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仏教コミュの長部経典第九経 布咤波樓経(ポッタパーダ経)

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ポッタパーダ経という経典をタイピングしてみようと思います。
非常に長い経典なので、一度にタイピングすることは難しいため、
少しずつタイピングしてUPしていく予定です。

興味のある方は、お読みになり、ご自由にご意見をコメントください。
共に経典から直接学び語り合うなら、大きな利益があると思います。
私も、つたないながら、説明が出来そうなところは説明いたしますし、
私の解釈にご意見がいただけるのであれば嬉しい限りです。

引用は
『春秋社 原始仏典第一巻
長部経典第九経 布咤波樓経(ポッタパーダ経) 渡辺研二訳』
によります。

コメント(28)

■以下経典写本

一、わたしはこのように聞いた。
あるとき、尊師は、サーヴァッティー市にほど近い、ジェータ林のアナータピンディカ僧園に住んでおられた。
そのとき、遍歴の行者のポッタパーダは、三千人の遍歴の行者からなる大勢の遍歴の行者集団とともに、マッリカー園にあるティンドゥカ樹に囲まれた集会討論場であるエーカサーラカ堂に住んでいた。

二、さて、尊師は、早朝に衣をつけ、鉢と衣を手に執って、托鉢のためにサーヴァッティー市に入って行った。
そのとき、尊師はこのようにお考えになった。
「サーヴァッティー市で托鉢するには、まだ早い。わたしの方からマッリカー園にあるティンドゥカ樹に囲まれた集会討論場であるエーカサーラカ堂にいるポッタパーダ遍歴の行者のところに行ってみてはどうか」と。
そこで尊師はマッリカー園にあるティンドゥカ樹に囲まれた集会討論場であるエーカサーラカ堂に近付いて行かれた。
■以下経典写本

【遍歴の行者たち、集会討論場にてうわさばなしをする】
三、ちょうどそのころ、遍歴の行者のポッタパーダは、大勢の遍歴の行者集団とともに、座って、高い声や大きな声を張りあげて種々の低俗なうわさ話をしていた。
すなわち、王についての話、泥棒についての話、大臣・軍隊・恐怖・戦争・食べ物・飲み物・衣服・寝台・花輪・香料・親類・乗り物・村・町・都・地方・女(や男)・英雄などの話、また街角の世間話、井戸端での噂話、死者の話、取りとめのない雑談、世界の起源に関する話、海の起源に関する話、その場かぎりのあるとかないとかいった話である。

【仏陀、遍歴の行者のポッタパーダに会う】
四、さて、遍歴の行者のポッタパーダは、尊師が遠くからこちらにやって来られるのを見た。
見てから、自分の集団を制止した。
「皆さん、お静かに。皆さん、声を出してはなりません。かの道の人ゴータマがこちらへやって来ます。この尊者は。静けさを好み、静けさに慣れ、静けさを誉め称える方です。
集団が静かにしているのを見れば、きっと近付いてもよいと思われるかもしれません」と。
このように言われて遍歴の行者たちは、静かになった。

五、さて、尊師は遍歴の行者ポッタパーダがいるところへ、近づいて行かれた。
すると、遍歴の行者ポッタパーダは、尊師にこう言った。
「尊き尊師よ、さあ、どうぞ。尊き尊師よ、ようこそおいでくださいました。尊き尊師よ、尊師が機会をお作りになり、ここへ来られましたのはお久しぶりのことです。尊き方よ、席はここに用意してあります。席にお座りください」と。
尊師は用意された席にお座りになった。遍歴の行者ポッタパーダも、別の低いところにある座をとり、一方にすわった。一方にすわった遍歴の行者ポッタパーダに、尊師は、次のように言われた。
「ポッタパーダよ、どのような話のために、いまここに集まりすわっているのですか。あなた方が途中でやめた話は、どのようなものですか」と。
■以下経典写本

【心理作用の消滅について】
六、このように問われて、遍歴の行者ポッタパーダは、尊師にこう答えた。

「尊き方よ、いま、わたしどもは話すことがあって、このように座っておりますが、その話は(しばし気になさらないで)そのままにしておいてください。
尊き方よ、尊師は後からでもその話をお聞きになることができましょう。
尊き方よ、この集会討論場において、先日よりいくどか、異郷の人々である道の人・バラモンたちが、ともに座り、ともに集まりましたが、そこでは心理作用(想)の消滅の議題が持ち上がりました。
『友よ、心理作用の消滅は、いったいどのようにしておこるのであろうか』と。

人々のなかにはこういう者たちがいました。
『友よ、人にはもろもろの心理作用が、直接原因(因)もなく、間接原因(縁)もなく生起し、また消滅するのです。生起するとき、心理作用のある者になり、消滅するとき、心理作用のない者になるのです』と。
このように、ある者たちは(自分たちの)すぐれた心理作用の消滅を説明しています。

それに対して、ほかの人々はこういっています。
『友よ、いいえ、それはそのようにならないのです。なぜなら友よ、じつに心理作用とは、人のアートマン(我)にほかならないからであります。それは、近づいて来たり、離れ去っていったりするものであるからです。それが近づいて来るとき、心理作用のある者になり、離れ去っていくとき、心理作用のない者になるのです』と。
このように、ある者たちは(自分たちの)すぐれた心理作用の消滅を説明しています。

