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仏教哲学講義コミュのナーガールジュナ著『中論』第18章

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私というものについての考察

1.もし私というものが5つの構成要素と同じなら、私というものは生じたり滅したりするものだということになる(すなわち私というものには変わらぬ実体などないということになる)。
逆に私というものが5つの構成要素とは違うものだとしたら、違うものがそういうふうに現れているというおかしなことになる(つまり、私というものは5つの構成要素と同じものとして存在するのでもなく、5つの構成要素と違うものとして存在するのでもないとしたら、それはすなわち私というものは存在しないのだということになる)。

2.私というものが存在しないのなら、私のものというものさえあるわけがない。
こうして、私とか私のものとかが論ずるべきゆえんを失って、これらの観念は全く消えうせることになる。

3.では、私とか私のものという観念を離れた者が存在するのかと言えば、そういう者さえ存在しない。
私とか私のものという観念を離れた者が確かにここにいる、などと思っている者がいたとしたら彼はつまり〈私とか私のものという観念を離れた者〉を見ているのではない、ということになる。

4.内側に向かっても、外側に向かっても、「これが私だ」とか「これが私のものだ」とかの観念が完全に滅した時こそ、執着はとどめを刺され、執着が滅びることで生そのものが滅びることになる。

5.そうすると煩悩も行いも滅して解脱が成就する。
煩悩も行いも分別する私たちの思考から生まれて来るのだ。
では、分別する思考がどこから生まれて来るのかと言えば、私たちの使う言語から生まれて来るのだ。
言語は空においては消えうせる。

6.仏陀たちは「私というものは実体として有るのだ」と仮に説いたこともあったし、「私というものは実体としては存在しないのだ」と説いたこともあるし、「私というものは実体としては存在せず、かといって無我とか空というものが実体として有るわけでもない」というふうに説くこともある。

7.心が完全に静まる時、言語の対象も消えうせる。
真理というものは生じることもなく滅することもない。
まさに涅槃のようである。

8.「一切はあるがままで真実である」とか「一切はあるがままでは真実ではない」とか「一切はあるがままで真実であり、またあるがままでは真実ではない」とか「一切はあるがままで真実であるわけではないし、またあるがままでは真実ではないわけでもない」とか、仏陀たちはさまざまな説き方をされて来た。

9.真理以外の仕方で真理は知られようもなく、寂静であり、言語によって言語化しようもなく、分別を離れており、かといって異なっているわけでもない。
これが真理のありようである。

10.甲によって乙が生ずる時、乙は甲と同じではないだろう。
また甲と全然異なるわけでもない。
つまり甲は断滅してしまうわけでもなく、恒久的に存在し続けるわけでもない。

11.この世のあらゆるものは全く同じであるわけでもないし、全く異なるわけでもない。
断滅してしまうわけでもないし、恒久的に存在し続けるわけでもない。
これこそ、この世の人々の主であらせられる仏陀たちの説いた甘露なる教えである。

コメント(1)

中村元博士の簡素な直訳を元に、今の自分にとってわかりやすい文章に手直ししてみました。

ナーガールジュナ師が高度な瞑想過程で了解したことを簡潔に記された『中論』はもちろん、単に概念的思考だけで読み解くべきものではなく、読み手側も自己の瞑想実践を深めてゆきながらナーガールジュナ師のそれに追い付くことで、しっかりとその真実の味わいが知られて来ることと思います。
しかしながら、その瞑想過程の表現としての本書の内容は、言葉や文章を読み手側が誠実に自分なりに解きほぐしてみるならば、修行過程にある者にとってそれなりに有益なことではないでしょうか。

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