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仏教コミュの『涅槃と世間』

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『涅槃と世間』
ジェフリー・コテック著


涅槃と言ったら、様々なイメージや種々な様相を呈すであろうが、般若波羅蜜多の思想から考察したら、涅槃は絶対的なものとしては不可能である。全ての現象(諸法)と同様に涅槃も実体がなく空であるからだ。世俗の視点から見て涅槃はキリスト教の天国のような場所であるけれども、大乗仏教の哲学的な視点から見て分析したら、涅槃の存在は不可能である。しかしながら、涅槃が「存在しない」と言うことはできない。涅槃である涅槃は本当の涅槃ではない。何故ならば涅槃は二元性の区別を越えるからである。これは単なる妄信ではない。具体化・物象化した概念が分析されれば、涅槃を含む全ての物事の存在性は不可能となる。このポイントを徹底的に説明しよう。

もしも涅槃が存在するとしたら、必ず老死相に従って滅する。換言すれば、もしも涅槃が存在したら無常である。存在する物は必ず滅する。涅槃が無常であるとは、四諦に当たらないのである。龍樹はこのポイントを説明した:

「涅槃不名有  有則老死相
 終無有有法  離於老死相」

「如佛經中說  斷有斷非有
 是故知涅槃  非有亦非無」

また、有るもの即ち存在するものは生じて滅するのである。もしも涅槃がそのようなものであったら、無常であるため、本当の涅槃ではない。「それ故に涅槃はないのであろうか」と言われるかもしれない。幸運なことに、龍樹は「非有亦非無」と書いた。正反対の「無」が否定されれば、非存在も不可能となる。何故だろうか。

もしも涅槃が存在しないとしたら、存在する涅槃が必要である。非存在の涅槃はまだ涅槃その概念を反映するからである。別の視点から見よう。例えば、存在していない人間はまだ人間の特徴を有するのである。想像された人間は実際に居ないが、まだその想像された人間の特徴―頭、鼻、腕、足などなど―がなければならないのである。存在する涅槃が否定されれば、そのものに基づいた非存在の涅槃も不可能となる。

これから「存在しているのではないが、存在していないのであったら、存在していると同時に存在していないものであろうか」とという考えに陥りやすい。このポイントを否定する前に非二元性を把握した恵能禅師が強調した『大般涅槃經』の最重要な言葉を復誦しよう。

「佛言:善根有二:一者常,二者無常,佛性非常非無常,是故不斷,名為不二;一者善,二者不善,佛性非善非不善,是名不二。」

仏性のように涅槃も不断と言われる。不二とは、非二元性である。存在と非存在との関係は二つの極限を意味する。更に詳しく調べたらそれらの極限は不可能であることが分かるだろう。

「存在しているのではないが、存在していないのであったら、存在していると同時に存在していないものであろうか」という発言に戻ろう。単に言えば、存在していると同時に存在していないものというのは合理的に無理である。同時に同じ物の中に有無、その二つの様相が生じるのは無理なのではないであろうか。

これからもう一つの可能性を否定せざるを得ない:「涅槃は存在しているものではないが、存在していないものでもないものである」。上記の三つの可能性が否定されたため、この最後の可能性も無意味である。涅槃は存在した実体としての存在性および存在しなかった実体としての存在性に欠けている。換言すれば、存在性と有無という区別に関しては実際に何も言えない。存在論の基盤に欠けているので般若波羅蜜多の思想から考えたら涅槃の有無は机上の空論となる。

更に詳しく説明して否定しよう。『文殊師利所說摩訶般若波羅蜜經』に次の対話がある:

「舍利弗語文殊師利言。云何名佛。云何觀佛。
 文殊師利言。云何為我。
 舍利弗言。我者但有名字。名字相空。」

「我」が部分の集合と同じであったら、それらの部分を分けて燃やしても、まだ「我」と同じであるはずだが、実際にそうではない。物質が残っているのに、もうそうではなくなるからだ。「我」は部分の集合と違うのであったら、なぜ部分の集合と「我」との関係があると言えるのであろうか。

私の耳を切って捨てても「私」が残るという。私が生まれた時の体は現在と同じではない。過去の部分の集合は現在と全然違うのであっても、なぜ継続性があると思い誤るのか。どの部分の集合に依存するのか。「体が変化しても人は同じである」と答えられるかもしれない。

