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有名人の死から「死」を考えるコミュのhide/TAIJI(沢田泰司)/樋口宗孝

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hide(ヒデ 本名:松本秀人 1964年12月13日生)

ミュージシャン


 X JAPANのギタリスト。
 1998年5月1日、hideはSpread Beaverのメンバーと共に音楽番組の打ち上げ後、日付をまたいで更に飲み、泥酔したhideは実弟でマネージャーの松本裕士が運転する車で自宅マンションまで送られた。

 5月2日朝7時30分頃、hideは自宅マンションの寝室にて、ドアノブに掛けたタオルで首を吊って呼吸停止した状態で、同居していた婚約者によって発見された。

 その後、病院に搬送されたが午前8時52分に死亡が確認された。

 当日午後3時頃から、一斉に「元X JAPANのギタリストhideが死亡、警視庁は自殺と断定」と速報で報道された。

 警視庁が自殺と断定した根拠は、ドアノブにタオルを巻きつけて首を吊った状態で発見されたという状況証拠である。

 しかし、当初から事故死だったのではないかという見方が出ていた。

 hideの自室には遺書がなかった事、死去前に自殺するような印象を残していなかった事、直前にも自殺を感じさせる兆候はなかったと証言されている事、生前のインタビュー、死去の数日前にhideが都内に建てるスタジオの土地の仮契約をしていた事、などといった理由がこれに関連する。

『ピンクスパイダー』の一連の歌詞について「自殺」と関連付けられる説もあるが、これについてはhide自身が雑誌等で「『ピンクスパイダー』の歌詞は『世の中そんなに甘くはない』という挫折と失敗を表した歌。

『若いうちは後先考えず突き進め』というメッセージを込めた『ROCKET DIVE』、『人間何度でもやり直せる』という再生・再起の意味を込めた『ever free』と合わせて3部作の1つとして聴いて欲しい」と語るなど、死を意図したものとは位置付けられていない。


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コメント(7)

 
 後に発表された松本裕士の見解は、「ギタリストである彼は、職業柄肩こりが激しく眠れない事もあったほどで、タオルなどで肩を吊ってマッサージしていたという。これは、スポーツ選手などがよくやる牽引(タオルを首にかけて引っ張る方法)である。死去直前の5月2日未明まで酒を飲んでおり泥酔状態でそれをしてしまった為、そのまま眠ってしまい、結果事故死した」というものである。

 事実、彼の亡くなる数時間前に撮影された「ロケットパンチ」でのインタビュー中、(ギターのストラップのあたる左肩が痛いのか)特に左肩を揉むしぐさを頻繁にしている。

 警察の発表した「自殺」に対して、hideの死去は主にファンの間では「不慮の事故死」と見られている。

 しかし、『HURRY GO ROUND』の歌詞や、ラジオ番組「オールナイトニッポンR」での発言が意味深長で自殺に関連するのではないかという見方や、はたまた事故ではなく自殺だと断言している人間の存在までもあり、様々な見解がある。

 警察は雑誌取材などに「『牽引』にしては首の輪が小さく、むしろ死を意図するものであった。また、『バンドや音楽活動で悩み酒量が増えていた』と聞いており、突発的に死に踏み切ったのだと思われる」と答えている。

 なお、YOSHIKIは「彼は自殺するような人間ではない」と発言している。

 5月6日の通夜、5月7日の告別式の両日はファンの献花を受け付け、連日ファンが大挙して押し寄せた。

 通夜、告別式に5万人近くが集まった。美空ひばりや尾崎豊の告別式に訪れた人の数を超え、これほどまでファンが集まったのは戦後の日本では例が無い。

1998年5月2日死去(享年33)
 
 
 貴志真由子


 難病であるライソゾーム病を患ったファンである少女、貴志真由子の「hideに会いたい」という願いを、支援団体のメイク・ア・ウィッシュを通じて受けたhideは、1995年12月31日、Xの東京ドームライブで少女と会い、ライブの打ち上げにも招待して少女を友達だと紹介し、少女から不自由な手で2か月かけて編んだマフラーをhideにプレゼントされた(このマフラーはhideの死後、形見として少女の手に戻った)。

 その後も手紙を送ったり、お見舞いに訪れたりという交流を持ち、少女を励ますことになった。

 少女への手紙には「昔の事とか初めてのドームの事とか忘れていた色々な絵が見えてきて、かなり感動したんだ。おかげで、思い出さなきゃいけなかったいくつかの事が頭にやきついた」と感謝の言葉を残している。

 1996年3月28日に少女は治療のために骨髄移植手術を受けたが、手術後の1996年4月1日に拒絶反応のため心臓に水が溜まり危篤状態となり、彼女の母親から「hideさんの声だけでも良いから聞かせたい」と電話を受けた時にはその日の予定を全てキャンセルし、病院へ駆けつけて数時間の間励まし続けた。
 結果、その晩に危篤状態を抜け出し徐々に病状は良くなって数ヵ月後には退院する事もできた。

