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仏教コミュの六根清浄て⁉︎

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ある漫画に
少女の能力で心情そのものを顔として見えてしまう
例えば
若い頃の心のままの人は若い頃の顔に見えてしまう。
そんな風に見えていることを知った時、一人が皆に質問
自分が見えているものと人が見えているものは本当に同じなのかと思ったことはないか?と

皆さんはどう思いますか?
仏法に六根清浄と言う教えがありますね。
確かにその少女のようなオカルト的全く違うものに見えるなんてことはなくても(普通は…)感じかたはそれぞれ違う、六根清浄はそれ示してます。
例えば同じ雨でも一般の人は迷惑でも農家や傘屋さんにとっては恵の雨です。
全く同じ人が同じ景色を見てもバラ色のように見えたり何でもない景色に見えたり。

昔、日蓮正宗の総本山へ行って皆を誘導する仕事を奉仕で行った後に
帰った時寄ったサービスエリアで見た景色がいつも見ているのに初めて見るかのようにとても綺麗に感じずっと見惚れていた覚えがあります。
それはやはり命が浄化され山々の景色が輝いて見えたのかなと思います。

その六根清浄していくとどう変わるのかがよく分かる体験発表を聞きました。
私も同じような経験をしたので涙無しでは聞けませんでした。
六根清浄していくとこんなにも変われるんだと通感します。
同じ日蓮正宗で得た経験です。

幼い頃より父親から兄弟と比べられレッテルを貼られてきたことで自分に自信のなかった方の信仰を通して自分が変わることで人の苦言と思っていたものが助言と感じるようになったという話です。

信仰したきっかけは
一度研修で入った会社に本採用されずに痛い思いをした後に入った就職先に凄く頼れる先輩に出会た。
その方は皆に優しく親しみ易い方だったので相談に良く乗って貰っていた。
そして、お寺に連れて行ってくれ御僧侶に自分が変わらなければ何も変わらないと言われたことや幸せになって欲しいと自分のことのように泣いて言ってくれることでそこまで親身になってくれることに感じるものがあり入信した。

しかし、上司にはいつも怒られクビにされた前の就職先の社長に感じが似ていることもありいつクビになるかびくびくしながらの会社生活で
いつも給料分働いてないから会社のお荷物にしかならないと言われ、
耐えられず部署を変えてほしい
とお願いしてもどの部署欲しがらないと言われた。
先輩に相談したところあんな親切丁寧に教えてくれる良い上司はいないよ!と、言われ、憧れだった先輩とも実は価値観が違ったのだと感じ、さらなる絶望感でお寺も通うのを止めてしまった。
会社に行きドアを開ける時震えと焦りと吐気を感じるプレッシャーの毎日に耐えらなくなりとうとうリストカットしてしまった。

これではダメだとの思いから再度お寺に通うようになり、気持ちが少し楽になったが、限界を感じ会社を
辞めようと思った頃その上司が辞めることとなった。
その時、辞めると知ってふと、その上司も実は私と同じかもしれない。
厳しい家庭環境で育ち上から色々言われて苦しんでいたようだと思った時、上司は実は怒ってばかりではなかった私を気遣い優しい言葉もくれていたと思いだし、上司か辞めるまでに何か恩返しをしたいとの気持ちになり毎日上げる勤行で上司の幸せを御祈念しようと思った。
御祈念している内に時々心の底から感謝の念がふっと湧いてくるのを感じられるようになり、自ら初めて積極的に求めて信仰をするようになった。
そして、一生懸命お題目を上げている内に先輩のあんな親切丁寧な上司はいないよとの言葉を実感でき、お別れの際には心から感謝を述べることができた。
上司は
あなたも成長したね
もし、会社が嫌になったらあなたは若いし可能性はいくらでもあるのだから我慢しなくてもいいのよと
厄介者と言われていた私を初めて認めてくれたとのこと。
人から褒められた経験もこれが初めてのように感じるとのこと。

そして、今は仕事に詰まった時には上司ならどう言っていただろうと思いだし実行していると色々な方から仕事がやり易くて助かると言われるようにまでなった。
今まで、やっかいものだった私がひっぱりだことなり、結婚で辞めた先輩の代わりという大任を任されているとのことです。

これは同じ言葉でも
ある人には苦言
ある人には助言であり
同じ人が聞いたとしても
その人の状況の変化で
苦言にも助言にも変わるということのとても分かりやすい体験談だと思います。

仏法では五感というセンサーで感じたことを意識で判断され初めて識別されると時、その意識は無意識的な意識より更に奥にある業という過去から積み重ねてきたもの、平たく言えば癖のようなものに左右され判断されると、説きます。
だから、苦言と感じる人は苦言と感じるだけの癖を持っているから、そして癖は意識して簡単変わるものではないことは皆様承知なことですね、だから状況は早々変わらないのですね。

しかし、その更なる奥に仏と同じ純粋無垢な命が眠っている、即ち皆様ご存知の仏性がある。、
彼女のように仏に縁しているとその眠っている仏の命が湧き上がり心が浄化さら今まで苦言もっと言えば難癖だと思っていた言葉が助言と感じならるようになるのですね。

本当にすごいことだと感じました!

