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仏教コミュの偶像崇拝は止めなさい!

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フィギュアの像を拝むオタクがいたとします。
あまりに間抜けで、あほらしいですが、皆さんのやっていることはそれと同じです。

今すぐに止めなさい。
カトリックこそ、真の宗教です。


申命記 / 4章 16節
堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、

申命記 / 4章 23節
あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。

申命記 / 4章 25節
あなたが子や孫をもうけ、その土地に慣れて堕落し、さまざまの形の像を造り、あなたの神、主が悪と見なされることを行い、御怒りを招くならば、

申命記 / 5章 8節
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。

申命記 / 7章 5節
あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

◆神の宝の民
申命記 / 7章 25節
彼らの神々の像は火に投じて焼きなさい。それにかぶせてある銀や金に目を奪われて、それを取っておくことがあってはならない。あなたがその罠に陥ることがないためである。それは、あなたの神、主のいとわれることである。

申命記 / 9章 12節
そのとき、主はわたしに言われた。「すぐに立って、ここから下りなさい。あなたがエジプトから導き出した民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、鋳像を造った。」

申命記 / 9章 16節
わたしが見たのは、あなたたちがあなたたちの神、主に罪を犯し、子牛の鋳像を造って、早くも主の命じられた道からそれている姿であった。

申命記 / 12章 3節
祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火にくべ、神々の彫像を切り倒して、彼らの名をその場所から消し去りなさい。

申命記 / 16章 21節
あなたは、あなたの神、主の祭壇を築いて、そのそばに、アシェラ像をはじめいかなる木の柱も据えてはならない。

申命記 / 27章 15節
「職人の手の業にすぎぬ彫像や鋳像は主のいとわれるものであり、これを造り、ひそかに安置する者は呪われる。」それに答えて、民は皆、「アーメン」と言わねばならない。

コメント(142)

神自体が 自ら 怒り 妬み と言った 仏法の中の悪 を持っていて しかも 自らそれを知らしめて
それでいて 人々をお救いになる と どうして言えるのだろうか? 

神に使えた イエスは偉大だよ これをよく知っているわけだから 
つまり イエスは これらの 三毒 を よく征服 克服したわけだから

父である神 より 子であるイエスが 偉大なのだから これはおかしなことだ。
ご自分の思い道理にならないと モーセ以外 全部殺してしまう 方にイエスはよく仕えたと思う。

聞け! イオナよ
神は妬むが あなたは妬むな
聞け! イオナよ
神は殺すが あなたは殺すな
聞け! イオナよ
神は怒るが あなたは怒るな

そして 見よ! 

人に指を指した 人差し指以外の指が 自分の方へ向いているのを

悔改めよ!

'`ィ (゚д゚)/
>>[100]
浄土宗も浄土真宗も宗派分かれてますよね。
>>[105]

どうも100のコメントとかみあってない御返事ですが、それがどうかしたんですか?
>>[104]


旧約聖書においてよく「ねたみ」と訳されるのは、ヘブライ語の「キンアー」という単語なのですが、それは正確には「熱情」と訳す方が良いそうです。

新共同訳では「熱情」になっています。

あと、怒りについても、三毒の怒りと聖書の中の神の怒りは相当に内容が異なるので、単純な図式では言えないと思います。

キリスト教の人々から一知半解で仏教について誤解からの単純な批判はやめて欲しいと仏教徒ならば思うのと同様に、仏教徒の側もキリスト教や聖書について誤解や短絡的な図式からの批判は避けるのが仏教徒としても正しい立場かと存じます。
>>[108]


学会ではすでに無量義経は中国撰述、つまり偽経ということが通説ですよね。
カトリックという偶像は、徐々に、

(?)


行動は徐々に
信仰は直ちに

(?)

トピ主さまはどのくらい仏教をご存知?

(仏教も偶像禁止だったような?)
(そういう宗派もあるのでは?)



