どもの生活に占める学校の役割を減らし、
課外で地域と付き合えるようにはできないのでしょうか。
家族、学校以外のコミュニティに所属することで
子どものコミュニケーション能力が高まる効果が期待できますし、
(「道徳」の問題は総じてコミュニケーションの問題と考えています)
学校生活を相対化する視点を得ることができれば
いじめられている子にとっては救いになります。
そしてその第三のコミュニティが、世代横断的なものならなおよい。
地域の野球チーム、サッカーチームに参加するくらいなら現状でもできますし、
国が介入して、たとえば中学生になったら地域のデイケア施設で手伝いをさせるとかも良さそうに思えます。

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