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仏教コミュの「煩悩」と「空」

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 成仏、覚者、悟り等の対象として、

「煩悩」と「空」があります。

 この関係をどのようにお考えか、お尋ねします。

コメント(60)

●感興のことば(ウダーナヴァルガ) 第2章「愛欲(rāga)」

愛欲よ。私は貴方の元を知っている。貴方は思いから生じる。
私は貴方のことを思わないだろう。そうすれば、私にとって貴方はもはや現れないだろう。
欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存在しない。
恐れることもない。
快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いは存在しない。
恐れることもない。
果実が熟したならば、尖端は甘美であるが、喜んで味わってみると辛い。
愛欲は愚かな者どもを焼き尽くす。―松明を離さない人の手を、焼く様に。
鉄や木材や麻ひもでつくられた枷を聖者たちは堅固な縛めとは呼ばない。
心が愛慾に染まり愚鈍な人が、妻や子に惹かれること。
―これが堅固な縛めであると、聖者たちは呼ぶ。
それはあらゆる点で極めて堅固で、脱れがたい。
彼はこれさえも断ち切って、顧みることなく欲楽を捨てて、遍歴修行する。
世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。
欲望は人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なものはそのままいつも
存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制して導くのである。
人間の内にある諸の欲望は、常住に存在しているのではない。
欲望の主体は無常なるものとして存在している。
束縛されているものを捨て去ったならば、死の領域は迫ってこないし、
さらに次の迷いの生存を受けることもない、と私は説く。
欲の生じた人は、汚れが漏れ、心が濁り汚れているのだろう。
諸の愛欲に心のさまたげられることのない人は、<流れを上る者>と呼ばれる。
聡明な人は順次に少しずつ、一瞬ごとに、己の汚れを除け。
―鍛冶工が銀の汚れを除く様に。
車大工が車を修理する時に革の紐を切る様に、諸の欲望のうちのどれかを捨てるごとに、
安楽が実現される。
もし一切の安楽を受けようと欲するならば、一切の愛欲を捨てなければならない。
一切の愛欲を捨てた人は、極まりない楽しみを受けて栄えるであろう。
諸の欲望に従っている間は、心が満足を得ることがなかった。
しかし欲望から退き休止することを反省してみて、明らかな智慧によってよく満足した
人々は、実に満足しているのである。
欲望によって満足することがないから、明らかな智慧をもって満足する方が勝れている。
明らかな智慧をもって満足した人を、愛執が支配することはできない。
愛欲を貪っている人々はわがままであって、成してはならないことを楽しんでいる。
死の危機が迫ってくるのを彼らは見ない。―人生は短いのに。
愚人は享楽の為に害される。しかしこの世で自己を求める人々は害されない。
享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人も自分も害う。
たとえ金銭の雨を降らすとも、欲望が満足されることはない。
賢者は、「欲望は快楽の味が短い」と知って、たとえ天上の快楽にも心が喜ばない。
正しく覚った人の弟子はつねに妄執の消失を喜ぶ。
たとえヒマラヤ山に等しい黄金の山があったとしても、その富も1人の人を満足させるのに
足りない。このことを知って、平安な心で行うべきである。
苦しみと苦しみの起こる元を知る人は、愛欲を楽しまない。
思慮のある人は、世間における絆を棘であると考えて、それらを制し導くために修学する
べきである。
引用元を示すのを忘れていました。

http://zensyo.1hiro.net/bu-ka.html

こちらから引用しています。
>>[18]

仏教の用語は本により、人により多少違っていたりしますね。ここで愛欲と言われていることはおそらく渇愛という訳語が使われることも多いですね。

渇愛は激しい欲望で、そのうち
(1)生に対する執着は有愛、
(2)見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望は欲愛、
(3)死を願う欲望は無有愛
というふうに。

>>[23]

渇愛はタンハーの訳語に当てられることが多いようですね。
なんとなくですが、タンハーの方が、より生々しく苦しい欲望という印象を受けます。
「貪欲」とは要するに、
自分の好ましい状態に対して「続いて欲しい」と思う気持ち。

「瞋恚」とは要するに、
自分の好ましくない状態に対して「滅んで欲しい」と思う気持ち。

というふうに理解することもできます。
そうすると、これはまさに常住論(常見)と断滅論(断見)と言えますね。
虚無論と実有論で考えてもそうです。

私たちは、好ましい状態にはひたすら続くことを願い、
好ましくないものに関しては、即座に滅ぶことを願って生きています。

そして、そのように願っている自分自身に対しても、
ある自分を愛し、長く存続することを願ったり、
ある自分を憎み、それがただちに滅ぶことを願っています。

このように、自分が様々なものに対して「続いて欲しい」と願い、
「滅んで欲しい」と願いながら生きている、その状態に気付かず、
なぜそんなことをしているのかも、そんなことを続けてどこに辿り着くかも分からず、
ただ漂っているのが凡夫なのかもしれません。
>>[23]

えらい系統化されていますね。
読み流すだけでなく出典とか押さえておかないと、簡単に話が通じなくなりそう。
「自分」というものが出ているときは、大抵何かしらにとりつかれているときだ。
煩悩なのか欲なのか、どちらでもいいけど。

煩悩を捨てたくないの。だって人間だもの。
などと普段は思っているけど、いざ、煩悩に振り回されて無駄な時間とお金を使っているのを感じていると、やっぱり落としたいとか思う次第で。

どうでもいい欲望こそが煩悩というならば、確かに落としたい気分にはなる。
でも、何がどうでもいい欲望なのかわからなくては、きっと煩悩落としはうまくいかないんだろうね。
無駄な欲望、という観点において、の話。

自分でも気がつかないくらいでも、疲れとかたまっているときとか体が悲鳴あげているときの方が貪欲が出てきやすいっぽいですねえ。

或いは、貪欲にまみれているから身体を休めることを忘れるのかな。

どっちだろ。
苦の原因は欲と怒りです。
人は心が現れた時に快か、不快かで物事を判断します。
快は欲で、不快は怒りです。
どちらも煩悩でこれが苦の原因となります。
ですから例えば腹が立った時は
「怒りだ!」「怒っている!」
とその心を客観視します。これが気づきの瞑想ですね。
人は、これは怒りだ!と思いながら心底には怒れませんからね笑

>>[29]

身体がつかれている、という苦は、どちらが原因なのだと思いますか?
疲れているというのはマイナスのイメージですから怒りですね。
「疲れていると思っている」で、疲れたという心に気づいているのです。
>>[31]

。。。「怒り」から、身体がつかれている、と。。。?
疲れが不快ならば怒りの方ですね。
もし疲れが気持ち良ければ欲の方になりますよね笑
>>[32]
体が疲れて不快と思うなら怒りになっていると思います。
>>[33]

。。。?
疲れが気持ちよいのでしたら、苦ではないのでは。。。?
>>[35]
ごめんなさい。実は快は不快から発生しているのです。
>>[34]

ん?ん?
さっきから原因と結果が混乱しているような。

「身体がつかれているという苦」の原因は、欲なのか怒りなのか、の話をしていたつもりでして。
「身体がつかれているという苦」という結果は、欲に即するのか怒りに属するのかは特に問題にしていないつもりなのですが。。
>>[39]
例えばグルメの人がグルメ好きという快は、空腹という不快から発生しています。
つまり空腹という不快があってこそ、グルメという快楽があり得るのです。
仮に満腹ならばグルメも逆に不快となってしまいます。
>>[39]
つまり実は快楽も不快が元になっているんですよね笑
快も不快という苦から発生しているのです。
>>[40]

んー。。話の筋が間違えているかもしれないけど。

空腹という不快があるから食事が快楽になる、というのは「貪欲」なのでしょうか?欲は欲ですけど、むしろ正常な食欲だし、正常な生存欲求に基づいているように思えます。

満腹ならグルメであっても不快になるのも正常です。

問題な欲望(貪欲)に思えるのは、「満腹なのにグルメを求める」状態ではないかと。
結果にあるのはもちろん苦だと思うのですけど。そこはその通りだと思います。(欲を原因とした苦)

自分が質問したつもりのことは、「満腹なのにグルメを求める『苦』の原因は、怒りなのか欲なのか?」ってことにあたることだと思います。
あれっ?どうも酔っていて先程からおかしいですね。私の発言(^^;
申し訳ありませんでした。酔いが覚めたらお返事しますね。五戒を破っているようでは全然、駄目ですねえ(*_*)
あ、酔っていらっしゃいますか。
了解しました。
真に受けないでおきます。笑
「苦の原因は欲と怒り」
というのは、その通りだと思いますが、それだけの言葉だと、そこに含まれている仏陀の教えのニュアンスが伝わりきらない気もします。