と思いました。
>>[107]
>旧約聖書においてよく「ねたみ」と訳されるのは〜

そう そう よく調べてるじゃない 妬み のところは 大抵 熱情 に変えられてる。
熱情という 曖昧な表現は 誤解を招くと思ってる。 

1 偶像崇拝を神が 禁止する理由は ネ申が熱情の神だから ということに尽きる。
いわば 浮気 を許さないということ 

2 偶像崇拝を神が 禁止する理由は ネ申が 妬む 神だから ということに尽きる。
いわば 浮気 を許さないということ

1と2 だったら 1に方が わかりやすい と思わないかい? 
思わなきゃ別にいいや。新共同訳に熱情と書いてあるんだから 熱情でもいいがね別に。

ネ申の熱情を 常に考慮すること これが 聖書のコツ。(^ω^)b

あともう一つ

天地の主なる父よ,わたしはあなたを公に賛美します。
あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者たちから隠し,
それをみどりごたちに啓示されたからです byイエス

そもそも みどりごに説かれているという前提 

聖書の解釈の重要な要素 それはこの2つ

1 ネ申の熱情を考慮する事
2 みどりごに説かれているいう前提 

この2つをまず つかむこと


>あと、怒りについても〜 
天人師の称号を持つ 仏陀が大梵天(神) にも 阿修羅にも 天人にも 帝釈天にも説いていないなら 
それは仏陀とは呼べない


ーー帝釈所問経ーー

「世尊よ、天人、修羅、人間等の生き物は、
互いに好き嫌いを持って、暮らしていますが、
これは、如何なる煩悩を有しているからですか。」

「帝王よ、天人、修羅、人間等の生き物は、
互いに好き嫌いを持って、暮らしてしまうが、
これは、貪瞋痴の煩悩を有しているからである。」

「世尊よ、それでは、この貪瞋痴の煩悩は、
つまり、三毒とは、何を示しているのですか。
どういう仕組で、好き嫌いが現われるのですか。」

「帝王よ、無明に嵌まると、善悪が生じる。
ここで、無明とは痴、善は貪、悪は瞋である。
即ち、痴に覆われると、善と悪の識別が生じる。」 

ーーー

つまり  三毒の煩悩を有する限り 好き嫌いをして暮らすことになる と書いてある

このことを 考慮しながら 聖書の神とイスラエルの十二部族が 
どのようにして 結びつき また 憎みあい 結果として 破綻したのか?
ネ申の子 イエスを 十字架に貼り付ける くらいだから これは相当 破綻したと言っていい

では なぜ 互いに うまく言っていた 両者の関係が決裂し 憎しみを生み出したのか
聖書の中に 三毒を考慮して 見てみるんだ!

私は常々 考えている 

聖書の神が イスラエルの十二部族と和解し 神の民が全世界から賞賛を浴びて 
「神の民はほんとうに素晴らしい! ということは 神の民が崇拝する神は もっと偉大に違いない」
という日が来るのを  

だが 今のままじゃ そうにはならない。 すべて逆になってしまう 

つまり 



破綻。  


/ ,' 3  `ヽーっ




'`ィ (゚д゚)/ 
 


訂正
>1と2 だったら 1に方が わかりやすい と思わないかい?
1と2 だったら 2に方が わかりやすい と思わないかい?
(T_T)/
>>[114]
本当に神様がいるとして、邪神の像拝めば、怒るかもしれません。
勝手に想像上の神をこしらえて拝め出せば、怒るかもしれません。

本当の神様を知らないでしてしまうのは、罪とは言えませんが、あまり善いことではないと思います。
いろんな宗教の人は、本当の神様を知るよう、努力すべきでしょう。

ところで、カトリックの説く三位一体の天主こそ、本当の神様なのです。
天地の創造主にして、全てを司っておられる方です。
誤った信仰は止めて、心と尽くして、本当の神様に仕えるべきです。
イエスキリストは、されこうべの丘で磔にされる為に産まれてきたのでは無い。
釈迦と同じ仏道を説きたかったのである。
しかしながら、無知で怒りっぽい人々にコロされてしまった。
イエスキリストが2000年ぶりに産まれたなら、最大の敵はキリスト教会である。
彼らは再び、イエスキリストをコロそうとするだろう。
>>[109]
真言宗の方から経文の面に現れない教えが有ると反論されたらいかがなさいます?偽経とか関係ありませんが?
>>[118]


文底秘沈ですか?w

その宗派の方がそのように思うのはご自由ですが、他宗の人間には経典上の根拠がない以上、客観的な論拠にもとづいた議論にはなりえないですよね。
>>[119]
帰納法的には左様でございますね。
>>[120]

帰納法を御理解できているようで素晴らしいです。
>>[119]
私の紹介したカトリックの教えの正しいことは、以下の理由によって、わかります。

1、カトリックの教理にそうある(『公教要理』『聖書』等)
2、カトリック中で、ファチマやルルドをはじめとした沢山の奇跡が起きている。
これは、あつしさんの挙げたような理由から、1では不足という人への、客観的傍証となり得ます。
>>[122]

102をきちんと読んでおられますか?

いま論点になっているのは、カトリックの教えが正しいかどうかではありません。

もう一度質問しますが、


『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』における、

「したがって、教会は自分の子らに対して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら、賢慮と愛をもって、他の諸宗教の信奉者との話し合いと協力を通して、かれらのもとに見いだされる精神的、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進するよう勧告する。」

という文言と、

「あまりに間抜けで、あほらしいですが、皆さんのやっていることはそれと同じです。」

というイオナさんの御発言や態度は、あまりにも遠く隔たっており、全くこの宣言の精神は欠如しているのではないでしょうか?

お答えが無いようで率直に申しますが、私はイオナさんは上記宣言の精神に反していると判断しております。

つまり、仮にカトリックが正しいのであれば、第二バチカン公会議における『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』にどう考えても反しているイオナさんはやはり間違いということになります。

また、私はすでに原始仏教・上座仏教・浄土真宗は偶像崇拝に当たらないことを指摘しました。
したがって、カトリックが仮に正しいとしても、原始仏教・上座仏教・浄土真宗までも含めて十把一絡げに偶像崇拝と批判しているイオナさんはやはり誤りということになります。
>>[123]
公会議とその後の改革については、相当な非難があります。
中には、公会議自体を批判する人もいれば、公会議は誤りではないが、その後の諸改革が逸脱、と言うものもいます。

ただ、確かなことは、教皇ベネディクト16世も宣言されている通り、第二バチカン公会議によって、カトリックの従来の伝統や教理が否定されたわけでも、断絶されたわけでもないということです。
ということは、従来のカトリックの伝統、例えば、トリエント公会議だったり、ピオ10世、11世の回勅だったりは変わらず有効、ということです。

今の教皇(B16、先日退任されましたが)が、言っているわけですから、第二バチカン公会議も、その前提の上で理解しなくてはいけません。要するに、カトリック教会は正しく、他の教会は、多少は真理を持っているかもしれないが、完全ではない。なるだけ、カトリックになった方がいい、、そういうことです。
そもそも、カトリックによれば、イエズス様は神の子(三位一体ですから、神自身。第二位格なので、神の子と表現するが)です。
イスラム教によれば、神の子などではなく、預言者に過ぎず、彼も一人のムスリムだったそうです。

この二つの教理が同時に正しいことがあり得ますか?
あり得ません。

1、どちらか一方が真実で、片方が偽りか
2、両方とも偽りか

答えはどちらかですよ。よく誤解されますが、諸宗教のどれもが正しい、ただ見え方の違いに過ぎない、というのは、このように仔細を見れば、間違った考え方なのです。
カトリックは正しい、とすれば、それとは相容れない他の教えは、少なくとも正しさに欠ける、劣っている、ということなのです。第二バチカン公会議の諸宗教に対する項目は、でも(諸宗教徒のやることの)全否定の必要はなく、それのみ(宗派の違い)の理由で彼らを差別したり、軽蔑したりしてはいけない、という一般常識の確認を行っただけなのです。

カトリックが一、聖、公、使徒継承の唯一の正しい教えであることに、変わりはないのです。
二や三ではなく、唯一なのです。
>>[124]


124をきちんとお読みください。

私が問題にしているのは、イオナさんの態度や言動が『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』に反しているのではないかということです。

カトリックが正しいかどうかを論じあっているのではなく、その論点は別問題です。

仮にカトリックが正しいとしても、イオナさんが間違っているということを指摘しているわけです。

>>[125]
反してはいません。
その理由は、124に書きました。
私は、事実を事実と言っているだけです。
私の論点は、
1、第二バチカン公会議は
2、トリエント等、歴代の公会議、諸聖伝の線上で理解しないといけない。

ということです。
公会議が諸宗教を「部分評価」していようと、彼らの宗教は完全に正しくはないし(公会議もそんな評価は下していない)、正は正、足りないものは足りないもの、と言うことに、何ら差し支えはありません。
>>[129]


どうも論点がかみあっていませんが、

「あまりに間抜けで、あほらしいですが、皆さんのやっていることはそれと同じです。」

こんな言葉を吐くことが、そもそも『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』に反するのみならず、キリスト者としての精神に反し、聖書の教えに反しているとは思われませんか?

私はキリストを告げることをやめろと言っているのではありません。

大いに告げればよろしい。

しかし、それは宣言のとおり、「キリスト教の信仰と生活を証明しながら、賢慮と愛をもって」でなければなりません。

イオナさんの態度のどこにそれがあるでしょうか?

あるのは高慢と悪口雑言だけです。

それこそがキリストの御教えに反することであり、御自身は毒麦だとは思いませんか?

繰り返しますが、キリスト教が真の教えだとしても、イオナさんはその教えに反しているので、偽りであり、毒麦ということになります。

「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」
(コロサイ人への手紙 第三章 十二節)

上記のことばのどこに、慈愛や謙遜や柔和や寛容がありますか?

「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」
(ペテロの第一の手紙 第三章 九節)


御自身は単に悪口を吐いているだけではありませんか。

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
(マタイによる福音書 第七章 五節)

この言葉こそが、イオナさんにはふさわしい言葉ではありませんか?
>>[130]
>「あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。」
(コロサイ人への手紙 第三章 十二節)

その通りです。が、誤った教えにそれを示すのは、謙遜や愛徳の履き違えです。
例えば、異教徒だからと言って、ぶん殴ったり、物盗んだり、等々はしてはいけません。
それは愛徳に反しますし、それこそあつしさん引用の公会議文章にも反することになります。

が、超極端な例えですが、例えば統一教会の文鮮明は自分はキリストの再臨、と名乗って、異端キリスト教会を打ち立てました。
こんなものに宗教的に寛容さを示せば、何が真理で何が誤っているのかわからなくなってしまい、いろんな意味で、それこそ愛徳や善が廃れてしまいます。

実際、聖書にもこんな記載があります。

使徒言行録/ 13章6節‐
島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。
この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。
魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。
パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、
言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。
今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。


なぜ使徒であるパウロは、コロサイ人への手紙では、愛徳を示せ、と書きながら、一方では、バルイエスを偽預言者と呼んで排斥したのでしょうか?あなたも、うちらとはやり方は違うが、信仰を持っている。立派だ、と言って、励ましてやらなかったのでしょうか?
あつしさんの言うことが正しければ、こうすべきではありませんか?

一般社会で、人づきあい上で隣人に愛徳を示すことと、他の宗教の教えを何でもかんでも一緒くたにしてしまうことは別物だからです。
それは、偽善であって、愛徳ではないのです。
ところで、その度合いでは違うかもしれませんが、構図としては仏教も同じところはあります。
真理に欠いた、多少はあるとはいえ、誤りを含んだ教えであることは、上の例と共通していると思います。

それらの人達に、それは間違っていて、正しい教えはこうですよ、と伝えることは、愛徳に反する行為ではないと思います。
全ては無常であり無我である
だから苦しい
それが仏教

絶対のものに
畏怖し従わなければならない
そんな不自由は説かないのが仏教

何にも支配されることのない
解脱の素晴らしさを説くのが仏教

間違いかどうかは歩んだ者しかわからない?
>>[131]


イオナさんは聖書を読み間違えています。

パウロがその時にエルマを批判した理由は、まさにその箇所は明確に書いています。

「ところが魔術師エルマ(彼の名は「魔術師」との意)は、総督を信仰からそらそうとして、しきりにふたりの邪魔をした」
(使徒行伝 第十三章 八節)

つまり、エルマがその地方の総督を信仰からそらせようとし、パウロの伝道の邪魔をしたからです。

しかし、今日の日本の仏教徒の、誰がキリスト教の伝道を邪魔したでしょうか?

明治に信教の自由が認められてより、さらには戦後にははっきりと信教の自由が認められてから、キリスト教の伝道は自由です。
仏教徒も権力者にとりいって権力者を利用することによりキリスト教の伝道を妨げようなど一切していません。

イエス・キリストは明確におっしゃっています。

「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」
(ルカによる福音書 第九章 五十節)

イオナさんは、もし仏教徒が、権力者に取り入り、権力を使ってキリスト教を広めるのを妨害しようとしている人々がいるならば、使徒行伝の上記箇所に則ってそれらを批判するのは聖書に即して言えば正しいことだと言えます。

しかしながら、なんらキリスト教の伝道を妨げず、そもそもキリスト教を批判してもおらず、キリストやマザー・テレサらの徳を大いに讃え、少なくとも全く反対していない仏教徒に対し、しかも全く偶像崇拝ではない原始仏教・上座仏教・浄土真宗の人々まで一緒くたにし、傲慢無礼な態度をとるならば、

それこそが、聖書のみ教えに反した態度であり、毒麦であり、捨てて投げ捨てられ火にくべられる枯れ枝です。

もう一度繰り返しますが、以下の聖句を胸に御刻みください。

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」
(マタイによる福音書 第七章 五節)

また、これでも足りないならば、ロマ書の第二章の文章も繰り返しお読みください。

ロマ書の二章には、いわゆる「自然の律法」のことが明確に説かれています。

つまり、律法を知らなくても、律法を守っている者は神の目に義とされ、律法を知っていても、律法を守っていない者は裁かれることが明確に説かれています。

仏教の五戒や十善戒が、律法の十戒やその他の規定と多くの共通点を持っていることは明白です。

つまり、「自然の律法」を守っている多くの仏教の高僧や立派な人々は、それゆえ、その点において神に当然評価されることでしょう。
一方、律法や福音を口にしながら、守っていないイオナさんは当然裁かれるでしょう。

「あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。」
(ローマ人への手紙 第二章 二十三節)

これはまさにイオナさんのことではありませんか?

偶像崇拝ではない原始仏教・上座仏教・浄土真宗の人々を偶像崇拝だという根拠なき偽りの言葉で罵り、高慢な態度をとり、聖書の教えに反した態度をとり、そのことを指摘されても少しも悔い改めず高慢にも自分を正当化する。
そのような人物は、神の前に、はたして高ぶりとみなされないでしょうか。
仏教という、いわゆる”宗教”のジャンルの中には、本尊(偶像)を崇拝するのが仏教だと思われている方が沢山いらっしゃると思います。イオナさんにそれを偶像崇拝といわれても仕方のない現状が、今の仏教界にあるのでしょう。

しかし、本来の仏教は無常・苦・無我(空)という真理(法・ダルマ)に基づく教えであり、その真理を悟る方法だと思います。つまり、神や本尊など何かを崇拝するものではなく、心理学(真理学)と、それに基づいた心のトレーニング方法であり、いわゆる”宗教”とは性質が異なるものだと思います。
トレーニング方法は八正道といわれるものです。これは、キリスト教の方も、イスラム教の方も、いわゆる宗教としての仏教を信仰している方も、無宗教の方も実践することが可能な方法です。


信仰に生きる人も、そうでない人も幸せでありますようにぴかぴか(新しい)
生きとし生けるものが幸せでありますようにぴかぴか(新しい)
地球が安穏でありますようにぴかぴか(新しい)
ちょっと私が考えている仏教の話を。

自分の都合で考えたり話したりすることが一切ないとしたら、その人はもう「個人」ではないし、もはや普通の意味での「人」でもありません。
自分の都合を完全に超えることは普通はできませんが、もし超えることが出来るなら、それはそのまま、人間の条件を超えることと同じです。
自分の都合を超えた存在は、自分の都合を超えた時点で究極の愛であり、完全な理性であり、純粋な知性である、ナニカと呼べるのだと思います。
仏陀は、その稀有な存在でした。
そしてその究極の愛であり、完全な理性であり、純粋な知性である境地に安住することなく、多くの人を、その境地へと導いた素晴らしい教師でもありました。

仏陀は自分のことを話したことはありませんでした。
仏陀は私たちに「あなたたちは苦しんでいる」と告げるとき、こういう言い方をしました。
「如来は、あなたたちが苦しんでいると説く」と。
説いているのは仏陀ではなく真理そのものであり、個人としての仏陀はもはやここにはいないのですから、正直な仏陀はそう言うしかありません。

仏陀が旅に出るとき、それを寂しがる弟子たちにも、こう言いました。
「私の肉体の姿形が見れないことの何が寂しいのだ?
この肉体はいずれ腐って滅ぶ単なる肉に過ぎない。
いいかい、私とは法そのものなのだ。
私に会いたいなら法に会えばいい。
私が旅に出ても法はどこにも行かない。
君たちが法に出会うなら、そのとき君たちは私に会うのだ」と。

(仏陀は、法の「預言者」であり、法の「第二位格」であり、法そのものであり、法の子であったとも言えるかもしれません)

諸宗教は、本当に全く違った教えなのでしょうか?
私には、どうにもそうは見えません。

私たちは、自分に信じられものしか信じられません。
私たちはどんな情況にあっても、身勝手で暴力的で愚かな人間を心から信じることはできません。
私たちは愛や知性や理性にあふれた人間を信じるでしょう。
ですから、誰かが何かを信じるとき、それは上辺の言葉を信じているのではなく、その底にある愛や理性や知性をこそ信じているのでしょう。
歴史や文化によって、その愛を神と呼んだり、法と呼んだりしているだけなのではないかと思えます。

