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仏教コミュのナーガールジュナ著『六十の詩句で綴る正理』より

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「生起と消滅を離れたものとして縁起をお説きになったブッダに心から礼拝いたします。

1.心が実有をも虚無をも超えて、どちらにも傾かない人は、縁起というものの意味はとても奥深く、この両者としてとらえられることがないのをはっきりと知っている。

2.さまざまな誤解を生む元となっている虚無論をあなたが排除できたなら、正理によって実有論をも排除しなければならない。このことをしっかりと学びなさい。

3.心のくもっている人たちが把握しているようにすべてのものが実有として存在しているのが真実なら、それらが止滅することによって解脱するなどということもありえないことになってしまう。

4.実有論によっては輪廻から解脱することはできない。虚無論によってもまた解脱できない。
仮設有と空無について正しく知ってこそ、すぐれた人たちは解脱するのだ。

5.真実を知らないから、輪廻と涅槃についての妄想が生じる。真実を知るなら、輪廻と涅槃についての妄想は生じない。

6.輪廻も涅槃も実体として存在するわけではない。正しく認識するならば、輪廻こそが涅槃であると教えられている。

7.生起した事物が消滅したならばそこに滅が認められるように、よく知っている者たちは幻のような涅槃を認めているに過ぎない。

8.消滅によって滅があるのだが、もし生起と消滅をよく知るところにそれがあるわけではないと反論するなら、そのような涅槃は一体誰に知られようか。生起と消滅をよく知らない者がどうして涅槃を知ることができようか。」


皆さんとそれぞれに思うところを分かち合えたなら幸せです。

コメント(42)

78910さん

個別の論理については高度なので、私はつっこんで議論しません。
(もちろん、私は、とういうだけで、やりたい方はどうぞ)

それより私が素晴らしいと思うのは、
淡々と自分自身の体験・実感による理解を述べていて、
借り物の知識ではないことが感じられること、
人に押し付けようとか誇ろうという気持ちが感じられないところです。
だから、理解できない部分も本物なのだろうな、と感じます。

理論については突っ込んで議論はしませんが、一つだけ。
一切の二元論を離れている、そう思います。
Shivaさん

>私が素晴らしいと思うのは、淡々と自分自身の体験・実感による理解を述べていて、借り物の知識ではないことが感じられること、人に押し付けようとか誇ろうという気持ちが感じられないところです。だから、理解できない部分も本物なのだろうな、と感じます。

そうですね。
序文にもある通り、ナーガールジュナ師はあくまでもブッダ・シャキャムニへの限りない尊敬の念から、その教えをまず誰よりも自分にとって明らかなものにしたいという1対1の真心から出発していると思います。
そしてご自身がご自身の中で明らかにされたものを後進の私たちに受け取らせて下さっているのだと思います。


>理論については突っ込んで議論はしませんが、一つだけ。一切の二元論を離れている、そう思います。

輪廻と涅槃の関係なども、瞑想を深めれば深めるほど切実な難問として迫って来るものであり、ナーガールジュナ師の深い瞑想がうかがわれる所ですね。
「9.もしこの世界を構成している五種類のものが滅していないならば、たとえ煩悩が取り除かれたとしても涅槃はないだろう。
この世界を構成している五種類のものが滅した時にこそ解脱するのだ。

10.無知(無明)を原因として生じたものは、正しい眼で見るならば、実は実体としての生起とか実体としての消滅などはまったくありえないのだ。

11.この認識こそが現世における涅槃であり、なすべきことがすべてなされた修行の達成に他ならない。
涅槃に至ったと思いながらも、そこで直接に知覚されるものにまだ何ものかがあるならばそれは涅槃ではない。

12.どんなに微細なものであろうとそれを実体として生起しているかのように妄想してしまう無知にとどまる人には、縁起の意味がまだわかっていないのだ。」


ここまで読んで、ようやく序文から第8頌までのトップの意味も明らかになって来ましたね。
一言で言えば
「不昧因果」ということですね。
dochirademoyoiさん

「不昧因果(因果を誤魔化さない、しっかりと受けとめること)」は大切なことですが、ここでナーガールジュナ師が論述されている主題はむしろ因果・縁起そのものについての、さらに深い哲学的意味を明らかにすることだと思います。


参考:因果律の中にあって、しかもそれにとらわれないことを「因果を昧まさない」という。
百丈和尚の眼からすれば、野狐の身に堕ちる事もないし、野狐の身を脱する事もない。因も一時の位であり、果も一時の位であって、なおかつそれだけで十分なる存在。野狐は野狐のままで十分。
老人は、因果にとらわれて因果に落ちない世界を妄想して野狐の身を脱したいと画策したがために、五百生もの長い間脱する事が出来なかった。
百丈和尚の「不昧因果」の一喝を聞いて、野狐は野狐でよしと悟った時、逆に五百生の野狐の身を脱する事が出来た。
(インターネット検索により引用) 
78910さん

「ここでナーガールジュナ師が論述されている主題はむしろ因果・縁起そのものについての、さらに深い哲学的意味を明らかにすることだと思います。 」
因果・縁起そのものについての、さらに深い哲学的意味とは、どのようなことですか?あなたの見解をお聞きかせ下さい。
dochirademoyoiさん

「不昧因果」のお話で言われているところの因果は、あくまでも因果・縁起についての第一レベルの意味合いと言われる時系列の中における因果・縁起を正面から「これで良し」と受けとめることでした。
それに対してナーガールジュナ師がアビダルマ仏教の難問と格闘される中で明らかにされたブッダ・シャキャムニの、より深い第二の意味の因果・縁起、さらには最も奥深い第三の意味の因果・縁起は、
僕の意見ではなしにナーガールジュナ師がまさにこの書においても明らかにしているものです。
78910さん

ですから、ナーガールジュナ師の因果・縁起の哲学的意味とはどのようなものなのかを教えて頂きたいのですが?
私の質問の仕方が悪かったようです。すみませんが、わかり易く解説して頂ければありがたいのですが…。宜しくお願いします。
dochirademoyoiさん、ともにブッダの正法を学ばせていただけることを心から嬉しく思います。
もし僕が間違った理解をdochirademoyoiさんやその他の人々にもたらしたとしたら、もちろんそれはブッダの正法の瑕疵ではなく、修行の足りない僕の過ちとして慎んでその報いをわが身に受けとめたいと思います。

縁起の第一のレベルにおける意味合い:十二支縁起に表された三世にわたる時系列内の原因と結果の理。

縁起の第二のレベルにおける意味合い:時系列、時間の前後にしばられず、たとえ同時的な存在同士においても見ることのできる相互依存関係。

縁起の第三のレベルにおける意味合い:すべてのものは人間の側の概念的把握すなわち言語的思考を縁として一つ一つそのようなものとして我々の意識に立ち現れているのである。
78910さん

ご丁寧解説して頂きありがとうございます。
「もし僕が間違った理解をdochirademoyoiさんやその他の人々にもたらしたとしたら、もちろんそれはブッダの正法の瑕疵ではなく、修行の足りない僕の過ちとして慎んでその報いをわが身に受けとめたいと思います。 」
78910さんは心優しい方だから、こんなご心配されるのでしようけど、私は教えて頂いている立場ですから、有難く受け止めさせて頂きたいと思っています。
さて、不昧因果に対する私の考えですが、これは因果の法則には囚われてはならないという意味だと思います。仮にこれが正しいとするのであるなら、78910さんの言われている、第一、第二、第三のレベルをも超越した縁起の届かない所に住しなさいという教えではないかと理解しています。因果に囚われているようでは、まだまだだよと言っているのだと!それが輪廻と涅槃の二つが、何であるかを理解できることであると、ナカールジュナ師も説かれているのではないでしょうか。このように考えますが、さらなるご指導を頂ければ幸いです。
dochirademoyoiさん

「不昧因果(因果を誤魔化さない、しっかりと受けとめること)」のお話は実は僕は不勉強で、dochirademoyoiさんが言及なさったことで即席に勉強したばかりなんです。ですから改めて振り返らせていただきます。

>因果律の中にあって、しかもそれにとらわれないことを「因果を昧まさない」という。百丈和尚の眼からすれば、野狐の身に堕ちる事もないし、野狐の身を脱する事もない。因も一時の位であり、果も一時の位であって、なおかつそれだけで十分なる存在。野狐は野狐のままで十分。老人は、因果にとらわれて因果に落ちない世界を妄想して野狐の身を脱したいと画策したがために、五百生もの長い間脱する事が出来なかった。百丈和尚の「不昧因果」の一喝を聞いて、野狐は野狐でよしと悟った時、逆に五百生の野狐の身を脱することができた。
(インターネット検索より)


三世に渡る因果にとらわれた老人は野狐の身に堕ちた自分を嘆き、その身から脱したい脱したいと願った。
しかしどうしても脱することができずに五百生も経ってしまった。
そんな時、百丈和尚に「不昧因果!_前世だ来世だばかりにこだわっていないで、今その生を真正面からしっかりと受けとめて十全に生きよ!_生きる場はここの他に無し!」と一喝されて、「そうだ、野狐だって構わない!_野狐の身で精一杯生きよう!」と大悟するに至り、人間に変身した!
こういうお話でしょうか?

このお伽噺のようなお話は受けとめ方はさまざまな幅がありうると思います。
こうしてdochirademoyoiさんのお陰で改めて学ばせていただくと、さまざまに深い意味合いを感じ取ることができると思います。
そしてそれは縁起の意味のレベルに関わるというよりも、今dochirademoyoiさんがおっしゃったように輪廻と涅槃の一体性の問題に関わることですね。

来世がどうのこうのとそっちのほうばかりに気を回すな!
お前が今、生きているのは他ならない今この時なのだ!
今の自分に向き合っているか!
今の他者を見つめているか!
今の自分の行いを律しているか!
今の他者の苦しみに向き合っているか!
今、利他行を実践しているか!
今、菩提心を持っているか!



僕はそのように受けとめさせていただきました。
m(__)m
78910さん
ご丁寧なお答えありがとうございました。
仰られように、いまここのみを生きることができれば、時間も空間も要りません。そしていまここのみを生きるというはことは、なにがあってもすべてよしとすることであり、苦しいのであれば苦しいままで、命が絶えていくなら絶えていくままに、分別することなく在る。もちろん善悪の区別なとはせず、悪は悪のままで善は善のまま受け入れて行く。これが仏陀が心に念じてよく気をつけてといくことと、最後に言った、すべてのものには等しい果報と等しい実りがあるといった意味だと思います。
dochirademoyoiさん

>善悪の区別などはせず、悪は悪のままで善は善のまま受け入れて行く。


これはとても曖昧な言い方で、dochirademoyoiさんのこの言葉を聞く者はいかようにも解釈可能な言い方です。
現在を受け入れることによって野狐状態から救われた老人の話に添って言うならむしろ、
「悪い行いをしておいて、それを仕方なかったんだとか、見方によっては善い行いなんだとか誤魔化してばかりいるな! 『善いも悪いも相対的なものだ』なんて嘘ぶくな!
自分の悪にしっかりと向き合え。
自分は悪いことをしたと正面から認めることだ!
善悪を自己において素直に認められずに心の解脱はない!」
ということだと思います。
78910さん
そのように善悪の区別をすれば迷いから脱することが不可能となり、野狐のまま囚われて暮らさなけれならなくなるという意味だと思います。善悪の区別などは無いのが本来ですから。
(つづき)

「9.もしこの世界を構成している五種類のものが滅していないならば、たとえ煩悩が取り除かれたとしても涅槃はないだろう。
この世界を構成している五種類のものが滅した時にこそ解脱するのだ。

10.無知(無明)を原因として生じたものは、正しい眼で見るならば、実は実体としての生起とか実体としての消滅などはまったくありえないのだ。

11.この認識こそが現世における涅槃であり、なすべきことがすべてなされた修行の達成に他ならない。
涅槃に至ったと思いながらも、そこで直接に知覚されるものにまだ何ものかがあるならばそれは涅槃ではない。」
>「生起と消滅を離れたものとして縁起をお説きになったブッダに心から礼拝いたします。」

あらゆるものは決して実体として生起したり、実体として消滅したりするわけではない。
確かに僕たちの心にはしばしばそう受け取れるから、生起したものを夢中で握りしめようとしたり遠ざけようとしたり、また消滅するものを忘却したり絶望したりする。
そうではなく、一つ一つすべてのものは豊かな縁起において無数の網の目の中にあって、私の行動、私の意志、私の欲望、私の記憶、私の習慣、私の欠点、私の偏り……などなども含めて、あらゆるものがあらゆるもののありようにいやおうなく結び付いている。
この結び付き(縁起)によってあらゆるものが今、それぞれのありようで私にとらえられている。
したがって、もし私の行動、私の意志、私の欲望、私の記憶、私の習慣、私の欠点、私の偏り……などなどが違ったものへと動いてゆくなら、これらとつながる無数のものもまた様相を変え、動いてゆくのである。
真夏の暑い日の山道を歩いているわけですよ。
すると小川が流れていたとする。
何の気なしに、両手をずぶりと小川に突っ込んで、水をすくうわけですよ。
その冷たい水で顔を洗って、口をすすぐ。
そんで、「さて」と言って、また歩き出す。

そんなかんじに受け止めました。

なんつーんだろ。
「流れ」のように感じるんだけど、どうだろう?
流体を個物として把握するのは間違っているじゃない?
水風船に入った水を見て、「水というのは丸くて大きなしずくのような形をしている」と言うなら間違いだ。
裏切られる。
水は、ずっと水風船に入ったままではいてくれないから。

世界は、流れているんだよね、たぶん。
自分の肉体も流れている。
心も流れている。
小川の流れにできた、ちょっとした渦(うず)みたいなもんだよね、現実なんて。

渦みたいな自分が別の渦に当たって、渦を知覚したとしても、渦なだけで、どんどん流れてく。

小川の水をすくったら、水がしたたって落ちる。

いやさ、自分の方が水にすくわれたのかもしれない。
したたって落ちてるのは自分かもしれない。

ただただ、流れなんだよね、っていうのが涅槃だと、言いたいのかなと思いました。

しかし、やっぱナーガールジュナは面白いねえ。

あと、面白いと思ったのは、
これは、それこそブッダゴーサの清浄道論への反論みたいにも読めること(笑)。
78910さんは、論争として読むのは嫌いかもしれませんが、
もしかすると、歴史的には、後にブッダゴーサに繋がる「生滅的存在論」を唱える部派への反論としての要素もあったのかもなと思いました。
スターさん

生起とか消滅とか流れとか個体とかダルマ(われわれの認識の客体)としてとらえられるものがわれわれによってとらえられている限りはそれは涅槃(ニルヴァーナ)ではない、と言っているのではないでしょうか?
すなわち、逆に言えば、涅槃(ニルヴァーナ)からわれわれの認識と認識の客体(生起や消滅や流れや個体としてとらえられるもの。ダルマ)が同時に両者が相関的・相依的に立ち上がる。
だから、どこまでも僕たちが自分の理性や把握力や認識能力に信頼して涅槃(ニルヴァーナ)を生け捕りし、言語表現を与えようとすると、
どんなに繊細な認識力や繊細な表現(流れという表現でさえも)を使っても、われわれの認識作用が立ち上がり、それとの相関で認識の客体が立ち上がった瞬間、
すでに認識も、認識の客体も、涅槃(ニルヴァーナ)から引きはがされたものになってしまっている。



しかし、実はどんなものだろうと本当は涅槃(ニルヴァーナ)から引きはがされてあるものなど一つとしてなく、

輪廻はそのまま涅槃(ニルヴァーナ)である。
78910さん

うん。
認識している自分と、認識されている世界があるなら、それは涅槃じゃないね。
その通りだと思う。

>どんなに繊細な認識力や繊細な表現(流れという表現でさえも)を使っても、
>われわれの認識作用が立ち上がり、それとの相関で認識の客体が立ち上がった瞬間、
>すでに認識も、認識の客体も、涅槃(ニルヴァーナ)から引きはがされたものになってしまっている。

いや、逆に、どんな表現をしてもいいのさ。
表現したからって、必ず認識の客体が生まれる訳じゃない。
表現が駄目なら、仏陀もナーガールジュナも沈黙しただろうさ。

要は、自分がなくなればいいんだ。

オールすべて全部が涅槃だと考えるのでもいいし、
自分などないと観察して、おのずと全部となる道もある。
オールすべて全部が「流れ」でもいい。
すべてが「生滅」でもいいんだよ。
ぜんぶ正しい。

と、私は思ってるんだよね。

ナーガールジュナが面白いのは、ものすごーく真面目なとこ。
とても注意深く、厳密に表現しようとしているよね。
けど、そのせいで、少し分かりにくくなってる。
正確すぎる表現は、私みたいな馬鹿には、ちょっと難しい(笑)。

ナーガールジュナは、78910さんに似てると思うよ(笑)。
いや、これは本当にいい意味でね。
私は、78910さんを尊敬しています。
スターさん

僕がナーガールジュナ師に寄り添おうとしてるんであって、決してナーガールジュナ師が僕に似ていらっしゃるのではないと思います。(笑)

スターさんはとても勉強家で、広く経典を読んでいらっしゃり、また仏教に限らない哲学研究にも深い感心を持っていらっしゃるようですね。
そして文学的感性によってそれらの学びを自分の中に整合的に統合しようとする欲動と才覚を持っていらっしゃる方だとお見受けされます。

実はスターさんの小川の説明はとても美しいものだと読ませていただきました。
さらに言えば、西洋哲学における認識論、特にニーチェの力への意志の思想とからめて考えさせてもらいたくなる僕の欲動を誘い出すものでしたが、あえて仏教の枠内で細かな議論に踏み込ませていただきました。(笑)
>「生起と消滅を離れたものとして縁起をお説きになったブッダに心から礼拝いたします。」


ここで言う生起と消滅とは、あくまでもアビダルマ仏教が実体(ダルマ)として考えるに至った生起と消滅のことであって、今日僕たちが普通に考えるそれではない。
ナーガールジュナ師は仏教教団が象牙の塔と化し、その内部であまりに観念的なアビダルマ仏教を構築するに至った事態に対して、革命の斧を振り下ろす。
「生起や消滅そのものが決して実体として認識されるべきではない! ブッダはあくまでもすべてのものを縁起の相でご覧になったのであって、生起や消滅を世界の構成要素たる実体としてとらえることなど許したまわない!」
ここで言われている生起と消滅というのは、倶舎論などで丁寧に説かれている人間の認識の仕組みや順番のことだよね?
その認識の仕組みと順番(五位七十五法)ありきでモノを考えるのをナーガールジュナは否定したと理解しているんだけど、違うのかな?
ナーガールジュナが否定したダルマの実有というのは、つまりは心相続のような概念のことだと考えていいのでは?

ナーガールジュナは
「心相続とか仏陀は言ってない。生起と消滅なんかない。(よって末那識も阿頼耶識もない)
縁起とは時間的な因果律の流れのことではなく、
この世界の存在の有り様そのものズバリのことを言っており、全ての存在の無自性のことを言っている」
と言っているんではないのかしら?

しかし全ては無自性ということになると、
世界は「空という真理」と、「それ以外の偽真理」という構造になり、空のみが正しいことになる。
じゃあ仏陀はどうして四諦などを説いたのか、空だけ説いていれば良かったではないか、
という反論が生まれて、その反論を退けるために、世俗諦と勝義諦みたいな概念を持ち出した。
っていう感じだと理解しています。

これはこれで理屈が通っているんだけど、
倶舎論だって理屈は通っているし、
説一切有部だって理屈は通っている。

アビダルマ仏教(や唯識)と中観の論理的な対立の図式について、
もう少し詳しく分析すると、より理解が深まりそうな気がします。

つまりはナーガールジュナは
「刹那滅による心相続なんてのはデタラメだ」
って言っているんだよね?
違うのかな?
誰か詳しい人、教えてください。
面白い文章を見つけました。

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/yuisiki/nukigaki/nukigaki4.htm

http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/kuu9.htm

時間というアプローチで仏教を整理すると、けっこう分かりやすいのかもしれませんね。
>>[024]

>ナーガールジュナが否定したダルマの実有というのは、つまりは心相続のような概念のことだと考えていいのでは?


いや、心相続というのはあくまでも一刹那前に滅した心を原因として次の刹那の心が生起し、またすぐ滅しながら心は連続してゆくという見方なので、
一つ一つのダルマが他とまったく独立して実有だと考える所とは全く背反・対立した見方であり、
ナーガールジュナ師が心相続を否定していると言うことはできないと思います。
>>[26]

「まず第一に、すでに去った(もの)は去らない。
つぎに、まだ去らないものも去らない。
すでに去ったものと、まだ去らないものとを離れて、現に去りつつあるものは去らない。
現に去りつつあるときに、実に、どうして、去るはたらきが成り立ち得るであろうか。
現に去りつつあるものに、二つの去るはたらきは、成り立たないからである。」

ナーガールジュナはこう言っています。

「相続」というのは、何かが受け継がれていくことですよね?

受け継がれたものは、受け継がれません。
受け継がれていないものも、受け継がれません。
この両者を離れて、現に受け継がれつつあるものも受け継がれません。
ならば、どうして心相続が起こるのでしょう?



「速度」というものは、移動した距離を、その距離を移動した時間で割ったものです。
となると、ある瞬間において、物体は停止していることになります。
瞬間においては、移動した距離も時間もないからです。
だから現代物理学では、微分して速度の近似値を出します。
つまり、現代においても、瞬間には速度も時間もありません。

そしてある意味、ナーガールジュナがここで言っているのは、
「常に瞬間しかない」ということではないでしょうか?
瞬間には確かに、時間はありません。
常に「空」である現実があり、そこでは時間というものすら空である、ということではないでしょうか?
となると、「刹那において影響を受け継いでいく」という、時間軸を想定した思想は誤りとなるのでは?
時間などというものは、勝義においては空なのではないのかな?
時間は、縁起によって存在しているように見えるけど、実際は幻なんじゃないかな?
ナーガールジュナの立場に立てば。

私は詳しくありませんが、
チベット仏教においては、中論の学派と、唯識の学派で、激しく論争したと聞いています。
その中で、また新たな学派が出来ていったとも聞いています。
その論争の元になっているのが、このあたりの話なのだと理解しているのですけど、違うんですかね?
>>[027]

>「相続」というのは、何かが受け継がれていくことですよね?


仏教で心相続と言われる時の相続という語彙の意味は、今日僕たちが日常生活や法律上使用し与えている意味とはまったく違って、
連続しかも刹那滅のものの連続という意味だと思います。
今日のように「切断されない同一のものが持ち越され続ける」という意味とは全然違うと思います。
中論の第一章は因果関係存在の論破。第一章九はなんとなく刹那滅の否定と読めますね

>>もろもろのものがまだ生じないうちに 滅するということはありえない。
>>それ故に(生じた)直後に滅するということは 不合理である。
>>またすでに滅したものには いかなる縁が存するであろうか。

中村元の註によれば これは「等無間縁」の不成立の論証です(龍樹323ページ)

アビダルマでは心相続とは 心・心作用が瞬間的に現在から過去に去り 
同時に因となって新たな心・心作用を未来から現在へ生じさせる因果の連鎖のこと。
この心相続を可能にする因果関係の因を「等無間縁」と呼んでいるわけです。
    
   
スターさん、空論子(クロコ)さん

ナーガールジュナ師の『中論』における巧みな弁証法はすべて、説一切有部のように一つ一つのダルマが実有だという考えを徹底させたなら結局は論理的に破綻する、ということを言っているのではないでしょうか?
したがって、そこに書かれていることは「私ナーガールジュナはこう考える」ということよりも、「一切のダルマの実有論を徹底させて考えるならばこうなってしまう」という論証であることに注意しなければならないと思います。
(僕の見解へのご批判はもちろん大変有難いものであり、大歓迎です。)
>>[30]

「わたしナーガールジュナはこう考える」なんて有り得ないんですよ
プラサンガって いっさい積極的な主張はしないんですから。

ここではアビダルマの論理による刹那滅をも戯論とみて破邪している。
そのとき四つの因を全て論破するわけですね。中論って全部そうです

                             以上ケロロン
>>[28]

先の瞬間において現在に生起していた心・心作用が、
その直後の瞬間には過去に去ると同時に、みずから因となって他の心・心作用を現在に生起させる。
そこで後の心・心作用を継承するとともに、みずからまた因となってさらに次の心・心作用を生起させる。

心相続というのは、こういうような事態を指しているんだよね?
で、ナーガールジュナの言い分はこう。

「まず第一に、すでに去った(もの)は去らない。
つぎに、まだ去らないものも去らない。
すでに去ったものと、まだ去らないものとを離れて、現に去りつつあるものは去らない。
現に去りつつあるときに、実に、どうして、去るはたらきが成り立ち得るであろうか。
現に去りつつあるものに、二つの去るはたらきは、成り立たないからである。」

これをそのままに受け取るなら、心・心作用は過去に去らない。
過去に去らないんだから、それが因となって別の新たな心・心作用が生まれることもない。
ということじゃないの?

つまり、心相続という考え方においては、「時間軸」というものが成立するんだけど、
ナーガールジュナの中論では「時間軸」というものが成立しない、ということだと思うんだけどな。

私には、ナーガールジュナの言説は「過去−現在−未来」という数直線を否定しているように読めます。
対して、心相続という考え方は、「過去−現在−未来」という数直線を前提した考え方のように感じます。
>>[031]

>ここではアビダルマの論理による刹那滅をも戯論とみて破邪している。そのとき四つの因を全て論破するわけですね。中論って全部そうです。


ああ、確かにその通りですね。
一つ一つのダルマが実有だと考えるなら結局は論理破綻を起こすことが語られて、すべてのダルマは実有でない、すなわち空であり縁起していることが明らかにされる。
世間、輪廻のありようは縁起によることが明らかにされ、刹那刹那の心というものも独立し恒常の実体ではなく縁起による流れがあるばかりだと言われているのではないでしょうか?
わたしが勝手に気にしているだけかもしれないですが
「戯論」はニュートラルなパパンジャの意味で使っているつもりだし
「破邪」とはいいましたが アビダルマや有部が「邪」とはまったく思ってないです

「外道」っていうのも 自分の把握している意味と
どうしても文字面から与えてしまう印象の落差が激しいかも
わたしのアビダルマの知識は 基本的に 角川の「仏教の思想」のみです。
「存在の分析<アビダルマ>」櫻部 上山。その他はいろいろ聞きかじり。

アビダルマの時間論は「三世実有・刹那滅」で言い表せて
フィルム式映写機のモデルがそうとうピッタリあてはまる。
第一の(未来)リールから第二の(過去)リールへとフィルムが巻き取られてゆき
その途中の現在で光が当てられて一コマずつ映写されストーリーになる。

ここにはメカニズムがあって 形而上的実在としての「時間」は無いですね

また このモデルだと直線とみなせる過去→未来が存在している感じですが
未来の領域には無限の数のフィルムがバラバラに宙に舞っていて
そのうち一枚が映写機の光の当たる部分に因(縁)によって送り込まれてくるのです
  未来雑乱住にある一コマのフィルムが正生位を経て現在となり刹那に落謝する。と
(ここらへんは木村泰賢 佐々木閑のまとめに依る)

因(縁)によってフィルムが現在に送り込まれると書きましたが
その因こそが わたしが29で持ち出した「等無間縁」であり 
龍樹が中論第一章で否定した因果関係の標的のひとつなんですね 
>>[35]空論子(クロコ) さん

フィルム式映写機のモデルいいですね!

私たちは無明な故に、映し出された映画のストーリーが自我(エゴ)だと思っている。しかし、そのストーリーに巻き込まれることなく、映画のストーリーを離れた、映画のシステム(生きる機能)こそが、本当の自分(セルフ)だと、体験的に気づけば悟りなのでしょうね。


>>[36]

映画を観てる気持ち生きてゆきたいのは
龍樹の話にも沿う態度だろうと思います

映画はもちろん リアルではないんですよね 
でも どうでもよい絵空事と片付けるようなものでもない

登場人物を憎んだり愛したりしても なんだか可笑しい
それでも共感を持って映画をたっぷり楽しむことはできる

>>1.心が実有をも虚無をも超えて、どちらにも傾かない

…でしょうか
>>1.心が実有をも虚無をも超えて、どちらにも傾かない

そうですね。傾かない。

通常、人は頭の中のストーリー(思考)に占領されてしまいがちです。
そんなときは、呼吸に意識を向けて、思考を手放し、心のバランスを保つのが良いと言われていますね。


生きとし生けるものが幸せでありますようにぴかぴか(新しい)
映画を見る、という感じは分かる。
現実を一歩引いてみると、客観的に見られる。

けれども、我々は、観客でなくて作中の人物のほう。
それが、一コマ一コマ続く。
演じてる役者は全体像はわからない。そこで精一杯演技するだけなんじゃないか。

途中では、主人公が自己に苦悩する部分もあるが、
クライマックスでは、切って切って切りまくるんだ。
じつは 隠遁している気持ちで暮らしていきたいし
けっこう そんな感じのポジションを取ってるつもり

この世が映画だとすれば 誰もがその登場人物であることは間違いない
しかし観客のような立場の登場人物がいてもよい
出家は愛憎生々しい役柄から可能な限り遠ざかることだろうと思ってる

映写機モデルの一コマのフィルムは 一刹那の(わたしを含む)世界全部でしょう
それはまた観点を変えれば 一刹那の(世界を含む)意識全部とも言えそうなもの
刹那滅により生ず。これが因縁であって、いまここの変化する瞬間、この瞬間につくられるのが三世(過去と未来)という時間。まあ早くいえば過去が因であり刹那が今ここの一瞬であり、その刹那に二つものが揃い(因縁が生じ)未来という結果が生ずる。これが永遠の運動となり輪廻の苦しみとなる。
この苦しみからの解脱が涅槃となる。
我々衆生はたえず因縁(時間)の虜となり(洞穴からでられずに)苦しみもがいている。これを批判して言ったのが百丈和尚の不昧因果(因果にごまかされるな)ではないでしょうか。
龍樹やアビダルマ(アダルトなら詳しい)のことはよう知らんケロ、こんな風に考えています。
>>[040]

>じつは隠遁している気持ちで暮らしていきたいし、けっこうそんな感じのポジションを取ってるつもり。この世が映画だとすれば 誰もがその登場人物であることは間違いない。しかし観客のような立場の登場人物がいてもよい。出家は愛憎生々しい役柄から可能な限り遠ざかることだろうと思ってる。


そうですね。
確かにそんなふうに言えるかもしれませんね。

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