ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ロンド買上作品コミュのロンド クロッキー集

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
レアラ・ロンド美術研究所アトリエから発掘したクロッキー

コメント(30)

 植松 豊

クロッキーは月に一度研究生の作品を集めて
その中から 一席を選ぶというイベントをやっていた
一席になると研究所買い上げとなる
植松さんは その常連だったな
アトリエのロッカーにクロッキーブックがたくさん残されていた
絵を描きはじめてみたものの 上手くならないし とか 飽きて
やめてしまったのかな とか想像できる
こんなにイイのに
これは爆弾だね 絵を描いた経験のない人だろう
でも真剣に観察して描いた
絵を続けていたとしたら上手くは成ってるだろう
けどおもしろくもない絵を描いてるかもしれない
力強い絵を描くには どうすればいいか 思いっきり力入れて描けば
いいのである マチガイですけどね それではプロレスラーが
一番力強い絵を描くことになる 実際は非力なおばあちゃんだって
力強い絵を描くから
でも まるっきりマチガイだとも言えないと思う 精神を鍛えるんだ
といって 雪の降る日にぬくぬくと暖房のきいた部屋でコタツにはいって
ミカン食べてるよりも 雪の降る中で神社の石段を兎跳びで登る
(なんてアナクロ) でもそのほうが精神は鍛えられるような気がする
力強い絵を描くんだぁと 紙も破けろとばかり力を入れて鉛筆ボキ
ボキ折りながら デッサンするのが流行ったことがあったのだ
出来上がって紙を持ち上げると はらり と人型の紙が落ちて
孔があく
この絵は そんな時代のものかな すごいけど やりすぎて
ちょっとニブくなってしまってるね
うふふ おもろい 例によって作者不詳
山口洋子

これは買上作品だよ 輪郭線と かすかに陰影をつけただけで
皮下脂肪のやわらかさ その中の内臓骨格まで描けてるようにみえるのだ
大胆で的確 おおこれはスゴイ と思うのだが 誰が描いた
まったくわからない 男性なのだろうか女性なのだろうか
もしやさぞかし名のあるかたでは まったくわからないのだ
さて 岡部由利子さんだ そう書いてあるからそうなんだろう
波切の絵もあるから 写生旅行にも参加してる筈だ なのに
その当時いたメンバーに訊いても 誰も憶えてないという
よっぽど印象のうすい人 だったんだろう だけど この絵は目立つ!!
クロッキーブックをアトリエに残したまま 行方はわからない
岡部由利子さんを知らないか? と訪ね歩きたい気分だ 今なら還暦くらいかな
岡部由利子 このくじらの子は 波切で描いたものだろう
加島栄子 

