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仏教コミュの禅語(言葉にできず、経典で伝えられないものを…)

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中国で誕生した禅仏教は、言葉にもできず、経典でも伝ええない釈尊ならびに中国の禅者自身の悟りの境地を弟子たちに伝えようとして、
インド伝来の仏教用語を使ったり、
中国自前の儒教、道教、易の言葉や唐、宗の詩を使ったり、
はたまた眉をしかめ、杖を打ち、喝とどなったりした。
言葉は悟りの境地をぎりぎりまで伝えられるか、あるいは悟りを妨げる両刃の剣だ。だから、禅者の言葉には簡潔性と禁欲(言葉への自制)がある。
中国文化、中国仏教を長らく教養の基礎としてきた日本にも禅語は不可欠の教養、魂の栄養源として根付いている。
ともに学び、噛みしめ、日々の糧としてゆきましょう。

(参考文献 平田精耕老師『禅語事典』序文)

コメント(7)

思無邪(思いに邪無し)

もともとは『論語』から来ている。
「孔子は言った。詩経には三百余りの詩があるが、これらすべてを一言で見渡すなら、作者の思いにまったく邪が無いということだ。」
これを禅語に持ってくると、正邪さえも超えた、一切の分別の滅しきった世界にまで至らなければならないことを表すという。
正邪の区別にとどまって邪より正を選ぶ心のその底に、
両方の滅しきった分別無き心、明け開けが広がっている。
直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

文字とか言葉とか何か外側のもの一切にたよったり寄りかかったりすることなく、
自分の心の内に直に目を向けること、
そしてそこに他ならぬ仏陀がいることを自覚し、これを現成すること。
好事も無きにしかず。
(よい事もむしろ無いほうがよい)


よい事が起きたから喜び、悪い事が起きたから落胆するという心にとどまっている限り、私たちは自身が執着しているそのとらえ方に常に振り回される。
何が起ころうと振り回されない大安心をものにした上で、この無執着にも執着しないこと。
すなわち、心の根底ではいつでも静かに振り回されない心がありながら、
それにさえも執着せず、生き生きと喜んだり、悲しんだりすること。
「一切の形ある場所、一切の物ある場所、一切の悪業ある場所を菩薩はもちいて、みな仏事とし、みな涅槃とする。それらはすべて大道である。
つまり、あらゆる場所が単なる場所でなしに、ただちに理法の場所であり、道の場所である。
菩薩は一切の場所がそのまま理法の場所であることを見透している。
それゆえ菩薩は一切の場所を捨てず、一切の場所にとらわれず、一切の場所を選り好みせず、みな仏事とする。
生死そのものを仏事とし、惑いそのものを仏事とする。」

(馬祖道一)
「修行僧たちよ、心には形がないからこそ、広く十方世界に行き渡るのだ。
眼で物を見て、耳で聞き、鼻で香りをかぎ、口で物を言い、手でつかみ、足で歩くと言うが、もともと一つの聖なる智慧が六つに分かれて調和をたもっている。
元の一心が無だからこそ、どこでも自由なのだ。
私がこういうことを言うのは何のつもりかと言えば、他でもない。君たち修行僧があらゆるものを求めて止まず、古人が遺したつまらぬからくりを有り難がっているからだ。
修行僧よ、私の考えに同じるなら、報身仏や化身仏の頭を膝下に組伏せよ。
十地の修行を完成した菩薩といえども、まったく小作人と同じだし、等覚仏や妙覚仏も首を鎖につながれた罪人も同然。
羅漢や辟支仏も便所の汚れ。菩提だ涅槃の悟りだと言っても驢馬をつなぐ杭に過ぎない。
どうしてそんな繋縛が生ずるのかと言えば、他でもない君たち自身が三祇劫にわたる長い修行の階梯が所詮空しいものだということをわかっていないからであり、それがためにこうした障りが生じるのである。
本当の修行者ならそんなことはない。
ひたすら縁にしたがって前世の業をもちいては、運にまかせて衣服をつけることができる。
行きたければすぐに行き、坐りたければすぐに坐り、ただの一念も仏の完全な悟りなど欲しがらない。
どうしてか。古人も言っているではないか。もし修行して仏を求めようと思うなら、仏は生死の迷いの始まりである、と。」

(臨済)
[4] について

私たちが自己の真面目(しんめんぼく)にしっかり立って生きようとするなら、あそこだここだと自分の居場所を空想的に選択する必要など全然ない。
まず今、立っているここがそのまま仏事の真実の天地であって、ここにおいて私のやる一挙手一投足がそのまま仏事に他ならない。
日常の活動がそのまま仏事であり、その最中、まさに真人が活躍している。
「自性に具わる五つの法身の香りを教えよう。
一つには戒香だ。自心の中には非道も悪も無く、妬みも貪瞋も無く、人を害する気持ちも無い。
二つには定香だ。もろもろの善悪のさまを見ても自心は乱れない。
三つには慧香だ。自心はさまたげなく、常に智慧をもって自性を照らし観て、もろもろの悪を造ることなく、おおくの善を修しながら心は執着しない。目上の者を敬い、目下の者を愛する。孤児をあわれみ、貧しい者にめぐむ。
四つには解脱香だ。自心には引き回されるような対象はなく、善を思うわけでも悪を思うわけでもないが自在にして障りがない。
五つには解脱知見香だ。自心にはすでに引き回されるような対象はないが、空に沈んで寂を守るようなこともない。必ず広く学び多聞である。自己本来の心を知って、諸仏が明らかにする真理に達し、自分の言葉が天下に知れ渡っても災いを生じることがない。また、自分の行いが天下で広く実践されても怨まれるようなことがない。おのれの徳を明らかにすることなく人に接して、自分が自分がと言うことなく間もなく悟りに達して、真性が変わらない。」

(『六祖壇経』より)

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