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歴史を楽しく学ぶ会[江戸編]コミュの大坂の陣のキッカケになった、方広寺の鐘(^O^)

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豊臣家が滅びゆく運命を導いたと言われる、方広寺の鐘(^_^;)
鐘銘に、「君臣豊楽 」「国家安康」という言葉が刻まれていたことから 徳川方に、豊臣を君として 子孫繁栄を願い 家康の名を2つに裂くことで呪詛(じゅそ)しようとしたと 難癖をつけられ 豊臣家討滅を狙っていた家康は、この機会を利用し 大坂の陣へと 持ち込んでいきます(^O^)人差し指
この鐘銘事件は、豊臣家にとって“晩鐘”となってしまいますが、騒動のキッカケになった方広寺の鐘は 意外なことに 現在まで残り 時代の流れを見据えています(^O^)人差し指
家康が鐘銘に激怒したのは、皆さんも ご存知のように 豊臣討滅の口実をつくるための 政治的演技で、本気で鐘銘を 恨んでいたわけではありません(^O^)
方広寺の修造を『秀頼』に勧めたのは、家康だったのです(^O^)人差し指
表向きは、父『秀吉』が造立し 1596(慶長元)年の大地震で崩壊した寺の再建でしたが、真の目的は 秀吉が残した莫大な財産を 少しでも浪費させるためでした(^O^)人差し指
家康は、方広寺以外にも『秀頼』に 神社や仏閣の修造を勧め、北野天満宮や 出雲大社、熱田神宮なども 修築させていました(^O^)
なかでも 方広寺の工場には、多額の費用がつぎこまれ この寺で、秀吉の17回忌を 大々的に行わせ さらに巨額の出費を強いるつもりでしたが、法要の直前に 家康は方針を変更し 鐘銘に難癖をつけることにしました(`o´)人差し指
口火を切ったのは、南禅寺 金地院(11月26日に訪問しているので、写真を参考に してください)の『崇伝』でした(`o´)人差し指
『崇伝』は、鐘銘を作った僧を 以前から敵視していて、これが儒者の『林羅山(はやし らざん)』らが加担したため、騒ぎが大きくなり その騒動を家康が巧みに利用したという構図です(^O^)
豊臣滅亡後、鐘が そのまま現在にまで残っているのは、大坂の陣の原因を 正当化するために、あえて これを証拠として残したという説もあります(^O^)人差し指

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