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“地獄”を考察する。コミュの†地獄論†

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アナタの地獄を聞かせてくださいまし…



いえ、地獄は見とうございません…

コメント(12)

自分の仮説は…

原則的に「輪廻転生」の概念の上に成り立っており…絶対的な天国・地獄というものは存在しないのではないかと考えております。

天国や地獄とは相対的なものと考えております。わかりやすく説明するならば…人間の生活に例えるとわかりやすいかもしれません。


例えば、高い生活レベルで暮らしていた人物が、その恵まれた生活環境や財産を失ったとします。

物や時間が溢れ、何の不自由なく、また、周囲から大切にされていたはずの自分が…突然、何の前触れもなく、食べ物・飲み物にすら困り、誰からも相手されない状況になるのです。

当然、本人にとって世界が一変して見えるでしょう。
その人はきっと自分の置かれた状況を「地獄だ。悪い夢に違いない」と思うはずです。


このような状態を“地獄”というのではないかと。


では、あの世での生活レベルは何によって決まるのか…?
それは、この世での過ごし方が影響するのでしょうね。

別によい行いをしなきゃならないってことではなくて、自分という人間・人生を全うすることが最大の課題なんぢゃないかって思うんです。
今生を終え、召された時に、自分の全うしている度合いを問われるんだと思うのです。

人間は課題…“業”ってヤツかな…を持って生れてきていて、それを解消しようとしているのではないかと。
そう考えると、この世は不平等ってことになります。事実、不平等なんだよね。
でも、その人それぞれに見合った課題があり…一人一人の主体においては公平なんじゃないかって。

こんな仮説はいかがでしょうか?
私は あの世の存在っていうのは余り、信じていないんだよね
最も死んだ経験がないのだから、
必ず無い!って そう断言はできないのですが…

ただ 人間に善行を促すための地獄論

これは嫌い。。。
まぁ どの宗教であれ信者に戒律を守らせんが為に
それ故に“地獄”って世界観が生まれたのだとは思うのだけど

きちゃもんさんの地獄論
現世における地獄論ってのは私も賛成です(^^ゞ
生きているこの世界、
様々な苦悩を抱えているこの現状こそが地獄だと思うし

>今生を終え、召された時に、自分の全うしている度合いを問われる

これって私、思うのだけど
閻魔様にではなくて 
残った人達、後の世代の人間達に存在価値を問われるんだよね 笑
どんな人間だったのか?ってさ
地獄に堕ちるような人間ならば 最悪の評判が残るww

>人間は課題…“業”ってヤツかな…を持って生れてきていて、それを解消しようとしているのではないかと。
そう考えると、この世は不平等ってことになります。事実、不平等なんだよね。
でも、その人それぞれに見合った課題があり…一人一人の主体においては公平なんじゃないかって。

どっかで聞いた話しなのだけど
もの凄い辛い出来事が降りかかってきた時だとか
神様はその人に耐えられない苦難を与えはしない、と
その人ならば必ずや乗り越えることができて
解決できるからこそ、与えたのだ
だから大丈夫www こういう内容
神様っていうくらいだから キリスト教徒の人の話なのかなぁ
最も神の名の下での平等を唱えるあの宗教観とは相反しているので
詳しいことは分からないのだけど;;

なので
>人一人の主体においては公平
これはほんと、そう思いますね

てゆか この地獄絵!
綺麗なのでトップ画像に使っても良いですか??
俺さ、金縛り・体外離脱するので、理屈抜きで魂の存在とかを受け入れざるを得ない体質なんですわ…
だから、ベースの部分であの世を認めてるのね。

>もの凄い辛い出来事が降りかかってきた時だとか 神様はその人に耐えられない苦難を与えはしない、と その人ならば必ずや乗り越えることができて 解決できるからこそ、与えたのだ だから大丈夫www

俺も修羅場を乗り切った時はこの発想だった。今、ふり返っても、非常に辛い時期だったんだけれども。

どうしようもない絶望から人間を救えるのは神のような超越した存在なんだと思う。どんな神様であれ、その存在を信じる(自分の内側に認める)ことで救われるんだよね。
神様でも仏様でも…とにかく、何かが必要になるんだよね。
今の日本は宗教的なものへ、ある種のアレルギーみたいな不信感があるから社会病理が蔓延してるんではないかと。
科学が進歩し過ぎて、それに社会や人間一人一人が対応しきれていないんだよね。だから、理解し難い猟奇的な事件が増えてる。
このままだと、社会自体が地獄になりそう…