私たちは目で見る色や形について、好ましいものや、心地よいものを見たときに、それが存続することを欲します。
美しい花を飽きるまで眺めていたいと思ったり、美しい異性をずっと見ていたいと思ったりします。
このようなことは、音についても、匂いについても、味についても、身体の感覚についても、思考や意識についても、同じように言えます。
仏教では、このように「好ましく存続することを欲する心」を『貪欲』という煩悩と呼び、苦しみの原因そのものと見ます。
なぜならば、このような「欲」は怒りや苦しみと合わせ鏡だからです。
人は欲するものが得られないと、苦しいからです。

スッタニパータでは、このような事情をこのように表現しています。

766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

このような話をすると、
「ということは、仏教は失敗を恐れて何も望まず全て諦めて消極的に生きることを教えるのか?」
というような疑問を持つ方もいますが、そうではありません。
欲に捉われず、あるがままの今を受け入れて、「今」にしっかりと満足して幸福な気持ちを持って、未来に向かって前向きに生きることを教えているのです。

原始仏教では、仏陀は修行者たちに、まず戒を保つことを教えます。
そして、目や耳や鼻といった五感と思考・意識を防護することを教えます。
五感と思考・意識を防護するとは、目で見てもその色形に捉われず、それらはただ見られたものであると思いなし、好ましいものや、心地よいものを見ても、それを鎖だと見て、縛り付けるものと見て、わざわいと見ることを教えます。
これは、美人やイケメンをわざわざブサイクと思いなおせ、という意味ではありません。
「美人であること」や「イケメンであること」に、何か特別に素晴らしい価値がある訳ではないということを、ちゃんと心から理解しなさい、ということです。
そこに何か特別に大切な価値があるかのように思っている自分の見方・考え方が鎖であり縛り付けるものでありわざわいだと言っているのです。
全ての価値はそのような外側の特徴とは関係なく、その内面にある心によって決まります。
愛し、思いやる、やさしい心には、特別に大切な価値、すなわち幸せがあります。
憎み、嫌悪し、怒る心には、特別に卑しい価値、すなわち苦しみがあります。
ですから、五感と思考・意識を防護するというのは、五感と思考・意識によって生きるのではなく、
真心の自分になって、真心の目によって、生きとし生けるものの真心を見なさい、ということなのだと私は理解しています。

仏陀はチュンダがご馳走した毒キノコ料理によって死にましたが、仏陀は毒キノコ料理を毒キノコ料理と知っていながら、それを喜んで食べました。
そのとき仏陀には「毒を食べている」という気持ちはなく、「ありがたいチュンダの真心を受け取った」という気持ちだったのだと思います。

さて。
一般に「疲れ」と呼ばれるような状況にあったり、あるいは「病気」と呼ばれるような状況にあったとしても、正しい修行者は、そこに特別な価値を認めず、心に動揺を起こさず、落ち着いて冷静に、それをそのままに知って、そのままに満足しながら、今の自分が行うべき正しい道を歩むでしょう。
疲れを取るために眠るべきなら眠るでしょう。
食べるべきなら食べ、医者に行くべきなら医者に行くでしょう。
あるいは、疲れていても病気でも、他者の真心を受け取るべきだと考えて、自分の休養はさておいて、何かひと働きするかもしれません。
いずれにしろ、修行者は満ち足りて、落ち着いて、幸福に歩むでしょう。

以上が苦しみの生起と、苦しみの原因と、苦しみからの解脱と、解脱を得るための修行の道だと思います。
私はこのように学びました。
>>[45]

自分がいいなあと思ったものには心が惹き付けられ、いやだなあと思ったものは無理にでも避けたいと思ってしまうのが私たちの心の動きですね。
この微妙な動きやあからさまな動きがひいては苦しみの元となることを見究められて、ブッダはそういう心に振り回されるなと教えたのでしょうね。

しかしそれにつけても日々の自分の心の動きを見つめると、やっぱり好みがあるなあとしばしばあらためて感じさせられます。
もちろんそうした好みや嫌悪に縛られ過ぎないよう、常に自分の心を平衡にして事にあたれるようにするのですが、
それにつけても、好みというのはやっぱりあるなあ、世俗の身を引きずって生きてゆく自分の中にはやっぱり好みというものがあるなあとしみじみ思わされるばかりです。
>>[45]

ふっと思い付いたことを聞いてみたくなったのですが。

スターさんは、「依存症」という現象を、欲望とか三毒の観点から、どのような現象と見ますか?

