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仏教コミュの「出定後語」

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富永仲基(1715年〜1746年)。天才的仏教学者。
日本で初めて大乗非仏説論を立てるが当時の仏教界からは当然受け入れられなかった。

長らく世に出なかった仲基の著書「出定後語」。
「加上説」の論法で経典を整理してゆく手法は何事にも捉われない独創的なものである。
例えば、「八識論」の解釈。
釈尊は六識(眼耳鼻舌身意)を立てるが、のちに七識(末那識)、八識(阿頼耶識 ālaya-vijñāna)と「加上」されていくとある。
九識(阿摩羅識 amala-vijñāna)については「玄奘はこれを認めない」と詳しい。
さらに十識(乾栗陀耶識 hṛdaya-vijñāna)まで言及しているには驚く。
大乗非仏説は若干32歳で亡くなった仲基の優れた研究成果である。
(追記:日本の仏教は大乗仏教である故に非仏説となる)

コメント(384)

>>[340]

大乗経典は釈迦本人が説いたものではなく
あくまでも釈迦滅後においての経典だと言われますね。

また大乗経典は"誰が"と言う一個人が作り上げた代物でもありません。
経典制作にあたっては複数の名もなき人たちが集い
その名もなき人たちがそれぞれに
釈迦から聞いたこと学んだこと経験したことを複数の人たちで話し合い
複数の事柄を重ね合わせたことにより生まれたものだと思います。

そう言う意味では大乗仏教って数多ある宗教の中では
その成り立ちや仕組みが違ってるんですね。
 そんなのは、堅やんがコメントしなくともみな知ってる事です。
>>[303]. >>[306] 堅皇さん

仏説無量寿経には、阿弥陀仏は、第十七願において、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(讃嘆の意で、ほめたたえること)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。」、と誓われ、十七願成就文には、「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。」とあり、続けて十八願成就文の中で、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」とありますので、十方恒沙の諸仏如来は、阿弥陀仏の威神功徳の不可思議なる事、すなわち本願力が名号となって活動している事を、まさに阿弥陀仏の名号をもって讃嘆していると読み取る事が可能かと思います。

十方の諸仏如来が、阿弥陀仏を阿弥陀仏の名号によって讃嘆されているならば、たとえ経文に示されなくても、阿弥陀仏の浄土の聖聚である、人・天・声聞・菩薩方が、阿弥陀仏の名号によって阿弥陀仏を讃嘆されていると見なしても、私は特におかしいとは思いません。

そして親鸞聖人は、法然聖人、源信和尚、善導大師、道綽禅師、曇鸞大師、天親菩薩、龍樹菩薩の方々をご自身に念仏の教えを伝えて下さった諸仏とみなされているようです。
法然聖人ならびに中国・インドの浄土の祖師方が、論釈をもって阿弥陀仏の衆生救済の念仏の教えを讃嘆・讃仰されているお陰で、わたくし親鸞に念仏の教えが至り届いた、遇い難き念仏の教えに、今、出会わせて頂いた、という感謝の思いが、正信偈やご著作などから伺われるのです。

ですから、親鸞聖人にとっては法然聖人含む七高僧の方々は、念仏の教えに帰依せよとおすすめ下さる諸仏の方々であり、阿弥陀仏の衆生救済の姿である本願力・南無阿弥陀仏の名号を讃嘆され、今もなお浄土で讃嘆され続けているのだと私は味あわせて頂いております。
(私にとっては親鸞聖人も七高僧と共に、お浄土から念仏の教えをおすすめ下さる諸仏の方々であります。)
>>[349]
それら諸聖、みな、覚者であって、仏と呼ぶに相応しいですね。
>>[349]

> 第十七願において、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(讃嘆の意で、ほめたたえること)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。」

これ、実は当たり前の話です。
九界の衆生には地獄から菩薩までの差別があり
また、菩薩においても段位があり、それぞれに考え方や容姿、その行動にも違いがあります。
ところがです。
仏と成ればそれらの差別が全て取り払われ全てが平等となり
考え方や容姿、その行動にも違いが無くなります。
言うたら仏は多様性もなく全てが同等の仏なのですよ。