それに対して、さらにほかの人々はこういっています。
『友よ、いいえ、それはそのようにならないのです。なぜなら友よ、じつに偉大な神通力をもつ、偉大な威力をもつ道の人・バラモンたちが存在しているからです。かれらは、この人のアートマンを、出したり入れたりするのです。かれらが(それを)入れるとき、心理作用のある者になり、出すとき、心理作用のない者になるのです』と。
このように、ある者たちは(自分たちの)すぐれた心理作用の消滅を説明しています。

それに対して、さらにほかの人々はこういっています。
『友よ、いいえ、それはそのようにならないのです。なぜなら友よ、じつに偉大な神通力をもつ、偉大な威力をもつ神々が存在しているからです。かれらは、この人のアートマンを出したり入れたりするのです。かれらが(それを)入れるとき、心理作用のある者になり、出すとき、心理作用のない者になるのです』と。
このように、ある者たちは(自分たちの)すぐれた心理作用の消滅を説明しています。

尊き方よ、わたしには、尊師のことが思い出されたのです。
『ああ、このようなときに、いろいろな真理に精通しておられる尊師がおられたらよいのになあ。幸せな人(善逝)がおられたらなあ』と。
尊師はすぐれた心理作用の本質を熟知された方です。
尊き方よ、尊師のすぐれた心理作用の消滅とは、いったいどのようなものでしょうか」
ここで言われている「心理作用」とは、私たちが「心」とか「意識」と呼んでいるものに近いものですね。
私たちは何かを認識したり思ったり考えたりしている。
この「思ったり、考えたりしている心、意識」のことを、ここでは心理作用と呼んでいるようです。

私たちには、ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など、「思ったり、考えたりしている心、意識」がない状態があります。
また、死者(の肉体)には「思ったり、考えたりしている心、意識」がないと考えられます。
このことをどう考えるかという問題ですね。

ある人は、理由もなく「思ったり、考えたりしている心、意識」が生まれたり消えたりするだけだ、と説く。
わたしはこれは結構、無理があると思います。
ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態や死は、理由もなくランダムに現れるものではありません。
直接原因も間接原因もないならランダムということですから、現実と矛盾します。

またある人はアートマン(自我、魂のようなもの)で「思ったり、考えたりしている心、意識」を説明しようとします。
「思ったり、考えたりしている心、意識」には、それを行っている主体があるはずだと考え、その主体を当時のインドの人たちはアートマンと呼んでいたわけです。
「アートマンが出たり入ったりすることによって意識が生じたり消えたりする」というのは、現代にもある「死ねば魂が別の肉体に移動してまた別の肉体に宿る」というような考え方と近いものですね。
このようなアートマンが、理由は不明ながら「出たり入ったり」することが、私たちの「思ったり、考えたりしている心、意識」のありなしに関わるという主張が二番目の主張です。

これに対して、アートマン説としては同じでも、アートマンは「出たり入ったり」するのではなく、偉大な霊能者が「入れたり、出したりする」という意見が三番目の主張。
神が入れたり出したりするという意見が四番目の主張ですね。

ポッタパーダ経では、これらの主張に対して、仏陀が丁寧に説明を行っていきます。

仏教の参考書などには「アートマンとは恒常不変の実体のことで、仏陀はこれを否定した」みたいに書いていますが、これだとちょっと、仏陀の説いたことが形而上的な哲学みたいに思えてしまいます。
経典を直接読めば、アートマンとは要するに自我であり心であり魂であり、思ったり考えたりする主体のことを指していることが分かります。
ポッタパーダ経ではまさに、仏陀はそのアートマン(主体としての魂・心)を否定しています。
思ったり考えたりする主体としての自我や心や魂といったものは存在しませんよ、というのがアートマンについての説法で仏陀の教えていることです。
ポッタパーダ経には、そのことが非常に丁寧に語られます。
とても勉強になる経典かと思います。

また、まとまった時間があるときに続きを写本いたします。
>>[004]

>そこでは心理作用(想)の消滅の議題が持ち上がりました。『友よ、心理作用の消滅は、いったいどのようにしておこるのであろうか』と。人々のなかにはこういう者たちがいました。『友よ、人にはもろもろの心理作用が、直接原因(因)もなく、間接原因(縁)もなく生起し、また消滅するのです。生起するとき、心理作用のある者になり、消滅するとき、心理作用のない者になるのです』と。このように、ある者たちは(自分たちの)すぐれた心理作用の消滅を説明しています。


私たちの毎日における心の中のさまざまな思いが生まれたり消えたりすることじゃなく、
人間が生まれて心を持つようになり、死んで心も消えてしまうというふうに前提した上での議論なのでしょうか。
>>[5]

共に経典から直接学べることを大変嬉しく思います。

私は、ここでなされている議論は人間が生まれて心を持つようになり、死んで心も消えてしまうというふうに前提した上での議論ではないと思っています。
生死については、ここでは何も前提とされていません。
単純に、私たちが思ったり考えたり認識したりする心理作用、すなわち現代の私たちが意識と呼んだり心と呼んだりしているものが、どのように消滅するかという議論だと思います。

私たちの心の中には日々様々な思いが去来することは確かですが、その場合にも心理作用の流れは変化しながらも続いていきます。
心理作用そのものは消滅はしていません。

仮に、ここでの議論が去来する様々な思いについての議論であるとするなら、アートマン説の論者はAの思いが消滅しBの思いが生まれるとき、Aのアートマンが去りBのアートマンが近づくと主張していることにならないでしょうか?
その前提で読むのは無理があると思います。