麻原彰晃は殺人犯であり、大規模テロの主導者であり、犯罪者ですが、
オウム真理教の信者たちは、麻原彰晃の中に、あるいはその背後や頭上に、愛や知性や理性を見たのでしょう。
間違った教えを、自身の屈折した病的な哲学を、宗教の言葉を借りて、さも真実の教えであるかのように見せかけた麻原彰晃は神の力により、縁起の法のはたらきにより、報いを受けるでしょう。
信者たちも、愛や知性や理性を信じるあまりのこととはいえ、冷静さを失い、混乱し、他者を害する愛とは正反対の教えを信じ崇めたことの報いを受けるでしょう。
しかし、愛や理性や知性そのものは、いつも常に何も間違ってはいません。

どのような宗教でも、どんなにイカサマに見える教えでも、その信者たちは、常に必ず愛や知性や理性をこそ信じているはずです。
ですから私たちは宗教を超えて、愛や知性や理性について語り合うことができるはずです。
神の国は、そのような対話の向こうにこそ建設できるのだと思います。

「諸宗教のどれもが正しい、ただ見え方の違いに過ぎない、と主張する人は、仔細を見れば、間違っている。」
という主張は、とても理解できます。
しかし、仔細を見れば違っているように見えても、本質を見れば、全ての宗教が同じに見える視座の中にしか、神の国を建設する道はないのではないかとも思うのです。
それは愛と、知性と、理性の治める国です。
ニルヴァーナの国です。

いずれにしろ、私たちは、自分に信じられものしか信じられません。
ならばこそ、敬意を持って対話していくこと以外に道はないのではないかと思うのです。
偶像崇拝のリスクを例えてみた。

(注意 山を崇拝するのは偶像崇拝です これは例えです。)


  偶像崇拝者
  バンバンバンバン バンバン  
  (∩`・ω・)「神?知らねーよ。」
  / ミつ/ ̄ ̄\
   ../ ´・ω・`  \聖書の神様


住民A\(^o^)/ オーイ その山の近くに住んでるんだがねー

             ↓


       (, 、  ...:::)モク
       (, 、  ...:::)   モク
  モク   (  ,' ..;;,)
   モク  (  ...::)
          .:)                      ヤバイ ヤリスギタ
     ../ ̄ ̄\              三 ┏( ^o^)┛
   .../ ´;ω;` \


住民A\(^o^)/ オーイ そこでバックれかーい?


            ↓


           / ̄ ̄\
          / #`ω´  \


住民A\(^o^)/ だから言わんこっちゃない


             ↓


        ._ゝ,,. .-ー;''""~ ';;; − .._´,
       ._-" ,.-:''ー''l~:|'''ーヾ  ヾ
      ::( ( .     |: !     )  ) 滅亡 
        ヾ、 ⌒〜'"| |'⌒〜'"´ ノ
          ""'''ー-┤.:|--〜''"" バーン
              :|  |
    ドーン       j  i
            /~~~\  ドーン
     ⊂⊃  / `・ω・´\
   .................,,,,傘傘傘:::::::::傘傘傘..............

                         _,,..,,,,_
                       ./ ,' 3  `ヽーっ
                       l   ⊃ ⌒_つ


Ω\ζ°)チーン

ーーー

アブラハムは近寄って言った、
「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、
その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。
正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。
全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」

創世記 18

ーーー


'`ィ (゚д゚)/ 
>>[139]
蓮如上人は木像より絵像、絵像より弥陀の名号とおっしゃいました。
具体性を捨象した本尊が勝れているのに何故に六字名号に統一しないのでしょうか?
汝、殺す事なかれ
→ジャンヌダルクを異端の罪で火あぶり
→十字軍でイスラム教徒を殺戮
→魔女裁判
→パレスチナ問題とキリスト教vsイスラム教の戦争

何故、同じ神さま=ユダヤ教のエホバ=キリスト教のゴッド=イスラム教のアラーを信じる人々が殺し合うか。
それがイエスキリストの教えではないからです。

イエスはゴルゴダで磔になる為に産まれて来たのではありません。
釈迦と同じ宇宙の真理を説く為に来たのです。

イエスが2000年ぶりに産まれたら、最大の敵はキリスト教会でしょう。

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