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沖縄ももじゃら大学コミュの程順則(ていじゅんそく)名護 親方について

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程 順則(てい じゅんそく、1663年11月27日 - 1735年1月1日)は、江戸時代の琉球王国の士族。琉球名は寵文(ちょうぶん)。名護親方(なぐうぇーかた)を務めた。
「道徳者、学者、詩人」




琉球で最初の公的教育機関となる、明倫堂(1714年開設)の創設を建議した。

また、後に日本各地の寺子屋に普及する六諭衍義を清から琉球へ持ち帰った。

*六諭衍義(リクユエンギ)、…清王朝が国民の道徳書として、皇帝の名で出版した書物です。のちに琉球国のみならず、日本全国に普及し、寺子屋などでも、これを修身の教科書として使用し国民の道徳観の形成につながりました。


<生い立ち>

● 1663年
那覇市の久米村で生まれる
教育熱心な父、優しい母、本を読むのが好きな素直な子供12歳外交官もやっていた父が中国で病死する。


● 1676年
役人の試験に合格し、「秀才」という高いくらいにつく。

14歳で久米村にある塾へ通い始め儒学を学ぶ。

20歳中国・福州へ留学。 父・程泰祚が学んだ陳元輔(チンゲンポ)の弟子となり、おなじ福州の儒者・竺天植(ジクテンショク)にも教えを請う。

この二人の大学者に、その卓越した天質と学識、人格を認められ、師の書物にも優秀な門下生として記録されるほど竺天植(ジクテンショク)先生の机の上にあった『六諭衍義(りくゆえんぎ)』に関心を持つ。

程順則はその本に大変興味をもち、読みふけた琉球に戻り、久米村の学校の先生を教育者として人に教えるにはまだ学問が足りないと再び中国へ渡る。

それから25年たって、4回目の渡中に『指南広義(しなんこうぎ)』と『六諭衍義(りくゆえんぎ)』という本を持ち帰る。

*『指南広義』・・・航海の際の天候や天分等についてまとめた書物
→ この2冊を自分のお金をはたいて印刷して持ち帰る。
51歳初めて江戸に渡り、日本の有名な学者と講習。


● 1718年
琉球ではじめての学校「明倫堂(めいりんどう)」を久米村に創設。

「政治よりまずは教育」 

「教育を高めてこそ、いい政治が!」

と、三司官の察温を説得して創立。
明倫堂は、日本各地に誕生する藩校の見本ともなる。
順側自身も三司官


● 1728年
自ら希望して、名護間切(なごまぎり)の領主になる。
現場に関りたいと言う気持ちが強かった為

66歳 → 名護はまったく犯罪のない町になった

71歳他界




日本最初の道徳書「六諭衍義」
沖縄が誇れる教育者「程順則」(名護親方)
程順則は1663年に那覇市の久米村で生まれ、琉球で初めての学校(明倫堂)を建てるなどして教育を広め、後に、本島北部の名護間切りの総地頭(名護親方)となり「名護聖人」と称された。

1683年、21歳で留学生として中国に行ったとき。師事していた竺天植先生の机上にあった本が「六諭衍義」の本であり、最初の出会いであった。程順則はその本に大変興味をもち、よみふけた。それは琉球の「チムグクル文化」(心の在り方、つまり道徳性を重んじる文化)と共通するものが多かったからである。

それから25年たって、4回目の渡中に私財を投じて、覆刊製板して持ち帰った。その目的は子弟に中
国語を教えるのにふさわしい本であったと同時に心の在り方を説く道徳書として優れた内容であったからだった。

1714年江戸慶賀使として上国する際に、薩摩の島津吉貴公に献上した。1719年に第8代将軍徳川吉宗に献上される。吉宗は1721年に室鳩巣に和解を命じ、翌年、鳩巣大意本「官刻六諭衍義大意」が刊行された。

それを機として、各藩校や寺小屋教育のお手本として使用されるようになり、全国に広がった。


およそ200年もの間、人心を善導するための「庶民道徳の教本として」使用された。

おそらく「日本で初めての道徳の教科書」であった。

程順則は、この「六諭衍義」の教えを琉歌で詠んで琉球の人々にわかりやすいように工夫した。

程順則の詠んだ琉歌をいろは順に編集したものを「琉球いろは歌」としている。方言の歌を通して、
わかりやすく人を諭し、教育した。

程順則は日本においても、沖縄においても世界で誇れる道徳心を身につけた民族を育てた功労者である。


内容の解説は逐次進めたい。
(ボーダーインク社 六諭のこころ参照)
さて、「六諭衍義」は孝順父母、尊敬長上、和睦郷里、教訓子孫、各安生理、毋作非為から成り立ちますが、その各々についての意味を、名護市教育委員会・六諭衍義編集会議編「六諭のこころ―市民のための六諭衍義―」

「孝順父母(ふぼこうじゅんなれ)」とは「いたわりあう親子関係を築くこころ」。

「尊敬長上(ちょうじょうをそんけいせよ)」とは「互いの良さを尊敬しあうこころ」。

「和睦郷里(きょうりはわぼくせよ)」とは「ふるさとの自然や人を愛しなかよく助け合うこころ」。

「教訓子孫(しそんをきょういくせよ)」とは「教育を大切にするこころ」。

「各安生理(おのおのせいりにやすんぜよ)」とは「自分のやるべきことを成し遂げるこころ」。

「毋作非為(ひいをなすなかれ)」とは「善いおこないをするこころ」



という意味です。

さて、「六諭衍義」を現代風に解釈してみましょう。

先ず「孝順父母」とは家族法と解釈できるでしょう。


「尊敬長上」はお互いの長所を認め合い、短所を補い合ってシナジー効果を高める組織論と見なすことができます。


「和睦郷里」は地域資源を認識し、地域社会貢献を勧める地域経営学へと焼き直せます。


「教訓子孫」とは、文字通り教育学や教育による社会の安定を意味しています。


「各安生理」とは、一人一人が責任を果たすという民法の基本原理を述べています。


「毋作非為」とは、責任を果たすばかりでなく、公共の福祉が高まるように知識や能力を発揮するよう説いています。


このように解釈すると、現代の私たちが、私有財産性、合理性と基本的人権の尊重を基本とする現代社会生活を営む上での社会規範がすでに「六諭衍義」の中に盛り込まれていることになります。

ということは、1719年に島津吉貴公より第8代将軍徳川吉宗に献上され、その後、日本中に人々の共通の社会的規範として「六諭衍義」が培われていたならば、鎖国と開国という外交制度の違いはありますが、明治維新以降の日本の経済発展は、驚くべき事柄ではないことが分かります。


このように解釈しますと、沖縄の偉人、程順則=名護親方の我が国に与えた業績がいかに偉大であったか、と同時に、再評価する必要があると思いますが、皆さんはどのような感想をもたれたでしょうか。

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