実は、この経典をもう少し読み進むと、かなり具体的な「心理作用の消滅」の例を仏陀が語るのですが、そこでも「思いの去来」ではなく、私たちが思ったり考えたり認識したりする心理作用、すなわち現代の私たちが意識と呼んだり心と呼んだりしているものの消滅の事例が語られます。

もっと読み進めると、より分かりやすくなると思います。
また続きをタイプしますので、楽しみにお待ちください。
>>[004]の試みは、とても尊い学習の姿であり、ぜひ見習うべきだと思わされずにいられません。


>私たちにはノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など、「思ったり、考えたりしている心、意識」がない状態があります。また、死者(の肉体)には「思ったり、考えたりしている心、意識」がないと考えられます。このことをどう考えるかという問題ですね。


ここでおっしゃっていることは、私たちの心の深い深い所には「ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など」や「死者(の肉体)」などにも何らかの心の働きを認める仏教思想があるがそれはまったく認められない、
という意味でしょうか。
それとも、深い深い所に働き続けるそういう心をスターさんも認めるけれども、それはここでは議論になっておらず、ここで議論しているのはあくまでももうちょっと表面の心の働き、想だけであるという意味でしょうか。
>>[7]

コメントをありがとうございます。

原始経典をきちんと通読し、折に触れて学習している方は、このコミュには少ないようです。
原始経典はそれなりの値段がする書籍ですから、仕方がないかもしれません。
そこで思い至ったのですが、このようにタイピングして写本することが、素晴らしい法施になると思いました。
時間はかかるかもしれませんが、今後粛々とタイピングしていきたいと思います。
100回議論するより、経典を1回読んだ方が、より理解が進み、功徳も大きいと思います。

さて、ご質問にお答えします。

>ここでおっしゃっていることは、私たちの心の深い深い所には
>「ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など」や「死者(の肉体)」などにも
>何らかの心の働きを認める仏教思想があるがそれはまったく認められない、 という意味でしょうか。

『心の深い深い所には「ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など」や「死者(の肉体)」などにも何らかの心の働きを認める仏教思想』
というのがどんな仏教思想か分からないのではっきりとは言えませんが、
「ここで議論しているのはあくまでももうちょっと表面の心の働き、想だけである」
と言えるかと思います。

そのことは、仏陀が話しかけている相手のことを考えれば分かるかと思います。
ここで議題になっているのは、低俗なうわさ話に興じるようなポッタパーダの属する集団と「異郷の人々である道の人・バラモンたち」とで語り合ったところの「心理作用の消滅」についてです。
聖なる道において修行を行い心の深い深いところにある心理作用について知悉した人々が語り合う「心理作用の消滅」ではありません。
どちらかというと、修行の進んでいない者同士の会話に出てきた「心理作用の消滅」ですから、「ここで議論しているのはあくまでももうちょっと表面の心の働き、想だけである」と考えて良いのではないでしょうか。

私としても、普通一般に考えられている(表層の)意識についての議論だと思ったからこそ『「ノンレム睡眠状態や気絶状態、完全にボーっとしている状態など」や「死者(の肉体)」には意識がない』という言い方をしました。
「睡眠状態にも連続して消滅せずに存在し続けている無意識の意識」を想定していれば、このような言い方はしません。
私は「深い場所にある無意識の意識」については、ここでは全く話し合われていないと思います。

「睡眠状態(あるいは死後)にも連続して消滅せずに存在し続けている無意識の意識」があるかどうかは、また別の議論ですし、それをどう定義するかでどうとでも言えます。
例えば私たちが「文化」と呼んでいるものは、「睡眠状態(あるいは死後)にも連続して消滅せずに存在し続けている無意識の意識」と呼べるかもしれません。
いずれにせよ、このような話を始めると果てしなくズレていくと思いますので、その先について対話したいのであれば、トピを変えましょう。

●この経典で交わされている議論の「心理作用」とは、「無意識の意識」のようなものを想定していない表面の心の動きだと考えて良い

というところで、ご質問の答えとさせてください。
経典を読むと、見えなかったものが見えてくることもたくさんあります。
仏陀の教説を学べるのはもちろんですが、教説とは直接関係のない部分からも、様々なことが分かります。

例えば「サーヴァッティー市にほど近い、ジェータ林のアナータピンディカ僧園」には3000人の行者が住んでいたと書かれています。
3000人というのは、かなりの数字です。
例えば、仮に3000人が1日半合の米を食べるとしたら、1日225キロ、年間で82トンの米が必要になる計算です。
経典が語り継がれていく中で、数値が増えて行った可能性はありますが、
不妄語戒を持戒した敬虔な仏教徒たちが大勢で歌のように暗誦しながら受け継いできた経典ですから、
ほとんど原典のまま変化していないと想像することもできます。

そうなると、当時の2500年前のインドに花開いていた文明は、ひとつの小さな地方都市ですら年間82トン以上もの余剰農産物を産出できたということになります。
この3000人は、普段何をやっているかというと、真面目な修行もしていたかもしれませんが、低俗なおしゃべりをしばしば行うような集団です。
このような集団を養っていく物質的な余裕と、精神的な余裕が、当時のインド社会にあったということは驚くべきことだと私は感じます。