よって諸仏が称えることは他の諸仏が称える事とも同じとなります。
言うたら、わが名を諸仏が称せずうちは、それはまだまだ仏とは言えないって事です。

> 続けて十八願成就文の中で、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」

ここで書かれているのは「信心歓喜せんこと、」ですから
ここは往生からの発心、発心からの初地(歓喜地)と言うところでしょうね。

発心の菩薩や初地の菩薩の事を仏と思い込んでしまうと
その先に住む本当の仏を見ずに、また見誤ってしまいます。

> そして親鸞聖人は、法然聖人、源信和尚、善導大師、道綽禅師、曇鸞大師、天親菩薩、龍樹菩薩の方々をご自身に念仏の教えを伝えて下さった諸仏とみなされているようです。

これがその典型例の様ですね。

かたや親鸞は自身の信徒から派生した造悪無碍と専修賢善の念仏者を異端視ししています。
また、その中の専修賢善に傾いた実の息子の善鸞に対し義絶状を送り付け義絶までしています。

では、親鸞から見るところの異端
造悪無碍と専修賢善とは如何なるものかと言う事ですが

造悪無碍は、悪い事をしても念仏すれば罪は消えるという考えで、これは 社会秩序をみだすので、政府の取り締まりの対象となり処罰された。

専修賢善は、親鸞聖人は仏の救いを信じ念仏するだけでよいというが、ただ念 仏だけとなえることに満足せず、善い行いをして念仏のたすけにして浄土に 生まれることを求めるという考えである。

と言う事のようです。

一見して造悪無碍が悪いと言う気持ちは確かに解らなくはないですが
専修賢善は、むしろ親鸞の教えより良いと思いますね。

ここでの異端はあくまでも親鸞目線からの異端であり
専修賢善の目線から見れば親鸞の教えの方が異端でありますね。

この造悪無碍と専修賢善を観無量寿経に当て嵌めていくと、そのまま下品下生と下品上生に当て嵌まります。

結論から言えば、専修賢善はもとより造悪無碍でも極楽浄土への往生は可能です。

ここで一つ疑問が生じるのは極楽浄土と言うものは地獄餓鬼畜生の三悪道の衆生は
居ないのではないか?
その場、罪をかき消されたとはいえ、造悪無碍の性根が変わらなければ
この手の衆生は極楽浄土へ往生してもまた新たな罪を犯すのではないか
そうしたら極楽浄土に地獄餓鬼畜生の衆生が生まれることになりはしないかと言う事です。

その疑問を払拭させているのは極楽浄土の往生先です。

南無阿弥陀仏と唱えることにより極楽浄土に往生できるのは必定ですが
その往生先はと言えば極楽浄土の宝の池の中の蓮の中と言う事なのです。

この蓮の中で過ごす期間が下品上生と下品下生では四十九日と十二大劫と
歴然とした大きな開きがあります。

蓮の中で過ごす期間はそのまま極楽浄土に住まう衆生たちの話を
聞き学び自らの犯した罪を悔い改めようとする期間なのだと思います。

もともと穢土で賢善に生きてきた人は四十九日に蓮の花が開き
穢土で造悪無碍で生きてきた人は十二大劫の後にようやく蓮の花が開く
それぞれがこの期間を経ることにより極楽浄土には地獄餓鬼畜生の衆生がいない事が
可能となっているものだと思います。
>>[350]

話全然変わりますが、ちょっとお伺いしたいことが。

レモンさんも仏教知識が大分豊富なようですが、どのように勉強されているんですか?

自分はここのコミュで色々聞いたり禅関係の本など読んで勉強したりはしていますが、一向に身に付かず。

ここのコミュには仏教知識豊富な方はたくさんいますが、自分の感覚からすれば、仏教で語られていることで本当に自身に関係することは全体の一割かそれに満たないくらいの分量で、自分に関係ないことなんか「本当に分かった」とは言えないんじゃないかなと。少なくとも、自分が身をもって知ったこと以外、自分は大体忘れてしまいます。仏教知識の理解も、自力で頭をひねって分かるってことではなく、実地的に「向こうからやってくる」ものじゃないかなと。少なくとも自分は仏教について分かるって、そう言う風にしか分かれないように思います。自力で頭を捻って分かる理解は多分恣意的になる部分が出てきて、理解できたつもりになってもあまり意味はないんじゃないかなと。

対して、レモンさんは豊富な仏教知識を地に落とすところまで昇華されているような安定感や「座った」ような理解をされているようですけど、何をどうやったらそういう身につき方をするのかな、というのが気になりまして。

