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仏教コミュの「我思う、ゆえに我あり」について

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ども。
西洋の近代哲学で有名な言葉に「我思う、ゆえに我あり」つーのがありますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/我思う、ゆえに我あり

仏教から見て、この言葉(思想)について考えると、どうなるのでしょうか?
皆さんのお知恵を拝聴したく、トピを立てます。

今ここで生きている私たちのなかにある苦しみの多くは、「私が、私が」「おれがおれが」「私こそが」「私だけは・・・」と、一人称を主語にしたときに、自分自身との葛藤や、他者との衝突が起きるようであります。

この背景には、盲目的にあるもの・ことを信じる態度にしろ、徹底的な懐疑の果てにしろ、この「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるのでは、と仮説を立ててみました。

「私が思うこと」は、疑っても疑っても、疑いようのない事実である。
「思っている私」は、疑っても疑っても、疑いようのない事実である。
というところから、意識的にしろ、無意識にしろ、素朴な人は、強烈な自我を形成しちゃって他人と衝突し放題かもしれないし、あるいは逆にナイーブな人は、「それでもこの私ってなんなの?」とぐるぐる回っちゃって引きこもっちゃうかもしれず、(そこには宗教が介入する余地がある)悩み・苦しみがあるようです。

近代的自我、個人という考え方は、この言葉を端緒とするとも言われるようです。♪世界に一つだけの花(=わたし/あなた)つーのもありましたね。

このコミュのいろいろなコメントにも、「私は・・・と思います」や、「これは私の考え方なのですが・・・、」といった但し書きがありますね。この表現は、ネット上でのコミュニケーションで衝突/不要な論争を避ける意味では、なかなか有効なように思いますが、これはよくよく考えると、「あなたと私は、それぞれが確立した自我をもっており、本質的に違うものである」ということが含まれているようで、なんとなーく、諸行無常・諸法無我を説き、魂と肉体の二元論については無記とするような、仏教においては、ふさわしくないようにも、ふと思ったりしたのです。

デカルトのコギトを出発点に、ネット上でのやり取りを含んで、他者(コミュの仲間)を否定せず、かつ自己を主張せず、それでもスムーズに意見交換するための話法/論法が(もしあれば)、共通認識になれば、いいなぁ、と着地点を妄想します。

私には、(今のところ、そしてもしかすると未来にも)これが正しい答えだ、なんてのはありませんので、あしからず、ご容赦ください。ちょっと長くなりました。んでは。

コメント(162)

「私がものを思ってるんだから、ともかく私が存在してるのは間違いないな」ということですね。
「ものを思ってはいるけれど、私が思ってるんだか他人が私の頭の中で思ってるんだか全然わからない」という事態に陥ってるとしたら、それは精神病のカテゴリーに振り分けられることになります。
では仏教で言う無我とは何なのか、という疑問がこのトピックでは提示されているのだと思います。
デカルトがとにかく疑いえないのは私の存在だと言ったのに、仏教はそれさえも疑うどころか否定までするのか、と。

仏教が私は無いと言ったのは、
「確かで、それ自体として何ら他のものに依存せず、常恒不変の実体のようなものとしては存在しない」
という意味ですね。
「自我が或る物語(アイデンティティについての物語)を欲望するのは、それがまず何らかのエロス的審級として現れるからである。
自我の欲望が幻想であるとしても、それは身体的快を超えた欲望の対象として現れ、大きな喜びをもたらしてくれる。
自我が幻想であるからこそ、それを編み変えることで新しい可能性を切り開き、生を豊かにすることができる。」

(心理学者山竹伸二)
「チャンドラキールティは上座部仏教のアビダルマが現象的な世界に対して適切な説明になっていないと批判した。
現象的、経験的な世界を適切に描こうとすれば、刹那の瞬間的状態だけでなく、行いとか私とかも認めないわけにはいかない、と。
チャンドラキールティは五蘊について、それが属するところの基盤としての私ぬきにそれだけを認める見方を批判した。
そのような見方は、思考や言語の通常のありようにまったく反しており、経験的な現象世界の正しい描写とは言えず、したがってそれを無条件に真実だと認めることはできないとしたのである。」

(T・V・R・ムルティ)
あまり皆さんの議論を全部呼んだわけではないですが、個は、他者との関係の中で産まれてくる(生まれてくる)のではないでしょうか。極端な例ですが,「生まれたばかりの赤ん坊が、ミルクだけ機械的にのまされているだけで、ずっと育って、自我が生まれてくるの?」と言う話です。
 この「我、思う(考える)故に我在り」というのは、人間としての個が確立されてから、始めて成り立つものではないかと思うのです。その前段階で、母親などから母乳をもらう過程、抱かれる過程、スキンシップ、ノンバーバルコミュニケーションなどを通して,自我と他我と世界が渾然一体になっている赤ちゃんの意識から,それぞれ分離、区別できるようになっていくのではないでしょうか。幼児心理学や脳科学の専門家がどこまで、そういうか分かりませんが。
 西洋哲学や仏教にも興味がありますが、まだまだ不勉強な面もあるので、どこかで同じこと、違うことを仰っている方がいましたら、ご指摘くださると幸いです。
やっくんさん