また、修行者集団のおしゃべりの内容から察するに、香水を使ったりベッドの良し悪しについて語り合ったり、乗り物(牛車などの乗り物のことでしょうか)についても世俗的な興味を持っていたようです。
現代社会と見間違えるような興味対象であり、それも興味深く思います。

更に、私が非常に驚いたのは、ポッタパーダが仏陀に対して「お久しぶりです」と声をかけていることです。
ほとんどの経典には、「この仏陀の説法によって何百人が悟った」みたいに書かれており、特筆すべき成功事例ばかりが伝えられています。
しかし、この「お久しぶりです」から察するに、今回の訪問以前に仏陀が訪れた際には、ポッタパーダを含めた皆さんは、何も悟っていなかったようです。
つまり、いかに仏陀であろうとも、会う人会う人、たちどころに悟らせる訳でもなかったという当たり前のことが予想できるわけです。
仏陀に対して、神通力を持った万能なスーパーマン像を抱いている方は現代でも少なくありませんが、経典に伝えられている仏陀はけっこう普通の人間であったことが、このような細かな描写から推察できます。
説法については、「相手の機根次第」といったことを原始経典の他の経典でも語っているので驚くほどのことでもありませんが、
3000人からの(未熟な)修行者たちが集う討論所に定期的に通っていたという仏陀像は新鮮です。

むしろ、冒頭のポッタパーダの質問は、丁寧ではありますが、挑戦的な雰囲気すら感じさせます。
もしかすると、ポッタパーダは内心、仏陀を品定めするように質問をしたのかもしれません。
私には、少し馬鹿にした態度で問いかけているようなシーンすら想像できます。
このような修行者を相手に仏陀が地道に布教活動を行っていたということを考えるだけでも、私には世の中で一般的に捉えられている姿とは違う真実の仏陀像が思い浮かべられるような気がします。


経典タイピングは、自宅でゆっくりと出来る時間がないとできませんので、もうしばしお待ちいただきたいのですが、これだけの内容の中にも、学べるところ、様々に想像を働かせられることがたくさんあることを指摘しておきたいと思います。
■以下経典写本

【ブッダ、心理作用の消滅について語る】

七、「ポッタパーダよ、かれらのうちに『人には、もろもろの心理作用は、直接原因もなく、間接原因もなく生起し、また消滅する』というように主張する道の人・バラモンたちがいます。
かれらは間違っております。
それはなぜかといいますと、ポッタパーダよ、じつに直接原因があって、間接原因があって人のもろもろの心理作用が生起し、また消滅するからです。
学ぶべきことによって、ある心理作用は生起し、学ぶべきことによって、ある心理作用は消滅するのです。
それではいったい学ぶべきこととはなんでしょうか」と尊師は、こう説明されたのです。
■以下経典写本

【修行完成者の出現】
「ポッタパーダよ、修行完成者(如来)はこの世に現れています。
尊敬さるべき人(阿羅漢)であり、全きさとりを開いた人(等正覚)であり、明知と行いとを具えた人(明行足)であり、幸せな人(善逝)であり、世間を知った人(世間解)であり、人間を訓練する人(調御丈夫)であり、無上の人(無上士)であり、神々と人間の師(天人師)であり、ブッダ(仏陀)であり、尊師(世尊)なのです。
その修行完成者は、神々の世界、悪魔の世界、梵天り世界をふくめて、このすべての世界を知り道の人・バラモン、神々と人間をふくめて、生きとし生けるものをみずから知り、また目の当たりにさとって、(他にたいして)解き明かすのです。
修行完成者は、はじめもよく、なかごろもよく、終わりもよい真理り理法を、その意味と字句を明らかにしながら解き示し、まったく完全で清浄な清らかな修行を明らかにするのです。
資産家やその息子、あるいはその他のいかなる身分に生まれたものでも、この真理り理法を聞き、聞いて修行完成者に対する信仰を得ます。
その信仰を得た者はこう深く考えるのです。

『家庭の生活は煩わしいもの、ほこりにまみれた道である。
それに対し、出家修行者の生活は自由な大空のようだ。
家庭生活を営むものには、完全そのものの、まったく清らかな真珠貝の輝きのような清らかな修行を行うことは困難である。
いまこそ髪と髯を剃り、黄色の衣をまとい、家を出て、家なきものとして出家しよう』と。

そして、ある日、多い少ないに関わらず財産を捨て、また多い少ないにかかわらず親族を捨て、髪と髯を剃り、黄色の衣をまとい、家を出て、家なきものとして出家します。

このように出家者となり、戒律規定(パーティモッカ)の防護によって自己を制御し、正しい行いと正しい托鉢の場とをたもち、ごくわずかな罪にさえ恐れの念をいだき、戒律の項目(シッカーパダ)を正しく受け入れて、学び、正しい身体の行為と口の行為を身につけ、清らかな生活をおくります。
戒めを正しく守り、感覚器官の門を守り、気を落ち着け(正念)、正しく自覚して(正知)、満足しています」
■以下経典写本

【小の戒め】
「ポッタパーダよ、そのうちで修行者が戒めを守るとはどのようなことかといえば、ポッタパーダよ、それは、ここに1人の修行僧がいて、生物を害することを捨て、生物を害することから離れているとします。
すなわち、鞭も持たず、武器を使わず、恥じらいがあり、慈悲心があり、すべての生き物の幸福を願い、同情を寄せるのです。
これも修行者の戒めの完成です。