ちなみに自分が仏教書を読んでそこそこ分かる気になれるのは、曹洞宗系と初期仏教系の本かなと。スッタニパーダとかダンマパダとかはビンゴな書き方しているように思えて。ただしすぐ忘れるけど。
浄土真宗は教本までしか分からないかな。何冊か読んだけど、大体忘れてしまっています。
>>[354]
及びこのコメントにイイネ!入れているいっさん

> 『観経』にある九品の区別などについても それほど 問題にはされていません。

九品の区別をちゃんと説明しないから
各所で本願ぼこり・造悪無碍と言った考えが芽生えて来たのではないでしょうか?

九品の区別をちゃんと説明さえしてれば
悪い事をしても念仏すれば罪は消えるんで、ではなく
念仏をしても悪い事をしたら往生しても阿弥陀仏にはなかなかに遭うことは出来ない。
往生しても"十二大劫"は蓮の花の中のままですよと戒めれるはずです。

加えて言えば、念仏と並行し善い行いをして浄土に生まれることを求める
専修賢善の何処が邪義、異端の教えなんですかね?

そもそもに力あれば念仏に専念せずとも
善い行いをし、大乗の経典を口にとなえ、念仏のみならず六念に勤める
上品上生を目指すのが理想だと思いますが
そんなこと言ってもなかなかにそれが実行できないから
せめてもの下品の称名念仏なのであり
下品の称名念仏の中でも専修賢善は
むしろ褒め称えられる行為であると思ういます。

何故に専修賢善が邪義、異端と罵られる行為となっているか
浄土真宗の信者以外にも解るように教えて頂きたいです。
 今の堅皇に解るように教えるとか、たとえお釈迦さんでもムリですわいな。我見満杯のグラスには、水一滴も入れることはできない。注げば注ぐ分、周りにこぼれだすだけでムダ。
 お釈迦さんが在世の頃、法華の教えを説こうとした所、「聞きたくない」と云って一説には、1500人の比丘らが、立ち去った故事がある。「退くもまた佳し」
 あえて「教えない」ことも、仏教的には「結果的に親切」になることが多い。
ちなみにですが
浄土真宗での異安心(異端、異流、異義、異計、邪義)とされる教えの中で「秘事法門」と言うのがある。
「秘事法門」とは秘密の間に伝授しつつあるものだそう。

親鸞が息子善鸞を義絶した理由の一つとして
善鸞は父・親鸞から特別に教えられたとして伝えたものとして振れ回ったと言う理由があるらしい。

浄土真宗では「秘事法門」を異安心(異端、異流、異義、異計、邪義)の一つとして上げているところからすれば
浄土真宗では、こう言った、あえて「教えない」教えはなく
万民に対し秘事なく全て明かされた教えなんじゃないのかなとは思いますけどね。

それでも浄土真宗が、あえて「教えない」教え「秘事法門」があるとするならば
「秘事法門」が異安心(異端、異流、異義、異計、邪義)であると言ってる
浄土真宗こそが、浄土真宗が言う異安心(異端、異流、異義、異計、邪義)と
ブーメランになってしまいます。

この自己矛盾に陥ならないとするならば
何故に専修賢善が邪義、異端と罵られることとなっているかも
浄土真宗の僧侶とあらば秘事することなく説明出来るはずですよね。
まあ求道心や菩提心のカケラもない堅皇に、そのような事をいちいち答える必要もないでしょう。自分で浄土経典類ほか歴代祖師の著作を詳しく調べれば良い話。
 だいたい、コメントの書き方から見ても、専門家にモノを尋ね教えてもらう態度ではないですよ。50歳で礼儀を知らないとは情けないです。
>>[358]堅皇さん

自分の今の念仏の頂きぶりを述べさせて頂きますが、私は、念仏の教えを聞いても大して有り難いと思えない私であり、その私を必ず仏にするぞ、間違いないぞ、と喚び続けて下さっている南無阿弥陀仏、と頂いております。

私にくらべたら、賢善精進の方も、造悪無慙無愧の方々も、南無阿弥陀仏をよほど心の拠り所にされてるようで、そこまで拠り所に出来る事に逆に羨ましさも少し感じます。

私の心の底は、闇夜の海の底のようであり、念仏の教えを聞いても聞いても、何にも思わない、暗く冷たい「もの」であり、縁に触れたら悪魔か鬼か訳のわからんものが出て来るかもしれない得体の知れない「もの」であり、他を害しようとは思わなくても、知らずに他を害してしまっているかもしれない不気味な「もの」を抱えている私です。