ヘタですよね でもなんて魅力のある絵なんだろう
加島栄子

奈良へ行くと 鹿だらけ でも絵に描きたいと思ったことはない
見ててもあまり面白くないのだ
驚いた あの鹿をこんなに面白く描けるなんて
加島栄子 

じょうずでも下手でも いいなとおもう絵はイイ
上手だけど あ〜つまらん という絵が あ〜いっぱいある
加島栄子   

クロッキーとはいえないか そんな短時間で描けるものではない
すごい 集中力ですな
レアラ・ロンド美術研究所は土佐堀川の南岸の一角に位置するアンティークなビルにあった。主宰は島 常武。まろやかな人柄につつんだ古武士の風格と秘めた信念の人だった。信念とは、「趣味で絵を描く心の高さ」の11文字にふくまれる意味に尽きた。
毎週火曜日が裸婦クロッキーの日だった。モデル台を囲んで勤労者の若者を中心に集中した時間を過ごした。夕方6時から夜8時すぎまでみっちり7から8ポーズ、休憩時間には主宰から語りかけのようなテンポラリーな話題のような話があって、それがまたみんなの気持を引きつけた。(つづきは次回・2024年4月6日 新保 晃=茅ヶ崎市)
レアラ・ロンドつづき
言い忘れたがレアラ・ロンドがあった土佐堀川とは大阪市の北の中心部中之島を形成する淀川の一区間の流域をいう。
アトリエに常駐し、主宰の右腕ともマネージャーともいうべき仕事を担っていたのが野田許子。ふくよかで豊かな気持の持ち主で、若い会員たちからも慕われた。アトリエ維持の裏方であり、モデルへの気配り、会員たちからの相談、経理事務等々、絵を描く環境を整えるにあたって何くれとなく気配りをはかった。
私が通い詰めた時代は1960年代から70年代。時代は東西冷戦時代の後期。ベトナム戦争で世界が揺れていた。物質生活はそれなりに満たされ経済格差はあったが今よりはゆるやかだった。若かったせいもあって視線はいつも前を向いていた。時代の空気はエネルギーに満ちていた。(つづく・新保 晃)
レラ・ロンドつづき第3回
ロンドアトリエ(みんなそう呼んでいた)はロンドビルの3階にあって、コンクリート打ちっぱなしの内壁に囲まれた鉄の手すりの階段を毎回乾いた音を響かせながら上った。鉄の扉を開けて入ったところは見上げる高い天井に白く塗った壁の木のぬくもりを感じさせる部屋で、100平米ほどの広さがあった。
河に面した部屋の北側は一面の硝子張りで常にカーテンでおおわれていた。外は土佐堀川が見下ろされコンクリートの護岸壁が西へのび、対岸の中の島側には関西電力の高層ビルや大阪大学医学部とおぼしき1劃が望まれた。
窓の隅には石膏の首がおかれ、イーゼル、額縁の絵、クロッキー用の座椅子(ビール木箱に布地とクッションをあてがった手製の作り)、モデル台、その後背、ステレオ機材などがまとまって壁ぎわを占めていた。天井から壁から床板まで白一色の内装は絵を描く目的一つにしぼった意図が明快で、主宰の意思が感じ取れた。壁には会員の作品が所狭しとかけられていた。(つづく・新保 晃)
レアラ・ロンド第4回
島 常武主宰のクロッキーデッサン指導は単純明快。背筋を伸ばし、目が9分手は1分(言葉づかいは違うかもしれないがが心はこのとおりといっていいだろう)。技術より態度を戒めた。ここが並みの指導者と違うところである。みんなこのとおり背筋をピンと伸ばし腕を伸ばしのびのびとイメージを線に表した。亜じゃ氏がこのページにアップした「ロンド作品」にみられるとおりである。
モデルのために休憩時間がとられその15分ほど、主宰の話のかわりに歌をうたうときもあった。そのための掌のひらにおさまるほどのミニ歌集が一冊づつ用意されていていっしょに歌った。ロシア民謡、労働歌、恋の歌、などだがどちらかというと土と汗のにおいの豊かな歌が多かった。