与えられないものを取ることを捨てて、与えられないものを取ることから離れています。
すなわち、与えられたものだけを取り、与えられるものだけを期待し、みずから盗み心のない清らかなものとなるのです。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

清らかでない生活を捨て、清らかな生活を行います。
すなわち、離欲の生活をし、性的行為や淫らな行いを断つのです。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

嘘を捨て、嘘から離れています。
すなわち、真実を語り、真実と結びつき、正直であり、信頼に値し、世間を欺きません。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

中傷を捨て、中傷を言うことから離れています。
すなわち、人と人を離反させようと、こちらで聞いては、あちらで話し、あちらで聞いては、こちらに来てそれを話すということがないのです。
また、仲たがいした者たちを和合させ、仲良くしている者たちを更に仲良くさせます。
和合することを愛し、和合することを好み、和合することを喜び、和合をもたらす言葉を語るのです。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

粗野なことばを捨てて、粗野なことばから離れています。
すなわち、欠点がなく、耳に快く、愛情に満ち、心をうつ、洗練され、多くの人に好まれ、多くの人を喜ばす、そういうことばを語るのです。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

無意味で飾ったことばを捨て、無意味で飾ったことばから離れています。
すなわち、語るべきときに語り、ありのままを語り、有意義なことを語り、真理の理法を語り、戒律について語る。
つまり、適切なときに心に残ることばを、比喩を交えながら、区切りのはっきりとした、意味のある言葉を語るのです。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

種子や草木を傷つけることをやめる。
一日一食をとり、夜間に食べることを避け、定められた時間以外に食べることをやめる。
演劇や歌謡や音楽などの娯楽を観ることをやめる。
花飾り・香料・塗香を身につけ、装飾をもって飾り立てることをやめる。
高い座席や大きくて立派な寝台などを用いることをやめる。
金や銀を蓄えることをやめる。
生の穀類を受け取ること、生の肉をもらうこと、婦人や少女をもらうこと、女の奴隷や男の奴隷をもらうこと、山羊や羊をもらうこと、鶏や豚をもらうこと、象や牛や牡馬・牝馬をもらうこと、田畑や土地をもらうことをやめる。
(他のものを)使いにやったり、(みずから)使い走りをしたりすることをやめる。
売ったり買ったりすることをやめる。
目方をごまかしたり、贋金をつかませたり、寸法をごまかしたりすることをやめる。
賄賂を贈ったり、騙したり、詐欺をはたらいたりといったという不正行為をやめる。
傷害・殺人・監禁・追剥・窃盗・強盗をやめる。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。
>>[8]

「心理作用の消滅」

ではなく

《貪・瞋・癡に囚われた心理作用》の消滅

と言った方が説明がしやすいのではないでしょか。
というのは、ブッダは

《八正道の心理作用》

を勧めているからです。それに

「涅槃とは何であろうか。…貪欲の壊滅、瞋恚(しんに)の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである」(『阿含経典2』p.145)なんて言っている。「《貪・瞋・癡に囚われた心理作用》の消滅」が目的なのであり、それで十分なのです。
>>[13]

コメントをありがとうございます。
共に経典から学べることを嬉しく思います。

たけさんのおっしゃる
『仏陀は《貪・瞋・癡に囚われた心理作用》の消滅と《八正道の心理作用》を勧めた』
というのは正しいと思います。

ただ、この経典では、ポッタパーダとその仲間たちが語り合った
貪・瞋・癡に囚われた心理作用の消滅とは別の意味での心理作用の消滅について、
正しくはどのように考えるべきかを仏陀が教えています。
つまり、自我とは何か、自分とは何か、私とは何なのか、といった、
どの時代、どの地域の青年も考える形而上的な問い、疑問、悩みについて、
仏陀が丁寧に答えてあげているといった形の経典です。

ポッタパーダの問いかけとは、
「私たちの心、意識はどのように生まれるのか?
心、意識が消滅して死ぬとは、どういうことなのか?」
といったものだと思います。

その問いかけに仏陀がどのように答えたのか、興味はありませんか?

この経典では、仏陀は答えて教え示すべきことを教え示し(無我、三学)、
答えて教え示すべきでないことには黙して答えませんでした(十無記)。

そして、この経典で仏陀が教えたことは、断固とした、徹底した無我です。
「私たちの心、意識はどのように生まれるのか?
心、意識が消滅して死ぬとは、どういうことなのか?」
といった疑問に対する答えとして説かれた、仏陀の徹底した無我論が、この経典に残されています。

非常に興味深い経典であり、私たちがこのコミュニティーでしばしば行っている
形而上的な問いに関する議論にも通じる仏陀の正しい教え、正しい考え方がここに説かれています。

たけさんのおっしゃる
『仏陀は《貪・瞋・癡に囚われた心理作用》の消滅と《八正道の心理作用》を勧めた』
というのは、正しいことであり、『それで十分』というのも、正しいと思います。
ただ、この貪・瞋・癡の三毒は非常に根強く私たちの心に巣食っていますから、
戒・定・慧の三学によって、貪りのない行いを完成させ、怒りなく落ち着いた心を完成させ、
そのためにも、ありのままに見る智慧の目を開いていかなければなりません。

この経典でも、(他のどの経典もそうであるように)もちろんその全てが説かれていますが、
とりわけ、形而上的な問いかけ・疑問に対する正しい態度としての
無我という実践的知についての教説を中心に、正しい道が語られています。

たけさんはもちろん、私たち皆の今後の向上、修行のためにも、
本当に役に立つ経典かと思いますので、今後とも共に読み進めていければと思います。
しかし、経典を読むたびに思い知らされることは、我が身我が心我が行いの至らなさですね。
貪・瞋・癡にまみれ、持戒もままならず、簡単にエゴにまみれている己の在り方を思い知らされます。

仏陀の説いたことは正しく、持戒ほど幸福に満ち頼もしく確かな安心が他にないことは間違いありません。
しかし、私はすぐにそれを忘れ、気が付けば破戒に陥っています。
あるいは気が付いているのに、様々な言い訳を重ねて、自ら幸福を捨てて、自ら苦しんでいます。

自ら苦しむのは、馬鹿だからなのだと思います。
だから、こうして経典から学びたいと思うのです。
私のような馬鹿で愚かな人間には、人一倍勉強しても充分ということはありません。

経典を読むたび、そう思わされます。
>経典を読むたびに思い知らされることは、我が身我が心我が行いの至らなさですね。

「我が身」 というコトバが指し示すモノを、『私のモノである』であると思う感覚
「我が心」 というコトバが指し示すモノを、『私のモノである』であると思う感覚
「我が行い」というコトバが指し示すモノを、『私のモノである』であると思う感覚

「我が思い知り」というコトバが指し示すモノを、『私のモノである』であると思う感覚

があるということですね。
>>[16]

もちろんそうです。
私は如来ではありません。

しかし、私は真理が無我であることは、しっかりと教えていただきました。

<エゴにまみれた私>は「我が身我が心我が行い」を見ます。
「如来=涅槃に至っている知性・意識・智慧そのもの」は無我を見ます。
<私>はそのことを教えていただいたが故に、より一層、我が身我が心我が行いの至らなさを思い知ります。
だからこそ、<私>は戒めの完成、禅定の完成、智慧の完成を求めます。
(今の私にとってはまったくほとんど手の届かないような高く遠い目標ですが)

完成に至れば、<私>という筏は捨てられると教えられています。
仏陀の教えは全く道理にかなった、真理の理法であると思います。
私は愚かな馬鹿ですが、仏陀の偉大さと正しさだけは、しっかりと教えていただいています。
それだけはきっぱりと断言できます。
本当にありがたいことです。
>>[17]

>完成に至れば、<私>という筏は捨てられると教えられています。

まさにそれがこの経典のテーマであるようですね。

続けてください。
>>[1]

実は、僕が持っている『新訳仏教聖典』p.302〜p.305 にも、この「布咤波樓経」がありまして、一番重要な部分は

布咤波樓(ポッタパーダ)よ、若し人あって、私に
そのあなたの捨てるという自我とは何であるか
と問うならば、私は、
今汝(おんみ)が汝の前に見ているものがそれである
と答える。(p.304)

だと思うのですが、「今汝が汝の前に見ているもの」という日本語では、それが何を意味しているのか、よくわかりません。

『春秋社 原始仏典第一巻
長部経典第九経 布咤波樓経(ポッタパーダ経) 渡辺研二訳』
では、どのように訳されているかを教えていただけませんか?


---

なお、それに続く文は、下記の通り(最終部分)です。

布咤波樓よ、このような私の説き方は根抵(こんてい)のないものであろうか。

「世尊、それは根抵のある説き方であります。梯子を作って昇るための高楼を指し示し得るのと同じく、根抵のある説き方であります」。

この世尊の懇ろな教に動かされて、布咤波樓は生涯三宝に帰依する信者となり、像師(ぞうつかい)の子質多(ちった)は世尊の許に出家して道を修る人となった。
>>[20]

すみません。
このところ仕事が忙しく、なかなか写本の時間が取れません。
いずれ写本をさせていただきます。

しかし、その『新訳仏教聖典』という本は、だいぶ、意訳・省略されているようです。
ポッタパーダやチッタが三宝に帰依したという話は、もっとかなり長く詳細な描写であり、数行でまとめられるような内容ではありません。
自我についての話も、私の学んでいる教典にはそのような表現はなく、もっと非常に長く詳しい解説があります。

非常に簡潔にまとめてみます。
まず仏陀はポッタパーダにアートマンには3つのアートマンの概念があると説きます。
1つは、物質的な肉体を持ったアートマンです。
また1つは、感覚とイメージから成るアートマンです。
また1つは、形態を持たない意識により成るアートマンです。
そして次に仏陀は、その3つとは全く関係なく心理作用が生まれたり消えたりすることがあることを根拠に、アートマンと心理作用は無関係であると説きます。
そして3つのアートマンをそれぞれ捨てていくことで安楽になると教えます。

これは、現代風に言うならば、意識と自我(の概念)は無関係であるということですね。
「私」だとか「自分」という主体とは関係なしに心があり、意識があると仏陀は言っているのです。
そして、むしろ、「私」だとか「自分」という主体を想定することによって苦しみが生じると仏陀は説きます。
だから、そのような非常に無意味な想定を捨てるべきであることを様々な例えによって示します。
このあたりの仏陀の説明は非常に精緻で厳密なので、丁寧に読みたい部分です。

まだまだ時間がかかるかもしれませんが、いずれ辿りつく部分です。
前半の部分も非常に大切な前提となっているので、あせらず、順を追って写本していかせてください。
■以下経典写本