コメント(13)

私たちはとかく、これは良かったこと、あれは嫌なことと、自分の身に降りかかる一つ一つのことを、いいこと楽しいことと悪く嫌なことに峻別して、何とか上手くいいことばかりが起こりますようにと願っているものだけど、

あらゆることを一つ残らず、どれもが自分にとってとても有難い深い価値あるものだと受けとめられるようになったなら、

私たちには輝く宝物の日々ばかりが手元にあることになりますね。
似たような教えに顕益と冥益と
いうのがあります。

顕とは字の如く現れる利益
目に見て一目瞭然な利益です。
例えばお金が儲かるとか
試験に合格するとか
良縁に恵まれるとかです。

冥とはこれも字の如く隠れてい利益です。
隠れている?ですよね。
隠れていると言っても死ぬまで
全く現れない利益と言う意味では
ありません。
例えていうならば赤ちゃんが
大人になる過程に似ています。
赤ちゃんは一日一日を比べれば
全く変化がないに等しいです。
しかし三ヶ月一年三年十年と
月日が経てば必ず大人へと
近ずいていきます。
それと同じで数日では信仰しても
大した変化はなくても
本当に功徳のある教えならば
教え通り正しく実践するならば
必ず数ヶ月後、もしくは数年後には
必ず変わっていくという功徳が
冥益です。

そして、その教えは実は顕益は
まだまだ小さな利益でしかない
本当に尊いのは冥益であると
説いてます。

私は確かだなとつくづく思います。
今の私の境涯を二十歳の私が
絶対に想像できません、
それほど劇的に変わってます。
そして、自分の欠点にしか思えなかった
性格が長所に変わってきたのも
驚きでしかあります。

日々心の底から仏様に感謝する
毎日です。
涙暇なしです!
中部経典の第152経に、感官の修習(根修習経)という経典があります。
まさに、六根清浄について釈尊が説いた内容です。

時間がかかりましたが、以下に内容をご紹介します。
私の所有している春秋社の訳文です。
良ければご参考にしてください。
[パーラーサリヤ・バラモンの説く感官の修習】

わたしが聞いたところによると、あるとき、尊師はカジャンガラーのムケール林に滞在しておられた。
すると、パーラーサリヤの弟子であるウッタラという青年が、導師のもとにやってきた。近くによると、尊師とたがいに挨拶し、友情にみちた礼儀正しいことばを交わして、傍らに坐った。傍らに坐ったかれに、尊師は尋ねられた。
「ウッタラよ、パーラーサリヤ・バラモンは、弟子たちに感官の修習を教えていますか」
「きみ、ゴータマよ、パーラーサリヤ・バラモンは、弟子たちに感官の修習を教えています」
「では、ウッタラよ、かれは弟子たちに、感官の修習について、どのように教えていますか」
「きみ、ゴータマよ、パーラーサリヤ・バラモンは弟子たちに、感官の修習について、「人は、眼によって色かたち(色)を見ず、耳によって音声 (声)を聞かない」と教えています。きみ、ゴータマよ」
「ウッタラよ、かれのいう通りであるならば、目に障害のある人は修習された感官をもつことになるだろう。耳に障害のある人は修習された感官をもつことになるだろう。なぜなら、目に障害のある人は眼によって色かたちを見ず、耳に障害のある人は耳によって音声を聞かないからである」
そのようにいわれたとき、パーラーサリヤの弟子であるウッタラ青年は、黙ってしまい、赤面し、肩を落し、下を向き、考えこみ、いい返すことができないで坐っていた。
そこで、尊師は、かれが黙ってしまい、赤面し、肩を落し、下を向き、考えこみ、いい返すことができないでいるのを知って、アーナンダ尊者に話しかけられた。
「アーナンダよ、パーラーサリヤ・バラモンは、弟子たちに感官の修習を〔わたしとは】別な方法で教えている。つまり、それは聖者の訓練における最高の感官の修習とは別な方法ということだ」
「尊師よ、これ〔を教示されるの」にふさわしいときです。幸いな人(善逝)よ、尊師が[例] 聖者の訓練における最高の感官の修習を教示されるのにふさわしいときです。尊師から聞けば、修行僧たちはよく記憶するでしょう」
「それなら、アーナンダよ、説くことにしよう。それを聞いて、よく考えてみるがよい」
「かしこまりました。尊いお方よ」と、アーナンダ尊者は尊師にお答えした。
【聖者の訓練における最高の感官の修習]

尊師は次のように説かれた。
「では、アーナンダよ、聖者の訓練における最高の感官の修習とは、どのようなものであるか。アーナンダよ、たとえば、修行僧が眼によって色かたちを見たとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。『わたしのなかに生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたもの(有為)であり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。一方、〔差別の〕心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである』と。すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立する。

たとえば、アーナンダよ、眼ある人は、眼を開いて閉じたり、あるいは眼を閉じて開けたりするが、まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立するのである。アーナンダよ、これが、眼によって識別される色かたちに関して、聖者の訓練における最高の感官の修習である。

また、アーナンダよ、修行僧が耳によって音声を聞いたとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。『わたしのなかに生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたものであり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。
一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである』と。すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立する。

たとえば、アーナンダよ、力もちの人は容易に指をはじいて音を出すが、まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立するのである。アーナンダよ、これが、耳によって識別される音声に関して、聖者の訓練における最高の感官の修習である。

また、アーナンダよ、修行僧が鼻によって匂い(香)を嗅いだとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。「『わたしのなかに生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたものであり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである』と。すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立する。

たとえば、アーナンダよ、わずかに傾いた蓮の葉にある雨のしずくは滑り落ち、とどまることがない。まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は〔差別の〕心を捨てた平静な状態を確立するのである。
アーナンダよ、これが、鼻によって識別される匂いに関して、聖者の訓練における最高の感官の修習である。

また、アーナンダよ、修行僧が舌によって味(味)を味わったとき、かれには、好きなもの・〔きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。「わたしのなかに生じたこの好きなもの・
きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたものであり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである」と。
すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは差別の心を捨てた平静な状態を確立する。

たとえば、アーナンダよ、力もちの人は、舌先で唾のかたまりを集めて、容易に吐き出す。まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に〔生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は〔差別の】心を捨てた平静な状態を〕確立するのである。アーナンダよ、これが、舌によって識別される味に関して、聖者の訓練における最高の感官の修習である。
また、アーナンダよ、修行僧が身体によって触れられるもの(触)に接触したとき、かれには、好きなもの・〔きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。
『わたしのなかに生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたものであり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである」と。
すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは差別の心を捨てた平静な状態を〕確立する。

たとえば、アーナンダよ、力もちの人は、曲げた腕を伸ばしたり、伸ばした腕を曲げる。まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に[生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は「差別の心を捨てた平静な状態を」確立するのである。アーナンダよ、これが、身体によって識別される触れられるものに関して、生者の訓練における最高の感官の修習である。

また、アーナンダよ、修行僧が意によって思考されるもの(法)を知ったとき、かれには、好きなもの・〔きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはこのように理解する。「わたしのなかに生じたこの好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものは、作られたものであり、粗大なものであり、条件によって生じたものである。一方、差別の心を捨てることは、寂静なものであり、勝れたものである』と。
すると、かれに生じたその好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅して、かれは差別の心を捨てた平静な状態を確立する。

たとえば、アーナンダよ、人が、日中、熱せられた鉄板の上に、二、三滴の水を落とすとしよう。アーナンダよ、水滴はゆっくりと落とされるが、それは〔鉄板の上で〕急速に、消散し、完全に消えてなくなるであろう。まさにそのように、アーナンダよ、そのように急速に、迅速に、容易に、ある人に〔生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが消滅し、その人は差別の心を捨てた平静な状態を」確立するのである。

アーナンダよ、これが、意によって識別される思考されるものに関して、聖者の訓練における最高の感官の修習である。

以上が、アーナンダよ、里者の訓練における最高の感官の修習である」
【まだ学ばねばならない人】

「さて、アーナンダよ、まだ学ばねばならない人(有学)の段階とは、どういうものであるか。
アーナンダよ、修行者が、眼によって色かたちを見たとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはその生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う。

また、耳によって音声を聞いたとき、〔かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはその生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う]。

鼻によって匂いを嗅いだとき、[かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはその生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う]。

舌によって味を味わったとき、〔かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはその生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う。

身体によって触れられるものに触れたとき、〔かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれはその生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う]。

意によって思考されるものを知ったとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。そこで、かれは、その生じた好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものによって、悩み、恥じ、厭う。

以上が、アーナンダよ、まだ学ばねばならない人の段階である。
【修習された感官をもつ聖者】

では、アーナンダよ、修習された感官をもつ聖者とは、どういうものか。

アーナンダよ、たとえば、修行僧が、眼によって色かたちを見たとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。
もし、かれが、『わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。もし、かれが、「わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、(それらへの差別の心を捨てた者として、億念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは〔差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として、その境地にとどまる。