裸婦モデルはアトリエに縁の深い人がつとめてくれた。紹介所からまわってくるときでも決まっていていつも馴染みのひとだった。モデル台を囲むのは25人から30人前後、主宰副手の野田許子も中にまじっていっしょに描いた。(つづく:新保 晃)
レアラ・ロンド第5回
毎週の定例クロッキーとは別に年に3回から4回ほど企画展を試みた。だれからともなくヒントが生まれわれわれ会員のなかから賛同の手を挙げるか、すすめられて加わるものたちがグループをつくって趣旨に沿った作品を創り協力して会場に運んだ。中でもビッグイベントは会員全員による共同制作をもとにしたキャンペーン行動だった。その白眉とも言えるものの一つが「ヒロシマ」をモチーフにした「手のひらスクラム」と称した横3メートルたて1.5メートルにおよぶ大画面の作品を中心に大作を掲げ、時の市長・中馬 馨の支援を受けて大阪市内を巡回、大阪城から甲子園まで会員が「平和への前進」を謳って徒歩でデモンストレーションを敢行した移動行進展イベントだった。さらにその翌年から新手法「ボッドアート」(人体モデルによる直接表現)作品の創造にとりかかった。試行錯誤を繰り返したのちようやく大作に耐えるフレームワークの完成にいたった。これをもとに3年かけて横3.5メートルたて2メートルのボッドアート大作「原爆の図」を完成させた。ハイライトはここからだった。小規模の予備展を繰り返したのちこの大作「原爆の図」を柱に満を持して開催したのが大阪市の有数のホールの一つ朝日文化会館の大会場と京都の京都府立資料館を借り切っての大企画展、名付けて「原爆と平和展」だった。これは16日間にわたって実行された。とくに大阪会場では「原爆と平和」と名付けたオリジナル演出のバレーダンスを上演し、素人(ロンド会員)の演出・演技がその拙さゆえの熱気が観衆の心をうち、有料にもかかわらず日を追うにつれ評判をよんでチケットが不足するほどの盛況を招いた。(つづく・新保 晃)
レアラ・ロンド第6回
レアラ・ロンドは島 常武が1950年頃、大阪・北浜にレアラ・ロンドの前身・北浜洋画研究所を開いたのが始まりだった。北浜は島 常武がそれまで証券業界に身を置いていて血気盛んな年頃に「ウリの島」と呼ばれるくらいこの世界で名をはせていた縁によるものであろう。その後仲間とレアラ・ロンドを立ち上げ、現在地土佐堀川肥後橋のたもとにロンドビルを建設、勤労者絵画集団としての本格的な活動がはじまった。
「ロンド」は会員個人の作品の完成度を高める方向と同時に民衆の中へ運動を広げていくことも目指した。そのために集合力を生かして大作に挑み完成させては大阪市立児童相談所、大阪市立老人福祉センターへの慰問寄贈活動、広島原爆病院への前後7回にわたる慰問訪問募金活動、大阪市内移動展を実行した。この間1950年代後半から70年代にかけてのおよそ20年間がロンドの活動拡大期だった。
時代背景も変化した。高度成長からオイルショック後の成熟期へ、行動すれば反応もまた敏感に跳ね返ってきた時代から内向きの関心にベクトルが向いて外からの働きかけにもにぶい反応が返ってくる時代の気分に変っていった。かってデモンストレーションを主導した人たちも年齢を加え、毎年恒例の賑々しい写生旅行も間遠になった。自然、ロンドの研究所としての活動の中心を担ったロンド展も会員作品集合ベースのものが主体になった。1977年のロンド25周年記念展「原爆の図を中心に」(大阪府民ギャラリー)の開催が大規模展の最後となった。追い打ちをかけたのが阪神淡路大震災である。(つづく・新保 晃)