>この「我、思う(考える)故に我在り」というのは、人間としての個が確立されてから、始めて成り立つものではないかと思うのです。


すなわち、自我がしっかりと確立されていない赤ん坊はある意味、仏教で言う無我すなわち私と母親と世界が明確に区別されていない状態だから、仏教で「無我だ、無我だ」と教えることは赤ん坊の意識状態への退行を生んだり、境界性人格障害を誘発することにならないか、
という批判は長らく西洋の心理療法家たちからなされて来たものですね。
ひがしかぜさん

もちろん人間が赤ん坊から段々その意識を発達させてゆくということはさまざまなものを把握し、それぞれのものの境界を認識してゆくということですが、
一度安定的に境界を認識できるようになったなら自由に幼い意識状態に退行することは昼間でも夜の夢の中でも可能であり、それは何ら一度安定化した意識レベルを破壊してしまうことではありませんね。
78910さん
ひがしかぜさん
反応ありがとうございます。
私が、思うに自他、私と世界が分離のコントロールができなくなるのが、まずく、
それを依存(症)というのだと思います。
やっくんさん

自律性が減退していたり未成熟だったりして、他者を不適切なほど頼りにしてしまう、という状態ですね。
私たちはすべてのものとの関係性の中で、適切に他者に頼ることは不可避であり健康なことでもあるのですが、
それが自律性とのバランスを欠いて頼り過ぎるようになると依存症という病理に陥ることになりますね。
上座のかた(アーロカ)さんによれば 悟りを開くと
つまり阿羅漢になると日常生活も自分ではできなくなります

>>阿羅漢になってしまうと、買い物や食事も自分で作る事が,できません。

自分への執着が完全に消えれば 生命維持の意味もなくなるわけで
自立した個人 社会性を持つ人間は消滅するでしょう
きわめて論理的に一貫していると思われます

唯識(大乗ですね)になると この論理的な帰結を回避する方便が求められ
自己に執着する末那識はある段階で平等性智に変化して
他者救済の菩薩化するのだと説かれると思います
空論さん

>悟りを開くと、つまり阿羅漢になると日常生活も自分ではできなくなります。阿羅漢になってしまうと、買い物や食事も自分で作る事ができません。自分への執着が完全に消えれば、生命維持の意味もなくなるわけで自立した個人、社会性を持つ人間は消滅するでしょう。きわめて論理的に一貫していると思われます。


それはもう誰かからスプーンで食べ物を口に入れてもらったり、トイレへ連れていってもらったりしなければ死んでしまう、ということでしょうか?
釈尊のメッセージは「生死のない世界に触れた」ということで
まずこれが言葉で語られない限り わたしのところまで届いていない
だから言葉は決定的に重要だったわけですね

しかし「生死は戯論 涅槃は無戯論」であれば 最初のメッセージ以外
あまり真剣に言葉を受け取りすぎるのもいかがなものか?ということになる
言葉による説は全て方便・仮設・戯論ということでよろしいでしょう

だから唯識はすなわち唯名であり 最終的には放棄されるべき仮設橋ですね
色々了解するためにすごくよくできていると 最近は感心しきりなんですけどね

自我の大部分は言葉で出来ているのです
ひがしかぜさん

ダライ・ラマ14世は修行について、見解と行の二つに分けて考えるとわかりやすいと教えて下さっています。
この二つのうち主要なものは行であるが、行が純粋なもの、完全なものであるためには正しい見解を持つこと、十分な論理的根拠を持つことが絶対に必要だと教えて下さっています。
NHKの新型うつの話の再放送見ました。親が過干渉だと自我が芽生えにくく、幼く育ってしまうということがあるそうです。自己肯定感も芽生えにくいんだと思います。
 そういったことからも、単純に我思う故に我在りとは、いいにくいんでしょうね。ちょうどよい、親子関係が適切なんでしょう。戦後しばらく間での自由放任とかもいいんだか悪いんだかとも思いますが。
 仏教のトッピクなんで、書きますが、子供に変な期待とかするといった親の煩悩が却って、悪い結果を生む場合も少なくない気もします。もし、客観的に上手くいっていてもすごく子供は、親を恨んでいたりするかもしれませんしね。
やっくん

>子供に変な期待とかするといった親の煩悩が却って、悪い結果を生む場合も少なくない気もします。もし客観的に上手くいっていてもすごく子供は、親を恨んでいたりするかもしれませんしね。


こういう心情については西洋生まれの精神分析や心理療法のほうがより親密に個人の心に寄り添って明らかにしていますね。
もちろん仏教を学ぶ者も、自己の心をより深く、より詳細に観察・分析する能力を育むなら、同じような洞察を得ることがあってしかるべきだと思います。
78910さん
あまり詳しくないですが,仏教はどちらかと言えば悟りを目指すもので、もともと出家した僧侶の生活がベースになっているんじゃないですかね。そりゃ、西洋の方も、仏教も真理探究を目指して来た点は、近いんでしょうけど。
 西洋の方は,もっと客観的、一般的人に焦点を当てたんでしょうか?もっと、お詳しかったら、教えて下さい。
やっくんさん

西洋の心理療法と仏教による心の修行はしばしば比較検討がなされますが、僕自身は自分の心を見つめるのに前者もとっても役に立つし、後者があまり言及していないようなことにも多くの知見をもたらしてくれるから、仏道修行だけでは見落としがちな心のひだにもとても丁寧に向き合うことができると考えています。
ただ、心理療法の場合、既存の社会において一応適応的に生き、深い悩みから脱することができればそれでいいと考えているのに対して(もちろんトランスパーソナル心理学などはそれ以上を考慮に入れますが)、
仏教は既存の社会からはみ出してでも精神の可能性の極限まで実現しようとする衝動に正面から向き合っていますね。
78910さん
>仏教は既存の社会からはみ出してでも精神の可能性の極限まで実現しようとする衝動に正面から向き合っていますね。

それが、仏教の神秘的な部分であり方便とか、頓知といったところなんでしょうか?
>>[142]

これは、僕は全然神秘的とは思いません。
むしろ西洋の心理学も順当に見出すことになった人間精神に本来的にそなわっている超越への衝動であり可能性だと思います。
>>[143]
正統 な心理学か分かりませんが,主にドゥルーズ、ガタリ、フーコー、ラカンとかそういった人が唱えていった自我、超自我の心理学以降のものを言っているのでしょうか。ベルクソンなども被ってくるんでしょうけど。
仏教の無我(ここでは特に人無我)というのは、世俗的に機能する私、自律的な私、近代的自我といったものが世俗的にもまったく仮設されないという意味ではなく、
世俗的にそういうふうに機能している私、自律的な近代的自我も決して不滅の実体などではなく、この世の縁起の中でかろうじて構成されているところの無自性なるものであり、
究極の禅定においては空であることがありありと知られるという意味だと思います。
ライプニッツの排中律は「全ての判断は真または偽である」。

この排他律が成立するような命題だけ近代の大人は口にするのです。

そうでないとまともな技術者・銀行員・官僚etcになれない。呵々
デカルトは近代の西洋において、疑おうにも疑えない所をまず発見しようと方法的懐疑を採用し、それは「思考するもの」としての私があることだ、と結論した。
これに対して同じく古代インドにおいて、方法的懐疑を採用し、疑おうにも疑えない所を追求したゴータマ・ブッダは、「思考するもの」としての私はまだ疑えるものの一つに過ぎないと考え、ただただ直接体験それ自身があることだけが原初の疑いえない事実だと突き止めた。
なつかしいトピ。

「識の所縁は唯識の所現なり」だから
識が認識している対象は 識自身が顕したもの。
対象も全部ふくめて識

何か認識や思考の容れ物・発生源みたいな「我」が存在していることにはなりそうもない

我思う、ゆえに我あり と我思う、ゆえに我あり と我思う…げっそり
デカルトは思考する私と、私の外部にある物体とを明確に分けた。そしてこの区別は融合できない実在的区別であり、何ゆえに実在的区別であるかと言えば神が設定したからだとした。
どうだ、まるっきり仏教の道行きとは異なる。
仏教はもちろん神のような絶対的カードを持ち出すことはしないし、そういう絶対的超越者が思考する私と私の外部にある物体との間に実在的区別を設定した、とも考えない。
区別があるとすれば、直接体験できるものに対して私たちの思考が、私と外部の物体とを区別した張本人だと見る。
私が思うことによって私が成立している私あるいは自己意識というものの構造は、
私が私について考えようとすると常に考える主体としての私と、考えられる客体としての私が分断され、
その考えている自分をさらに考えようとすると、そうやって考えられる自分と考える自分とが無限にさかのぼられてゆくという関係にある。
この根底にあるのはもちろん、主体と客体という構造だ。
この主客分断の構造を超越したところの主客の分断、分節化のない自分にこそ到達しなければならない。
それはもはやそれまでの限定的な意味における自分ではない。
ここでデカルトが言う我というのは極めてか細い光のようなものであるが、日常の私たちが私というものに対して抱いているイメージは、他人とともに暮らしてゆくこの人間社会の中でとても幻想的な作り物になっていると心理学者の岸田秀は言う。
一つの物語が自我として空想され抱きしめられている。
なぜそんなことがなされているのかと言えば、自我という幻想を持つことは人間にとって単なる身体的快楽とは違う、それ以上の心地よさを持っているからだと竹田青嗣は指摘する。
岸田秀や竹田青嗣の議論を引用するのであれば、何のためにここで引用するのか、仏教とどういう関係にあるのか、そのあたりをきちんと述べて考察していく方が良いのではないかと思います。
私たちが日常的に、「私は」と発語したり、「私はひとり犀の角のように歩む」と言ったり、「私とあなた」などと言ったりするのは、世間的な慣例に従って、その限りの真実(世俗諦)を言ったもの(流通説示)なのだ、
それに対して「我は無い」というのは最高の真実(真諦、勝義諦、第一義諦)を言ったもの(第一義説示)なのだ、
というように、