【中の戒め】
「また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような種子や草木の生命を損ないながら暮らしています。
すなわち、根を種子とし、幹を種子とし、節を種子とし、芽を種子とし、第五番目に種子を種子として生育するもののの生命を損ないながら暮らしています。
しかし(修行僧は)このような種子および草木の生命を損なうことをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような貯蔵を行い、その貯蔵したものを享受して暮らしています。
すなわち、飲食物・衣類・乗り物・寝具・香料・菓子などを貯蔵し享受して暮らしています。
しかし(修行僧は)このような貯蔵と享受とをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような娯楽の見物をして暮らしています。
すなわち、演劇・歌謡・音楽・手品・語り物・手をうつ音楽・吟遊詩人の歌唱・太鼓打ち・曲芸・軽業・象の戦い・競馬・水牛の戦い・牡牛の戦い・山羊の角突き・羊の戦い・闘鶏・うずらの戦い・棒術の闘技・拳闘・相撲・模擬戦・軍隊の点呼・整列・閲兵式などの娯楽の見物をして暮らしています。
しかし(修行僧は)このような娯楽を観ることをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような賭け事や怠けの元となる遊びをして暮らしています。
すなわち、八目の将棋、十目の将棋、盤を想像してする将棋、けんけん遊び、石積み崩し、さいころ遊び、棒たたき、手のひら描き、球遊び、葉で笛を作って吹く遊び、おもちゃの鋤で耕す遊び、とんぼ返り、棕櫚の葉で作ったおもちゃの風車の遊び、棕櫚の葉の秤遊び、車遊びや弓の遊び、空中や背中に書いた文字をあてる遊び、遊び仲間が心に考えていることを当てる遊び、動作の真似をする遊びなどの賭け事や遊びをして暮らしています。
しかし(修行僧は)こうした賭け事や遊びをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような高い寝台、大きく立派な寝台を用いて暮らしています。
すなわち、規定以上の高さのもの、脚部に動物模様を彫ったもの、毛の長い羊毛の上掛け、さまざまな色の布を合わせてつくった上掛け、白い毛布、花柄の刺繍をした毛の上掛け、綿入れの上掛け、(ライオンや虎などの動物を)刺繍した羊毛の上掛け、両側に房飾りのある羊毛の上掛け、片側に房飾りのある羊毛の上掛け、宝石を縫いこんだ上掛け、絹の上掛けの付いた、(その上で16人の踊り子が踊れるほどに広い)絨毯、象の背の敷物、車用の敷物、羊の毛皮の敷物、カダリー鹿の毛皮でつくった絨毯、天蓋つきの絨毯をしいた、頭と足を乗せるための赤い枕のついた寝台などを用いて暮らしています。
しかし(修行僧は)こうした高い寝台、大きく立派な寝台を用いることをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

(つづく)
(つづき)

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のように身を飾り、美しく化粧をして暮らしています。
すなわち、香料を身体に塗ること、マッサージし、入浴し、木切れで身体を軽く叩き、鏡を使い、目の化粧水を用い、花飾りをつけ、顔に白粉・顔用の油をつけ、腕輪・首飾りを用い、飾りのある杖・葦の薬籠・(細身の両刃の)剣・日傘をたずさえ、彩色したサンダル・ターバン・宝石の冠・ヤクの尾の払子・長い房飾りのついた白い衣装をもちいるなど身を飾り、美しく化粧をして暮らしています。
しかし(修行僧は)このように身を飾り、美しく化粧をすることをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のように低俗なうわさ話をして暮らしています。
すなわち、王についての話、泥棒についての話、大臣・軍隊・恐怖・戦争・食べ物・飲み物・衣服・寝台・花輪・香料・親類・乗り物・村・町・都・地方・女(や男)・英雄などの話、また街角の世間話、井戸端での噂話、死者の話、取りとめの無い雑談、世界の起源に関する話、海の起源に関する話、その場かぎりのあるとかないとかといった話、このように低俗なうわさ話をして暮らしています。
しかし(修行僧は)このような低俗なうわさ話をやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような論争をして暮らしています。
すなわち『君は、この教えと戒律を理解していない。私はこの教えと戒律とを理解しているのだ』とか、『君がどうして、この教えと戒律とを知るはずがあろうか』とか、『君はまったく間違っている。正しいのは私である』とか、『私の主張はすじが通っている。しかし君のは理に合わない』とか、『君は先に言う話すべきことを後にいい、後にいうべきことを先にいう』とか、『君が考え出したことは、わたしによってすぐに覆された』とか、『君の主張は論破され、君は負けたのだ』とか、『主義主張から抜け出すため修行せよ。もしできるならば君自身で解きほぐしてみよ』と(いった論争をして暮らしています)。
しかし(修行僧は)このような論争をやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような(他のものを)使いにやったり、(みずから)使い走りをしたりする仕事をして暮らしています。
すなわち、王、大臣、王族、バラモン、資産家、少年たちのために『そこに行け』『ここに来い』『これをもって行け』『これを取って来い』などと頼まれて(他のものを)使いにやったり、(みずから)使い走りをしたりする仕事をして暮らしています。
しかし(修行僧は)このような(他のものを)使いにやったり、(みずから)使い走りをしたりする仕事をやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。