変化には時間が必要となる。リアルな変化には時間もリアルでなければならない。更に調べ、時間を否定したとしたら、涅槃に入るための二つの必要な前提条件も取り消させることとなる。リアルな「我」がないとしたら、何が涅槃に入るのか。時間にもリアルな基盤もないので、変わることも実際に不可能である。ポイントAからポイントBに至り、この過程には、二つのタイム・ポイントが必要だが、時間もリアルな基盤に欠けている。何故だろうか。過去と未来、これは誤謬である。何故なら、過去は未来(または未来の役割を果たす現在)に依存するからである。どのようにしてもう存在しないことはまだ存在しないことに依存するののであろうか。存在しない所から何かが生じるとは、不可能なのではないであろうか。別の視点から見たら、現在と未来は過去に依存すると言われる。しかし、定義によると、過去はもう存在しないため、現在と未来はもう存在しないことに依存する事はできない。このように分析すれば、時間の基礎は忽ち土崩瓦解する。継続性は幻影であり、継続的なリアルな「我」またはリアルなアイデンティティーは不可能である。

もし「全く何も存在しない」と言ったらそれは虚無主義である。存在論を完全に否定すれば、有無は称呼になり、現実性も非現実性も薄れていくであろう。我々の概念の全ては、例外がなく、リアルな基盤に欠けている称呼である。リアルな基盤を見つけることができないのであれば、なぜ妄執があるのか、なぜ幻影に執着するのだろうか。

では、涅槃の真理は何であろうか。なぜ一生懸命に悟りを開こうとするのであろうか。また龍樹の言葉に言及しよう:

「涅槃與世間  無有少分別
世間與涅槃  亦無少分別」

涅槃と世間、分別少しもない。
世間と涅槃、分別少しもない。

つまり、この瞬間、この心。此心即仏。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

gate gate pāragate pārasamgate bodhi svāhā

私は胸の前で両の手のひらと指を合わせる。



『六祖大師法寶壇經』《行由第一》
http://www.baus-ebs.org/sutra/fan-read/003/01-002.htm

『中論』《涅槃品第二十五(二十四偈)》
http://cbeta.org/result/normal/T30/1564_004.htm

『文殊師利所說摩訶般若波羅蜜經』
http://www.baus-ebs.org/sutra/fan-read/003/01-004.htm

コメント(31)

貪りが尽き、瞋りが尽き、癡かさが尽きることが涅槃といわれる。
以前はこの心身に、貪りが有り、瞋りが有り、癡かさ有った。

しかし今はこの心身には、貪りが無く、瞋りが無く、癡かさ無い。

なので、この心身には、貪りは空であり、瞋りは空であり、癡かさが空であるといわれる、と仏陀は説きます。




 涅槃は僕もよく知らないので、このトピで勉強させていただきます。
 ただ、10年以上前、タイを訪問された時のローマ法王が、涅槃などを「ニヒリズム」と言って論議になったことを覚えています。タイは南伝仏教。涅槃の解釈も、南伝と北伝では違いますし、理解も難しい。ニヒリズムと誤解する人のことも批判はできないと僕は思います。それゆえ、世間や西洋・イスラム圏などにも判り易く伝える必要があると思います。「誤解」されたままでは悲しいし、いけないわけでもありますね。
 このことについては、僕は学識がなく、口出しはできない立場ですが、お坊さんの皆さん、がんばってください。
#5

私は一在家信者に過ぎないので、仏陀の言葉を頼りに思惟する以外に方法がありません。
4> 世間の真実としてそれも真実です。執着を無くすには地図または方法が必要です。般若波羅蜜多の思想は一つの方法です。
 先のコメントの続き。
 タイでのヨハネ・パウロ二世の発言は、涅槃への「質問」と解釈できます。日本でもそのような質問が多いわけだし。前法王は宗教対話と平和運動に身をささげた偉大な宗教家。仏教を叩く気は毛頭なかったわけですから。
 したがって、これからでも、「質問」に答えなければならないわけです。
>前法王は宗教対話と平和運動に身をささげた偉大な宗教家。仏教を叩く気は毛頭なかったわけですから。


キリスト教徒を甘くみてはいけません。



>したがって、これからでも、「質問」に答えなければならないわけです


その結果が「ニヒリズム」という発言でしょう。
神を絶対的存在とするキリスト教徒には涅槃を理解することはできず、それを虚無主義としてかたずけるしかないでしょう。
生き物を殺さない

盗みをしない

浮気をしない

嘘をつかない

酒を飲まない

生きとし生けるものを慈しむ


こうしたことは、大まかに言えば、認識を共有することが可能であると思います。 

涅槃と世間について
涅槃と対立の世界(時空)をごじゃまぜにするからこのような文章をつくってしまうのです。
涅槃が理解できればこうはならない。
 二つ前について。イエスは「敵への愛」を述べ、イスラムでも他の宗教への寛容を説いてある。ならば、イエスなり、ムハンマドは「同教徒」に限って殺すなとは言っていないのではないかな。それが、歴史を見ると、十字軍戦争みたいなことも。近代にはカトリックとプロテスタントが戦争まで。歴史を見ると訳が判らなくなるね。ただ、イエスなどから見ると、別に宗教のせいでもないようだが。新たなトピも作れそうな大きい問題だね。まともに答えることは、僕にはできないけれど。
 ただ、「自分の信ずる宗教だけが正しい。ほかはダメだ」と狭く思うと、殺さなくても、それに近くなる事は確か。イエスの指摘した「心の中の殺人」だね。それは一種の我執。恐ろしいことだと思う。信仰はそのような面も含んでいる。我執信仰という奴にいつの間にか取りつかれる。それはないように、僕も気をつけている。宗教に限らず、他人の意見を尊重することは、人間の基本的ルールだから。
>二つ前について。イエスは「敵への愛」を述べ、イスラムでも他の宗教への寛容を説いてある。ならば、イエスなり、ムハンマドは「同教徒」に限って殺すなとは言っていないのではないかな。


旧約聖書も含めて、聖書のどの部分を取り出すかです。 自己に都合の良いよう、聖書は様々な解釈が可能です。

もう一つ根本的な問題は、それが自己保存についての教えであるということです。 聖書というのは、自己を保存することの正当性や自己を保存する方法について説かれた教えですから、ある対象が自己保存を妨げるようなものの場合、それを、どのような形であれ破壊しようとすることになります。

それからMIXI内にもクリスチャンコミニュティがありますが、そうしたクリスチャンばかりの場(実際にそうであるかの証拠はありませんが)での発言を見ると、いわゆるノンクリというのは「人間未満の何か」のように扱われているようです。



>ただ、「自分の信ずる宗教だけが正しい。ほかはダメだ」と狭く思うと、殺さなくても、「自分の信ずる宗教だけが正しい。ほかはダメだ」、それに近くなる事は確か。

それはあり得ません。 でなければ、相対主義→あらゆる事物は等価値→虚無主義となります。 本当にあなたが「自分の信ずる宗教だけが正しい。ほかはダメだ」と思っているならば、あなたは虚無主義者です。


しかし、仏陀、阿羅漢の場合は、「自分の信ずる宗教だけが正しい。ほかはダメだ」と言うことが可能でしょう。 あくまで仏陀、阿羅漢の場合はです。


それから釈尊は間違った教えを信じている相手とは度々論争をしています。


>僕も気をつけている。宗教に限らず、他人の意見を尊重することは、人間の基本的ルールだから。


仏陀の言葉使い(論理)は厳密です。 仏陀の言葉使い(論理)には<誰も反論が出来ませんが、仏陀のことば使い(論理)が理解出来るかどうかについては、仏陀の言葉を聞く側の問題です。 



それから、既に生じている善を持続し、未だ生じていない善を生じさせ、既に生じてる悪を滅し、未だ生じていない悪を生じさせない方法。

縁に依って生成消滅する事物をありのままに観察する方法。

心を一つに集中させる方法。


こうした苦しみを滅する方法も共通の認識とすることが可能であると思われます。








 
 

「信仰」や「信仰心」について。他のトピでも述べましたし、二十数年前、教会関係でも述べましたが、確かに神仏は絶対的です。でも、人間の持つ信仰は絶対でしょうか。また、神仏=信仰心でしょうか。明らかに違うわけです。書物にも。たとえば、親鸞上人は、自分の信仰を絶対視する連中を「本願ぼこり」と厳しく批判し、イエスも同様なパリサイ人を厳しく批判しています。確かに、自分はどれだけ信仰しているかは神仏にしか判らないし、また、自分の信ずる教義が正しいかも同様。自分とか人間には絶対に判るものではありません。
 自分の信仰だけが正しいと思うと気持ちは狭くなるし、一種の傲慢にも陥るわけです。そのような人たちも多く見てきました。気がつかない内に、自分が神様みたいになり、その結果、多くの人に迷惑を掛けてしまう。
 一方、二十世紀でも、ガンジーはあの通り、自分の信ずるヒンズー以外の宗教も「同じ真理への道」と言い、認めましたし、マザー・テレサもカトリック以外の宗教を認めています。特に、これからはこういう謙虚で広い心でなければ、地球の危機は救えないと思っています。
 
>自分の信仰だけが正しいと思うと気持ちは狭くなるし、一種の傲慢にも陥るわけです。そのような人たちも多く見てきました。気がつかない内に、自分が神様みたいになり、その結果、多くの人に迷惑を掛けてしまう。

しかし、あなただけは、自己の信仰が正しいと主張出来るという根拠は何でしょう。


多くの人に迷惑をかけている宗教だって、それはそれで、その人達の信仰であるということになるでしょう。 

あなたは、それも認めなければならないでしょう。


>親鸞上人は、自分の信仰を絶対視する連中を「本願ぼこり」と厳しく批判し、イエスも同様なパリサイ人を厳しく批判しています。

まぁ、自分だけは例外ということですね。



 自分の信仰が「正しい」とは言っていません。正義は人間にはないわけです。神とか仏に正義はある。
 余談ですが、神や仏の名の正義を振りかざして、戦争ばかりしてきましたね。「正しいことは何か」は極めて難しい問題。トピができるだけの。哲学者たちはその答えは出していません、いまだに。
>#21 自分の信仰が「正しい」とは言っていません。正義は人間にはないわけです。神とか仏に正義はある。


あなたはパラドクスにはまっています。

「自分の信仰が正しい」と思っている人たちも、矛盾に陥っている。何故なら、その根拠は誰にも判らないから。本人含め、「人間」にはそれを正しいと言える証明手段や論法は存在しないからです。西洋でも、教会関係で同じ論議が繰り広げられていますね。信仰心を強調するルターもそれで批判された歴史がある。
 
 でも、宗教関係にももっと大きい問題もありますよ。それは信仰を同じくする人たちだけが集まり、仲間関係を作ること。仲間と聞くと良いようにも思えるかもしれませんが、それは仲間内には濃く、仲間外には無関心の冷たく、狭い感情。派閥とか言われているものですね。その問題は、30年前の障害者・福祉団体でもありました。同じ仲間内は助け合いますが、違うグループは叩きあう。その結果、首都圏の障害者・福祉運動は壊滅したこともありました。悲しいことだし、その延長から宗教間の対立とか宗教戦争の問題にも関心を持つようになったわけです。トピか゜できそうな大きい問題。宗教や福祉からはこの答えは出ないかもしれません。最近、こう考えるように。
 遺伝子の働きが関係しているのでないかと。動物の暮らしをご覧ください。ライオンでも、サルでも、群れを作りますね。同じ動物でも、群れの違う個体が入ってきたら、徹底的に叩きます。群れの中は助け合うのに。
 人間も動物には違いないから、そのような遺伝子を持っているはず。それが無意識に働き、僕の目にした現象などを引き起こすのではないかと。宗教戦争なども、果たして信仰心だけの問題か。それに加えて、経済だけの。そのほか、遺伝子から来る動物的本能みたいなものもあると考えるようにも。「そんな狭い愛だけではいけない」と言って、広い慈悲を説いたのがシャカ、同様に敵への愛をと多のがイエスです。そう、お釈迦様も「敵を許すことは二重の勝利を得たり」と同じことを言っていますね。
 つまり、以上の遺伝子仮説が正しければ、涅槃には「仲間愛を超える大きな愛」も必要になってくる。遺伝子科学はなくても、おそらく、人間観察により、シャカとかイエスは「仲間関係だけではいけない」ことを悟ったのでしょう。これからの環境問題や国際協力にもそのようなものは欠かせませんね。
 「涅槃の社会的意味」も見てみる必要があるように思います。それゆえ、昔からの仲間関係への疑問も述べた次第です。結びつくかもしれない。
 以上の仮説が本当なら、仲間意識は遺伝子に基ずく「原罪」みたいになってくるわけだが。これからの遺伝子科学が真偽を解明することになると思うが。
 とにかく、人間は遺伝子を超えなければこれからやっていけない。詳しくは言えないが、障害を持っている僕自身も生きていけないと思うから。
 仏典本来の意味とは違うかもしれないが、それを承知で遺伝子科学的に涅槃のことも見てみたいと思っている。科学と宗教は対立するものでもなかろうに。
>#24 本人含め、「人間」にはそれを正しいと言える証明手段や論法は存在しないからです。


あなたも何かを正しいと言えなくなります。 この場合、原理的に正しいと言える照明手段や論法が無いというのでしょうから、あなたの「それを正しいと言える証明手段や論法は存在しない」という命題も正しいといえる証明手段や論法が存在しないことになります。



>「そんな狭い愛だけではいけない」と言って、広い慈悲を説いたのがシャカ、同様に敵への愛をと多のがイエスです。そう、お釈迦様も「敵を許すことは二重の勝利を得たり」と同じことを言っていますね。


私は「愛」をこのように定義します。 「自己保存の本能に基づいて、ある対象を所有しようとする情動のこと」です。 「本能」を定義するのは難しいのですが、ここは学術的なものを発表する場ではないので、国語辞典程度の定義とします。


慈悲は、慈・悲・喜・捨、の四無量心によって培われると釈尊は説いています。 実践的には慈・悲・喜・捨を心に念じます。

この四無量心を極めると梵天に等しくなれると説かれています。
 成程ねえ。梵天のことはよく知らないので、勉強になります。ありがとう。
 さて、先の続きですが、あれから気が付きましたが、そのような遺伝子は本当にあるようです。船井幸雄が諸々の著書で、村上和夫教授の「嫉妬遺伝子」を紹介しています。僕の仮説と表現が違うだけでした。
 本によれば、原始人の時、猛獣と戦ったり、獲物を獲得するため、そのような闘争を強める遺伝子が必要だった。文明成立後も、それが強く残り、その結果、戦争や資本主義につながった。そうならば、当然、宗教関係にも現れ、異なる宗教間の闘争や差別にも。あるいは、福祉関係とか。その遺伝子説で十分納得がいきます。特に、第二次大戦の時が嫉妬遺伝子は最高に働いたと見ました。連合側も、枢軸側も相手を人間視していなかったでしょ。サルかブタ扱い。国家レベルで、その遺伝子が働くと最も怖いことになるわけです。残念なのは、戦後、反省が十分に行われない内に、東西冷戦になったこと。もし、十分に反省していれば、日本では「アジアとの共生」が模索され、いつまでも恨まれなかった。ヨーロッパでは「ユダヤ人との共生」が模索。ユダヤ人が大量に中東に行くことはなく、今の戦争もなかったわけですが。
 また、その遺伝子は異端な者とか違うものを排除する傾向が。障害者などの結婚差別の理由もそれだと気がつく次第です。僕の長い独身理由も。
 でも、人は本来遺伝子に打ち勝つ力はあるはず。その方法の一つが人格主義。自分・他人の別なく、人格を最大限に尊重。他人をうんと尊敬していく・無限に。そうすれば、その古い遺伝子もOFFにできます。
 因みに、多摩全生園で知り合った無教会伝道師さんはすべての共同体と仲間関係に反対。「共同体の中では、ハンセン氏病患者は異端者として、人格を無視され、差別されてきた。ハンセン患者と付きあう時は、個人で来い。共同体や中までは来るな」と。人格と人格の認め合いを強調。遺伝子のことは知らなかったのに、ものすごい教えです。でも、後年、僕は教会に行き、牧師から「教会共同体」を教えられ、非常に戸惑いました。教会をやめた理由の一つにもなった。異なる教会共同体間では戦争や差別もあるのに、教会共同体を聖なるものとして認めるわけにはいかなかったです。もちろん、その問題は仏教やイスラムにもあるわけですが。
 その伝道師さんは今は天国ですが、僕の「心の師」の一人です。ここに書き込めて、良かったと思います。
 付け加えれば、涅槃を遺伝子学的に見た場合、嫉妬遺伝子がOFFになった状態ではないかと思うように。シャカやイエスのその遺伝子は、別々の方法から、OFFになっていたという見方も可能。
 宗教と科学は対立するものではないはず。両方必要。それは僕が述べるまでもないことだろう。
 因みに、船井幸雄の諸々の著書によると、もうじき人間の嫉妬遺伝子はOFFになる可能性が80%あるとのこと。その場合、社会構造も大きく変わるそうです。予測通りになるかはともかく、船井氏の見方には注目しています。
以上とは話が違いますが、涅槃ねえ。「煩悩の火を吹き消した平和な状態」。煩悩は消えても、人格は残る。真の人格が。人格の完成とも言える。おそらく、タイでのヨハネ・パウロ二世はそこを見落としたし、また、法王に説明した人たちもそれがうまくいかず、「消える」だけを説明したと推測できます。
 また、昔から思っている事ですが、十字架上のイエスも、涅槃のもう一つの姿なのではないかと。そんな気がします。言葉や形こそ違うものの。仏教から見てイエスは何者なのか。または、キリスト教から見て、シャカは何者なのか、昔から不思議に思っていました。もちろん、クリスチャンや仏教徒でも一人一人意見は違うし、答えはおそらくは出ないでしょうが、各人考えることはためなるし、視野を広げたり、信仰を深める材料にはなるはずです。

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