戒めとしての地獄については、全くの同意なので割愛させて頂きます。ってか、話題にするに値しないよぉ。
アパートの二階が落ちてきた!
肩から背中を17針縫った!
背中の抱き鯉が台無しだ・・・
もう、14年も前の話だが・・・
幸に飽食する世界に行くぐらいなら、幸を渇望する地獄にいきたいところだね。

死後の安息なんてどうでもいいから、現世で安息を得たいものだね。
結果として何も持たず何も知らず中途半端に生を終えて、中途半端な転生をしても、それは結構。むしろ中途半端のほうが理想的だ。
退屈せず、安楽をえる可能性もあるからな。




三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し

この世に地獄を描いたって、来た所も行く所もわからない。
どうせ狂人と盲人が経営する世の中なら
私はただ私の生を生きるのみ。
転生先だの、地獄だの天国だのは、「そんな聖人すら答えられないこと、知るか」と。



だから、俺みたいなのには、地獄なんてものぁない。考えてない。
ただ、地獄を想起し、恐怖するひとは必ずいる。ここに集う以外の人でも、大半が地獄を「知り」、地獄に恐怖している。
それは母から父から祖父母からの民間伝承のせいもある。きかんぼうにいうことを聞いてもらうために。
宗教的な訓示訓告の意味合いもある。死という一定の恐怖の対象から救うために。もしくは、善人を増やすために。


そういう、地獄に恐怖する人々たちが、それほどまでに忌避する対象としての地獄絵図は、みてて面白いし、そういったものに興味がある。

できれば、もっと多くの人の想像・・・否、創造する「地獄」を見てみたいね。
実際、地獄より現世に戻った者はいるのだろうか。
全く、いないならば、地獄という言葉さえなかったのでは、それとも、死に対する恐怖より作られしものなのか。
しかしながら、「死は生の一部」と、位置づけている宗教もある。これも恐怖からか。
昔読んだ本の中に、地獄6界層について書いてあった。その地獄の1界の中に現世も含まれている。この世ほど怖いものはないのかもしれない。
他の宗教では7階層に分かれているものなど、種類は多く感じる。
先の方が話していたが、実際に心霊現象と呼ばれる体験をしたものは多くいる。我輩も似た体験をしているが、実際、現実なのか夢なのかわからない。


前に、こんな仮説を立てたことがある。
今の世の中は我輩の世界。友も妻も行きかう人たちも、我輩の人生の登場人物にしかならない。なぜなら、我輩以外に存在するものたちの心の中や、行動など、全くわからないからである。
そう考えるならば、地獄は、あると本人が思えば作ることができる、ないと思えばないのではなかろうか。
自分自身の今の世界そのものが、マトリックスよろしく、夢の続きなのかもしれない。
あくまでも主人公は己自身なのだ。

面白そうなコミュがあったので思わず参加をば…!

昔、鬼太郎のヤツ(リアル絵な)地獄関係の本を読まされて躾されたものです(笑)。かなり恐がりなのに3〜4位の園児に強迫観念植え付けるのは酷ですよね…(哀)

てか私は博学でもないのでちびっ子のころ創造したも時は、“地獄”とは“地”と“獄”で地上に捕まってる、ようなイメージがあるので、私たちが暮らしてるこの場所の事みたいだなと思ってました(地の獄中?)。
炎獄、獄中、脱獄、…逃げたり焼かれたり捕まったり、色んな意味合いの含まれる感じだし。いずれに至っても、現状でも人や精神を傷つけたり、極限まで狂わせるのは生きてるものだと思うので。拷問とか私が創造できないのあったりするし、苦しさと人の優しさに触れて、落とされたりまた上がったり、生きてるここが“生き地の獄”みたいな。死んで、二重に、この場所として地獄あるのかな?みたいな哲学的でもなく感覚でいました。
ちなみに天国は私にとってたどり着けないところ。良いところ、でなくて、考えたり苦しんだりしなくなる、何も無い、望んでるけど望んでない場所の気がします。
自分の心からの正しい、とか、嫌悪感、とか諸々、“死にたい”と実行しようとすることが、人生にはあるとおもうから、それが三途の川的な事柄で、最後色んな事を全うするから、“天寿”、で天からの寿、怖いけど踏切りついて無に かえれるんじゃないかな、とか。サンタ信じてたころにこんなん考えてる園児、私なら嫌です…。
初めまして。「地獄」、昔も今も、深いと思います。