 その後にhideは「できることをするだけ」とあくまで個人的に骨髄バンクに登録をしたが、その際に所属事務所が独断で急遽記者会見をセッティングしてしまい、実弟でありhideのパーソナルマネージャーを務めていた松本裕士は、そのことを一切知らなかったと後に出版した追憶本「兄弟」の中で明かしている。

 記者会見自体は行われたが、会見終了後にhideは「これじゃあ売名行為じゃねえか!!もしそんな風にマスコミに書かれてその娘が傷ついたらどうすんだ!!」と言って彼を殴り飛ばした(hide自身ももちろんその事は知らなかった)。

 慈善活動をひけらかすような行動を嫌っての事であったが、結果的にはこの報道が骨髄バンクの認知度向上に大きく貢献する事となった。

 貴志真由子はhideが他界した11年後の2009年9月30日に、和歌山市内病院で肺出血による呼吸困難により、28歳で他界した。


2009年9月30日逝去(享年28)
 

沢田泰司(1966年7月12日生)

ミュージシャン


 日本のロック界に多大な影響を及ぼしたバンド、Xでメジャーデビューしたベーシスト。またベースのみならずギターもプレイし、X在籍時からアコースティックギターによる楽曲も数多く残している。

 2歳の時、親がやっていた工場の機械に手を突っ込み、右手中指の第一関節から上を切断した。

 プロのミュージシャンになるため、僅か一年で高等学校中退。この時、「トラッシュ」というバンドを結成(当時はギタリスト)。沢田の作ったオリジナルの曲でコンテストを勝ち抜いた。またベスト・ギタリスト賞も受賞。

 1985年、友人のバンド「ディメンシア」でベースをプレイしたことがきっかけで、ベーシストへ転向。家を勘当され、一時期渋谷のラブホテルで住み込みのアルバイトをして暮らしていた。

 1986年、いくつかのバンドを渡り歩いた後にXへと正式加入。当時沢田はXの音楽性が自分に合わず加入するつもりはなかったが、YOSHIKIの熱心な誘いを受けるうちに「この人となら音楽以外の何かでもできそうだ」と感じ、沢田の推薦するギタリストと交代させることを条件にXに加入することになったと語っている。その後一度脱退しているが、また戻ってきている。

 1989年、Xメジャーデビュー。アルバム『BLUE BLOOD』はオリコン初登場6位、1989年だけで60万枚のセールスを記録する異例の大ヒット。また、日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を受賞。

 Xの人気が広まっていく中、この頃に結婚し、その後一男一女をもうけている。

 1991年頃からスタジオミュージシャンとしての契約になる。
 1992年1月31日、X脱退(実質的には解雇)。ラストステージは1月7日の東京ドーム3days。原因は、収入格差に文句を言ったのと、YOSHIKIのドラムプレイに対して平気でダメ出しをする様になってYOSHIKIとの間に軋轢が生じたからではないか、と沢田自身は自伝にて述べている。

 Xからの公式な発表では音楽性とファッションの違いとされていたが、YOSHIKI自伝「佳樹」の中で「TAIJIのベースはXに必要だったが、YOSHIKIとTAIJIの間での約束をいとも簡単に破ったこと」が原因として挙げられた。


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 1992年4月頃、親交のあったLOUDNESSに前任ベーシスト山下昌良の推薦で加入。芸名をTAIJIから本名の沢田泰司に改める。

 1993年11月、LOUDNESS脱退。この年LOUDNESSは契約上のトラブルで解散状態になっていた。

 その後リーダーの樋口宗孝よりLOUDNESS再始動の呼びかけがあったものの、解散状態であった時期にLOUDNESSの活動を諦め、ソロアルバムの制作(後のD.T.R)を決めていたためにタイミング的に再集結を辞退し、脱退せざるを得なかった。

 1994年7月、自身がリーダーを務めるDirty Trash Roadを結成。バンドと同名のアルバム「Dirty Trash Road」を発売する。

 1995年、芸名を本名から沢田大司に改名、またバンド名を略称のD.T.Rを正式名称に変更。D.T.Rの2ndアルバム「Daring Tribal Roar」をリリース。

 しかし翌年、D.T.R事実上の活動休止。ほぼ同時期に経済的な理由で妻とは離婚。以降約2年に渡って放浪生活を送る。この頃は倉庫などに寝泊りしていた。

 1998年5月、HIDEの葬儀に出席し、久々に旧友たちと再会を果たす。その後、彼らの支援によって活動を再開する。この頃に芸名を本名の沢田泰司に再び戻す。

 2005年、バイク事故を起こし足の靭帯を切断するほどの大怪我を負う。手術費用工面のため、自身のベースをインターネットオークションに出品することになる。

 2006年7月30日より再びD.T.Rの活動を再開、個人としては初となるオフィシャルサイトがオープン。そして、シルバーアクセサリーブランド「DTROCKERS」を立ち上げる。