しかし、そんな私の事を「あなたのいのちの真実は、尽十方無礙光如来であります、私は帰命致します」と私を含め、一切衆生を、全てを、尽十方無礙光如来と見なして、帰命して、礼拝讃嘆し続けて下さっている仏様、私達の真実は阿弥陀仏と見抜いて、 南無阿弥陀仏と礼拝讃嘆し続けて下さっている仏様、それが阿弥陀如来、尽十方無礙光如来、不可思議光如来では無いだろうか、と頂いております。

諸仏に讃嘆される仏であろうとするならば、まず自らが諸仏を礼拝讃嘆する仏でなければなりません。

法蔵菩薩と言う御方は、私達の煩悩のどうしようもない根深さを見抜いた、それだけではなく、私達の煩悩の底に光輝く仏性を見抜いた、それがすなわち、阿弥陀仏。
法蔵菩薩はそれを礼拝讃嘆し、永遠の仏道修行の功徳を成就して自らは光寿無量の阿弥陀仏となって私達を礼拝讃嘆し喚ぶ、その喚び声が南無阿弥陀仏、であろうと思われます。

全ての方々の仏性すなわち阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と礼拝讃嘆する尊い仏であるがゆえに、十方諸仏から阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と礼拝讃嘆されるのではないだろうかと、私は勝手に思っています。

単なる救済者ではなく、私達を同じ仏性を持つ御同朋として礼拝讃嘆してくださる仏様、それが阿弥陀如来・南無阿弥陀仏ではないかと、思っています。

まあこれは私が親鸞聖人のご著作を読んで勝手に推測して、勝手に思っている事なので、どうぞご理解ください。

親鸞聖人の御文を引用してお答えしようと思いましたが、まずは今の自分の浄土真宗の教えの思いを書いてみようと思いました。すみませんm(__)m
>>[361]

こちらからの質問はいっさんが造悪無碍や専修賢善のことをどう思っているかではなく
何故に親鸞が専修賢善を邪義、異端と言っているかのその理由を問うています。

こちらとすれば『観経』にある九品の区別を読む限りにおいて
ただ念仏を唱えることより
念仏を唱えることと並行し善い行いを心掛けた方が
往生後に阿弥陀仏と会うまでの期間が格段に短縮出来ると思うからです。

また聞けば親鸞は『観経』にある九品の区別を それほど 問題にはされていません。
と言います。

それはあまりにも驚くべき事実であり、またまたそれは何故にです。
浄土真宗にとっては根本経典であろう浄土三部経にハッキリと記されている事に対し
「それほど 問題にはされていません。」って一体全体何事かって話ですよ。

門外の自分からみて、これはとてつもなくおかしな話だと思いますし
門内の人たちに対しどういう説明をして
どう納得しているのかを聞かせてもらいたいって事なのです。
>>[361]

 あえて「レスしない」ことも、仏教的には「結果的に親切」になります。
 仏典には、「無記」と遺されています。
>>[363]ひらさん

すみません、もうちょっと、堅皇さんに返信します。
>>[362]堅皇さん

堅皇さんのご意見には、いろいろ難しい問題がありますので、説明が長くなってしまいますが、あえて誤解を恐れずに、今の私の学びの程度の意見として聞いて頂きたいのですが、

賢善精進する事自体は、否定される事じゃないと思います。問題は、それを浄土往生の助けにするのか、往生定めて頂いた事に対する仏恩報謝の行いとするのか、そこなのです。

前者であれば、それは諸善やたとえ念仏であっても、浄土真宗では必要とせず、廃るべきもの、本願に至る方便のものと私は聞いております。
後者であれば、それは浄土真宗では仏恩報謝の尊い行いとされていると私は聞かせて頂いております。

ですから、五正行である、読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養も全て、南無阿弥陀仏に遇わせて頂き信心定まり往生さだまる身と成らせて頂いた事への、報恩感謝の行いなのです。