人々が仏教に触れて「私はあるのか無いのか」と混乱してしまうことに対して仏教は丁寧に説明していますね。
デカルトが「我思う」としてつかみ出したところの究極の我は、
物事をいろいろに考えている時に常にその主語として統覚的に見出される我であって、あくまでも内省の対象としての我、統覚としての我だ。
常に私たちの思考にくっついているところの統覚としての我は、唯識においてマナス、マナ識と呼ばれているものに相当するのではないでしょうか。
あれがしたい。
これがしたい。
世界を理解したい。
欲しいものを手に入れたい。
西洋では、そういったことを考えたり行ったりする心を自我と呼んでいるのかもしれません。

仏教は違いますね。
それは自我というより我見という基礎的な煩悩だと考えられます。

私は西洋の言う自我を、欲望というガソリンで動く強力なエンジンのようにイメージしています。
そうして、そのエンジンが何を生むのかと考えるとき、ピカソを思い出します。
私はピカソの絵の何が凄いって、人間の怒りやら悲しみやら嫉妬やら、「自我」が巧みに示されているところにあると思います。
日本画からは永遠に生まれなかったであろう、究極の「我見」の姿のように思います。
それはそれで大したもので凄いのですが、見るのは本当に疲れます。

「我思うゆえに我あり!」
と叫ぶ人がいたら、ちょっとうっとうしいのに似ています(笑)。

なんとなくそんなことを考えました。
>>[157]

ピカソの晩年の作品を「名声の上に立った駄作に過ぎない」と見る人もいますが、ぼくは大好きです。
(^^)
デカルトはそれまでヨーロッパの知の基盤としてあった教会の知が、カトリックとプロテスタントに分裂して、あげくのはてにヨーロッパが二大陣営に分かれて悲惨な戦争を繰り返す暗湛たる時代にあって、
「もう今まで当たり前だと思っていた知識なんか一旦すっかりうっちゃってしまおう。
何もかも自分の意識が当然の前提だと考えてるようなことを一つ残らずご破算にして、
疑って疑って疑った果てに、それでも残るものこそ知識の本当の出発点にしよう!」
と決意して、

「こんなふうに疑っている私は、確かに有ると言えるんじゃないか」
と、
〈ego cogito,ergo sum〉
の命題を立てるに至った。
デカルトが疑っても疑っても疑いきれずに認めざるをえなかった疑っている自分、考えている自分というものは、自分によって振り返られた自分でもある。
何かを考える対象として選んで、それを疑ってきた自分が、自分そのものが、
今度は対象化されて認識され、判断される。
すなわち、自分というものは対象・客体と対立・対峙する形で立っていると同時に、
それ自身、対象化・客体化されて見られる私と、
その私を見ている私という別のものとして把握されうる。
対象化・客体化を常にすり抜ける認識、眼としての私が、
私という構造の中には常に把握されがたいもの、対象化・客体化をすり抜けるものとして残りうる。
深く観察すると、やがて主体と客体がひとつになるそうです。経典に内と外から見ると書かれているのは、そのような深いレベルのビパシャナ瞑想の状態をさしていると、なにかの本で読みました。参考まで。
「私が思考している。だから私は実在する」とは考えてみればおかしなことだ。
第一文で私という主体の実在を前提として、その思考を見つめているのだという暗黙の了解が成り立っている。すなわち秘かに前もって私の実在が裏口から導き入れられている。
ゆえに私は実在すると第二文でまるで初めて発見したかのように言うのはトリックだ。

仏教なら、私の実在を前提としないで思考の生滅だけを見つめうる(ヴィパッサナーの一種だ)。そしてそれを観ているからといって、すぐさま私の実在が証明されるわけではない。
思考だけでなく、イメージや衝動や判断、さらには身体とその動きなどもそれぞれ見つめることができるが、だからといってほら私は実在すると仏教は結論しない。
それらの5種類の上に仮に私と名づけているだけのことが私の正体だと仏教は言う。

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