一般的には解脱するのはなかなか困難なようですが。
>>[46]

私たちの舌は、しょっぱいものをしょっぱいと感じ、甘いものを甘いと感じるように出来ているようです。
なんでも、イノシン酸とかグルタミン酸とかいうアミノ酸があって、これは「うま味」として感じるようになっているそうです。
人間である以上、苦いものよりは、甘いものや旨いものが好きでしょう。
そのような味覚の「好み」はあって当たり前と思います。
人間である以上、硬い板の上よりは、柔らかい布団の上で寝るのが気持ちよいと思います。
これもまた、あって当たり前の「好み」と思います。

この「好み」をなくそうとしたり、「好み」と戦おうとするのが、いわゆる「苦行」だと思います。
私は、空腹と戦って絶食しても何も解決するとは思えませんし、布団の快適さと戦ってトゲトゲの植え込みで寝ようとも思いません。

78910さんも、好みがあって当たり前だと思いますし、それで良いのだと思います。

好みに捉われないというのは、例えば、素晴らしい快適さの中にあっても、いつでも、もっともっと比べようもなく大きい幸せに包まれていたり、もっともっと大きな幸せを知っていることだと思います。
例えば朝、布団から出たくなくても、そんな気持ちと比べようもないくらい、もっともっと大きな幸福を感じていれば、その幸福によって為すべきことを為すために起き出すと思います。
好ましいものに対して、それは鎖であり、縛り付けるものだと見るというのは、そういうことだと思います。

家族のためにしっかり働きたいとか、自分を慕ってくれる仲間のために働きたいとか、健康のために朝のジョギングがしたいとか、ちっぽけかもしれないけれど、みんな、それぞれの夢と幸せを追いかけているのだと思います。
その夢と幸せを、「今ここ」で叶え続けることによって、満足して自信を持って生きるのが良いと思います。
ですから、そのような夢と幸せのために、「今ここ」で、不必要な貪欲や瞋恚からは離れていれば良いのだと思います。

私たちはすでに救われているのに、それを見失っているだけだそうです。
ですから、すでに救われたと思って、最高に大きな幸せの中に生きれば良いのだと私は思います。
>>[47]

私は以前にニコチン中毒だったのですが、あるとき禁煙しようと思って、禁煙した経験があります。
一般に「依存症」と呼ばれるものを経験したのはこれだけです。
アルコール依存症も、覚せい剤などの薬物依存症にも、私はなったことがありません。
ですから、そういった依存症については、私は分かりません。

ただ、私たちは皆が、食物を摂ることに依存し、睡眠を摂ることに依存しています。
このような依存は、特に悪いものとも思いません。

問題は「依存」ではなくて、その衝動に精神を支配されてしまうことにあるのでしようね。
このような「依存症=何らかの衝動に精神を支配される傾向」は、努力によって治療することができるのではないかと私は思います。
もちろん、人により状況により、その困難さは違うでしょう。
何年もかけて、薬物などで強化された依存症は、簡単には治らないでしょう。
また、一度依存症になってしまった脳は、不可逆的な変化をしていますから、「元通り」にすることは不可能でしょう。
しかし、努力によって、治療することは出来ると私は思います。

そのために最も必要なのは、本人が、これは必ず治療できることで、必ず克服できることだと、まずは一片の疑いも無く信じることだと思います。
これが治療、克服の、基礎となると思います。
この基礎がしっかり固まってなければ、何をやっても無理だと思います。
しかし、基礎がしっかり固まっていれば、後は、それぞれ試行錯誤、トライアンドエラーをしながら、目標に近づいていくことができると思います。

おそらく、一度でも依存症となってしまった人は、一生消えない衝動と付き合い続けなければならないと思います。
しかし、衝動が一生消えることがなかったとしても、その衝動に付き合わないで済む方法を、努力を続けることで、いつか身に付けることが出来ると思います。
そのような心の動かし方を身に付けると思います。
それは自転車に乗れるようになるような、体験的な「知」だと思いますが、信じて努力すれば、いつか必ず身につくと思います。
そこに、寿命が間に合うかどうか、というようなことは関係ありません。
信じて努力することで、その人生における来世は確定します。
人は信じることで、すでに「向」という状態に生まれ変わっています。
「向」は、必ず「果」を得る境地です。
生まれ変わったら必ず依存症を克服できるという現世を歩むことは、来世が確定したことを意味し、過去世から新しい自分に生まれ変わったことを意味します。