簡単に言うと、念仏以外にも様々な修行をし、身を慎み、心にも悪を思わないように勤めている、だから私はかならず浄土に生まれても、念仏だけで何もしていない者達より早く仏に成れるだろう、少なくとも念仏だけしかやっていない者達よりは私の方が仏様のみ心にかなっているであろう、と思いながら行うか

それとも、いかに報恩報謝の行いとして、お念仏したり経典や祖師方の論釈を拝読したり、お寺のご法話をご聴聞させて頂いて、浄土真宗の教えの理解や知識が深まったように感じたとしても、煩悩だらけの凡夫のわたくしが、そのような身にお育て頂いたのは、阿弥陀仏、親鸞聖人、沢山の方々のお陰さまである、と心得てお勤めさせて頂くか、の違いだと言う事です。

はなはだ大ざっぱな書き方になりましたが、私はそのように思っています。
>>[362]堅皇さん

堅皇さんの経典のご理解は、堅皇さんご自身が経典を読み、そこに書いてあるように勤めて、立派になろう、素晴らしい優れた存在になろうと努力するお姿です。

浄土真宗は、南無阿弥陀仏がどうして阿弥陀仏が成就して私達に回向してまで仏にしようとご苦労されたのか、その本願のお心を聞かせて頂くばかりで浄土に往生させて頂き、仏に成らせて頂く教えであると私は認識しておりますので、立ち位置が違うのです。

堅皇さんは仏に向かって進む、
私は仏に背いている自分を自覚し、そのわたしを必ず仏にすると言う南無阿弥陀仏を頂いて生きる、
このように認識しました。違っていたらすみません。
>>[364]

 あなたが説明すればするほど、逆効果になります。なんなら、堅やんとマイミクになってあげて、メッセでやったらどうですか?
>>[367]ひらさん

以上でこの場での堅皇さんとのやり取りは辞めます。
お見苦しい点はお許しくださいm(__)m
>>[368]

 その言葉を守ることを願っています。
>>[365]

一番の問題点は
いっさんを始めとする浄土真宗の信徒及び僧侶
しいては親鸞に至るまで極楽浄土、安楽世界とは
如何なる処かと言う事を明確に理解していないと言う事かな。

行ったことないから知らなくて当然だって話にもなるのでしょうが
行ったことないから知らなくて当然って話は無いですね。
それはどういうことかと言えば
行ったことがない国であっても、その国の写真や書物を読めば
その国についての情報や文化の事を知ることが出来るからです。

その行ったことない処の様子が細かく描かれているのが
浄土三部経であり、往生したいと願うなら
尚更に浄土三部経を親鸞以上に詳しく知ろうとするのが
当たり前の感覚なのではと思います。

浄土真宗の僧侶である真さんが

> 『観経』にある九品の区別などについても それほど 問題にはされていません。

と言う無自覚に発言を平気でし、そのコメントに対し無自覚にイイネ!を入れている
こと自体が問題だということに早く気が付かれてはと思ったりしますかね。

そもそも論として、良くも知らないところに
往生したいだの、往生定めて頂いた事に対する仏恩報謝だの言ってる事が
それって一体どうなの?と思わなくはないですかね。
 とりあえず、「浄土真宗聖典」http://www.yamadera.info/seiten/seiten_index.htm
は全部ダウンロードできるから、USBにデータを落として、コンビニで印刷して、「浄土三部経」「七祖著作」くらいは、最低10回は繰り返し精読した方が良いですね。で、わからない言葉が出て来たら、ポストイット張り付けて、仏教大辞典で調べて、語義を書いておく。ネットでチラ読みしたところで、本当の知識にならないからね。
>>[374]

いえ、解ってないのは親鸞及び親鸞を信望している浄土真宗の方だと言ってるのですが。

現実問題として、いっさんは南無阿弥陀仏の称名念仏を信じ切れているかどうかは
半信半疑であると正直にカミングアウトされていますよね。

また、当の親鸞においても
「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。」
とこれまた、選択したことを法然に委ねる形を取ってますし半信半疑の様子です。

更に加えれば、親鸞は同じく南無阿弥陀仏を唱えている造悪無碍や専修賢善に対し
まるで極楽浄土への門が閉ざされているかのように邪義、異端だと言ってますが
これも親鸞自らが南無阿弥陀仏の称名念仏を信じ切れてない証拠にもなりますね。