また、アーナンダよ、修行僧が耳によって音声を聞いたとき、[かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、嫌悪の想いをもっ
て過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、それらへの差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として、その境地にとどまる。

また、アーナンダよ、修行僧が、鼻によって匂いを嗅いだとき、[かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。もし、かれが、「わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、それらへの差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として、その境地にとどまる。
また、アーナンダよ、修行僧が、舌によって味を味わったとき、[かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。もし、かれが、「わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、それらへの差別の心を捨てた者として、億念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは差別の心を捨てた者として、億念ある正知者として、その境地にとどまる。

また、アーナンダよ、修行僧が、身体によって触れられるものに触れたとき、〔かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、味悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、それらへの差別の心を捨てた者として、億念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは差別の心を捨てた者として、憶念ある正知者として、その境地にとどまる。

また、アーナンダよ、修行僧が、意によって思考されるものを知ったとき、かれには、好きなもの・きらいなもの・好きでありきらいでもあるものが生じる。
もし、かれが、『わたしは、いやなものについて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは、嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、好ましいものについて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは、嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとにおいて、嫌悪の想いをもたずに過ごそう」と願うならば、かれは、嫌悪の想いをもたずにその境地にとどまる。
もし、かれが、『わたしは、好ましいものといやなものとにおいて、嫌悪の想いをもって過ごそう」と願うならば、かれは、嫌悪の想いをもってその境地にとどまる。
もし、かれが、「わたしは、いやなものと好ましいものとの両者を避けて、〔それらへの差別の〕心を捨てた者として、億念ある正知者として過ごそう」と願うならば、かれは、〔差別の〕心を捨てた者として、億念ある正知者として、その境地にとどまる。
アーナンダよ、修習された感官をもつ聖者とはそのようなものである」
【弟子たちへの教戒】

「アーナンダよ、このように、わたしは、聖者の訓練における最高の感官の修習と、まだ学ばねばならない人の修行道と、修習された感官をもつ聖者とについて説いた。
アーナンダよ、わたしは、弟子たちの利益をもとめて、慈悲心ある師が慈悲をかけてなすべきことを、そなたたちのために行なった。
アーナンダよ、これらは樹の根である。これらは〔林のなかの〕空き地である。
アーナンダよ、心を定め瞑想せよ、怠惰になるな。
後に悔やむことのないようにせよ。これがそなたたちへのわたしの教戒である」

以上のように、尊師は語られた。
アーナンダ尊者は心に満足をおぼえ、尊師の説かれたことに歓喜した。

上記において『感官』と訳されているのが『indriya』であり、
六根清浄というときの『根』も『indriya』であり、同じ意味です。

感官(根)で、色形、音、香りなど、様々な感覚を感じるとき、
私たちの心には『好き嫌い・良い悪い』といった感情が浮かびますが、
これを『有為であり粗大であり作られたものである』と考え、
さらには『差別の心を捨てることは寂静であり優れている』と考え、
この差別の心を捨てることが、仏教の修行であることが教えられます。

ここで言っている『作られたもの』は『paṭiccasamuppannaṃ.』で、
直訳すると『縁起したもの』です。
『差別の心を捨てること』と訳されているのは
『upekkhā』で、一般の経典では『捨』と一文字で訳されています。

もう少しだけ突っ込みます。
上記において
『眼によって色かたちを見たとき▲▲が生じる』
と訳されているのは
『cakkhunā rūpaṃ disvā uppajjati ▲▲』
というパーリ原文になります。
cakkhunā は眼のことです。
rūpaṃ は『ルーパ』であり、色即是空というときの『色』です。
一般的には『物質』などと訳されています、
disvā は『見る』という意味があります。
uppajjati は『生じる・発生する』です。

眼で色を見る、生まれる▲▲

パーリ原文はこんなニュアンスです。

▲▲は『縁起したもの』ですから、
眼があって、色(物質)あって、その接触が起こり、縁起したものが生じる
と、こういうニュアンスになります。

後の時代に、部派仏教の学僧たちが、これに様々に名前を付けます。
感官は六根と言ったり、六内処とか六内入とか言ったりします。
感官に対応する色形や音や香りは、六境と言ったり、六外入、六外処と言ったりします。
まあ、どんな名前を付けようが、言いたいことは経典そのままです。

眼や耳や鼻や色々あって、色形や音や香り色々あって、
それが接触したその縁起で、縁起したもの(好き嫌い)が生じる。
この縁起したものを『捨』することが、寂静たる勝妙なる良い修行である。

と、こういうことになります。
昔の翻訳だと、

寂静たる勝妙なる捨に住す。

みたいに訳されています。

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