私は以上のように思います。
以上が、私が仏教から学んだ、私なりの感じ方、考え方です。
何か参考になれば良いですが、参考にならないようなら、無視してください。
>>[49]

ご返信、ありがとうございます。

「何らかの衝動に精神が支配される傾向」ってのは、自分の食欲について心当たりあります。
自分の食欲も、一種の依存症の側面があるのでしょうね。
参考にさせていただきます。ありがとうございました。

ちなみに、自分もヤニ中毒でしたが、かれこれ10年以上にきっぱりやめました。いぇい。
食欲は、断つこと自体ができないから、これよりやっかいなのです。
止めてから振り返ると、決して好きでは無かったんだな、なんて思う。
私は20年前にお酒止めました。昼酒して車運転して。
良く止められたね〜なんて言われたけど、身体は拒否してたんだと今は思う。
飲んでるときは、身体が欲してるんだ、なんて思うのね。
>>[50]

食欲も、自在にコントロールできると思いますよ。
具体的な行動目標・心理目標を立てて、
それが必ず出来るようになると信じることから始めると良いと思います。
例えば、食事は、常に必ず、小さ目のご飯茶碗一杯分程度で満足する、
といった行動の目標が良いと思います。
単に「何キロまでせ痩せる」というような目標ではなく、
具体的な修行方法やマイ戒律を考えて、
それを必ずできる自分に生まれ変わることと決めるのです。
そして、日々、体重などの指標を確認しながら、
具体的な修行方法や戒律をチューニングしていくと良いと思います。

道元さんは「威儀即仏法・作法是宗旨」と言っているようですが、
非常に大まかに言えば、同じなんじゃないかと思います。
日々生活していくその場その場での具体的な修行方法(物事に対する考え方や接し方)や
戒律の完成が、道の完成と思います。
さとるさんが自分自身に、食べることに対する貪欲があることが見えたなら、めでたいことです。
もう見えているんですから、そのような貪欲と付き合わずに生きることを始めるなら、
何回〜何十回かの失敗を経て、必ず生まれ変わることが出来ると思います。
どうしても滅しきれない根深い欲望が自分にあることにありありと気づかせていただくと、そんな自分でも必ず救うと目当てにして下さったという阿弥陀仏の大弘誓に感謝せずにいられないという親鸞さんのお気持ちも、痛いほど感じられてきますね。
でも脳内阿弥陀じゃ救われないのでしょw
これね。程度が難しいんです。

自分の欲だけに忠実じゃ結局ダメなんですが
弱ると如何に忠実であるかの勝負になる。

風呂の水抜いとけと言われて栓ぬきゃいいって
知らなかったら、ストローで吸い出す事が大事。

これが実際出きるかどうかに掛かってるです。

そういう人は、そのうち栓を見つけて来ます。

こんぶ結びや、ボールペンの組み立ては200円
だけど、やった人は、コンビニでバイトしたより
明らかに結果がいいんです。

こういう姿勢が無いと上乗せ出来ないんですw

200円の仕事って大事。

上乗せ方が判るからね。

けど絶対に発達障害は、やらないですね。

だから上乗せが判らない。

こういう労働法が働かない世界のほうが
最初は欲の果たしてる役割が良く判る
と思います。

直感って要するに欲の一種で、目の前の
直感をどう信じたらいいか判るんです。

判らんと煩悩即菩提とか言えないんですよw

例えば奉仕活動とかさせると良く判る。

仕事って奉仕活動の上乗せなんだが
アホは客に負けてやったりする。

上乗せが判ると値切って来たりすると
よそ行けよってなるw

メシ食うために仕事してる訳で1円も
負けないねw

これね。こういう姿勢無いと海外じゃ
物が売れないのw

日本が全く海外で物が売れなくなった
のは、こういうことが出来ないからw

けど実際は奉仕活動させると余計に
負ける人も出る。

やっても保険代にもならん200円仕事
のが失敗すくないw



ちょうど競馬みたいな構造してるんです。

奉仕活動部分が無いと結局は詐欺。

かと言って売り乗せしないと人が乗れないでしょう。

両方揃ってないと落馬でしょうねw

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