レアラ・ロンド第7回
震災の当日、島 常武は肥後橋のロンドアトリエに所在していた。自宅の芦屋まで帰るにも交通断絶状態である。心配した会員たちは近在の会員たちを糾合し肥後橋のアトリエに参集、手製の運搬車(キャスターを取り付けたコンテナー)をつくりそれに巨体を移して、あるひとは引っ張りある人は押して混乱する阪神国道を芦屋まで30キロ弱の道を縫って目的を達した。
この災害を境にロンド主宰の健康状態は下降気味となり、その2年後80歳の生涯を閉じるに至った。島 常武の不在は同時にこの戦後日本の大阪の一劃にあって曙光期の日本の都市勤労者の地位向上を目指しその文化活動の一翼を担い絵を通して人間としての「心の高さ」を求めつづけた一つの美術集団の活動の終焉であった。彼を知るひとはひとしく一人の巨人が世を去ったとの感懐を拭いさることができなかったであろう。
片腕であった野田許子はやがて須磨のホームに移ってのち静かに息を引き取った。87歳であった。多くの会員に慕われた生涯だった。(おわり・新保 晃)

レアラ・ロンド第8回 追記
第7回で「おわり」としながら尽きざる追憶にせかされてしまう。
ロンドの残り部隊は、いずれも大阪近在の在住者であるが、母体の解散後も相集っては絵を描きクロッキー会をつくり、写生会を催して昔日のごとく親和している。床しいことである。半世紀にわたって心の交流がつづいているのも島 常武の偉功であろう。
亜じゃ氏がアップしてくれたロンド会員の油彩作品はいずれも私がアトリエで目にしたことのある作品ばかりである。懐かしい。今眺めると当時みていたものよりはるかに高度な技術に支えられていることを発見する。クロッキーについては当時は下手だなあとみていたのが私の未熟のせいで、今見るとこれが本当の絵だ!との感動を呼ぶのである。絵が変ったと言うより私が変ったのである。先入観を排し、これらの絵をよしとし、正面から評価し、その作家を拾い上げ育てた島 常武という人物の炯眼にいまさらながら畏れをおぼえるのである。威光だけは立派で中身はうつろな世の権威というものには一切頭を下げることなく、ひたすら自分の理想と信念をつらぬいて生きた一人の巨人に出会えた幸運を私はかみしめるのである。
私が誰が読むでもないこの「つぶやき」をあえて記したのは、芸術作品は時代の証人であり、ロンドの社会へ訴えた活動およびそこから生まれた諸作品が20世紀の日本の諸相をあらわす一つの切り口として永く後生に残す価値のあるものと信じるからである。同時にこれを主導した島 常武という人物の存在を後世に語り継ぎたいと念じるからである。(2024年4月7日 茅ヶ崎市・新保 晃)
レアラ・ロンド第9回 追記(つづき)
第8回の記でわたしは「島 常武は自分の理想と信念をつらぬいて生きた」と記した。この「理想と信念」とは何を意味していたかについては私ごときがその中身を語るのはおこがましい。それを承知であえて言えばそれを育んだ温床のひとつについて彼が学んだ文化学院の存在を抜きにできないように思うのである。
わたしが島 常武と身近に接した日々があったことは前に画いたが、その頃のあるとき彼がぽつりと口にしたのが「ぼくは文化学院に学んだんだよ」の一言だった。当時私自身は文化学院のことは知ること少なかったのでそのまま聞き流した。神奈川県に住まいする今、文化学院をつくった西村伊作という人物とともにこの学校がいかに理想と希有な精神のもとに設立されたかを知ることとなり、島常武と西村伊作ー文化学院との運命的つながりをおもっていま感慨が深いのである。(以下つづきへ)
レアラ・ロンド第10回 追記(つづき)
 西村伊作は芸術と生活の一致を理想とした。「生活を芸術として、生活を芸術まで高めたい」、「金のためにする仕事でなく楽しみのためにする仕事」を生涯の理想とした人であった。その目的のために創ったのが文化学院であった。
 一方島 常武にとって絵を画くことをもって身を立てると決意した22歳の時以来「絵はわたしのたましい、魂はおカネに換えるものではない」の信念を片時も忘れることはなかった。レアラ・ロンド美術研究所をつくったのも西村伊作が文化学院を創った精神と対照するのである。西村伊作は画一的な日本の学校教育に背を向け「自由な、個性がのびのび発揮できる環境」を目指して文化学院を創立した。島 常武はその理想をそのままに勤労者文化の向上という路線のうえに実現しようと「ロンド」をつくった。島 常武が口ぐせのように語った「趣味で絵を画くこころの高さ」は西村伊作のモットー「生活を芸術とする」、「金のためにする仕事でなく楽しみのためにする仕事」と合わせ鏡のように照応するではないか。
 ここにおいて島 常武が文化学院に学びそこから影響をうけ、ここにかれの根底の確かな一部をつくったことの形跡をみて感慨深いのである。おそらく島 常武が生きてこの文をみたとき、にっこり笑ってうなずいてくれるものと信じる。なぜなら前回の記事で伝えたように島 常武が文化学院に学んだ事実を回想の思いを込めてつぶやいたとき、その口ぶりからうかがわれたかすかな誇りをわたしは聞き逃さなかったからである。
 夏の近づく気配をおぼえる一日、わたしはお茶の水駅を降りて旧文化学院を訪ねた。西村伊作渾身の設計によるその建物は当時の面影のまま建在であった。わたしはしばしそこに佇み、若き日の島 常武が毎日のようにくぐったであろう蔦のはうアーチ門に当時をしのんで立ち去りがたい思いにひたった。(おわり) 2024年4月22日 茅ヶ崎市 新保 晃
新保さんお元気なのですね 私の田舎は西村伊作出身地の新宮市で家も残っています 
何度かいったことがあります 
生徒募集のちらしもおいてあったのですが
去年行ったときはなくて 文化学院ももうなくなったのですね 
 新宮市で保存されてる西村伊作亭を描いてきました
>>[29]
コメント見ていただいてうれしい。ありがとう。新保 晃

ログインすると、残り1件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ロンド買上作品 更新情報

ロンド買上作品のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング