ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

仏教コミュのブッダの哲学的坐位

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
人間に本当の意味での自由はあるのか?
この問題は簡単なようで大変難しい。
すべてが縁起によって成り立っている以上、自分の心の中の「こうしよう。ああしよう」という思いも、ただ自分の中の身体的欲求や他人からの刷り込みによってそう思わされているだけで、あたかも自分の自由意志でそう考えているように思っていること自体、錯覚に過ぎない、という強力な懐疑論が成り立つからだ。
この懐疑論はさらに言う。
「十善業だとか十不善業(十悪業)だとか言うけれども、それを選択する力が個人にあるわけなんかないのだ。
なぜなら、個人はまったく縁起によって考えたり、しゃべったり、行為したりしているに過ぎない。
自分で十善業や十不善業を選択するわけじゃない。
たまたまそうするように条件づけられているだけだ。
もって生まれた傾向や環境や親の言葉などが必然的・機械的に仕方なく善業や不善業を行うようにしちゃっているのだ。」

こうしてこの懐疑論は縁起とカルマをも人間の自由意志がないことの論証に使う。

ブッダは果たしてこのような懐疑論に対してどのような立場をとっているか?
そこに私たちは何を学ぶことができるか?
これは現代の哲学的、思想的環境を生きる僕たちにとっても、とても大切な問題だと思います。

コメント(125)

>>[85]

あなたの解釈は仏教の経典をあまり読んだことのない人の解釈だと感じました。
経典の言葉にもっともっと親しんでみてはいかがですか?

解説書を読むのも、もちろん参考にはなりますが、個人的には
とにかく何度も何度も経典を読んでみることをお進めします。

スッタニパータやダンマパダ、大涅槃経などは、
文庫版で、中村元さんの翻訳が安価で売っています。
そこで「中の道」や「中道」、「無我」などについて、どのように説明されているか、
どのような場面で、どのような文脈、雰囲気で説かれているのか、
学べば学ぶほど、きっと理解が進むと思います。
>>[085]

たとえ部屋に閉じこもって雨水と空気だけで過ごしたとしても、たとえ自分自身は殺生しなくても、ただ生きているだけで私達は複雑な社会の中で、間接的に沢山の命を奪い続けながら存在し、環境を汚染しながら生活をしている筈です。

中道を僅かでも理解された人間が、以下のようなメッセージを突然見ず知らずの相手に送りつけるでしょうか。

時には客観的に自分を観る事も大切かと思います。

「足跡ありあがとう。
筋金入りの人嫌いさん(笑)
そんな時期も良いと思う。そうじゃない自分もいる事も、忘れないで下さいね。」
>>[87]

気分を害されたなら申し訳ありません。

私の解釈での中道は、この世の裏や、もう一方の道を見通し極論に至らない為の思考法の様な物だと思っています。

害されるおそれがあることもわかっていました(笑)

しかし、あなたが思う悪気も、私には悪気では無いのです。

私には正真正銘の善意でした。

人嫌いなのは、この社会では当たり前の事だと思うので悪いことでは無いです。私は食物や人や行為でも、何事も肯定し観る事から始める事で新たな解釈が生まれ、その先に新な自分がいる事に気づきました。そして、その広い視野が平等を知ることに欠かせないと言うことも。

ですから、出来れば知ってもらう為には嫌いに成って貰っても良いと思い、その部分を強調し崩して書きました。

ごめんなさい。返してくれてありがとう。あなたが精神的な病の持ち主でしたら軽率な事でしたね。

気軽なのも罪ですね。

もっと善を学びます。
>>[86]

そうですね。学ぶ方法より自己で発想する方法を取っていました。後で答えあわせをしようと思い(笑)

学ぶ所には先入観が生まれ、自己で発想する所には誤解や失敗が生じる。

どちらの方法にも善い悪いありますが、私は失敗をし失敗を生かすことを好みますので、こちらの方法でいました。

ちょっと、本場の中道を聞いてみたくて(笑)

しかし、答えてくれる人は、そういないですね(笑)
>>[87]

進むためには、必ず空を切る。

善い影響だけにし、悪い影響を及ぼさずに進むことは仏陀でさえ無理な事です。

ゆっくり進めれば良いのですが、私の気づきは私を急がせます。私の精神修養が足りない事は、どうか、今はご了承下さい。
>>[088]

ご自身のメッセージを送り返した相手を“精神的な病の持ち主“ですか……(苦笑)
>>[91]

不快になるのならば、その部分をお教え下さい。私には思い当たらないのです。

その不快に感じる言葉も、私の解釈では嬉しい事なのです。

精神的な病とは、相手を特定して言った訳ではありません。もし、その様な人であれば悩む事だと思ったのです。病を抱えているかどうかもわかりません。


他人には関係ないとお思いでしょうが、私が急ぐのは他人からの影響であります。

それは、他人との繋がりに意識にある人と、他人との繋がりに意識がない人の解釈の違いで正論、反論が生まれるのだと思います。

御互いの真意が解らなければ、真実には成らず、正しい見解に成りません。

御指摘ありがとうございます。もっと、あれば気軽にしてくださいね。

それが、私には糧となります。

ありがとうございます。
>>[92]

誤解です。

でしたら、と申しました。あなたがそうですと言っている訳ではありません。

私自身は、心が弱い人を傷つけない配慮が出来る文章を書ければ良いと思うんです。出来ていないのが現状です。

すみません。
>>[95]

私も精神的な病にかかり、精神科に通ったことがあります(笑)

今は、精神病も自己改革に適した恩恵の一つだと思います。

精神病は可笑しいことではなく、私には正解であり、違った意味では得でもあると思います。
>>[095]

そのお話しをお隣に住む方にされては如何でしょうか?

そこで鼻で笑われずに大賛同して頂けたら、さぞ真〔まこと〕さんは私生活においても立派な方なのでしょう。
>>[96]

ありがとうございます。しかし、返します。


ネガティブを悪いとお思いでしょうが、そうではありませんよ。

ネガティブから気づかされる大切な気づきもあるのです。

ポジティブだけでは成功はしません。ポジティブだけを語る事が善であるとも思いません。

赤の他人だとしても、第一印象の壁と言えるハードルを一気に下げているつもりでした。仲を良くしたいだけなのですが、流石に左利きで逆を好み正道を渡らない私はこうなるんですね(笑)

ありがとうございます。
>>[98]

ネガティブな言葉も、精神病も、この世にあるは悪いことばかりだとは思わないでください。

どれも、大切で意味あることなのです。

お笑いのツッコミやボケも、崩して笑い気軽にする事で緩和させるでしょう。

今の社会で、プリンどんさんのように思うのが常識であっても、そうじゃない事もあることに気づいてもらいたいだけでした。

だから、飛び火はやめてね(´д`|||)
>>[89]

中の道は、すでに無数に語られています。
答えは明かされています。
それが分からないようなので、経典を読むことをお勧めしているのです。

経典には答えなど書かれてはいません。
仏教の教えは、あとで答え合わせ出来るようなものでもありません。

独自の道を歩くのも結構です。
前向きに歩くなら、きっと素晴らしい向上があるでしょう。
しかし仏教で語られる中道について知りたいのなら、仏教に学べば良いのではないでしょうか。

あなたはどうも、あなたなりの中道をすでに解釈しているようですが、それは、仏教で語られる中道とは、違うようです。

上のコメントを読む限り、あなたは、自分の真意が伝わっておらず誤解されているというようなことを感じていらっしゃるようですが、仏教をしっかり学べば、そのようなことも、本当はおかしなことだと気付くようになると思います。
あなたが思う自分自身と、あなたが人に見せたい自分と、人が受け取るあなた自身と、一致することは、まずありません。
それらはすべて、ただのサンカーラです。
中道は、そことは別の道です。
>>[103]

嫌、的確に言ってくれていたと思いますよ?

自己流で考えているのは、以前から中道があり良い考えだと思っていて、仏教を学ぶことなく何も正解を決めずに生きてきて結果、一つの気づきを元に急に答えが次々に生まれ出したからで、拘っているわけではありません。

自分で考える大切さも、人から学ぶ大切さもあると思うからです。

中道とは、スターさんの解釈ではどこの道にあるの?