「地獄」を、来世に設定するか、現世に設定するかの違いは大きいとは思いますが、
まず、やっぱり「差別」の前提が、なかなか拭えませんよね。
地獄を来世に設定しようと現世に設定しようと、
最悪の姿というのを示して、もしそうなれば「地獄行き」というのを示すわけですから。

でも、逆に結局はそれを来世に設定するか現世に設定する「だけ」の違いしかないとも言え、
現在でも同じような機能を果たす似たような概念はあると思います。
近年でいえば、「負け組み」、「ニート」も「派遣」も、そこに組み込まれつつあるでしょうし。
これに立ち向かうには、自分が仏教の教えに従うように、
自分がそうならないようにすればいいだけの話になる、
そうすることで制度的な枠組み自体は温存されることになる、
という意味では、信じ方も近くなりつつありますし。
信仰は現在では選ぶもののようにいわれてますが、
信仰は大抵は選ぶものではなく、その中に生まれるものだという点でも同じですよね。
違和感があろうと、みんながその価値観の中に生きている以上、抗い難い。



日本の仏教の盂蘭盆の儀礼には、「施餓鬼」の観念が重要なものとしてありますよね。
仏教の概念では餓鬼は、「無縁仏」にあたるといわれています。
業の観念も絡んでいるのでしょうけれども、どうすると無縁仏になるか、
というのが、何通りかあるわけですね。
施餓鬼も含めて、日本各地のお盆は、新精霊を祀る儀礼でした。

柳田國男なんかの分類に従うと、精霊(祖霊)、新精霊、無縁仏と大きく三種類あって、
人が死んだ場合には必ず一度は新精霊になるっていわれてます。
新精霊は、49日だの何だの1〜3年経て、ようやく害のない精霊の世界に入れる。
それにしてもどうして、「新精霊」だとか「無縁仏」なんて概念を作ったのでしょうね。

死んだ人は新精霊になるといわれるわけですが、
通常の死に方をしなかった場合、
例えば、彼/彼女を供養してくれる親族がいない場合、
新精霊は無縁仏、つまり餓鬼になってしまうといわれる。

その典型的なものは、日本は男系社会でしたから、
「生前に息子がいない」で死んだ人々というわけですね。
つまり、生前に一人も息子を残さずに死んでしまうと、
その血族を祀ってくれる人がいなくなる⇒無縁仏となって、悪さをする
というわけです。

この「地獄」観を信じなければならない場合、
この「地獄」観に生まれる場合には、
子孫のいない親子は、「業」から外れた悪人に近いわけですよね。



僕は、「新精霊」や「施餓鬼」の観念は、
少なくとも「結果的に」、それを差別させることによって、
男系社会における相続と、人生における宗教の介入を正当化する機能を
果たしていた側面が一つにあるのではないかと考えています。

息子を残さずに死んだ人間を悪くいう、というのは、
餓鬼を忌諱させて仏教的に清浄な観念を信じる動機になるばかりか、
相続に困る親族の欲求とも合致しますよね。

少なくとも盆行事に見られる地獄や、餓鬼の観念には、
宗教だけでなく、婚姻制度の補完という側面が強く残っているように思うのです。
そもそも「血盆経」は、何の暗示でしょうか。

盂蘭盆に暗示された地獄の場合には、
この意図的に作られた「抜け穴」が、
近代の国家神道における英霊祭祀の正当性を裏打ちすることになっている面があります。
つまり、戦争による死者は、大部分が盂蘭盆の精霊の概念にしたがえば、
祀り手となる子孫のいない「無縁仏」、「餓鬼」になってしまうわけです。
そのような「差別されるべき精霊」になってしまうことを悔いる親族の「無念」を、
「国家」に集約する機能を果たしたのが国家神道の考え方であって、
究極的には、「進め!一億!火の玉だ!」に、それは表れているのではないでしょうか。

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