また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のようにペテンにかけたり、おしゃべりで騙したり、占いをしたり、脅したり、利益の上にさらに利益をえようと望んで暮らしています。
しかし(修行僧は)このようなペテンや脅しをやめています。
これもまた、修行僧の戒めの完成です。
>>[022]

>「ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような種子や草木の生命を損ないながら暮らしています。すなわち、根を種子とし、幹を種子とし、節を種子とし、芽を種子とし、第五番目に種子を種子として生育するもののの生命を損ないながら暮らしています。
しかし(修行僧は)このような種子および草木の生命を損なうことをやめています。」


バラモン教のバラモンたちと、ブッダの教団の修行僧たちの命への配慮はこのように違いますよと教えられていますね。
食習慣に負けて、なかなか真似のできないことですね。
久しぶりに時間が取れたので、ずっとやりたかった経典の写本の続きをしてみました。

私はこの仏陀の戒めを完成させることが出来ません。
音楽を聴くのが好きですし、テレビを見るのも私の良い息抜きになっています。
ミクシーでは、論争に参加することもありますし、
会社では部下を使いにやったり、上司の使い走りをしています。
私は肉や魚を食べて、種子や草木を食べて、あらゆる生命を損なっています。

せっかく仏陀が苦しみを滅して幸福に至る道を教えているのに、
私はどうしてもそれを受け入れられず、愚かにウロウロしているだけです。

ただ、愚かな自分が分かるということは、同時に、仏陀の正しさが分かるということです。
それは本当にありがたいことです。

私には、立派な修行者になることすら、まだまだ遠く及びもつかないことですが、
だからこそ、私は自分に対して問いかけることが出来ます。

私の生活は、本当に私自身に対して家族に対して社会に対して恥ずかしくないあるべき生活だろうか?
私の日々の行いに対する姿勢は、本当に私自身に対して家族に対して社会に対して恥ずかしくないあるべき姿勢だろうか?
私の日々の行いそのものは、本当に私自身に対して家族に対して社会に対して恥ずかしくないあるべき行いだろうか?

そう考えると、いやはやまったく愚かな自分ですが、こんなふうに
あるべき姿を意識し、なすべき行いを意識すること自体が、私を幸福や向上へと導いてくれます。
ありがたいことです。

私には、仏陀の戒めの言葉が、
「その姿は、本当にあなたのあるべき姿ですか?」
「それは本当にあなたのなすべきことですか?」
と言っているように聞こえます。

上述の経典では、仏陀は本当に細かな、例えば毛布の絵柄まで注意しています。
私は立派な修行者にはほど遠い在家の愚か者ですが、
私なりの衣食住や、仕事、家庭でのあり方について、
私なりに注意深く検証してみるべきだと改めて思いました。

全ての生命が、あるべき姿で、なすべきことをなすのが幸福なのでしょう。
全ての生命の、あるべき姿と、なすべき行いを、邪魔せず大切にすることが慈悲であり愛なのでしょう。
他者のあるべき姿をゆがめ、他者のなすべき行いをゆがめる者は、
そのゆがめた分だけ自身のあるべき姿、なすべき行いから離れ、幸福から離れるでしょう。
だから智慧ある人の声を聞く人は、幸福に至る道を自分の中で実現し、それを積極的に他者に分け与えるべきなのでしょう。

私は本当に愚か者ですが、仏陀の教えは本当にありがたく、尊いものだと思います。
>>[24]

この戒めは、「殺すな」ということなのだと理解しています。

当時のお釈迦様の時代の皆さんが何を食べていたかは知りませんが、
おそらく、農耕によって得られたものを食べていたはずです。

イネの種子(ご飯)も食べれば、小麦の種子を粉にしたものからパンや麺類なんかを作って食べたかもしれません。
ゴマも食べればピーナツみたいなものも食べたかもしれません。
大豆由来の豆腐や納豆や味噌や醤油のようなものも食べたかもしれません。

そういったものを「食べるな」ということではなく、

「他人様の尊い施しによって生きている身でありながら、
たとえ植物とはいえ、生命を損なうことを行うのは、
修行者のあるべき姿ではなく、修行者のなすべきことではない」

というようなことを言っているのだと理解しています。
>>[022]

>また、ある尊き道の人・バラモンたちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような娯楽の見物をして暮らしています。すなわち、演劇・歌謡・音楽・手品・語り物・手をうつ音楽・吟遊詩人の歌唱・太鼓打ち・曲芸・軽業・象の戦い・競馬・水牛の戦い・牡牛の戦い・山羊の角突き・羊の戦い・闘鶏・うずらの戦い・棒術の闘技・拳闘・相撲・模擬戦・軍隊の点呼・整列・閲兵式などの娯楽の見物をして暮らしています。しかし(修行僧は)このような娯楽を観ることをやめています。これもまた、修行僧の戒めの完成です。


テレビや小説や音楽や映画……今日のぼくたちの暮らしはこうした心を癒す娯楽にこと欠きませんが、
本当に修行に身を入れるというのは、こういうものによって安易に発散したり癒されたり気晴らししたりすることなく、
研ぎ澄まされた精神をどこまでも清澄の中で追究してゆくことがブッダの教団のスタイルだったのですね。
>>[27]
そうですね。
これは修行者の戒めとして語られていますが、私のような在家の者にとっても、例えば安易にテレビを眺めて暮らすような生活習慣について、考えさせられる戒めだと感じます。
本当にしみじみと、自分の愚かさを感じます。
ありがたいことです。

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