好ければ、お教え下さい。
>>[104]

ずれていても私の真意です。

それも、世間を渡るためには必要なことだからです。

強さも弱さも、優しさも優しくなさも、どれも大切だからです。

だから、最初から正真正銘の善意だと言っているでしょ。

これを期にでも、皆が仲良くなり、心がより一層繋がることを願います。

ありがとうございます。
>>[105]

とても簡単に言うなら、中道とは「空」のことです。
あなたは「無」について語っていましたが、「空」は「無」ではないので、ご注意ください。

「空」とは、「有る」とか「ない」とか、決めつけないことです。
有るでも無いでもなく、有るでも無いでも無いこともない。
意味により概念により見られない、作られたもののない世界です。
それが空であり、中道です。

この世には、定義された意味しかありません。
だから中道に至ることは、定義された意味から離れ、この世を超えることを意味します。
もちろん、空は、ぼーっとすることでも、気を失うことでもありません。
明晰に、縁起するそのままを見ることです。
人は因縁によって、千人でも殺す。
あらゆることが、人の行為や思いも、細かい細かいところまで、縁によって既定されています。
そんなに簡単に縁に抵抗できるのでしょうか。
抵抗したと思っていても、それもまた実は縁のなせること。
どこまで行っても同じこと。
自由意志はないというのが基本ではないでしょうか。

ただ、私は、ほんの少しだけ変える余地があるように考えています。
それが何の作用によるのか、何の力なのかまだわかりませんが、少しがたくさん集まって、つまり、みんなで変えようとすれば、既定の路線が、少し変わるのではないかと。想像しています。

仏陀は、成道において、自由意志を否定されたけれども、その後、大乗的教義を自らの中に宿される中で、縁による拘束に対して、人間は微々たるものであっても挑戦できるのではないかと思われたのではないかと、想像しています。それが長い旅につながっていったのではないかと。

このケシ粒にも満たないものを自由意志とは呼べないし、違う概念になるのではないかと思いますが、人は、時間的乃至は空間的に寄り集まれば、本の少しだけ縁の既定路線に変更を加えられるのではないか、これを仏陀は予測されていたのではないかと、やはり、想像しています。

あくまで、想像です。
>>[107]

悪いけれど、大体正解かな(笑)

空だとも思っていました。

無とは思っていません。空に至るには、様々な無が必要だと思っていただけでした。


あるでもないでもなく、あるでもないでもなく、ないわけでもない。

これは、私の解釈では上も下もあり、右も左もある、表も裏もあれば、有も無もあり、実は、その考えじたいも必要であって必要でない。の、有も無もあり、実は、その考えじたいも必要であって必要でない。にあたります。

仏教の教え(人の生き方、関係性の解釈の仕方)は、この世の物理的法則に見事に繋がっていますよね(笑)

話は変わりますが、これは仏教にも当てはまることだと思います。

あることもないこともなく、ないこともあることもない訳でもないという所が全体的に当てはまると思います。

仏教に固執してしまうから、なるべく仏教から学ばず自分で考えたいだけです(笑)



あるでも無いでもなく、あるでも無いでも

私たちの眼がとらえるすべての対象を冷静な思考のもとに置こうという理念は、洋の東西にかかわらずもちろん西洋でも行われて来たことであり、
因果律とか法則とかの概念で私たちはこの世界のあらゆる事象を精細に見ようとしてきました。
そして人間の心までも観察の対象として、因果律で完全に説明しようとする努力が行われています。

しかし、人間が私たちの周りに見出すさまざまな物質も、また私たち自身の心も、もしそれらを単に私たちに観察されるだけの対象として因果律で観察しきれるものと思い込んで観察を突き詰めていった究極では、

観察される対象と観察する主体(実はそれも私たちの眼であり心だ)が不可分に結ばれ合い、分離不可能な極点に至る。
西洋の科学的観察眼もそこに至ったし、東洋の黙想的観察眼もそこに至った。
「すべての事象が因果関係の網から一つとしてこぼれることなく説明できる」
という縁起の道理は、もちろんブッダの専売特許ではなく、ブッダとまったく関係ない所で西洋の哲学者たちによっても洞察された。
すなわちそれは洋の東西を問わない人間の理性が見出す一つの世界像だ。

しかし、人間の理性はこの世界というものを徹底的に因果関係で結ばれたものとして見るに至ると同時に、
「ならば、個人が自由な意志で何かを考えたり、選んだり、始めたりするってゆうことも実は別の原因があってそのように考えさせられたり、選ばされたり、やらされたりしているというのが真実であって、
自由意志などというものは存在しないんじゃないか?」
という難問に直面することになる。

人間の理性が物事を徹底的に考えた時に直面する難問をイマヌエル・カントは、理性が立脚する4つの枠組みから行き着くものとして4つ挙げているが、
この4種類の難問において人間は一体右と考えるべきか左と考えるべきか行き詰まる理性のアンチノミー(自己矛盾)を見るとした。

もちろんブッダの弟子の中にも、このような難問に胸を焦がす者がいた。
そして素直に師であるブッダに、この難問を問い詰めた。

初期経典によれば、ブッダは理性がおちいるこのようなアンチノミーに、答えを出すことをそこではひかえている(無記)。
常に相手の機根に合わせて説法するブッダとして、極めて賢明な対応でいらっしゃる。

縁起の理と個人の主体性というものの関係をどう考えるべきか。
先のイマヌエル・カントも深く深く考察している。
ブッダも今見た通り、安易な答えは与えていない。
私たちの理性が陥るアンチノミーには、心して向き合わなければならない。
>>[113]

>「すべての事象が因果関係の網から一つとしてこぼれることなく説明できる」

これホントですか?
すべての事象が因果関係の網から一つとしてこぼれることない、ならよく見る表現だと思います。
説明できる、ってのはどうなんでしょう?
一つの現象のバックには無始以来の無数の事象が関係しています。
説明するには、同じだけの月日が掛かりますよ。無理に聞こえますけども、
本文では、どうなっていますか?
>>[114]、どうもありがとうございます。
それは縁起の網を(因果関係にあるものを)一つ残らず口に出して説明できるという意味ではなく、
何かしら一つでも原因を挙げられないようなものはない、
という意味で書いたのです。
もう少し文章力を精進させていただきます。
m(__)m
>>[25]

空論子さんは、今も私に色々なことを教えてくれます。
私は今も、空論子さんから学び続けています。
ありがとうございます。
>>[115]

そうです。何かしら原因があるんです。
しかし、それは一つではなくて無数ですよね。
我々が考察するときは、どんなに頑張っても有限個の要素しか扱えません。
無数の中から、いくつかを選ぶとき、必ず恣意的に選ぶことになります。

ここに誤りがあるんです。

考察なんかおやめなさいってのはココです。

西洋哲学は、近似です。近似も役には立ちます。
でも近似なんです。

仏教徒は近似を善かれとはしないんです。
近似を真の値に近づける努力ってのを、重きを置かないです。

なぜなら、自分という真の値がすでにあるからです。

 「諸法空相」「諸行無常」っていう聞き慣れた仏教的な観方からすれば

ありとあらゆる事象は空相で「形を持っていない!」、同じく、とどまれない
という考え方で言うなら
>>個人はまったく縁起によって考えたり、しゃべったり、行為したりしているに過ぎない。 >>
とか
たまたま偶然の物理的な事象によって宇宙が誕生し、その宇宙に人が人とフンベツするモノが
含まれる、あるいはそれも含めて宇宙、だというだけの変化し続ける事象に過ぎないとするなら
立場もなにも、それはそれでこの件は解決だと思う。

懐疑論そのものをする必要が無い、疑う余地が無いから。

 
*(ア)「無常」「空相」「色即是空空即是色」「諸行無常」
  ↑それがブッタの教えそのものであるから
   それら避けられない自然の姿である事を自らが止観して
  明らめる事。
  

だと言う事を疑っているのなら
>>「人間に自由意志はあるのか?」とか「人間に、人間の自由は在ると言えるのか?」>>
というトピは発想出来るが

もし「*(ア)」を了解なら
>>どのような立場をとっているか>>
というのは
誰に対しての立場なのか?
不思議な質問だと思う。
___________________________________
他に何か別の事をお話しされたかったのでしょうか?
何か他に意図があるのでしょうか?
その辺りが曖昧になった事で
輪廻やカルマにおいても 話されている人がいますが
そもそも
*(イ)在るかどうか、本当か嘘か、解り様が無い事は、判断を中止する
   というブッダゴータマの教え

を了解するならそれに触れる必要も無い
縁や因がはなっからカルマによって決められていたとするなら
それ以前の行動も、さらにそれ以前の行動も決まっていた事になるので
もはや、止観も、勉強も、何もかも意味が無くなる。
ただのプログラムの進行でしかない。
ならば仏教の意味も無い。
諸行無常すら予定に沿って変化しているだけの事になる
そのような事は妄想でしか無く、あるかないか確かめようが無い事であるから
あるかないか確かめ様の無い事は

*「あるかないか確かめ様の無い事」だとして、それから先の判断を中止する。
それから先を議論しあっても、

それは所詮「空想、妄想、想像でしかない」からだ。

ここは「仏教」のトピックなのに 
なぜこういう会話を続けているのか?
なぜトピ主はこういうトピを出したのか?
なぜトピ主はこういう会話を続けるのか?

カルマを過去の因縁のように理解されている方がいるように思うが
カルマは「業」
商業の「業」漁業の「業」
農業の「業」
作業の「業」

魚をとる事を生業(なりわい)とする行いが漁業
農作業を  生業(なりわい)とする行いが農業
作る行いが     作業

魚を好きでもお米が好きでも違う
魚を採る事を 
生業(なりわい)←つまり行う事によって行きている(生活している)事

業(カルマ)とは怨念でも、因縁でも恐ろしい事でも生まれ変わりの事でも無い!
「どう行動したか」だ。
ある事象があった、そこで自分は「どう行動したか」で
次の結果が違って来る。ごくごく当たり前の事だ
これが因果応報の意味でカルマの使い方だ。
オカルト的な意味での輪廻では無い。
ゴータマブッタは「当たり前」の事を当たり前すぎて理解しにくいという
人間の不思議な本能の働きを理解し、
ただ普通に誰もの目の前にある ただの自然の在り様(ありよう)を
「そのまま」だと教えただけの事 。

「無常」「空相」「色即是空空即是色」「諸行無常」も
因果応報も因縁もカルマも!

それとも
「無常」「空相」「色即是空空即是色」「諸行無常」が 
ただの魔法の呪文だと思われているのか?

魔法よりももっともっと凄い、
目の前にある、
「誰でもが見ているままの奇跡」なのに!?
こんな大規模な奇跡を魔法ごときで起こせるとでも?
宇宙そのものの存在と、あなたの存在そのもの以上の奇跡があるとでも?

宇宙とはあなたを含めた全て全部で宇宙なのに?!
あなたが宇宙そのものなのに?!
*(正誤)
生業(なりわい)←つまり行う事によって行きている(生活している)事

正しくは↓
生業(なりわい)←つまり行う事によって生きている(生活している)事
ブッダの縁起はもともと諸事物を自然科学的関心から原因と結果でつないでみるというものではありません。
四諦や十二支縁起によく表れているように、人間の生の苦悩とそれからの脱却ということを見据えた上で結ばれてくる因果関係をこそ決して見失わないようににらまれた所の因果律が中核思想となっており、
この中核を雲散霧消させるような虚無主義とも宿命論とも明確にたもとを分かっていることはご存じの通りです。
したがって「私たちは起こる事態、人生のなりゆき、暴流のような頽落に対して何の打つ手もない枯れ葉のような存在だ」という人生観や世界観とはまったく違う所に立ち、
「私たちは苦しみから主体的に脱却できるのだ!」
と高らかに謳うものです。

それに対して
「すべてが因果関係で見れるなら、主体性など幻ではないか! もとより仏教は無我を説くのだから主体性を訴える根拠そのものが無いのではないか!」
という反論が繰り返し繰り返し提出されてきました。
これに最も徹底的かつ論理的に応えたのが、大乗仏教を論理的に基礎づけたナーガールジュナ師であったこともご存じの通りです。

あらゆるものは永続する揺るぎない本性があって関係し合っているのではなく、
そうした自性など無いからこそ関係し合うことができるのであり、
本質において空だからこそ初めて関係の中にすべてのものは設立されてくるのだ。
私たちの認識の対象も究極の真実において空なら、私たち自身――私たちの心も空だ。
すべてが空であることはそのまますべてが縁起・関係において仮設されてくることと一枚であり、
縁起において初めてすべてが世間においては存在することと一枚だ。
私の一つの思いはたちまち世界のすべてと関係し合う。
私が悪意や敵意や害意を持ったなら、たちまち世界はその影響を受ける。
私が善意や慈心や悲心を持ったなら、たちまち世界はその影響を受ける。
空と一体の縁起とは私の菩提心が完全なものになったなら、限りなく多くの生き物たちが無上の喜びを獲得するに至ることに他ならない。


そりゃ量産型さん風に言えば、
飛行機であと5分で遺書を書けと言われるまでは、
始めから終わりまで、一人劇団のキャスティングが決まっていて、 
自分に都合が良いものを探してドラえもんのポケットをまさぐり続けるだけでしょうし、、、
 主体性を考える際に重要になるのは、その主体性を持つのは誰かということです。

 寄せ集めの仮の存在である自分というのもが主体性を持つという場合に、それは脳の働きによって規定される意識が主体性を持つということをおっしゃっているのでしょうか。

 その辺りを一般の言葉を使ってご説明いただけるとわかりやすいです。

 私はその意味での主体性を認めない立場です。

ログインすると、残り93件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

仏教 更新情報

仏教のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング