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有名人の死から「死」を考えるコミュの直木三十五/山口小夜子

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直木三十五(1891年2月12日生)

小説家である。また脚本家、映画監督でもあった。


 現在、エンターテインメント系の作品に与えられる直木三十五賞(通称「直木賞」)は、彼に由来する。

 大阪府生まれ。父の反対を押して早稲田大学英文科予科を経て、早稲田大学高等師範部英語科へ進学したが、月謝未納で中退。しかし早稲田大学へは登校し続けており、卒業記念写真の撮影にも参加している。

 1920年に里見、久米正雄、吉井勇、田中純らによって創刊された『人間』の編集を担当、その際は「植村宋一」の名を使った。

 1923年の関東大震災以後は大阪のプラトン社に勤務し、川口松太郎とともに娯楽雑誌『苦楽』の編集に当たった。以後、次第に時代小説を書くようになり、1929年、『由比根元大殺記』で大衆作家として認められた。

『黄門廻国記』は月形龍之介の主演した映画『水戸黄門』の原作にもなった。ほかにも直木作品を原作とした映画は50本近くある。

 代表作となったのは、お由羅騒動を描いた『南国太平記』だが、これは三田村鳶魚が調べて発表したのを元ネタにしたため三田村が怒り、『大衆文藝評判記』を書いて歴史小説・時代小説家らの無知を批判したが、そのため海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の本格的歴史作家が育った。

 1934年2月、肺結核から進んだ脊椎カリエスのために東京帝大病院に入院。入院前の彼は、流行作家として月に平均2000円という当時としては巨額の収入があったが、それをすべて消費しつくしていおり、方々から原稿料を集めて入院費用にしていたほどだった。
 やがて腹膜炎を併発し、その苦痛のために怒号しつづけ、ついには看護婦がみな寄りつかないようになった。

 1934年2月24日に死去。享年43。直木が亡くなると朝日新聞は、「武士の斬死(きりじに)」と評した。
 亡くなった翌年の1935年、文藝春秋社長・菊池寛により直木賞が設置された。忌日の2月24日は、代表作『南国太平記』に因んで「南国忌」という。


1934年2月24日逝去(享年43)

コメント(1)

 
山口小夜子(1950年生)

ファッションモデル、ファッションデザイナー


 横浜市生まれ。1971年にプロのモデルとしてデビューし、高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集める。

 1972年、パリコレクションにアジア系モデルとして初めて起用され、次いでニューヨークコレクションにも出演した。おかっぱ頭に切れ長の目で日本人ブームを起こした。

 特にヨーロッパで人気が沸騰し、「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が発売されたほどだった。現在でもアナスイニューヨーク店で使用されているという。

 1973年、資生堂の専属モデルとなり、同社のCMに出演。その後も長くモデルとして活動しながら、ファッションデザインや服飾品のプロデュースも幾度となく担当。

 1977年には、雑誌『ニューズウィーク』の「世界のトップモデル6人」にアジア人で初めて選ばれた。

 晩年はダンスとファッションの融合をめざしたパフォーマンスに力をいれていた。

 2007年8月14日に急性肺炎のため東京都内の自宅マンションで死去。享年57。
 葬儀は親族だけで執り行なわれ、9月19日にお別れの会が開かれた。


2007年8月14日逝去(享年57)
 

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