悪いが称名念仏は別に浄土真宗の専売特許でも何でもないです。
浄土に生きたきゃ浄土宗であろうが、時宗であろうが、浄土真宗であろうが
浄土真宗の異安心であろうが、はたまたどの宗派に所属してなかろうが
その全ては極楽浄土への往生は出来ます。

何故なら経文に出来ると書いてあるのだから
その部分での疑う余地は全くないことだと思います。

これが南無阿弥陀仏の称名念仏を信じ切るって事なんじゃないでしょうか。

但しです、極楽浄土への往生は出来ますが
極楽浄土への往生した後のそれぞれのルートや条件は
それぞれの人の行いによって変わってきます。

これも経文に書かれている事であるから疑う余地はありません。

あと、親鸞の行動として面白い、おかしな点をあげるとすれば
南無阿弥陀仏の称名念仏を正行とし、他を雑行として掲げ信徒に奨励(強要?)している割に
自らの行動を見ると、雑行が多く目立ちます。

と言うのも親鸞は執筆活動が多く、多くの著作物を世に残しております。
これは自らの手で念仏をより多くの人たちへと広めたいと言う良かれと思っての行動なのでしょうが
それって浄土真宗が掲げる他力本願から言えば雑行ですよね。

専修賢善に対し称名念仏では飽き足らずと揶揄してる以上に
親鸞本に自ら飽き足らずな行動に時間を費やしていたのではと思いますかね。

やっぱり煩悩の上に立っている自身の恣意的解釈ってもんを肯定すると、おかしな解釈になっていくんだよなあ。

程度の差こそあれど。

書籍を読むのを人の話を聞くってことに例えたら、恣意的解釈をするって「人の話を決めつける」ってことに似ているね。
情緒を起点にして読むならなおのこと。
 やっぱ、創価に長くいたのと元々の頭の悪さの相乗効果で、でたらめ解釈やりたがるんだろうなぁ。どんどんトピ題ともずれていくし。ま、私は富永を仏教家ではなく、町人思想家・哲学(国学)家と捉えているので、彼の大乗非仏説は、半分以上的を得ていないと考えます。
>>[352]
私の勉強についてのご質問でしたのでまとめてみました。遅くなってすみません。また、トピずれになっていること申し訳ございません。

とにかく、本を読むことを中心とした勉強と、何度もお経を読むこと、それらが基本にはあると思います。

坐ることに関しては、自分自身もお寺も、ヨーガとの縁が何層にも複雑にあって、ヨーガの禅定をさせていただいています。ヨーガはもともと瞑想に至ることを目的としており、仏教の禅とも似ています。

ここ3ヶ月ほど何度も読んでいる仏教書は、植木雅俊著『法華経とは何か』です。新書で読みやすいです。法華経入門にはとてもいい本だと思います。

それとこれも初学の方に勧めるのですが、『目からウロコの法華経講話』。今回、お知り合いに紹介するのに当たってまた読み返しました。

お経(法華経)はたいていは真読で読んでいるのですが、訓読で読むことも多いです。
最近は、如来寿量品第十六(法華経第十六章)の訓読を一日に何度も読みます。

スッタニパータなどの原始仏教の経典は私も好きです。法華経をはじめとする一乗仏教の運動は、ある意味において、初期仏教への回帰を目指すものだったと考えています。

>>[379]

ご返答頂き、ありがとうございます。
何度も読む、という感じで勉強されている、ということでしょうか。そういえば自分は一回読んだらあとは放っておく、が多いかな。分かりそうなものは何度も読むところあります。

読み方として、素直に読んでいそうって印象ですが、なんていうか、分からないことなんかは、無理して分かろうとして決めつけたりしないで、何度も読んで「本に聞く」って感じのことをされていたりしてるんでしょうか?読んでいるときの自分の「我」みたいなものを殺して、ひたすら聞くに徹する、みたいな。息を殺して全集中しながら耳を傾けるみたいに。

あと、レモンさんが法華経を選んだのは、レモンさんにある何かしらの問題にしているものが、法華経に向いている、ということなのかなあと。法華経を自分の問題として向き合う、みたいに向き合っているとかかなあと。

レモンさんの仏教書との向き合い方について、こんな感じなのかなあと想像しながらレスを読んでいたのですが、そのへんは実際のところどんな感じなのでしょうか?

聞かれてもあんまり意識しないあたりのような気がするから、また返答しづらいことを聞いているような気がしますが。汗

あんまり我がうるさい状態であれこれ考えている感じの読み方ではないんだろうなとは思うところです。今までのコメントを見ていて。
ちなみに自分の場合は内容がよく分からないものを読んでいる最中の我はうるさいです。だから要点だけを端的にピックアップしているような禅系の教えが残りやすいし、その理解も「向こう側からやってくる」ということがたまにあるのを待つってやり方がわかりやすいです。
恣意的に分かろうとすると大体こけます。自分の場合。
>>[380]
 ミヒャエル・エンデ作『果てしのない物語』という児童文学の名作があります。映画「ネバーエンディングストーリー」の原作です。
 作者が物語の中に入っていって展開される冒険譚です。いつ頃だったか忘れたくらいの昔、法華経を読んだ際に私が持った感想がこれは果てしのない物語に似てるなというものでした。
 自分が主人公になるお経なんです。自己投影ですね。
 さまざまな場面に自分を投影できる。
 誰かが助けに来てくれるのを待っている自分が、実は、待たれている存在であったことに気づかされる。
 このことに気づくと、全ての人が、それぞれに法華経を生きているのだということが見えてきます。自分がお役目(role)を生きさせていただいているのだということに気づいた人もいます。それが、お釈迦様であり、イエス様であり、また、モーゼであり、薬王菩薩であり、聖徳太子であり、弘法大師や伝教大師であり、法然上人、親鸞聖人、日蓮聖人、道元禅師であるのでしょう。大部分の人は、それぞれに法華経を生きながら、自分が法華経の物語の待たれている主人公なのだということに気づかないでいます。また、少しは気づきながらも、行動には踏み切れない人たちもいます。いろいろと理由をつけて、順番の「パス」を繰り返します。私もこのヘタレの中の一人です。

 ときどきは、頑張ろうとしてみますが、時々じゃダメなんですね。お釈迦様は、如来ですが、留まることなく菩薩の行を今もされています。「毎(つね)に自らこの念をなす。何を以てか衆生をして無上道に入り速やかに仏身を成就することを得せしめんと。」(如来寿量品の偈文の最後の句)、「いつもどのようにすれば人々を幸せに至る道に導いて何とか速く自分と同じ仏にできるのかを考えて行動している」(拙訳)。

 「自分が法華経を選ぶ」というのは、自分が何何をするというのと同じで、我が強いですよね。自分は、因縁の中で、どこまで、自分がやるなどと言える存在なのでしょう。例えば、レストランでメニューの料理を一つ選ぶにしても、白紙の自分が選ぶなんてことはあり得ない。過去永遠の因縁に結びついた自分という端末が行為をしているに過ぎないものです。坐るというのも、何時坐るか、何処で坐るかというのも、因縁なしで起こりえない。

 先ほどのヘタレの問題になるのですが、多くの人は、自分はヘタレだけれども頑張ろうとしていると考えてしまいます。衆生はすべて逆のことを考えてしまい行動をしてしまう顛倒の存在ですから。実は、頑張らないように頑張っているだけなんです。仏性の働きを押さえつけて、隠して、見ないことにしているのが、我であり、自分です。

 法然さん、親鸞さん、道元さんもそれぞれ、自分がこの教えを残さないといけないのだという思いで、教えを伝えられた尊い先師です。この方々、比叡山の秀才ですから、皆様、法華経をそらんじておられました。皆様、果てしなく続く法華経という物語の主人公として生きられた方々です。

>>[382]

返答遅れました。ご返答頂き、ありがとうございます。
因縁を言うのであれば、自分がやっている禅であれお念仏であれ、因縁あって行なっているところなんだろうなというところで。因と縁との踊りの中で、あれこれやっている中での話なんだろうなと。

ご紹介頂いた書籍も、法華経への縁のひとつということで、やがて覗くこともあるかも知れないくらいのところですが。ご紹介頂き、ありがとうございます。

勉強もまた、縁の問題かも知れない話の中ならば、時を待つことにしておきます。

さておき、法華経は昔ネットで読んだ限りでは、あまりよく分からなかったってのが感想だったような。二、三年、日蓮宗のお寺で法話でも聞くとかしたほうがまだ分かりやすいかもですね。自分の場合。
 そもそも、日蓮宗は大乗仏教とは言えない宗旨・教義でしょうねぇ。

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