 2008年7月公開の映画「attitude」で音楽監督を務める。

 同年9月、持病のてんかん・脳梗塞が悪化、左足大腿骨頭壊死による人工股関節が外れ緊急手術。歩行困難となり、12月2日に転倒事故で胸と喉を強打し入院したことが自身のブログで明らかにされた。


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 2009年11月、2007年以降活動が停滞していたD.T.Rの解散を発表。同時に、沢田と黒田により同名のバンド「D.T.R」の結成が発表された。新D.T.Rは「Death to Rive」の略と説明されている。

 2010年1月、自身のバンドであるTAIJI with HEAVEN'Sを本格始動。TAIJI with HEAVEN'S名義でファーストミニアルバムをリリース。

 同年7月、8月14〜15日に日産スタジアムで開催される「X JAPAN WORLD TOUR Live in YOKOHAMA 超強行突破 七転八起 世界に向かって」に緊急参戦が決定したとメディアで報道された。

 報道通り沢田は14日15日の両日に当時と同じTAIJI名義にてXを共に演奏し、1992年の東京ドーム3days,「破滅に向かって」以来約18年ぶりに旧友であるX JAPANのメンバーとの競演が実現した。

 2011年7月11日、成田からサイパン島に向かう航空機内で乗務員に暴行、窓や座席をたたいたり蹴ったりしたとして逮捕された。

 拘束中にベッドのシーツで首を吊って自殺を図り、病院の集中治療室で治療を受けていたが、意識不明になっていることが同月15日に報じられ、16日に脳死状態に陥った事から、婚約者と家族が現地入りし対面した後、家族の同意を得て人工呼吸器など延命機器が外され、17日に死亡した。

 なお、この自殺には不可解な点もある。14日に病院に運ばれたが、この情報が日本に伝わったのは16日で2日も経過していた。
 しかも、病院に運ばれた時点で脳死状態だったはずが「意識があり、言葉を喋っている」という内容の情報が伝わった。
 また、自殺未遂がニュースとして伝わるや、ブログやホームページが全て削除された。

 このような操作を誰が行ったかは不明。その他、首を吊った時に出来る痕が全くなかったといった未確認情報もあり。


2011年7月17日逝去(享年45)
 
樋口宗孝(1958年12月24日生)

ドラマー/音楽プロデューサー


 ヘヴィメタルバンドLOUDNESSやレイジー、SLY、ブラッドサーカスなどでドラムを担当。日本のHR/HM界を代表するドラマーである。有名人を褒める行為を好まない事でも知られる。

 LOUDNESSのオリジナル・メンバーでは最年長で、パワフルなドラミングが持ち味。ジョン・ボーナム(レッド・ツェッペリン)の影響から、シングルバスに強いこだわりを持っている。

 日本のメタルバンドドラムスのパイオニア的存在であり、その後の若手ドラマーに与えた影響は大きく、ドラム専門誌『リズム&ドラム・マガジン』に彼の企画が入っている号は毎回最高販売部数を記録する程だった。

 彼を目標にしているドラマーは日本のみならず世界中に多く存在し、その急逝は世界中の音楽業界に極めて大きな衝撃を与えた。

 また、アメリカのドラムヘッドメーカー「アクエリアン」とスティックメーカー「イーストンアヘッド」社から樋口宗孝モデルがそれぞれ販売されているが、アクエリアンドラムヘッドについては、既に製造中止を2008年末決定しており、樋口宗孝モデルのヘッドは在庫限りとなってしまっている。また、イーストンアヘッドスティックも同じく在庫限りの販売が決定した。

 2008年3月、肝細胞癌のため活動は中止し治療に専念していたが、同年11月30日朝、自宅で嘔吐して倒れているのを家族が発見、救急搬送されたが午前10時44分大阪市の病院で死去。満49歳没。

 2008年12月24日、自身の生誕50年に伴い、東京青山にある青山葬儀所にてお別れの会が開催され、LOUDNESSやレイジーのメンバー、飯島直子を始めとする各著名人を含む、1500人を超えるファンが弔問に訪れた。戒名は「宗誉楽音禅定門(しゅうよがくおんぜんじょうもん)」。


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 樋口の訃報はファンのみならず、有名人や業界関係者にも衝撃を与え、故人と親交のあった山本恭司や真矢、LEVIN、宮脇知史から、かつて同じ事務所に所属していた布袋寅泰や高橋まこと、奥井雅美などの、様々なジャンルの著名人からもブログを通じて追悼のコメントが出された。

 海外でもフランキー・バネリ(元クワイエット・ライオット)やショーン・ドローヴァー(メガデス)、ジェイムス・コタック(スコーピオンズ)、シェーン・ガラース(B'zのサポート・ドラマー)らが追悼のコメントを寄せた。


2008年11月30日逝去(享年49)
 

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